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「話す」ことは言語化じゃない!『急に具合が悪くなる』から考える、言葉にならない対話【番外編】(お相手:レイさん)
2026-07-26 45:10

「話す」ことは言語化じゃない!『急に具合が悪くなる』から考える、言葉にならない対話【番外編】(お相手:レイさん)

今回もレイさんをお招きし、宮野真生子さんと磯野真穂さんの往復書簡『急に具合が悪くなる』と、その映画化を読み比べながら語り合いました。

ポッドキャスト読書会、7月のテーマは「話す」ことについて考える/カンヌで知った『急に具合が悪くなる』/往復書簡と映画は別物だけど本質は同じ/哲学者と人類学者が、病気にストイックに向き合う/生き切るガッツと、今を味わうこと/「後悔したくない」は傲慢だという話/エースとキャッチャーのような友情/手紙は旅をするからいい/チャットのわちゃわちゃと書簡の深さ/口から出てはじめて気づく自分/本は力強く、映画はチャーミング/「今夜は帰りたくない」/うちと外、当事者とそうでない人/意味がわからなくても分かる場面/「言語化」への逆風/黙っている人の方が気になる/リモートで減る情報量/話すことを強制されてきた感覚/聞くことも、参加である/思いもよらぬ返しが対話を深くする/「元気でね」「またね」でもいい/言葉より関係性が、話すを作る

🎙️ お相手

【 レイ 】
ある企業で、言葉を使って会社のことを表現するコピーライター。社内のモヤモヤを言語化し、上層部や顧客へ届く言葉に書き分けるプロフェッショナル。本屋さんでの「ザッピング」と偶然の出会いをこよなく愛し、劇場で浴びる生身のエネルギーを人生の句読点として大切にしている。

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サマリー

本エピソードでは、宮野真生子さんと磯野真穂さんの往復書簡『急に具合が悪くなる』と、その映画化について、レイさんをゲストに迎え、対話形式で語り合いました。本と映画は異なる表現でありながら、病や生、死と向き合う本質は共通していると分析。言語化の限界や、言葉にならないコミュニケーションの重要性、そして「今を味わう」ことの大切さについて、深い洞察を共有しました。また、チャットと書簡の対比や、関係性から生まれる「話す」ことの豊かさについても考察を深めました。

