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どうも、身のない話チャンネルのタカーシーです。
お久しぶりでございます。
お久しぶりに哲学の話をしようかなと思っています。
以前はアウグスティーネスの話をしました。
アウグスティーネスの次ってトマサークイナスっていう風にいくことが多いんですけども、
その前にちょっと違った哲学者のことも紹介しておきましょう。
その人の名前はポエティウスという人です。
正式名称はアニキウスマンリウスセウリニウスポエティクス。
ちょっと長い名前ですけども、
彼はローマ帝国最後の方の哲学者です。
彼がやったことっていうのは、
古代ギリシャのプラトンやアリストテレスの書物をラテン語に翻訳して、
忘れてしまいそうだった彼らの思想を再び呼びかえらせたということ。
そしてポエティウスの哲学っていうのは、
自己啓発のためのもの、つまり抽象的な思考の学問であるだけではなくて、
人生をより良くする実用的な手段。
これで言えばストア哲学というものにつながってくるかなというふうに考えられます。
このポエティウスの生涯というのは幸運と不幸が入り混じったものでした。
当時ローマを支配していたのはゴート族の王テオドリックという人です。
ただ、このポエティウスに対しては特別に失勢感の揚釈を与えたんですけども、
これで十分満々の人生かなと思いきや、
どこかで間違いが起きて反逆の手紙が出てきてしまったと。
それによって牢獄に閉じ込められたというポエティウスなんですね。
無罪を主張し続けたんですけども、
ポエティウスは信じてもらいずに最後は王だと皇室によって死刑にされてしまうという悲しい人生。
そんな感じの人です。
ただ、ポエティウスはこの獄中の中で死が近いことを知りながらもあることをしていました。
それが中世の時代のベストセラーとなる「哲学の慰め」という本の執筆です。
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本当はポエティウス最初の頃は独望で自らを憐れていました。
なんでこんなことになってしまったんだろうかと。
その時突然一人の女性が自分を見下ろしているのに気づきます。
普通の高さだった女性の背が天位よりも高くなったように見えて、
そして女性の服はボロボロで、裾にあるギリシャ文字のパイから上の方のシータの文字まではしごが伸びている刺繍が施されていました。
女性の片手には尺があり、もう片手には本がありました。
そして2というローマ数字が書いてあったんですね。
これちょっとタロットに詳しい人だと、あれ?これはダイアルカナの2の女。
女教皇に近いなっていうふうに感じる方も多いのではないでしょうか。
そしてこの女性は一体何なのかという話なんですけども、
これは哲学の姿を表したものでした。
だから哲学が女性の形になって現れたんですね。
そしてポエティウスに何を信じるべきかを教えてくれたのです。
ポエティウスは彼自身の身に起こったことにどう対処すべきかという話になってくると、
ちょっと悲観的になってしまうんですけども、
この女性哲学がポエティウスに助言を与えます。
運は常に変わる。
そしてその運が常に変わることは驚くべきことではないということです。
まあそれが運ですよね。
今日幸運だからといって明日もそうとは限らないと。
人間は愚かにも移ろいやすいものに幸福を求めてしまうと。
運ですよ。
だけど真の幸福というのはうちにあるんだというふうに哲学は説明しておきます。
自らコントロールできるし、不運だからといって壊れてしまうものではないということです。
この女性の哲学というのはもう一度ポエティウスを自分の方へ向かせたかった、
そういうふうなものが書いてあります。
哲学の答えというのは常に何に対してなのかというと、
ポエティウス自身はどこに真の幸福を見つければいいのかわからないと言っているんです。
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じゃあ答えは何かといえば、神あるいは禅ということになります。
最終的にはこれどちらも同じ意味になるんですけども、
哲学が言う神とはプラトンが提唱する禅のイデアのことです。
キリスト教では明星や富が無価値であり、神を喜ばせることが重視されます。
まあ今のキリスト教はそういうふうにはなってないかもしれませんけども。
ポエティウスというのは神を信じる多くの人々を悩ませてきた本質的な問題に惑わされてしまいます。
それは一体何かというと、神様っていうのは全知全能だと。
神が起こることを知った。
まあ神は何でも知っている。
だから次に何が起きるかっていうのもわかっている。
でも自分ではわからない。
私自身が知らなくても知っているということになります。
もし神が私たちが何をするのか知っているとしたら、私たちはこれから何をするかを本当に自ら選択しているのだろうか。
選択とはただの錯覚なのだろうか。
神がすべてを知っているのならば、自由な意思など与えられていないのではないだろうかというパラドックスにポエティウスは陥ります。
しかしこの女性哲学というのはいくつかの答えを示してくれます。
私たちには自由な意思がある。これは錯覚ではない。
人間には自由な意思がある。
神は人間たちが何をするかを知っているが、私たちの人生を決めているわけではない。
つまり神が私たちがどう行動するかを知っていることと、私たちの運命が決まっていることとは全く異なることなんだというふうに言っているんですね。
私たちは次に何をするのかを選択できる。
神が人間のように私たちの目の前にいて何かを見ているかのように考えるのは間違っているんだ。
神様というのは時を超越し、時の概念の外にいるというふうに女性哲学はポエティウスに言うのです。
神は一瞬にしてすべてを把握する。
過去、現在、未来、この三つを一つのものとして捉えている。
ところが人間は一つ一つ起こることに固執するんですけども神はそうじゃない。
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神が私たちの自由意思を損なうことなく、また私たちを選択の余地なくプログラムされた機械のようにすることもなく、
私たちの未来を知り得るのは時間の枠にとらわれずに私たちを見ているからだと言っているんです。
すべての時を超越した一つの流れとして神様を捉えているのであるから、
女性哲学はポエティウスに神は私たちが何をするのか前もって知っているものの、
私たちがどう行動するのか、何を選択するのかによって私たちを見極めていることを忘れてはいけないと言っていました。
ポエティウスはこんな言葉を残しています。
存在することと存在するものとは異なる。
これは後々説明することになりますけども、
ハイデーガーの哲学と繋がるので今のところは省略していきたいと思います。
さあこんなポエティウス、哲学の慰めを書いて死刑になってという人ですけども、
次のこのラジオを聴くか聴かないかは神様が決めるのか、あなたが決めるのかは自由な判断ということになります。
さて今回も身のない話でございましたけども、面白がってくれたでしょうか。
それじゃあまた。