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#90 アメリカ史と『イン・ザ・メガチャーチ』を奥会津で語る(ゲスト:松崎さん)
2026-05-08 57:45

#90 アメリカ史と『イン・ザ・メガチャーチ』を奥会津で語る(ゲスト:松崎さん)

フェデラリストとリパブリカン、トクヴィルと朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』...アメリカ史を中央集権と分散で自身に引き寄せ、共同体への愛着をファンダムと過疎地域で対比させ、乗り越え難い身体性と代替不可能性の坩堝へと至る超雑談回。

今週は通常配信の他に、松崎さんによる報告会「アメリカ史から読み解く共同体論」の2回目と3回目を【番外編】として別途アップロードします。合わせてお楽しみください。


奥会津から中央集権と分散を対比させる/中央集権が無限後退していく/人口減少時代の社会課題/消防団について語ると衝突するからアメリカ史に仮託して自分たちの町を語る/トクヴィル『アメリカの民主政治』/共同体から始まったアメリカ/資本主義だけが人間関係を差別化していく/イン・ザ・メガ「チャーチ」とアメリカの共同体/ファンダムは地場に根ざさない/過疎地域の身体性/旅の五感/Podcastとファンダム/身体性を統御するコミュニティーの心地良さ/闘うアメリカ人の身体性/身体拘束性が強い共同体/代替え可能だから気持ちが楽になる/推し活で身体は満足させられるか/フィットする場所を探せるか


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奥会津のニホンカモシカ


耳で旅する週末-ミミタビ-

働くあなたの週末に、耳で楽しむ非日常のひとときをお届けします。毎週金曜日の18時更新、飲んだ帰りの電車の中で、ちょっとゆっくり過ごしたい土曜日の朝に、忙しい日常の合間に、耳から始まる物語を。

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サマリー

このエピソードでは、アメリカ史における中央集権と分散の対立、特にフェデラリストとリパブリカンの思想を軸に、現代の過疎地域における共同体論について深く掘り下げています。松崎さんとリョウタさんは、アメリカ建国当初の国家形成における困難な過程を、福島県奥会津という具体的な地域に置き換えながら考察します。トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』を参考に、共同体が国家に先行するという視点や、平等な社会における個人のアイデンティティの希求、そして経済関係が人間関係の基盤となる現状について議論が展開されます。さらに、現代社会におけるファンダムと過疎地域の身体性、そして「代替可能」なものと「代替不可能」なものとの対比を通じて、共同体の心地よさや、身体性を伴うコミュニティのあり方、そして現代人が求める「推し活」やフィットする場所探しについて考察を深めています。最終的には、人口減少社会における共同体の未来像と、歴史を参照することの重要性が強調されています。

アメリカ史における中央集権と分散:フェデラリストとリパブリカン
リョウタです。耳で旅する週末-ミミタビ-第90回です。
今週は、松崎さんによるアメリカ史から読み解く共同体論の第2回目と第3回目をお送りしていきます。
松崎さん、よろしくお願いします。
松崎です。よろしくお願いいたします。
ということで、アメリカ史から読み解く共同体論ということで、今年、松崎さんが定期開催している勉強会なんですけど、
第2回目と第3回目を今週番外編として配信していきます。
そのテーマをしゃべると、第2回目がフェデラリストとリパブリカン、第3回目がアメリカのデムクラシーということをテーマに今週配信していきますので、そちらもぜひ聞いていってください。
今日は勉強会を受けて、僕が感じたこととか考えたこととかをきっかけに、いろいろ松崎さんとしゃべっていきたいと思うので、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ということで、第2回目のほうからしゃべっていきたいんですけど、フェデラリストとリパブリカンというところで、ちょっと簡単に僕から、すごい単純化するね。
話の題として単純化させてもらうと、アメリカの建国の歴史の当初にフェデラリストという連邦派と呼ばれる人たちがいました。
それはアメリカが合衆国という国の形態の中で、連邦の力を重視する立場の人たちがいました。
それともう一つのリパブリカンというのが共和派とも、日本語だと共和派とも言いますと、
それが連邦よりかは州の自治を重視する人たちの勢力の考え方の人たちがいました。
アメリカの歴史が大きく言うと、この中央集権的な考え方をする人と、州の自治とかを大事にする共和派的なリパブリカン的な考え方の人たちが、
アメリカ市、建国当初から大きく分けると言いますと、というようなところから話をしていきたいと思うんだけど、
面白いなって思ったのが、この中央集権化、分散化みたいなのってすごく普遍的なテーマだなと思ったのね。
それは日本でも置き換えられるし、都道府県レベルの県でも置き換えられるし、自治体レベルでももちろん置き換えられるし、
もっと小さいコミュニティ、学校とか組織とか会社とか、あるいは家族とかでも、すごくあらゆるものに普遍的に置き換えられる対立があったなというふうにまず感じて、
このアメリカ市から読み解く共同体論というのは、第1回目の収録で話しているとおり、福島県のオクアイズという、
アイズ地域の中でも仮想が進んでいるエリアから、今後未来に向けてどういうような共同体論を考えるための思考基盤みたいなのを、
アメリカ市から読み解けるんじゃないかみたいなきっかけからスタートしているということだったんだけど、
中央集権化、もっと分散するべきなのかとかっていうのも踏まえて、
このオクアイズとか、あるいは自分たちの身近なところに置き換えてもいろいろ考えられるのかなというふうに最初はすごく感じました。
ありがとうございます。
今回これは決してなんて言うんでしょうね、僕も初めて読んだ本の中からこういう感じでやろうと思って提示したテーマでもあるんですけれども、
多分結構ゴリゴリの政治史みたいな感じになっちゃったんで、
普通に聞いててすぐわかるみたいな内容では全くないなとは自分ながら思っておりますし、
僕自身も勉強中だからなかなかうまく説明ができないっていうか、