「話すこと」をテーマに、ゲスト・レイさんとの対談開始
今回は、ポッドキャスト読書会7月のテーマ、「話すことについて考える」を話していきたいと思います。
今回も前回のポッドキャスト読書会に引き続き、レイさんに来ていただきました。こんばんは。
レイさん。こんばんは。
前回の音源をいろんな方に共有いただいたりとかして、反応を楽しんだり、我々このポッドキャスト読書会の楽しみ方がちょっと6月でどうして分かってきたかなって思ってまして。
で、ぜひぜひ来月もということで、レイさんに心よく今月も出ていただくことになりました。ありがとうございます。
『急に具合が悪くなる』との出会い:映画から原作へ
そして、私が本になかなか疎いんですけど、何を話せばいいですかねって、話すことについてって何ですかねってちょっとご相談をさせていただいたときに、急に具合が悪くなるという本をご紹介いただきました。
これは最初に本を読まれたのが、かんの国際映画祭で最優秀女優賞になったっていうことで話題なんですけど、
本から入られました?それとも映画からでした?出会いは。
私は映画がカンヌで話題になって初めて知った。
本も知らなくて、映画も全然ニュースで初めて知ったぐらいで、2019年ぐらいですよね、出てるの。全然知らなくて。
たまたま、こんな映画があるんだって。題名が結構意味わかんないじゃないですか、どんな話かとか。
そうですね。
だからどんな話かなって、それで女優さんがすごい賞を取るなんてどういうことかなとか思っていたときに、たまたま急に具合が悪くなる原作とかいうのを本屋さんで見つけて、原作があるのかと思って。
しかも対話集?往復書館集なんだっていうのもそのとき知って、買ったっていうのがきっかけです。
話すことと通ずるところっていうのは往復書館っていうところをピックアップしていただいて。
本を買わせていただいて、読ませていただいて、収録前にレイさんとちょっとお会いする機会があって、私は映画を見たから映画の話の方ができるかもしれないっていうことだったので、私も先週末映画を立川まで見に行ってきました。
共用しました。
いやいや、とんでもないです。
私はびっくりしたのは、この本を映画にしようと思った人がいるっていうことに驚いた。
そうですね。
これが映画になるってどういうこと?っていう感じで、一人一人が思ってることを分通してるっていうことを映画にするのかな?みたいに思ってたから、全然違うじゃないですか。
これをもとにした全然違う人たちのお話っていうか、これにインスピレーション、この本にインスピレーションを受けて、いろんな場所とか何人かとかも置き換えてやってるけど、
本質的には同じことになってるっていう、本は本で魅力的だし、映画は映画ですごいと思って、両方とも違うんだけど、私は同じくらい深いところで心が動いたというか、
だいたい原作があるドラマとかって、あそこが違ったから嫌だみたいなことが多い。原作がすごい好きすぎると映像が物足りないとか、改編が嫌だとかあることもあるんですけど、
ここまで新しいものとして表現されると、それだけで感動的でしたね。
こういう大事なことが書いてある本だから、違う表現でいろんな人に見せたいみたいな感覚なのかなと思って、すごい素敵だと思ったし、映画見た人が本を読んでも全然違う刺激を受けるだろうし、逆もそうだし。
書籍『急に具合が悪くなる』の内容と哲学的・人類学的アプローチ
そうですね。本の説明を入れておくと、この哲学者の宇野真希子さんが、具合が悪くなっていく方の方で、その具合が悪くなっていく2ヶ月間ほどの往復書館を人類学者の磯野真帆さんとやられているっていう内容になってるんですけど、
このお二人のメッセージというか、最初はお二人三者のお話が結構出てきたかなと思っていて、知人なのかな、おばあちゃんが診断されてしまった脳梗塞になりやすい疾患になったよみたいなことをお医者さんに言われて、
いろんなことを改善したんだけど、実際あまり良くはなりませんでしたみたいなくだりから、お医者さんに言われるのと身内に言われるのと、あとは医療行為でないこういうものをとっておいた方がいいみたいな情報と、いろんな情報に疲弊していく様とか描かれていて、
ただそれがどんどん書館を往復するごとに、実際に体調がかんばしくなくなっていくと、本当に自分ごとというか、前半で語られていた体調が悪い人と体調が悪くない人のどんどんお互いが当事者になっていく。
でもその中で多分一般の方と違うのは哲学者それから人類学者であるがゆえに、そこに結構本の中ではストイックに向き合われているというか、どこかで本当に具合が悪くなっていくので、どこかでちょっと音を上げてもいいんだよというか、辛いって言っていいんだよみたいなことも、
なめんじゃないよみたいな言葉がちょっと使われたり、死に向かっていくって言ったら直接的なんですけど、その様子がきちんとそこに普通の人だったら向き合わないぐらい、すごい体力を使って向き合われているのかなとか、その覚悟みたいなのがきれいだったなと、文章を読んだときはそういう印象でした。
それはきれいなんだ。
