はい、リョウタです。耳で旅する週末-ミミタビ-第92回です。
今日の旅のサウンドは、平泉🪷中尊寺の金色堂の前の蝶の音です。
はい、ということで、今日もユウコちゃんと夫婦で喋っていきます。ユウコちゃんよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、ということで、今日は先週の秋田旅行の続きということで、
岩手県平泉🪷にある世界文化遺産中尊寺について喋っていきます。
はい。
ということで、平泉🪷の中尊寺に行ってまいりました。
はい。
前回秋田川端で飲んだっていう配信で、いろいろ日本酒について語ったんですけど、
あの後秋田から岩手に移動して、平泉🪷の中尊寺に寄って、その後福島に帰ったっていう感じです。
で、中尊寺はね、5年ぶりぐらいかな。
うん。
コロナになった2020年ぐらいに1回行っていて、2回目の平泉🪷だったんですけど、
改めて耳で旅する平泉🪷ということで、中尊寺についてね、今日は語っていきます。
はい、ということで、まずね、中尊寺とはっていうのは、簡単にね、喋っていくと、岩手県の平泉🪷にあるお寺ですね。
12世紀初めに、奥州藤原氏が築いた大河欄で、金色戸というのが観光の目玉になっています。
金色戸っていうのがね、すべて金箔が塗られていた、金きらのね、お堂がになってるんですけども、
850年に縁仁というお坊さんが開山して、現在も天台宗の東北大本山というですね、そんなお寺となっております。
僕は平安時代の強い、強かった東北の象徴のお寺だなぁと思うんですけど、
いろいろね、金色戸の見事さとかもそうだし、藤原清平っていうね、初代奥州藤原氏の方についてもそうだし、
いろいろとね、喋れる、喋りたいことがあるんですけど、
これ聞いてくれてる方に最低限共有しておきたい歴史的背景というのがあって、
先にね、その歴史的背景について喋っていきますね。
この平泉中尊寺ですね、現在の形につながるものを作ったのは、初代の奥州藤原氏の藤原清平っていう方なんですね。
やっぱね、中尊寺を語るっていうのは、この清平を語るところと結構同義のところがあるなと思っていて、
この清平っていうのは、やっぱ当時の11世紀後半の東北を象徴する人物なんですよね。
それは行跡だけじゃなくて、歴史的な背景もそうで、どういうことかというと、
この藤原清平っていうのは、もともと東北にいた恵美市っていう中央の大和朝廷とは違う文化的背景を持っていた人たちの歴史と、
この藤原っていう名前から察する通り、当時の京にいた、都にいた中央の歴史の両方を背負って生まれた人が藤原清平なんですよね。
その上で、当時の東北がどういう状況だったかっていうと、平安時代末期っていうと、当時の東北っていうのは大豪族っていうのがいたんですね。
この当時は恵美市って呼ばれてる人たちはいなくなっていて、府衆って呼ばれてる人たちがいましたと。
それは当時恵美市と呼ばれていた人たちが朝廷の支配下に入るようになった人たちのことなんだけど、それがもう東北の大豪族になっていて、
結構その中央政権とは別の強い自治性を持った独自の経済圏を築いていた時代っていうのが続いていて、
その中で藤原清平っていうのは生まれるんですけど、
まず父親が藤原の恒清っていう人で、これが当時の藤原家、都にいた藤原家の血を引く流れの藤原恒清っていうお父さんと、
お母さん側がそれこそ東北の大豪族だった安倍氏っていう豪族の娘なんですよね。
中央の血を引く父親と東北の恵美市の血を引く母親っていうところで、間に生まれたのがこの藤原清平なんですけど、
これも時代は11世紀後半で鎌倉幕府ができる100年くらい前の話なんですけど、
当時、その欧州にいた二大地方豪族だった安倍氏と清原氏っていうのは砂金とか馬とか独自の広域ルートとかを持っていて、
すごいお金と力を持っていたんですよね。
その状況にある中で、これはちょっと細かい歴史は省くんですけど、
前九年の益と後三年の益っていう2つの戦争が起こりますと、
これが起きた時に中央対東北っていう一つの構図と、東北の豪族対豪族っていうもう一つの構図、
最後に豪族内の家系争いっていうのが起こって、清平は両親も奥さんも子供も全部戦争で亡くさがる。
それでいて、最後に勝ち残って、生き残って、東北の大豪族が持っていた全ての富と領土を引き継ぐのが、
藤原清平なのよ。で、平泉の中尊寺に行くっていうのはここから始まってるの。