しかもテーマ的にも複雑なところをたたはらんでいるものでもあるので難しいんですけれども、
ただこのオクアイズの共同体ということを考える上でも、
このアメリカの連邦政府であったり合衆国が成立していったところのこの困難な過程でいったものの中で、
新しい共同体を形成しなくてはいけなくなったという歴史状況、
これ自体がやっぱりちょっと面白いと言いますか、
どんな時代状況の中でもある共同体を作っていく難しさはあると思うんですけれども、
この建国初期のアメリカっていうのはかなり厳しい状況だったっていうか、
今でのアメリカを合衆国を大国としてみなす感じのイメージからは想像もできないような弱い国家として生まれ、
しかもその間でそれこそフェデラリストとリパブリカンみたいな政治思想、党派的な対立とかもある中で、
どうやったらこの国を一つの国家としてまとめていけるのかっていうのは、
たぶん建国当時の人々からしても非常に難しいものがあったと思いますし、
さらに言うと、ある種特別な時代だったっていうものを、
やはり当時の人々も民衆に至るまで感じていたっていうところがあったみたいですね。
その特別な状況の中で生まれてきた共同体が、
現在この世界の中で大きな覇権国家として成立していったっていうところも考えていくと、
やっぱりちょっと面白いところがあるかなっていうふうな感想ですね。
そうですね。
ちょっと取っ掛かりが難しいところではあるんだけど、
まず基本アメリカの人って多分個人の自由を重んじるというか、身の回りの自由というか、
それが州の自治とかにもつながっていくんだと思うんだけど、
ただ国を運営していくには、厚大な国を運営していくには、
やっぱり連邦制っていうのが重要であると、
その時にやっぱり強い権力とかを施行しなきゃいけないっていうような、
多分二つ同居してるんだと思う。
強い中央集権を望む気持ちと、個人個人が自由でやりたい気持ちみたいなのって、
多分同居して両立していて、
結構その感覚ってわかるじゃん。
実は矛盾してない。
矛盾してるようでいて全然矛盾してないというか、
ある程度組織だった、規律だった強い力でまとめて欲しいという気持ちもあれば、
もっと一人一人が自由でありたいという気持ちもあったりしますと。
オクアイズっていうところで言うと、
オクアイズっていうのはそういう自治体があるわけじゃなくて、
ある種の地域の総省として呼んでいるわけですけど、
今後一つ一つの自治体ではやりきれなくなってきた時に、
オクアイズとかある程度大きな力がある中で、
まとめていく必要も出てくるかもしれないと。
多分そういう交代率が必ず生じてきた時に、
やっぱり志向基盤になると思ったんだよね。
これって多分オクアイズだけじゃなくて、
日本中のあらゆる仮想地域とか、
今現在仮想って言われてないところもいずれは仮想になるわけだから、
この志向って多分すごく横になるんじゃないかなというふうには思っていて、
僕はね、僕の歴史観というかイメージだと、
多分中央集権化していくと思う。
そうですね、どの国も基本的にいわゆる現代の国家を形成しているところは、
国民国家になっていくわけなので、
そうなるとやっぱり共和制とかともまたちょっと違っているようなところもあるし、
最終的にはもちろん思想的な対立とか、
所属する派閥みたいな差異とかは出てくると思うんですけど、
今って国家に対して国民が一つ符合していると言いますか、
そういう状況になっているので、
例えばその連邦派とか共和派っていう前に、
合衆国国民であるっていう意識がやがては形成されていく、
特に南北戦争後にっていうお話なんですけど、
それは今日本にとってだって日本の国民国家で、
日本政府と日本人がいてっていう、こういう商工関係になっていくので、
中央集権っていうのは基本的にどの国家もそうなっていくっていうことだと思いますね。
その国家レベルでもそうだし、
自治体とかでもこの過疎化が進んでいったら、
基本多分愛知地域で言えば愛知若松にみんな寄ってくるんじゃないかなって思うのね。
その集中していくというか、インフラの維持とかもだんだん難しくなってくると、
自然な流れで進んだら、
効率化をするには人を中心に集めた方が効率的なわけじゃない。
そのためにはどこか強い権力がまとめていくっていうのが最も合理的でやりやすい形になっていくから、
自然に考えると僕そう進んでいくんだろうなっていうまずイメージはあって、
でもそれが今回のリパブリカントフェデラリストで言えば、
州っていうのを各自治体とかに置き換えたり、
各自治体の中でも実はその中心になっている場所と、
過疎地域と呼ばれている中でも中心の場所と外れの場所があるわけでしょ。
実はそこの対立もあるじゃん。
確かに確かに。
これって実はずっと入れ子構造になっているなって。
そうですね、確かに。
それをどの視点からメタ認知していくかで、
このフェデラリストとリパブリカンって、
我々がね地方に住む人間が自分たちの自治体の生活の将来とかを考えるときに
結構役立つのかなっていうふうにはまず思ったところ。
でも確かに今その指摘してもらったみたいに、
中央集権が一つの数制というか今現代の社会を運営していく中での政治形態にはなってはきていると思うんですけど、
でも中央集権をどこまで進めるかっていうのって非常に難しさがあって、
つまりどのレベルで考えたときの中央かっていうのが、
今渡辺さん言ったみたいに結構あやふやというかある意味無限交代になっていくところがあると思うんですよね。
つまり今の話だと愛知地域の中心は愛知若松かもしれないけれども、
福島県レベルでの中心はこの中通りになってくるかもしれないとかね。
そうなったときにじゃあ中通りは生かして若松は切り捨てていいのかっていうふうにもなってくるかもしれないですし、
じゃあ東北の中心は仙台でみたいな。
こういうことで実は発想的に中央集権っていうのはどこかで歯止めをかけない限り、
その共同体の体制を維持できないっていうところもありますよね。
なるほどね。
あれにしてそれをどこに区切るか歯止めをかけるかが政治になっちゃうんだよね。
まあそうですよね。だからその中でどういうサイズを適正とみなすかっていうのが、
でも日本もやっぱりすごいそういうところはあって、明治政府ができた後でものすごい県をつくったり、
統合したりとかを何回も繰り返して今の形になっているので、
やっぱりこのサイズの問題っていうのは、実は人々のその土地への認識の問題でもあったりするし、
どれくらいその人々がその地域の共同体として創造できるかっていう範囲にも多分左右されるところもある。