きれいっていうか、私はそういう人好きっていう感じです。根性入ってんなみたいな。そういう宮野さんの姿勢が好きだったなっていう。
学者さんだから、自分のこともすごい見てるなっていう感じがしますよね。自分の中から中を見るんじゃなくて、外から見るというか、自分が置かれてる状況とか、自分が考えてることとかを、なんでこうなるのかなみたいなことを丁寧に噛み砕いてるなっていう感じがして。
それは病気がわかったからなのか、学者だからなのかはわかんないんですけど、普段自分たちは生きてると、死ぬのは絶対100%死ぬんですけど、それを意識しないから、わりと適当に噛み砕かずに、こんな考えが浮かんだっていうことをそのまま浮かんだで終わるけど、
なぜ浮かんだのか、その考えがみたいなのを、この人たちはいちいち自分に聞いて、人に手紙を出して、返事をもらって、でまた考えるみたいなことをやってて、なんか生きてるなっていう感じがします。
コミュニケーションすべてが、生に対するガッツを感じるというか、
生き切るみたいな、隅々まで生きてるみたいな感じを、けどそれはなんか、後悔したくないとか、そういうのでは全然ないわけですよ。後悔するし、死ぬとき後悔したくないから、みたいな発想が嫌だみたいなところもあって、それはすごく、それはなんか傲慢だみたいな話をしてて、
今のことを今、しっかり味わうというか、見るというか、そういうことが大事なんであって、後悔したくないから、なんとかとかっていうことじゃないっていうのを、なんか読んでて感じました。
往復書簡とチャットの対比、手紙の持つ時間差の魅力
そうですね、一瞬一瞬を生きているというか、なんか具合が悪い人、悪くない人、でも等しく死は来るわけで、なんかお二人でイベントをやられるくだりとかのところも、
じゃあ宮野さんが具合が悪くなる、急に具合が悪くなるかもしれないからイベント辞めるのか、いや、辞めないというか、いや私の方、逆に磯野さんの方が具合が悪くなるかもしれないから、やろうっていうこととか、
それがその今今一瞬一瞬が、死を意識しているからこそなのかわからないんですけど、ちゃんとイベントをやるとか、誰かに会うとか、後はこの二人だと授業をするとか、何かを書くとか、そういうことの積み重ねで、結構最後まで淡々と生きてられているというか、
で、なんかこの最後の方で、結構その、この書館のコミュニケーションは、まあ学者な部分だったり、お互いこう文章を書き手としてのこう感じで、なんかこうシリアスな文になっている部分もあるけど、
でもサイドストーリーというか、あとがきみたいなところでは、それとは別にチャットでいろんなこう日常のわちゃわちゃだったりとか、関係を深められているからこその、この書き言葉にすると、強さみたいなのが深まっていく。
なので、生活の中で、ただLINEみたいな、チャットみたいなものの中では、決して現れないけど、お互いが強さを共有しているみたいな、そうですね。
なんか部活っぽい、このなんか最初の方でもお二人が、宮野さんがエースで、磯野さんがキャッチャーだっておっしゃってましたけど、なんかそういう部活っぽい友情を感じた。
なんかその、今の話だとチャットと手紙みたいな、なんていうか、同じ文字を書くものだけど、その文章の量感とかが違うのかも。
往復書館と会話の違いっていうか、お手紙ってやっぱり、考えを、おしゃべりみたいに考えながらまとめながら書くけれども、わりと長く書くじゃないですか、一人で。
で、その時、相手の言葉入ってこないじゃない。だからなんか、深いとこまでいくのかなって、今思った。
その、チャットでは軽い会話をして、なんかわちゃわちゃしてるけど、書館の方では、学者らしい感じになってくみたいなのは、誰にでもあるのかなって思ったし、
私、けっこう往復書館集みたいなのが好きで、ずっと前に読んだやつの中に、手紙は、手紙そのものが旅をするから、良いって書いてて、かっこいいと思ったの。
なんか、エアメール、その人フランスに住んでて、日本に住んでるお友達とやりとりをする、その手紙の文通をしている、それを後でまとめたものなんだけれど、
電話もできるけれども、私は手紙が好き。なぜなら、書いた後に、ポストに入れた後に、それが旅をして、日本に届くから、その時間が空くじゃない。
自分が考えたことをすぐに伝えたわけじゃなく、1週間、10日ぐらい経ってから、相手が読んで、何か感じて、また書いて帰ってくるっていう、その時間差が良いっていうことを言ってて、すごいかっこいいと思って。
それから、すごい手紙書くのが素敵って思って。
あと、自分の書いたものは、自分にはもう帰ってこないじゃない。それもいいなと思って、下書きとかしないタイプなので、送っちゃったらもうそれっきりっていうのが、誰かのところに自分が書いたものがあるって思うと、嫌だけど、なんかちょっと嬉しいっていうか。
「話す」ことと「書く」ことにおける自己認識の変化
重みがあるんですかね。なんかそういう、時間が経過しているとか、自分が書いたものがもう見返せないからとか、あとは、誤字、脱字とかも気をつけるじゃないですか。
