葬儀の文化と無宗教
お聴きの皆様、お運ん番ちは、現役リフォームプランナーの寸尺かんなです。
先ほどスポティファイ、またね、やってたんですけど、なかなかね、この連携がうまくわからなくてですね、ちょっとまたこれは、ちょっと頑張ってやりたいなと思います。
リバーサイドで収録したもの、すごくいい音でちゃんと撮れてるんですよ。
あとは、これをどうやってアップするかっていうことですよね。
何本かもう撮ってるんですけども、これをうまく上げれません。はい、これちょっとちゃんと勉強します。
はい、でね、せっかく喋る感じになってるんで、もう一本今日はあげようと思うんですけれど、
ちょっとね、いろいろ皆さんにご心配とかお悔やみをいただいていた、うちの夫の父がですね、先日、多回したんですけれども、
初めてですね、今までなんか自分の身内のね、葬式、葬式というかね、うちは本当に変わった家でですね、本当の本当のリベラルな家族なんですよね、私の方の家族は。
もう徹底した無心論者で、神なんかおらんみたいな、もう神とかかとか言うと、もうだみたいな、怒られるみたいなね、そういう家だったんですよね。
で、うちのおじいちゃんは本当田舎の出身なのにどうしたわけか、もう科学とかね、だからもうそういった、もうちゃんと科学的に証明できること以外は一切信じないっていうね、
徹底した、なんていうかな、リアリストって言ったらいいんですかね、超現実主義者というか、そういう家族だったんですよね。
でもこれはね、戦争体験とかもね、あるっぽいんですよね。
おじいちゃんは、まあ戦争から生き延びて帰ってきた人で、で、おばあちゃんの方は、この話ってまだ今までしてなかったですかね。
うちはおばあちゃんがね、日系2世なんですよ。だから日本人なんですけれど、アメリカ生まれの日本人だったんですよね。
だから完全にアメリカ人として生まれ育ったんですけれど、ちょうどね、戦争が始まってしまってね、第二次世界大戦が。
で、その時に強制収容所に入れられそうになるところを、逃げて日本に帰ってきた。だから帰ってきたっていうか、おばあちゃんにとっては初めて、自分のだから親の祖国に帰ってくるという形でね、日本に逃げ返ってきたっていう経験をしてるんですけれど、
その後もですね、この日系人の歴史というのは色々本当にね、暗い歴史がいっぱいあってですね、で、おばあちゃんにはね、すごいハンサムな弟がいて、もう家族のね、希望の星みたいなね、あの人がいたらしいんですよね。
ところがこの人は日本に帰ってきたんですが、不思議なことにね、やはり自分が生まれ育ったアメリカが、日本人にひどいことをしたということになりますよね。
強制収容所を作ってね、だって自分たちは生まれ育った、だから親は日本人かもしれませんけどね、アメリカのまあある意味開拓のためにいっぱい労働力として、あの頃いっぱい日本人がだから移住してたわけですよね。で、一生懸命アメリカのために働いていたのにね、いざ戦争が始まったら強制収容所に入れられそうになったということで、非常にアメリカを恨んだんですよね。
だから彼にとって日本語もおぼつかないおじさん、おじさんというかこのうちのおばあちゃんの弟だったんですが、日本に帰ってきてからね、どんどんその日本に対する愛着の方が強くなって、生まれ故郷のアメリカに対してはすごい恨みの気持ちが強くなった結果、なんとね、日本兵として太平洋戦争にね、参加してインパール作戦とかの時代ですよね。
で、この時にね、どこかですよね、東南アジアのどこかの島で戦死してるんですよね。だからね、おばあちゃんは大河ドラマね、NHKの大河ドラマは欠かさず見てる人だったんですけれど、二つの祖国っていうね、松本幸次郎と今亡き西田俊幸がね、二人日経人のね、兄弟の役をやったドラマがあったんですよね。
で、ちょうどこの第二次世界大戦の頃の日経人の悲劇を描いたね、大河ドラマだったんですけど、これだけはね、見なかったんですよね。で、おばあちゃんにね、いくら聞いても当時のね、その大変だった時の話はね、一言も言ってくれませんでした。