なんか昔で人口がいたわけじゃん、そもそも。人口がいてどの時代まで遡るかっていうところはあるけど、
でも時給自足に近いような集落とかもきっとあったんだと思うので、それがいつまでっていうのはよくは言えないけど、
でもそういう大技とか、住所で言うね、アザとか大技っていうのがさ、だんだん減っていくわけじゃん。
実際に亡くなっている集落も、消滅している集落も出てきていますと、
どの大技まで今後維持していくかとかっていうのがやっぱり政治の判断になるわけだし。
しかもこれって新しい政治課題だと僕は思うんですよ。
少なくても、例えば第二次世界大戦前までの日本っていうのは人口減少に悩んでたわけじゃなくて、
人口増大爆発に悩んでいた国家であって、だからこそ海外移民とかを奨励して人口を分散させるっていうそういう自治を保ってきたので、
これに対して今この人口減少が国家としてどこの国家も、特に先進国家で課題になっているっていうのは、
これは世界規模的に新しい課題だと思うんですね。
この人口減少に対してどういう有効な政策があり得るのかっていうのは、
これは確実なことは多分何も言えなくて、もちろん移民を奨励するとか、そういう国家の体制をとっていたり、
婚姻体制をもっと緩くして人口の増加を図るような政治体制とかもあったりしますけど、
この新しき課題に対して明確な答えって多分今ないですよね。
そうだよね。もちろん江戸時代の方が人口は少ないわけじゃん。
江戸時代もいろんなところに分布して人は住んでたわけじゃん。それは縄文時代からそうだけどさ。
この岡合津だって縄文時代はすごくいろんな、今は人じゃ暮らせないような場所にも縄文時代は人が暮らしてたりもしてましたと。
当時自給自足に近い集落とか共同体があったから、みんな生活がうまく回ってたんだけど、
でも我々はそのサバイバル能力がないわけじゃん。ほとんどの人にとっては。
自給自足っていうことはその共同体が営める人口サイズが決まってくるっていうことなので、
だからそれ以上の農産物、食料が得られない環境では、
それ以上その人口が広がらないんですよね。
社会形態で我々の生活が変わっているから、人口減少の中で大技とかね、
どう今後地域を維持するかみたいなところの課題が、現代的な課題っていうこと。
その時に多分共同体の形成のされ方とかもまた変わってくる可能性もありますし、
その内実も変わっていくようなこともあるかもしれなくて、
だからあんまりどうなっていくのかが読めない時に、
僕はとりあえず参照すべきは歴史だと思ってるんですよ。
というのもあって、アメリカの国家形成の歴史とかをこの会では扱ってきたわけなんですけれども。
歴史を知ることでこういうメタ認知ができるわけじゃない。
この収録は今第3回目の報告会の後、勉強会の後に収録しているわけですけど、
参加者の方からざっくりした大きい視点からの意見が出てくるじゃん。
俺結構あれいいなと思うのね。
なるほど。
やっぱあれがすごく大事だなって思うわけよ。
例えば地域の課題でさ、今日もちょっと話題出たけどさ、消防団に入るか入らないか。
大事ですよね。
すごい大事なんだけどさ、これさ消防団に入るか入らないかだったらさ、絶対人間関係割れるじゃん。
うん、確かに確かに。
でも多分それは、でもまあそうっすね、これは場所柄的なものもあるかもしれないね。
そうなってくるとさ、あんま地域のこと語りづらくなってくるんじゃん。
入る入らないって。
そうね。
絶対対立するからさ。
まあでも確かに僕もこれアメリカ史を参照してるから話できるけど、
これがものすごい具体的なこの三島町の歴史のある部分とかを取ったら、
多分これはだいぶなんかすごいことになっちゃうかもしれないなとは思いますね。
だからなんかこういうアメリカ史っていうのを持ってきて、まあすごい超枕じゃん。
それを土台に実は自分たちの住む町について喋るって、自分の本音をさアメリカ史に固くして喋れるわけじゃん。
まあそうですね。
それで直接はさ、自分たちの生活との課題とイコールではないからさ、
やりイコールかもしれないけど、消防団みたいなさ、ぐらいさ、直接の問題じゃないからさ、
なんかこれすごい実はやっぱ喋りやすいんだなって。
そうかも。そういうなんていうかな、話す内容の制約とかは多分あんまりないですね。
これが僕が例えばアメリカのどこかの場所で話すってなったら結構慎重にならないと逃げないとかはあると思うんですけど。
だからこの勉強会がさ、結構やっぱりオクアイズでやるっていうのが面白いなって思うのはさ、
なんかそういうところにこういう実は見方、見え方があるんじゃないかみたいなことの提示ができてるから、
やっぱそれ面白いなってね、改めて思ってたね。
僕でもこうやっぱ3焦点を複数持ってるっていうのは結構いいことだなっていうふうに単純に思っていて、
まあ共同体を考えるっていう時に、じゃあ全て身近なものだけ考えてるといいのかっていうと、
さっき言ったみたいに人口減少みたいな大きな課題のある中で、
身近な類例を多分調べていてもそんなに効果がない可能性もあるっていうふうにも思うんですよ。
で、その中で少し大きな目線で見てみるとかね、
全く関係ないと思えるようなところからある種の関係性を導き出してみるとか、
これはこう一つの思考力の働きみたいなことに寄与する可能性が出てくるんじゃないかなっていうところですね。
特にさ、第2回目の話だとさ、フェデラリストとリパブリカンっていうの対立とさ、
あとハミリトンとジェファーソンっていう人が出てきますと、
ハミリトンが連邦派の方でジェファーソンがリパブリカン、
どちらかというとハミリトンが小工業を回していこうっていう考え方の人で、
ジェファーソンは農業を進行したいというか、
もうちょっと小さい共同体でやっていこうみたいな思想じゃん。
これも結構さ、小工業か農業かとかさ、
ある種の対立構造っていうかさ、
一旦自分たちの中でも仮定してさ、設定して話とかもできるじゃん。
で、もちろん両方必要じゃん。
当然だけどさ、だからどっちかだけってことはないんだけど、
どこに自家書を置くかみたいなところの考え方もそうだしね。
だからなんかそういうことも含めて、
これやっぱりなんかね、結構やっぱさ、
IZで生活してるとさ、いろんなまちづくりの討論会じゃないけどさ、
あるじゃない、そういう、なんていうの、セミナー。
ありますよね、講演会がね。
講演会みたいのあるけどさ、
で、もちろんいろんな意見とか考え方があってはいいと思うんだけど、
やっぱなんかこう思考基盤がないとさ、
それぞれみんな言いたいこと言っちゃうっていう状況になるわけじゃない。
だからやっぱね、
多分日本でさ、そこを共通化できるのってやっぱ歴史?
