00:06
どうも身のない話チャンネルのタカーシーです。 12月24日になりました。
クリスマスイブですかね。 皆さんどういうふうにお過ごしでしょうか。
まあそれに関連してキリスト教の話をしましょう。 キリスト教、特に中世に入ってからのキリスト教の神父で、
恐怖で、 アウグスティヌスという人がいました。
354年から430年、いわゆる中世の時代に入ってきた哲学です。 アウグスティヌスはいろんなことに
疑問を持っている人でした。 神は信じている。
でも、神は私に何を望まれているのか、 私はどう生きるべきなのか、
そういうことを考えたりしました。 そのうちに
考えついたのが、「君自身の内に帰れ。 真理は人間の内部に宿る。」という言葉でした。
外部にあるのではなくて、内部の中で内生して、 真理というものは見つけられるんだというふうな話をしています。
そしてもう一つ面白い問いを立てています。
なぜ神様というのは、悪の存在を許しているのか、 ということでした。
全知全能の神ならば、悪というもの、犯罪というものをなくすことができるのではないだろうか、 というふうに考えたんです。
ところが、実際は神様を信じていても、 世界にはいくたの苦難があるのを、私たちは認めなければいけません。
地震や病といった自然がもたらす災いもあれば、 倫理を書いた悪、つまり人間による災いというものもあります。
殺人と拷問というものは、倫理を書いた悪の分かりやすい例だと思います。
実はこの問題、前の番組で紹介したエピクロスという人が認識していました。
なんで全知全能の全なる神が、なぜ悪を許しているのか。
悪を止めないならば、全能とは言えないのではないかと。
能力に限界があるということなのだから、もし神が全能であるにも関わらず、 悪を止めようとしないならば、究極の全と言えるのは何なんだろうか。
03:10
道理に敵わなかった問題、これは一体どうすればいいのかということを、 エピクロスは考えていました。
アウグスティヌスも似たようなことを考えていて、倫理を書いた悪が特に気になった。
全なる神がこういった災いが起こるのを知りながら、それを防ごうとするのを理解するのは難しい。
神の成すことは神秘に包まれ、人知が及ばないという考えには納得がいかなかったんですね、アウグスティヌスは。
答えを知りたかったんです。
そこで考えたのが、自由意志弁護説というものです。
自由意志弁護説ってどういうことかなっていうと、 自由意志、すなわち人間は次に何を行うのかを選ぶことができる。
そして神様の議論ですけれども、 全なる神が苦難を良しとする理由を説明し弁護する試みを自由意志弁護説と言いました。
神様は私たちに自由意志というものを与えました。
例えばこのラジオを聞く、聞かないというのも自由意志です。
誰かに強制されなければ聞くのを止めるのをやめるというのも自由なことです。
しかし自由意志を持つがゆえに私たちは悪事を行う選択もできる。
いいこともできるんですよ。
いいこともできるんだけど、特にキリスト教の隣人を愛せという言葉がありますけれども、
この隣人を愛すことによって私たちの生活、宗教的な道義の上では善とされることもあるけれども悪いこともできる。
盗みを働いたり他者を傷つけたり、さらには人を殺してしまったりすることもある。
その多くの場合は理性が感情に負けた結果であると考えました。
アウグスティヌスというのはプラトンと同じように、理性が情欲、感情というものを抑えるべきだという信念を持っていました。
人間には動物と違って理性があり、それを生かすべきだ。
もし常に悪ではなく善を選ぶように神が私たちを作ったならば、私たちは何も悪いことをしないだろうが、
06:08
それでは真に自由ではいられないし、理性を働かせて何をすべきかを決めることもできない。
神様というのは私たちをそのように自由じゃなく作ることもできたはずである。
だけども私たちに選択の余地を与えてくれてよかったんだとアウグスティヌスは論じています。
いつでも自動的に良い選択をする。
そういうふうに振る舞うのであれば、私たちは理性を使う必要はないわけです。
神様の操り人形なわけです。
なのでここから引き出されることは、神にはすべての悪を防ぐ力がある。
だけども悪が存在するのは神のせいだけではない。
倫理を書いた悪というのは私たちの選択の結果なんだと。
これが現在というものですね。
現在ってなんだろうという時に、アダムとイブの選択のせいなんだというふうにアウグスティヌスは考えました。
聖書の創世記に描かれているように、エデンの園で間違いが起こったのだと当時のキリスト教の多くと同じようにアウグスティヌスは確信していて、
イブそしてアダムが知識の木の実を食べ、神を裏切った時、この世に罪が生まれた。
これがいわゆる現在です。
しかしその影響を受けたのは二人だけでは済まなかった。
すべての人間がそれを受け継がう、その代償を払わなければならない。
生殖行為を通じて現在が新しい世代に受け継がれると考えられた。
なので生まれたばかりの子供ですら、この現在を追っている。
現在のせいで私たちは罪を犯すのだとも言える。
ちょっと現代の私たちにとっては、他者が犯した罪の責めを背負いばせられるというのは受け入れ難く不当に思えます。
だけども、悪が存在するのは人間が自由意志を持つ結果であり、すべて神のせいではないという考え方は今でも多くのキリスト教信者の中に支持されている考えです。
そう考えれば、全知全能で完璧な善である神を信じられるからという理由があるからです。
09:06
こんな感じでアウグスティヌスという人は、罪について考えてきました。
特にこの人面白いのは、最初から熱心なキリスト教信者ではなかったんですね。
お母さんという人は非常に熱心なキリスト教信者であったんですけども、
アウグスティヌスの若い頃は暴徒を繰り返し肉欲に負け、18歳で子供を持ち、やっと32歳になってからキリスト教に改信したというエピソードがあります。
さて、クリスマス、皆さんは楽しんでいますか?
こんな罪の話などを聞いても身のない話であるかもしれません。
まあ、楽しんでもらえればそれでいいかな。
それではまた。じゃあね。