幼少期から、アメリカのね、戦争が始まって日本に逃げ返ってくるまでのところっていうのは、ほとんどおばあちゃんの口からはね、聞かせてもらえなくて、でもね、いっぱいアルバムとかね、あったんで、おばあちゃんが死んだ後にね、いろいろ写真を見て、
ああ、すごくね、子供の頃は幸せそうにね、やってたんだなって、あのね、アメリカでも、あの、いろいろね、日本人コミュニティと、で、アメリカのね、そのちゃんと社会の中に溶け込んで、あの、それなりにね、裕福にやってた、あの、おばあちゃんのね、その、若い娘ぐらいのところのね、歴史とかっていうのを後で、あの、アルバムを見てわかったんですけれど、ただ弟の戦死っていうのがね、
よほどにおばあちゃんには辛かったみたいで、もう全然、その当時の話はね、してくれなかったですね。だからおばあちゃんは、えー、その、ね、自分の戦死した弟ほどには日本、えーと、日本美意気でアメリカを憎んだりっていうのなくて、もうちょっとやっぱり、えー、ね、あの、成熟した、あの、理性的な考えがあったと思うんで、まあ、その戦争っていうね、どうしようもない状況で、どちらの立場もわかるし、
でもすごく、やっぱり自分が生まれ育ったアメリカのことはね、最後まで愛してたと思いますね、おばあちゃんはね。で、まあ、ちょっと話がそれたんですけれど、まあ、そういったね、戦争体験とかもあるからか、一切、神とか宗教というものを信じない祖父坊でしたね。
家族の戦争体験
だから、非常にインテリでね、知的な人たちでしたけども、まあ、そういったところも徹底したリアリストでした。そんな2人なので、うちはね、だからもう葬式とかないんですよ。で、ただね、おばあちゃんがね、先にうちは亡くなった時に、あの、葬儀屋とね、病院っていうのっていうのが結託してるっていうことをね、あの、知らなかったんで、
もうおばあちゃんが死んで、わーってね、もうみんな病院で泣いてね、で、おじいちゃんとかも泣いてて、で、あたふたしてるうちにね、勝手にね、葬儀屋をもう病院側の当時は呼んだんですよね。で、もう気づいたら葬儀屋が、この度はもう誠にね、あの、お悔やみ申し上げますとかって来て、
どうもどうもなんて言ってるうちにね、気づいたら勝手にね、あの葬儀をね、なんか勝手になんかちゃっちゃちゃっちゃと段取りされていて、おじいちゃんが激怒したっていうことがあったんですよね。で、こんなん頼んだ覚えないわーみたいなんで、大騒ぎしてもですね、もうどうしようもなくて、かといってね、我々だけでどうにかできるわけではないですよね。
病院に遺体があって、遺体を自宅に一旦持ち帰って、綺麗にね、あの、してね、服も整えて、で、おかんに入れたりとかね、いろいろそういったことももろもろ、ま、全くやらないわけにはいかないので、そこからですね、葬儀屋と大喧嘩しながら、一番、あの、疾走なね、もう一番、あの、まあシンプルだと思われるプランにして、それでも怒り狂ってね、で、なんか菊の花とかが大量に、
あの、なんか供えられたりとかして、そんなんもね、もう臭いわーみたいなんで、おじいちゃんがめちゃくちゃ怒ってて、で、その後ですね、で、おじいちゃんはおばあちゃん死んだ後ね、10年以上長生きしてくれてね、すごく、あの、ね、私たちと長く一緒にいてくれたんですけれど、で、自分が死ぬ時はね、もうあんな、おばあちゃんの時みたいなね、ああいう失態は絶対にやらないっていうね、
固い決意があったみたいで、あの、自分はね、あの、検体をしたんですよね。検体っていうのは、なんか、体を、だから、その、医学部に、あの、なんていうの、その、譲るというか、だから要するに、医学の進歩のために、自分の死体を活用してくださいっていうことですよね。で、でね、ある時ね、わしは、それはね、あ、そうだ、おばあちゃんが生きてる時から、あの、言ってました。
あの、わしはもう、だから、もういろいろね、その、あの葬式とか、あとお墓とか、一切そういうことは、あの、煩わしたくないから、えっと、もう、病院にね、大阪、あの、ちょっと、あれなんです。うちのおじいはね、旧帝国大学出身なんですね。一応ね、うちの、まあ、ほんと家族は優秀なんですよ。私と違ってね。