宗教がないじゃん。
そうですね。
ただまあ歴史も難しいですよね。
どの歴史かみたいなところもあるし。
でもあの思考基盤をちょっと何かしら共有できるような何かがないと
っていうのは確かにおっしゃる通りだと思いますし、
あと、ただ、なんていうかな、
考えるための一つの出発点とか起点みたいなところで、
僕はこのハミルトンとジェファーソンを取り上げて、
ある種2人以下を対立的にというか、
入っているところを参照して見てみたんですけど、
でも僕は読んでいて、
どっちの政治思想とか共同対応を考える思想的な部分で間違ったことは全く言ってないなって思っていることがすごくあって、
これはもうどっちが正しいかはなんていうかもう神のみぞ知るじゃないですけど、
ちょっと結果論でしかないようなところの歴史状況の中で、
まあ2人の言い分は最もだなって思いながら聞いてて、
でもかといってそれぞれがやっぱり全部が全部正しかったわけでもないって言えばいいかな、
まあそれは本当に歴史を見る目として後からの結果でしか見てないんですけれども、
その正しくなかったところも含めて、
でもその正しくなかったところがなんで起こったのかっていうのはやっぱり歴史状況にもよるわけですし、
やっぱり思想のどこかだけつまみ食いして、
例えばこれがいいからオークアイズでやってみようっていうのは多分無理ですよね。
でもよくあるよね。
まあよくあるんですよね。
例えば歴史だけじゃなくても東京でうまくやってるからオークアイズでやろうとか、
コンサルの人とかね。
よくあるよ。
だから固有の歴史状況がどの時代にもあるし、その社会状況もあるわけで、
その違いを無視して通るってことはできなくて、
でもある社会状況とか歴史状況をきちんと考えてみるというか知識として持っていて、
その困難さを考えた時にある種の比較ができるかもしれないとかね。
そういうことはあり得るかもしれない。
第3回目がアメリカのデモクラシーっていうことで、
デモクラシーと共同体の形成:トクヴィルの視点
民主化って意味でのデモクラシーっていうのかな?
民主主義って意味合いもあるし、
人々がだんだん平等にやっていって、
平等な社会で民主体制みたいなものが出来上がる。
権力の基盤が民衆の方に移っていくっていうような意味合いもあるし、
それがだんだん広がっていくっていう運動的な意味合いもありますね。
今回はデモクラシーを特ビルっていうフランス人の
アメリカの民主政治という書籍を中心に色々話を聞かせてもらったんですけど、
特ビルについて簡単に。
特ビルは19世紀前半のアメリカ社会をフランスからやってきて、
見ていったフランス人になるんですけど、
非常にこの大きなフランスの時代の動乱の中で、
彼は貴族の家系に生まれてるんですけれども、
フランス革命が落発した時には、
やや自分の父親とか母親が処刑されそうになったっていうような危機的な状況を迎えて、
でもその後で王政復興みたいな形でブルボン王朝がもう一回政権を担った時に、
その政権とかも運営を支えていくみたいな人でもあるんですけど、
前回取り上げたThe Federalistっていう、
そのハミルトンとかが書いていた書籍と、
あとこのアメリカのデモクラシーっていう、
特ビルが書いた本はアメリカの古典的名著って言われているもので、
多分当時のアメリカというか、
ある種アメリカの成立期の時代のものを描いた著作としては、
どうしても欠かせない古典的名著みたいな、
そういう扱いの本なんですね。
結構印象的だなって思ったのが、
アメリカでは連邦っていうものがある以前に、
共同体がありますと、
それは共同体は軍に先立っているし、
軍は州に先立っていて、
その上で州があって、その上に連邦があるみたいな、
だから共同体がまずありきなんだみたいな引用が、
勉強会の中で出てきたんだけど、
結構意外だなと思ったのが、
アメリカって入職していくわけじゃん。
だから後から人工的に作られた国家じゃん。
なのにちゃんと共同体が先立っているっていうのは、
結構意外だなと思っていて、
日本がそうだっていうのは分かんない。
日本とかが縄文や良いとか、古代社会を得て、
現代に至ってもなお、
それぞれの小さな共同体が中心にあるんだと、
コミュニティ生活が中心にあって、
その上に国家ができたっていうような視点の方が、
なんかしっくりくる気がするのよ。
逆に言うとアメリカって入職してきて、
自分たちで西部開拓とかして、
人工的に国を作ってるんだけど、
その共同体とかコミュニティが実は先立っているっていう視点って、
なんか意外だなと思った。
なるほど。
そうですね。
ただやっぱりアメリカの入職者っていう人たちは、
必ずしも連携してたわけではそもそもないっていうのが一つあって、
いろんな、なんていうんですかね、
大空の特許状とかを持っている人たちとか、
そういうものを買い取った人たちであるとか、
あるいは宗教団体の人たちとかが、
それぞれに自分の理想とする、
それこそ共同体を作りにアメリカに来てたみたいなところもあるんですね。
そういった意味だと、やっぱり宗憲制とかがなんで強いのかっていうと、
自分たちがもうそもそも作っていた国だっていう意識が宗の中にあるわけなんですよ。
だからもうそこで連邦制っていうふうになっているのは、
本当にアメリカの少なくとも建国期の歴史においては、
もうそれぞれが本当に国として独立した州としてあって、
その国が一つの連合を取ってますよっていうようなね、
そういう意味合いでユナイテッドステイツっていうふうな形の意識が強いわけなんですよ。
だからアメリカはあくまで連立しているだけの関係だっていうよね、
合衆国はっていうような意識とかが強かったりもするので、
だから自分たちの共同体意識っていうのはたぶんものすごく強かったはず。
特備でも、コミューンから来るタウンシップとか、
自治体への愛着があるっていうようなことを書いてあったよね。
ちょっとこれさ、面白い指摘だなって思ったのが特備のね、