清平の最後の50歳ぐらいの時に東北に大殻を築くっていうのは、清平のこれまでの繁盛の後の時代なんだよね。
すごく激動の時代を生きた後に映画を極めた時代。だから行くと清平がすごくいい時期に、
全盛期を見るところから始まるんだけど、でもそもそも藤原清平にはすごい歴史的背景があると。
で、その上でやっぱこの中尊寺っていうのを見ると、すごい見方が変わるっていうね。
っていうところからもうちょっと話をしたいと思います。で、ちなみにこれはもう中尊寺の中でもパネルとかで説明されているところなんで、
全然こういうの分からず言っても、ちゃんとパネルで説明してくれてるんで十分楽しめます。
ちょっと僕の感想からね、ちょっと喋っていくと、僕はね、藤原清平の2つの感情を感じたのよ。
1つが仏教を通して区別のない供養、極楽浄土っていうものをこの地にもたらす。
で、それは官軍も衛兵士も、中央も辺境も敵も味方も関係なく、すべての生きとし生けるものを供養するっていう、
本当に仏教的な大らかな価値観というか救いをこの平泉っていう土地に実現させようとしていたんだろうなっていうのはまず感じるわけじゃない。
で、それはさ、その清平が中央とね、恵比寿との血を引く人間として壮絶な戦争を生き残ったから、
そういうふうな生きとし生けるものをすべて同時に供養するっていうような価値観に行き着くっていうところで、
で、結構これでもさ、来るものがあったじゃない。清平の繁盛を知って、平泉っていうものを、中尊寺っていうものを見ると、
どうしてこういう場所を作ったんだろうみたいなところをまず最初感じるんだよね。
で、こういうのを本堂でね、説明してくれていて、まずそこで、あ、そういうもんなんだなみたいなふうにまず感じて、
で、その後に金色堂にいるでしょ。金色堂ってあの、快金色って言われる、全部が金ピカのね、お堂なんだけど、
なんかさ、俺はここに行くと、逆に本当かって感じた。
その区別のない供養とか、生きとし生けるものを救うみたいな価値観と、この金色堂って、なんかしっくりこないなって思ったのよ。
で、金色堂ってさ、お墓なんだよね。藤原三代の、清平から始まる三代の棺っていうのが今もその金色堂の中に安置されていて、お墓なわけよ。
それをさ、自分のお墓をさ、超豪華に彩っている清平っていう人が、本当にそんな理想国家を、理想の物国土をここに築こうとしたのかなって、ちょっと感じちゃったのね。
それが最初平泉を見て感じたことだったんだけど、でもその後に家帰ってきて、
ちょっといろいろ考えててさ、どうしてね、藤原清平がこういうものを、金ピカのものを築ったのかって考えたら、僕は道永たこへの憧れなんじゃないかなって思ったの。
実は中央への憧れも持っている。で、例えばさ、平泉にはさ、無料コインっていう、今はもうなくなってしまっているんだけど、
平等院方法堂を模して作られたって言われていた法堂なんかもあって、結構その京都を意識した作りなんじゃないかなと思っていて、
二つの清平っていうものを僕はすごく感じて、それが一つね、本当に東北で戦って亡くなっていった人たちを区別なく供養しようとする、
理想の国土の仏教の土地をね、描こうとした清平と、もう一つは結構中央への憧れを持っていた清平。
最終的に清平って藤原氏を名乗るんだけど、もともと豪族の清原氏っていうところに養子に入っていたりもして、母親も安倍氏の出身だったりもして、
藤原を名乗る必要もなかったんだよね。そこでさ藤原を名乗っているってところもそうだし、なんかどっちも共存してた人なんじゃないかなみたいな。
っていうのがなんか感じたところ。
まあなんかそう言われたらそうなんだなっていう。でもやっぱその中央に対する憧れがあったのかわかんないけど、っていうよりかはやっぱり私はどっちかっていうと浄土への憧れがすごくあったんだなっていう。
あー、その浄土教。
なんかすごい傷ついた反動なのかなっていう感じ。やっぱり自分の家族みんな殺されて、辛くて、もうそういうことがない世の中にしたいって思ってたわけでしょ。
で、それをああいうふうにさ、具現化するっていうのは、なんかもうとにかく辛かったんじゃないかなって。
あー、なるほどね。
トラウマみたいなぐらいな、だったのかなと。
確かにね。浄土、浄土教なんだよね。
浄土教っていうかその西方浄土に対するあれでしょ。
ん?