で、まあ、その、おじいちゃんは、だから、自分の卒業した大学の医学部に、まあ、検体したぞと言って、おばあちゃんに言ってね。で、あと、うちのおばあちゃんね、だから、そう、あの、自分の弟のね、戦死の体験とか、まあ、戦争の悲惨な体験とかね、あの、結構覚えてて、すごくね、あの、死体儀とかお墓とかね、すごい弱い人だったんですよ。
で、あの、あの、あの、二人はね、大学の先生だったんですけれど、あの、大学を定年した後はね、あの、二人でね、まだ、あの、今で言う、あの、前期高齢者の間は、二人とも元気だったんで、あっちこっちね、世界中を、二人でね、あの、旅してたんですよね。
で、そうするとね、あの、ヨーロッパとか行かれたことがある方は分かると思うんですけど、ヨーロッパのお墓とかって、全然、薄気味悪くないんですよね。すごく、あの、明るくて、綺麗でね。で、特にそう、有名人のお墓ってあるじゃないですか。ベートベンの墓とかね、あの、誰だろう、ゲーテの墓とか、で、そういうところが観光名所とかになってたりとかするんですけれど、うちのおばあちゃんね、そういうところも一切、あの、入れないんですよ。怖がっちゃってね。
で、あの、教会とかもね、たぶんそんな好きじゃなかったと思いますね。教会の裏にはお墓とかがあるんでね。すごいかっこいい、あの、ノートルダム寺院とかね、そんなとこ行っても、もう怖くてね、おばあちゃんは、あんまりそういうところにね、足を踏み入れられないっていうぐらい、徹底した、その無心論だけじゃなくてね、そういう、なんか、お墓とかね、うん、そういうのが嫌いとか、あと、死体とかを見れないとかね、そういう人だったんですよね。
で、そういうおばあちゃんを心配して、おじいちゃんはね、自分、自分が先行くっていうふうに思い込んでたんでね。昔はやっぱり、男の人の方が先に死ぬっていうイメージがあるじゃないですか。だから、まあ、自分が死んだときにね、おばあちゃんに悲しい思いをさせたり、怖い思いをさせたくないっていうので、それでね、倦怠をさっさとね、勝手に決めて、あの、なんか、もう、なんていうかな、勝手に取り決めてきたんですよね。
で、おばあちゃんは、まあ、もう、それはね、ちょっとびっくりしてましたけれど、まあ、おじいちゃんの決めたことだからっていうので、まあ、そうしたんですよね。で、そうすると、まあ、結果的におじいちゃんはすごく長生きしてくれて、でもね、死んだら、もうすぐにね、あの、そのままだからもう、あの、引き取りに行きましたね、遺体の人たちがね。
で、我々としてはね、だから、残された家族はいたって楽だったんですよね。もう、何にもすることがなくて、お墓もないし、何もなくて、ただ、だから、もう、とりあえず、死の深いみたいなのをね、家族でやって、まあ、ね、あの、おじいちゃんがね、こんな人だったね、なんて言って、家族で集まってやって、で、おじいちゃんはいろいろ、まあ、大学の先生だったんで、いろいろ、生徒とかね、いろいろ顔が広い人だったんで、まあ、そういった人たちにはいろいろ全部挨拶して、
案内、いろいろ告知してね、っていうことをしたんですけれど、で、だいぶ経ってからですね、何年も経ってから、遺体の方から、あの、遺体じゃなくて、そうですよね、遺体から連絡が来て、えーと、まあ、この度ね、あの、あの、お父様のね、あの、あの、ご遺体で、あの、私たちは大変、あの、研究の役に、あの、役立たせていただきました、ありがとうございます、ということで、お骨で帰ってきて、
で、そのお骨を、その、それぞれの遺族に、えーと、返す日っていうのがあって、で、その時はね、あの、検体したいろんな人たちの家族が一同に集められて、あの、なんとか式って言うんですよね、とにかくそのもう、えーと、もう遺骨になった、えーと、ものを、あの、それぞれ、あの、まあ、あの、渡すみたいなね、式があって、それに行っただけでした、うん、これはね、母と二人で行ってきましたね、
身内の葬送の実体験
うん、だからね、本当にさっぱりしたもので、あの、なんか全然締めっぽくなくて、あの、で、やることも全然なくて、あの、なんかいか、いかにもうちのおじいちゃんらしいというかね、そういう最後だったんですよね、まあ、だからそんな感じでね、意外に、あの、身内のね、葬式に慣れてなくて、で、もちろんね、あの、いろいろ今までにその知り合いの人とかね、会社関係の人とか、そういった人の葬式とかに何度も行ったりはしてるんですけれど、