平等な社会をある種理念として持っているわけじゃん、アメリカって。
実際はそうじゃないけど、理念として平等な社会みたいなのを目指してますと、
その時に誰もが同じ地位の社会になると、
人々は誰でもない私を求めるようになるみたいな指摘があって、
みんな平等化すると私っていうのが差別化されないということで、
私の自分をどう個性化していくかみたいな方に行くと、
あらゆる差別とかものがなくなっていくと、
あとは経済関係だけが人間関係を築く上での基本となるみたいな引用があったと思うんだけど、
要するにさ、いろいろ平等になっていくと、市民社会としてさ、
あとはもう資本主義だけが人との差になっちゃうっていう。
これすごい面白いなって思ったんだよね。
で、まあそれってさ、すごくわかんじゃん。
我々が生活していて、自分とは何者かみたいなのってさ、
少なからずみんな抱えて大人になると思うのね。
少なからず大人に、そういう気持ちを少なからず抱えて大人になると思うし、
で、やっぱさ、ある程度経済関係のみが人間関係の規定となるとかってさ、
結局さ、地方でいうとさ、あの家はどういう車種の車に乗ってるとかさ、
そういう次元の話ってさ、いくらでもあるじゃん。
僕はそういうふうに特ビルの指摘みたいなのを感じたんだけど、
今日のさ、報告会の後にさ、関係さんがさ、
おしかつって話をしてくれたじゃない。
で、俺は結構これ面白い指摘だなって思ったのね。
で、今さ、特にさ、貴族意識がなくなっちゃってるわけじゃん。
自分のコミュニティへの共同体というかさ、
生活圏への貴族意識っていうのがなくなってきた時に、
それが今おしかつなんじゃないかみたいな、
関係さんが話してて、
それやっぱすごい面白い指摘だなって思って、
僕今、アサイリオンのインザメガチャーチ読んでるのね。
ちょっとまだ8割ぐらいしか読んでないから、
8割しか読んでない時点の話なんだけど、
で、これ、今日さ、話聞いてて思ったんだけど、
アサイリオンも多分結構特備で参照してんじゃないかなって思ったのね。
っていうのも、
インザメガチャーチのチャーチってアメリカの教会のことなのよ。
で、舞台は日本のおしかつ経済についての話なんだけど、
結局アメリカの教会、チャーチっていうのは、
その共同体を形成するのに非常に役立っていると、
2、3000人規模ぐらいの人たちが集まってきて、
そこで一つの共同体じゃないけど、コミュニティみたいなのが出来上がっていると。
で、それが日本には今既白化してしまっていると、
どこかに所属するっていうのが、
それが今度おしかつ経済のファンダムに今取って変わっていると。
それを物語って言うんだけどね。
小説の中じゃ物語って言うんだけど、
なんかね、結構その、ちょうどインザメガチャーチ読んでるってのもあって、
このアメリカ誌の話って、
この貴族意識、共同体とかの課題みたいなのがあるんだなって思ったんだけど、
ただやっぱこれをさ、仮想地域によってはめるのはスライドできないじゃん。
おしかつ経済と仮想地域ってのは基本的にスライドできないんだよね。
だからさ、おしかつっていうのはさ、地盤に目指さないものだからさ。
地盤には目指さずに、社会の中でファンダムっていうもので、
貴族意識というか連帯していくっていうことだと思うんだけど、
だからある種さ、それに代わるものが必要なのかなって思うんだよね。
今のアザイヨの話みたいなのって非常に現代的な話で、
しかもなんか説得力がやっぱありますよね。
ただ、我々というか小説の中で描かれている共同体っていうのは、
ある意味本当に精神の中の共同体みたいな意味合いと、
もちろんそれが経済的な関係と結びついているっていうところもあるんですけど、
あまり実存的なところとはたぶん関係がない、関係ないところで、
でも我々はそういう意味での共同体を求めてるんだなっていうのは
よくわかるって言えばいいのかな。
つまり、何かの本当に貴族していることを求めてるわけじゃなくて、
貴族意識が培われる行為を求められてるっていうことなんだと思うんです。
その裏側にはアルゴリズムと捏造されたストーリーがあるっていうことになっちゃうんだよね。
だからこれは意識の共同体なんだよね。
意識と経済が結びついた共同体の発想だと思うんです。
仮想地域の共同体は身体的って言えばいいのかな。
なるほどね、身体的ね。
物理的・身体的共同体ですよね、これはね。
やっぱりある場所にいる肉体が置かれていて、
その肉体の不便・便利、そういうものを含めた意味で必要なことの共同体。
究極的に言えば身体的な生命活動を営むための共同体なわけですから。
ただそれが今指示されないっていうのも非常によくわかるっていうか。
だから仮想地域の課題がすごく切実にある一方で、
でもその切実さはたぶん理解されないだろうなっていうのが僕は思うところでもありますね。
そうだね、身体的なものを伴うのが受け入れられないって、
すごいわかるっていうか、踏み落ちる表現だったんだけど、
なんでなんだろうね、それは俺も過端してると思うよ。
どちらかというとね、消防団に入るとかもそうだし、
祭りに参加するとかもきっとそうなんだろうし、
でもやっぱりそこにやっぱり線引かれるんだろうね。
どうしても対立しちゃうもの、さっき言った消防団に入る入らない、
そうだしさ、身体性はさ、そこの線引きなのかな。
僕ちょっと今日ね、改めて、今回アメリカ誌のやつでやってはいるんですけど、
渡辺さんの耳たびのやつのノートとかも読んだんですよ。
ありがとうございます。
で、思ったのが二通りのことを思って、
まず一つはこの耳たびを聞いてるっていうこの行為では、
これは旅のある種の旅の話を聞くっていう、
聞くことに特化した身体経験ではあるんだけど、
旅そのものの身体経験ではないはずなんですね。
それに対して旅っていうのはかなり五感で感じることの身体経験だと思うんですよ。