西方浄土ってその西側に浄土っていうのは。
あ、阿弥陀信仰というか、阿弥陀信仰としての、あーなるほどね。
だってそのほら、無料コインも西側を背に立てられてて、
西日がこう落ちていくときに光が乗させるように作られてたって確か書いてあった気がする。
そこも平等院法道と同じ。
あ、そうなんだ。あ、なるほどね。
なんとしてもその浄土、阿弥陀、西方浄土に行きたいみたいな。
うーん、かなーって思った。だから金色堂も結局そういう辛い思いがあったから、
自分はそういうところにやっぱり行きたいっていう思いも結構強かったんじゃないかなって。
だからその平泉全体の供養としての機能と、やっぱ金色堂とかは機能は別だっていう。
別なのかわかんないけど、かなーって。
中央への焦がれか浄土への焦がれかっていうのは、感じ方は別としても捉え方は別としても、
やっぱちょっと違うものを感じるよね。金色堂とその平泉全体から感じるものと。
中央への憧れっていうよりかは、私はライバル心みたいなのが結構あったのかなって思う。
むしろ俺らの方がすごいもの作れるみたいな。
無料講演も平等院報道よりちょっとだけ大きく作られてるんだって。
それも意識してるんじゃないかっていう話らしい。
本当に豊かだったんだろうね。
財力はもうすごい。
多分今俺らが描いてる以上に豊かだったんじゃないかなって多分想像できないぐらい。
そうなんだよね、その平泉ね。
やっぱなんかこう清平を感じるところだし、
結構今回中村寺っていろいろ感じるものあったよ。
そうだね、やっぱりなんかこう、奈良で感じる歴史のロマンとはまた全然違うものを感じた。
そうなんだよね。
なんか俺はやっぱり清平って、歴史の申し子なんだなって思ったのね。
さっき言ったように東北の安倍氏っていう大豪族と、中央の藤原の血を引くっていうのがさ、11世紀ごろ出てくるわけじゃん。
岩手にいたアテルイっていう古代の恵美氏の大物の数百年後に清平って人が出てきてさ、
北東北の砂金とかで一大経済圏を築くみたいなのってさ、歴史の申し子だなって思うんだけど、
平泉滅ぶわけじゃん、四大で。
滅ぶんだのはさ、その百年後のもう一人の歴史の申し子、売友が来るから滅ぶわけじゃない。
俺そこが結構やっぱ歴史の威風として、歴史のロマンがそこにあるなと思っていて、
どうして平泉が滅んだかって言ったらさ、義経がさ、欧州に来るからなんだよね。
平本の義経が、欧州藤原市の3代目の秀平と関係があって、それを頼ってさ、
元平合戦の時にさ、欧州にやってくるんだけどさ、
秀平ってもともと徹底抗戦、義経と一緒に戦いみたいな方針だったらしいんだけど、
秀平が亡くなって、その4代目の安平になった時に、
安平はね、頼朝の命令に応じて義経を自害させるんだよね。
俺そこにすごく東北最大の歴史の威風があるんじゃないかなみたいな。
もしあの時秀平が義経に軍事力を与えて徹底抗戦してたら、
なんか結構また違う歴史が東北のね、あったのかなとか。
威風ってもしもの威風。
あ、そう、もしもの威風。
いや、そりゃそうだよね。だってあそこで頼朝に下らず、
もし戦いに勝ってたりしたら、東北の今の最大の都市は仙台じゃなくて岩手だった。
いや、そういうことなんだと思うよ。本当にそうなんだよね。
でもそこでさ、義経と共に滅ぶわけじゃない。
義経と共に滅ぶっていうか、自害させてさ、源氏に滅ぼされちゃうんだけど、
これなんかすごく面白いのがさ、
頼朝ってさ、源義家っていう武将の秩父なんだけどさ、
100年前に清平の親と戦争してたのも義家なんだって。
義家はさっき言った、前九年の役と後三年の役っていう2つの戦争で名を挙げて、源氏の統領になってくるんだって。
その子孫のより友が最後もう1回東北にやってくるっていうのが、
結構、本当、歴史って。
因縁ってこと?
因縁があるんだよね。そうそう。
だから義経が欧州に来ることでさ、漢人朝とか静か御前とかさ、
伝説がね。
逸話とか伝説が生まれてくわけじゃん。
なんかそういう背景があったんだなみたいな。
漢人朝の背景。
やっぱさ、清平から続く欧州三代、藤原の歴史とかさ、背景があったから、
静か御前の伝説とかもさ、なんか生まれたんだなと思うとさ、
氷山とかでも残ってるわけでしょ。
静か御前の伝説がさ、義経を追ってさ、静か御前が欧州に来るときに、
その途中途中でさ、いろんな伝説が残るみたいなさ、
なんかそういうのもさ、この欧州藤原があってこその部分だなみたいなので、
それがね、すごい面白いなって。
それだけ大きい存在だったってこと?
いや、そうだよね。
やっぱ日本の歴史にすごいインパクトを残してた人なんだなみたいなのが、
このね、平泉に行くと、中尊寺に行くと、すごくわかるなって。