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どうも、身のない話チャンネルのタカーシーです。
さて、今回は、アンセルムスという人についてやっていこうかなと思います。
アンセルムスという人は、イタリアの修道士で、後にカンタヴェリー大司教という偉いところまで登り詰めた人ですけども、
彼が考えていたということは、論理的に神の存在を証明しているということ、これがアンセルムスの存在論的証明といわれ、
主張プロスロギオンにおいて展開する。まず、何を考えたのかというと、神がそれより偉大なものを考えることはできない。
そういう存在であると主張するわけですね。
言い換えれば、神は想像し得る最も偉大な存在ということ。
力、善、智、そういうものにおいても最も偉大であり、それより偉大なものを想像できない。
できるとすれば、それが神なのだろうと。神は史上の存在なんだということを考えます。
私たちは頭の中で神の概念を明確に持つことができます。概念というよりも観念ですね。
ああ、神様っているんだろうなって。そういうことを言うことができるわけです。
ただ、頭の中に存在するだけで確実に存在しない神様は、考える限り最も偉大ではない。
現実に存在するものの方が偉大である。神が存在の中で、想像の中で存在することは可能だろう。
だから神は実在するに違いないとアンセルムスは結論付けたわけです。
これを神の定義から論理的に導き出した結論でありますけれども、
アンセルムスが正しければ、神という概念があることによって神の存在を確信できることになる。
こういうような考え方をアプリ寄り、先見的と言いますけれども、
アプリ寄りの考え方と呼ばれて、世界についての観察に基づくことなく結論を導いています。
出発点から議論の余地がなく、神の存在を証明しているように思える論法です。
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アンセルムスの神の存在証明ということは、これどうも本当にそうなのかというふうに考える人が出てくるわけです。
どこか疑わしい。アンセルムスの証明だけを根拠に神を信じる人はほとんどいません。
だけども、アンセルムスは愚か者だけが神の存在を否定するという旧約聖書の辞典を持ち出しました。
一方、同時代の修道士ガウニロという人はアンセルムスの証明を批判しました。
愚か者の立場を擁護する趣向実験を考え出したのです。
それが完璧な島というものです。
どこかの海に誰も行くことができない島があるとすると、
この島は驚くほど豊かで、想像できるあらゆる果物が実り、珍しい木や植物や動物が見られる。
人は誰も住んでおらず、だからこそ完璧である。
つまり、想像し得る最も完璧な島だと言えるわけです。
だが、この島は存在しないという人がいても、理解するのは難しくない。
それでは次のように主張する人がいたらどうでしょう。
この島は他の島よりも完璧だから間違いなく存在する。
私たちにはその島の概念がある。
しかしその島が頭の中にしか存在しないなら最も完璧な島とは言えない。
よってその島は存在しなければならない。
どうも変ですよね。
この論法を用いてこの最も完璧な島が存在することを納得させようとする人がいたら、
おそらく何かの冗談だろうとガウニーロという人は考えました。
完璧な島を想像しても、それは魔法のように現実のものにすることはできません。
そんな馬鹿なことは起こらない。
ガウニーロはアンセルムスの神の存在の証明が最も完璧な島の存在を主張する論法と同じだと指摘。
ところがアンセルムスはこれに対して自分の論法は島ではなくて神にだけ当てはまるんだと言っている。
他のものはそれぞれの種類の中で最も完璧だというだけで、神は全てのうちで最も完璧だから、神は必然的に存在する唯一のもの、存在しないはずの唯一のものだと述べます。
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このアンセルムスというのは、神とは存在するすべてのものの中で最高のものというふうに言うんですね。
アンセルムスによるとあるものというものは4つの意味で使われる。
まず一番目。
例えば石や木はあるものであり、それらは謎され、心に描かれ、実際に存在する。
第二に、例えばキメラのように名前を持ち、想像はされるけれども実在しないものもあるものと呼ばれる。
第三に、ただ名称のみを持ち、どのような意味でも存在しないものもあるものと言われる。
例えば無、無い、何もない状態、無がこれに値します。
人は何かが存在しないことをあるものが無であると語ることができるからです。
第四に、私たちは存在しないものをあるものと呼び、存在しないものがあると言う。
例えば太陽がないので昼間ではないと語られるとき、太陽の非存在が原因となって日中の存在が否定される。
何かの原因である限り、無いこともまたあるものと考えられている。
こういうふうにアンセルムスは考えたわけです。
アンセルムスが神について考えるときに、こういうふうに愚か者は言葉を聞くであろうと考えているわけです。
そしてもちろんそれより大なるものを考えることができないものが理解のうちにのみあることは考えられない。
なぜなら、もし少なくとも理解のうちにだけでもあるのなら、それがもののうちにも存在することは考えられるし、その方がより大なるものであるからである。
それゆえ疑いもなく、それより大なるものを考えることのできないあるものは、理解のうちにもまたもののうちにも存在する。
これはプロトロギオンという本の中で書いていることですけども。
理解のうちに、すなわち知性のうちに存在する最大のものは、それが最大のものである限りでは、またもののうちに存在する、つまり実在としても存在することになる。
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紙だけがそれ自体で存在するものであり、その紙が無から他の一切を作るのであるというふうに考えたんですね。
面白い考え方ですよね。
この考え方は後にデカルトやスピノザ、ライプニッツやヘイゲル、こういう人たちがこの証明を支持します。
今日も身のない話チャンネル、神様について語ってみました。
アンセルムスの考え方はアプリ寄りな考え方で、それをどう私たちが解釈していくかというのも、これまた現代において普遍論争という言葉で語られますけども、
普遍論争の中で議論されていくべきことなのではないでしょうか。
ということでまた次回、今度はトマス・アクイナスに行こうかなと思っています。
それではまた。