だって多分、もちろん例えばGoogle Earthで見ることを旅だって言われたらそれはそれなんですけど、
そうじゃなくてある場所に自分がその場所に行って、
肉体的に感知したことを一つの経験として記憶するみたいな。
これを耳に特化した身体経験としてその体験とか経験とかを聞くことの、
多分どうしても埋められない何かがあると思うんですね。
でもそれが好まれることというか、
これを愛好する人たちがいることのこの違いっていうのは、
僕はやっぱりその身体は一つの考える基盤になるんじゃないかなって思ったんですよ。
なるほどね。そうだね。
特にもうAIの時代になってくるとね、
そうなんだよね。身体が身体っていうか具体的な動作が伴うか刺激が伴うか。
なんか目からの刺激とかさ、
TikTokなんてもう脳への直接の刺激だと思うんだけど、
それも刺激っちゃ刺激なんだけどさ、
やっぱ五感だよね。全てで感じるってことだよね。
たぶんもっと言うと、
なんでこのポッドキャスト的なものが好まれているかっていうと、
耳から受ける身体経験を快楽というかね、
それを心地よいと感じる人がいるから、
たぶんこの関係性は成り立っているわけであって、
でもそれって、つまり身体をある種制御しているというかね、
部分的なものとしてみなして、
その経験を重視しているっていうことだから、
押し勝つ的なものともどこかつながるところがあると思うんですよ。
それに対して、そこで芽生えるたぶんある種のメンバーシップみたいなね、
いろんな関係性もあると思うんですけど、
でも自分の身体は必ずどこかのところにあるわけじゃないですか。
どこかの部屋にあって、どこかの地域にあるわけで。
この時の自分の共同体意識みたいなものとの差っていうのは、
僕はとても現代的なものだなって思うんですよ。
そうなんだよね。今、ポッドキャストってコミュニティ化しているんだね。
その番組を中心としたコミュニティ化していて、
もちろん世界中どこにいたって聞けるからさ、
それを聞いたメンバーが集まってコミュニティを形成するっていうのが、
一つの今トレンドになっていて、俺はやってないんだけど、
それファンダムだよね。
でもこれって例えばVTuberであろうとYouTuberであろうとも、
身体性、代替可能性、そして共同体の未来
同じような現象にもなり得るわけで、
どこまでその身体性を担保するのかっていうのはあるかもしれないけど、
ただその身体性のある情報の需要の仕方を、
たぶん現代人はかなり闘技をしているっていう意味かな。
自分でそれをコントロールして、
ある物理的に受ける刺激っていうものを何か特化している、
あるいはどこかのものは受け付けなかったりしているっていうことだと思うんですよね。
そうだね。旅に出るってこともそうかもしれないし、
仮想地域で暮らすってことはさ、五感全部でそこで暮らすってことじゃん。
そうですね。
そこに千丸だね。
もう繰り返しになっちゃうけどさ。
でもさ、それってさ、でかい理想だよね。
いやでも、だから何て言えばいいかな。
でも逆に言うと、五感で物理的に感じる刺激を持ったコミュニティって、
たぶんね、どこかうまく機能していないところもたぶんあるんですよ。
というか、ノミュニケーションじゃないけど、
何かしら飲食を伴うとかもね、これも身体経験じゃないですか。
こういったものがだんだん拒絶されるというか、
今までって基本的に、別にインターネットの話をしたいわけじゃないんですけど、
身体経験を伴ったコミュニティが基本的だったものが、
それを部分的に投与したり、あるいはほとんど伴わないようなものだったり、
ということで成立するコミュニティの在り方っていうのは、
たぶん根本的に違うところがあって、
でもその違いが非常に現代社会を形作っているっていうところだと思うんです。
で、その時に、じゃあどういうコミュニティを目指すの?みたいな。
そうなんだよね。だからさ、たぶん二通りあると思うのね。
仮想地域のね、その人と人とが顔を合わせているところが目指すのって、
たぶん二通りあって、まず一つは、
互感を私立し合って、お互い傷つき合うことの前提に、
身体性を伴う生活っていうのを一つの在り方として打ち出していく。
で、もう一つは、身体性を伴わない在り方を見出して、
許容していくというか、部分的な刺激だけの状態を受け入れて、
人たちも受け入れられる共同体にするか、どっちかなのかな。
僕は個人的な見解として、物理的な身体を伴う関係が嫌だから、
この身体関係を制御した関係性とかのコミュニティとかにコミットしていくみたいな。
これはわかる。この流れはわかる。
で、逆にそのコミュニティというか、その身体性を拒否して成り立ったコミュニティから、
別の身体性を伴ったコミュニティに行こうってできるのかなっていう。
いや、たぶんある程度はできるんだと思うんですよ。
それこそオシカスとかの一つのファンダメントの段階でできるとは思うんですけど、
それってたぶん、それこそ快不快が原則にあるんですよ。
身体性を拒否しているっていうことは。
その中で心地よいものが選ばれているコミュニティの中で、
そこから快も不快も両方存在してしまうような
肉体的な身体的コミュニティに戻れるの?みたいな。
そこだよね。戻れないんじゃないかなって。
なんか思っちゃいますね。
でもさ、戻れないって言っても意識の上ではそうかもしれないけど、
自分の身体は何かしらに所属はしてるんですよ、その時に。
じゃあこの身体、自分が所属している身体はどう考えるんだろうなっていう、
現代社会への一つの疑問。
そうなんだよね。
でもこれはね、いい話だなって思うんだけど。
いやーそうなんだよな。
でもさ、やっぱアメリカ人って戦うじゃん。
戦うね。やっぱね、あのすごいデモとかね、社会運動をした感じですから。
あの闘争心というか、まずさ、スピーチするわけでしょ。
人集めてさ。スピーチを巻く人が大統領になるわけじゃん。
トランプ三つ立ってそうだしさ。
なんかあの身体性が爆発してる感じ?