自分自身がその身内の、えー、その、なんていうかな、その、あの、見送るというかね、そういったことに至って慣れてなくて、で、今回ある意味この夫の父親が亡くなって、で、うちの夫はもう全然何の役にも立たないんでね、もう、えー、えーとかなっちゃってるんで、もう何にも役に立たないんで、全部ね、あの、私が段取りしなきゃいけなかったんですけれど、
なんかね、でも昔と違って病院と葬儀場がね、結託してなかったですね、あの、もしかしたら結託してる病院もあるのかもしれませんけど、たまたま今回その父が入っていた病院はね、あの、葬儀屋を呼んでくださいって言われて、で、まあ、あの、くれぐれもね、なんか変な、あの、高いね、あの、葬式とかをね、あの、いろいろ言われたりするかもしれないから、先にね、あの、
仮葬場に連絡してそこから紹介してもらうのも一つの手ですよ、とかね、なんかそんな感じで結構親切に教えてくれる看護師さんでしたね、看護師っていうかあれは府長さんだったのかな、うん、だったんですよね、で、まあ、とにかくよくわからないんで、えー、とりあえず連絡して、あの、なんかネットで上がってきたところの一番近いところにね、電話して、で、最近は本当にもう家族葬とか、もうなんか、あの、もう本当にシンプルなね、式とかも、
あったりして、あ、こんな風になってるんだなと思ってね、で、あの、まあ、最安値の7万8千円からみたいになってるんですよね、で、これだと本当にもう安置所で、あの、ちょっと身内でお別れね、して、で、そのまま仮葬場に行くだけのプランなんですよね、で、仮葬場で、あの、あの、焼かれて、で、その後、まあ、収穫して終わりみたいなね、あの、そんなのからもっとたくさん人を呼んで、
お坊さん呼んで、とかね、いろいろあって、うん、なんか、いろいろなんですけれど、まあ、うちはまあ、そんな感じで、あの、無心論の家なので、まあ、シンプルにやろうかということでね、やったんですけれどね、この辺のね、なんか価格設定が、ちょっとね、まあ、ね、父が亡くなったばかりでこういう話するのもあれなんで、あまり突っ込んだことは言わないんですけれど、まあ、かなりね、いい加減でしたね、7万8千円って書いてあるのに、で、まあ、こっちもね、何もかも全部断ったんですよね、
なんか、別にお坊さんもいらないし、横山僧侶がね、あの、このコミュニティにいらっしゃるのに、こんなこと言うのも何なんですけれど、で、なんか、そんな高い骨壺もいらないし、あの、あれもいらない、これもいらない、花もいらないとかってやった割には、結局ね、20万以上かかったんですよね、で、最初はね、見積もり40万ぐらいって言われて、いや、なんでこんな高いんですか、みたいな、で、別に値段をケチるつもりはないけれども、
そのネットで見た時の値段とあまりにも違うんでね、これはなんでなんだっていうと、あの、なんか、なんか、しどろもどろでね、はっきりしないんですよね、だから、もう、とにかく、えーと、一番シンプルにしてくださいっていうことでね、お願いして、まあ、結果、まあ、それでもね、何十万か、ね、20万ぐらいかな、払って、まあ、やったんですけれどね、でも、まあ、まあ、もうね、そこ、そういう、なんか難しいですよね、これのってね、うーん、お別れというかね、その、
ね、しかも自分の、えー、実の父親じゃなくてね、夫の父親ですしね、この辺はどこまでね、その、私がガシガシ前に出ていいのかっていうね、思いながらやってたんですけれど、まあ、でも、結果的にはね、すごい簡素な、簡素だけれども、えー、すごく心のこもったね、あの、まあ、式になったんじゃないかなというふうに思いました。
うーん、あのー、で、多分ね、とても、あの、シャイで、えー、まあ、見栄っ張りなね、お父さんだったみたいなんで、あんまりね、そんな、ね、痩せ細って最後ね、亡くなった姿を、えー、そんなたくさんの人にね、あの、見られたいとは、多分思うタイプの人じゃなかったというふうに夫が言ってたのでね、もう、本当に、本当に近い人だけで、静かにまあ、見送るというね、風にして、で、まあ、小つつぼもね、今のってほんとちっちゃくて、今のっていうか、まあ、