っていうのはさ、力士に根差してるんじゃないかなって思うんだよね。
そうかもしれないね。
そうしなきゃ生き残れないっていうか、維持できないものがあるみたいな。
だからさ、大統領選ってさ、イメージ理解できないじゃん。
そうですよね。
見せ物としては面白いんだけど、
あの熱狂、政党支持者のさ、あの熱狂ってさ、なかなか日本人ではさ、理解できないものがある。
でもあれはやっぱり身体性の爆発なのかなっていう。
なんかただ、なんて言えばいいのかな。
僕はアメリカもタウンシップが今の現代でそんなに機能してないだろうって思うんですよね。
まあ機能してる面もあるとは思うんですけど。
でも、逆に今トクビルが言ったみたいなタウンシップっていったものは多分大体の社会において、
特に全新国においては損なわれてるものだと思うんですけど、
でも、その中でもアメリカ国民であるみたいな意識とかはどこかで駆動してるんだと思うんです。
だからデモの番にも参加するし、アメリカの何たるかっていったものもスピーチするし、
その感じが、だからある意味では本当に中央集権なのかどうかわかんないんですけど、
今はそのタウンシップのメンバーであるとは言えないかもしれないけど、
アメリカ国民のメンバーではあるっていうふうな意識は多分どこかしらあると思うんですよ。
まあ州自体も成立はしてるかもしれないけれども。
だからそう思った時に、リアルではないじゃないですか、アメリカ国民っていうことが。
リアルなのはタウンシップのほうなのであって、でもその意識は成立するわけで。
だからそういった時にさっきの身体制の話だと、身体感覚は伴わなくてもあるメンバーシップっていう意識は当然芽生えると。
それはあり得ると思うんですね。
ただそこからコミュニティ論みたいなことになるのかどうかはよくわからないという感じなんですよね。
だからさっき俺は身体制をさ、消防団に入る入らないとかドミニケーションとかいうことでしゃべったけどさ、
だからやっぱり別の身体制があるんだろうね。
今僕が思いついている範囲の身体制ではないところで、その共同体とどう繋がるかみたいな。
もちろんアメリカはもっと宗教がそこには大きな役割を果たしていると思うんだけど、
でも宗教だけじゃない問題もある。人種とか民族構成とかも含めて。
すごい複雑だとは思うんだけど、だからなんかその身体制みたいなのを見つけていくみたいなことなのか。
これは僕は今ちょっと本当に渡辺さんとお話していて、
コミュニティの形成のされ方が一つ身体という視点を通したときに、
やはり違ってきたときに、その違いがやっぱりすごい大きいですよね。
それが例えばその身体経験が違うコミュニティが、
コミュニティ同士で何か繋がるのかっていうふうにも思えますし。
あとちょっと思い出したのがさ、去年アイズ大雪降ったじゃん。
去年だっけ、一昨年かな。
災害級の大雪。
これだいたいアイズ全域でそうなったじゃん。
あの時連帯かなったよね。
そうそう。
身体制を伴う連帯があったんだよね。
そう、あると思いますね。
だからね、でもあの瞬間だけなんだよね。
やっぱり持続しないんでしょうね。
やっぱり身体経験っていうのはなかなか感覚的なものって。
ただ、変な話ですけど、
たぶん身体経験をコントロールしたコミュニティとかコミュニケーションのあり方っていうのは、
あれは物量を浴びてるからたぶん成立してるんですよ。
物量。
物量。つまりあれは定期的にそのコミュニティが起動させてるし、
コミュニティが存続してる限りにおいて、
何かしらの媒体の供給があるから成立してると思うんですね。
そしてそうしないと、
たぶん一つの感覚に特化したようなコミュニケーションのあり方って
僕、そんなに持続しないだろうって思うんですよ。
そうね。
インザメガチャーチだと、おしかつのネタを運命から供給されるっていう。
でしょ。
供給されるっていう。
なるほどね。
時期、時間間隔もたぶん規剥だと思うんですよ。
つまり大雪の話だったら、2年前のこれくらいの時期にこの場所でみたいなことができるんですけど、
そうじゃないところって、それこそネットインフラみたいなところから出る刺激って、
時間間隔結構僕曖昧だと思うんですよね。
もちろんそれも含めて記念日みたいに演出するところもあると思うんですけど。
なるほどね。記念日とかもそうだよね。
小読みだってね。大元は考えればそうなってくるしね。
そうなってきたときのコントロールされたコミュニケーションだったりコミュニティー、身体的にの中の、
それが逆にある日突然失われる可能性ってあるじゃないですか。
極端なこと言うと、渡辺さんがね、ポッドキャストを急に辞めたと。
もちろんアーカイブは残るかもしれないですけど、アーカイブも消せるわけで。
そういったときに、でもコミュニティって多分他のコミュニティに代替されると思うんです。
別のコミュニティを多分見つけると思うので。
そうなんだよね。
でも大体不可能なものが地元の地域の。
不可能でもないのか。
これはだって別の地域に移っちゃえばいいみたいな話にもなるんですけど。
ただ、そうなったときに、人間の所属欲求ってどこまで満たされるのかなっていうのもちょっと思うっていうか。
つまり、大体可能なものだと自分が認識してしまったら、
それを大体可能なものでどんどん埋めていくみたいな作業って飽きないって思うし。
これって別に全く貴族意識は芽生えなくてただ消費するだけみたいな感じがするんですけどどうですかね。
アイドルが解散したら次のアイドルに行ってどんどんどんどんとかね。
そうなんだよな。
もちろん福島だと2011年東日本大震災以降、
結局自分の地元とか土地っていうのが代替可能なのか不可能なのかみたいな。
そういうのってみんな考えたわけじゃない。
基本的にはもう不可能なものであるっていうような政治で、
基本的には動いてるんだと思う。
不可能なものであるとして。
これ難しいよね。
ある種、大概可能であるとすることで気持ちって楽になるんじゃない?