私が選んだプランが、あの、そういうものだったのかもしれないですけどね、すごいちっちゃな小つつぼに、まあ、一応全身の骨を、あの、なんていうかな、その要所、あの、一番この大事な骨をね、全部拾って、で、ね、あの、まあ、家に、あの、持って帰ってきたっていうね、感じでしたね。
ああ、だからこれが今のお葬式なんだなぁとか思ってね、まあ、それもとても、あの、興味深い体験でしたね。はい、なんかね、こんな話、あの、していいのかなと思いながらもね、まあまあ、でも、なかなかね、こういった、あの、人のね、こういう、あの、ね、お葬式とか、まあ、結婚式とかね、こういう冠婚葬祭って、なかなかね、あの、自分が経験するまで意外に人の話って、そんなに、あの、客と、客とかね、その、参拝者として言ってるのとはね、実際にね、
自分がそれをね、あの、やってるのと違いますからね。うーん、なので、まあ、なかなか興味深いというか、面白い経験ではありました。でも、あの、改めて思ったんですけど、こういうのってね、あの、その、個人そのもののためではなくて、残った我々のためなんですよね。
やはりもう、ね、あの、自分にとっていて当たり前だと思っていた人がね、いなくなってしまうっていう、すごい喪失感とね、悲しみ。で、特にね、まあ、この息子の立場からすれば、もっともっと親父にね、優しくしてやればよかったとか、あの時、ちゃんとね、あの、こんなことしてやればよかったとか、いろいろいろいろね、もう、亡くなられた後で、いっぱいいろんな思いがね、やっぱ出てくるじゃないですか。
で、そういった時にね、あの、こういう、やはりね、ちゃんと、あの、式をやるっていうのにはね、意味はあるなと思いましたね。うーん、これは、うん、残された、あの、身内っていうかね、この親族とか、えー、ね、その周りの親しかった人たちが、個人を、あの、ちゃんとこの、なんていうかな、この、亡くなったんだっていうことを、あの、自分たちのなんかこう、心が、えー、理解するため、
別れとその意味
に、あとその悲しみと向き合うために、まあ必要なもんなんだなーっていうことをね、改めて思いましたね。うーん、だから夫はね、だから初めて、すべてが初めてだったんでね、ちょっと私は、あの、仮想場でね、あの、ね、あの、父の体がね、肺になって、そのお骨とかをね、あの、見た時どう思うかなって、すごい心配したんですけれどね、意外にね、あの、ね、あれって経験ある方はお別れだと思うんですけれど、
そんなね、原型がとどまってないじゃないですか、なのでそんなに生々しくなかったんで、あの、わりと冷静にね、対応できてたんで、ちょっとほっとしましたね。私も初めてね、あそこを体験した時は、結構緊張しましたんでね、えー、どうしようと思ってね、だけど全然そんな感じではなくてね、わりと、うーん、もうそこは、うーん、あー、なんか肺になってね、煙になって天国に行ったなーみたいなね、うーん、感じに思いましたね。
感じに受け止められるんですよね、あそこで、あの、あの、仮想場という場所でね、見送るという行為がね、だからこれもね、やはり、うーん、なんか、個人を見送るっていうことに関してはね、すべての、なんかね、うちのだからその、おじいちゃんとおばあちゃんはね、こういったその日本的な習慣とか飲酒とかね、うーん、そういうものをすごく意味嫌ってる二人でしたけれど、
まあね、全く意味がないかというとね、意味はそれなりにあるなーなんて思ってね、今回は非常にシンプルな葬式ではあったんですけれど、まあそれをね、やってみて思いましたね、うーん、はい、というわけでね、今日はちょっと個人的な葬式の話をしたんですけれども、
あのね、まあまあ、みんな、いつかはね、悲しいですけれど、お別れの時が来ると、うーん、だから、あの、今ね、こうやって一緒に過ごしている時間とかね、あの、接する機会があるときはね、なるべく優しい気持ちで、あの日頃の感謝の気持ちとか愛情とかっていうのはなるべく示しておこうということをね、またなんか、なんとなく改めてね、思ったりしました、はい、というわけでね、今日はこれで終わります、ごきげんよう