そうそう。それもある。
逆にそれだからこそ身体制を伴わないっていうのはそういうメリットがあるわけで。
そうなんだよね。
これが不可能なものであると、それを失ったときにその衝撃ってすごく大きいじゃん。
それになんで過疎が進んだかって、
だってそこに住まなくなったからっていうのはその身体的拘束がやったから
どこかにいなくなったわけじゃないですか。
移住したわけで。
って考えるとその身体拘束性っていうものがものすごく強かったからこそ
コミュニティが衰退したっていう部分もあるわけであって。
だから強ければいいって問題は全くないですよね。
そうなんだよな。
だからそうだね。その身体制を、さっきのね。
身体制を大体不可能なものか可能なものかっていうのに置き換えられると。
そうだね。だから移住してきて1年ぐらいで出るってことも可能じゃない?
可能ですね。僕実際最初そうしたし。
そうそう。
でもさ、そこが担保されてないと入ってこれないじゃん。
確かに確かに。その通りですよね。
最初からさ、生まれた時から親の代から祖父の代からここにいますって人とさ、
途中から入ってくる人、でもやっぱ前提条件ってやっぱ。
違いますよね。
となってくるよね。
でもやっぱその辺だよね。その溝というかさ、本当に深いところ。
大体不可能なものか可能なものかとか、身体を伴うか伴わないか。
でも意外と、だから死活が流行るっていうのもわかるんですけど、
身体を伴っているところ、身体は実はそんなに自由にその場所を選べてないと思うんです、僕は。
つまりかなり個々人でいろんな事情があるんだろうけど、
それこそね、家族とかもそういうのもあるかもしれないし、
何かしらの身体の条件もあるかもしれないけれども、
実は現代社会の人間でもそんなにこう、
自分の身体の置き場所を自由に決められているわけではないと思うんです。
ものすごいお金があったりとかしたらまた別かもしれないですけど、
やっぱその人なりの事情とかがいろいろ考えられるわけで、
その中でどこかに自分の身体を置きつつ、
それはやっぱ制限されたコミュニティになってくるので、
制限されてない何かしらの仕方的なコミュニティを求めているのかもしれないし、
だからでもどっちにしてもやっぱり愛着とかがないとっていうのは、
トントクビルも言っているところではあるんですけど、
ただ、なんて言えばいいかな、
まあ愛着何にでもつけられるって言ったらそれはそれなんですけど、
その中で身体、性みたいなものっていうのは、
基本的には一生関わらなきゃいけないというか、自分自身とね。
もちろんその姿形とかはある程度変えられるかもしれないんですけど、
そういった自分の身体性が関わらなければいけないことと、
その身体の身の置き場としての共同体とかをどこに置くのかっていうのは、
なんかやっぱちょっと切り離せないところもあると思いますし、
それがコントロールされた身体コミュニケーションみたいな、
押し勝手的なもので、
どこまで自分の本当の身体が満足されるのかみたいなね、
ところとかもちょっとあるんじゃないかなっていう気がしますけどね。
そうなんだよね。
これさ、あともうその場所に土地を持ってるとかさ、
お知恵があるとかさ、
そういうのも個人個人によって全然異なってくるわけじゃない?
そうですね。
だから多分どこかで、
さっきも言った通り、
最初に例えば中央集権の話で、
どこに中央を求めるかみたいなところで、
無限交代しないある範囲みたいなのがあると思うんですよ。
ある程度感覚と設計がフィットしたような、
共同体の場所みたいなね。
だからつまりそれも身体に当てはまるんじゃないかなっていうか、
コミュニティの帰属意識みたいなものと。
なんかさ、最初に話した通りさ、
中央集権化していくわけじゃないか。
人口減少社会だときっと。
そうするとさ、ひどい言い方したらさ、
多分自分は切り落とされたって感じる人が出てくると思うのね。
切り離された、切り落とされたとかさ、
いずれインフラ整備がとともに追いつかなくなるとかさ、
除雪が追いつかなくなるとかさ、出てくるわけじゃない?
そういうエリアが。
そしたら自分は取り残された、切り離されたってなってきたときに、
それを決めるのは政治的な政治判断なんだけど、
じゃあその人たちを最後救うのは物語なのかなとか。
でもそれで本当救われればいいですけどね。
切り落とされたままだとか、
あるいは勝手にどこかの中央に集められて、
今日からそこがこの帰属先ですって言われても、
多分愛着は湧かないよね。
そうなんだよね。
俺は今会津若町に住んでるからさ、
余裕を持って話してるわけじゃない?
切迫した気持ちがないようになってるけどさ。
いやいや僕もだって実家は氷山だし、
そこまでたぶんすごい切迫してはないんじゃないかな。
でもさ、50年後とかわかんないわけじゃない?
わかんないね。
それはあると思いますよ。
結局どっかで起こり得ることが起こるんだよね。
その備えっていうかね、
どういう行為っていうか在り方が、
その挙動体的な意味合いでも、
自分の身体感覚的な意味合いでも、
ある程度のバランスが取れたことなのかっていうのは、
これやっぱり結構逆に経験してみないと
わかんないことかもしれないですね。
今日は勉強会の2回目と3回目で、
連邦派と共和派、フェデラリストとリパブリカンと、
あとデモクラシー、アメリカのデモクラシーっていうところで、
いろいろと喋ってきたわけですけども、
次回はテーマが?
次はトクビルがアメリカのデモクラシーとして見出したものが破綻を迎えると。
つまり南北戦争によって同じ国民同士が殺し合うことになっていった
っていうところを取り扱って、
言うなれば共同体の破綻みたいなものをテーマにしたいとは思っています。
ということで第4回目もこんな形で勉強会以外にも収録できればなと思うので、
ということで今週はこんな感じですかね。
今日は話がだいぶ飛躍して面白かったですね。
やっぱり飛躍したほうがいいと思うんだよね。
わかるわかる。
半分いい加減聞いてる人にとってはいい加減に聞こえるかもしれないけど、
飛躍するくらいがいいかなと思います。
台本があるわけじゃないですけどね。
そんな感じで、
全然結論見えたことはないんだけど、
興味深い話ができたのかなと思います。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
よければチャンネルのフォローと高評価をお願いします。
SpotifyXメールフォームからコメントもお待ちしています。
来週金曜日の18時にまたお会いしましょう。
それでは耳たびで良い旅を。
ありがとうございます。
57:45

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