なんかそういう作業の中で、考えが研ぎ澄まされていったり、画面をスワイプしていたり、クリック入力したりっていうことの経営作業では、至らない思考にどんどんなっていくんですかね。
多分、何かが違うんだろうと思います。書いてるときも。何かがわからないですけど、普通にお話ししてるだけでも、自分がこう、相手が言ったことに対して思いもよらない返しをしたりとか、え、そんなこと言うんだとか思ったり、自分が。
結構考えるスピードとしゃべるスピードってずれるっていうか、考えてないけど、口からもう出てるみたいなことがあると。なんかすごい今、変な言葉遣いしたとか、話でもそうなんだけど、みんなあるのかな。私は書いてても、自分が思いもよらないことを書くことがある。
あると思います。
ね、それがおもしろくて。
私は、それは話しているときのほうがそう思っていて、あんまり食に関心がないほうなんです。
食?食べる?
食べることに。で、ある人に好きな食べ物何?って聞かれて、久しく考えてなかったんです。
で、何にも頭を通さずに感覚としては、通さずに出てきたのがいちごって出てきて、あ、そっかいちご好きだったわみたいなことを、はせられた音を聞いて思い出すみたいな経験とか、
あとはこう、無意識のうちにわーって喋ってることを自分が聞いて、あれ、こないだもこのこと喋ってたな、とかで、こう、自分の、なんだろう、認識が深まるとか、っていうのはすごいありますね。
なんで、それがこう、お手紙だとより、なんか思考が、哲学的な思考が深まる。
相手が言ったことを読んで、あ、そういうことかって思うみたいなシーンがいっぱい出てくるけど。
映画『急に具合が悪くなる』のチャーミングさと日常性
映画はどうでした?
なんか、私印象が違ったんですよ、本と。
れいさんもさっき、まったく別物だけど、大切にされているメッセージは一緒。
なんか、本はすごい、生きることに対する強さとか、部活動的な、こう、生きてやるよ、みたいな、こう、エースとピッチャーのこの友情。
なんで、一瞬、こう、女性同士であることを忘れるかのような、力強さというか、たくましさみたいなものを感じたんですけど、
まあ、映像で見てるからっていうのもあるかもしれないんですけど、映画はすっごいチャーミングだなと思いました。
なんか、忘れられないセリフがあって、この本のほうには出てこないんですけど、
ミアノさん、体調が悪くなっていく、
マリーさん。
そうですね、マリーさん。日本人のマリーさんの方が、フランス人のマリーさんに言ったセリフで、
今夜は帰りたくない。生まれて初めて言ったって。
女性同士に、たぶんお二人が、
出会ったらしい。
二度目ましてだったかな。
二度目ましてかな。
マリーさんの舞台に行かれたくだりのところで、今夜は帰りたくないって、初めて言ったって、女性同士なんだけど、すごくシンパシーがあって、
この人に会うべくして会ったんだっていう、なんだろう、ガッツではない引き合いみたいなものに、女性同士なのにめっちゃキュンとするって思ってしまって、
ただ、その日本人のマリーさんは、この本と同じようにどんどん体調が悪くなっていって、
その体調の悪くなっていくのに向き合うマリーさん、フランス人の方がいらっしゃるっていうのは本当変わらないんですけど、
でもなんだろう、そこに、
やっぱり役者さんが演じてるから、身体的なものを感じるのか、ずっとかわいらしい感じの関係のまま議論したり、話してる内容は結構センシティブだったり突っ込んでいたりするんですけど、
かわいい感じで、終わりまでずっとかわいい感じだなって思いました。
素敵な描かれ方をしていたと思うし、
マリー・ルーさんか、フランスの人もすごい葛藤の中にいて、仕事、すごく自分の仕事に誇りを持ちながら、
でも、新しいやり方をしたいと思ってやるときに、周囲からのバッシングみたいなのがあって、
どうしたらわかり合えるのか、みたいなときに、友達ができて、みたいな、
なんかすごい日常を感じました。
そうですね、本よりより日常の要素が。
リアル、中年女性のというか、あるキャリアのある女性の葛藤みたいなのが、
主人公自身の葛藤じゃなくても、老化、人間の老化とかとどう向き合うかとか、ケアというのはどうあるべきかとか、
今の時代にすごい大きな世界的な課題になっていることを、日常として描いているから、すごく見ていて、
めんどくさいことだらけだけど、なんか気持ちよく見られたっていうか、リアルに見られて、
その中で彼女が、いろんな人との話の中で道を見つけていく、マリー・ルーさんが見つけていく感じとかが、すごくリアルだなと思ったし、
本と映画の対比:強さ、可愛らしさ、そして内と外
たまたま私が、家族が急に具合が悪くなって、入院して亡くなったんだけど、
そういう時に、ちょうど本を読んで映画を見たりしたから、
でも、そういう葛藤とか難しい問題とかも、当たり前に誰にでもありますっていうことが、
リアリティありつつ、すごいファンタジーとして見やすく、素敵にっていうと変だけど、描かれていたから、
すごいなんか、見た後すごい気持ちがよかったんだよね。
わかります。
なんか本は、やっぱりこのお二人の病気とか健康とか、生きることに関する、
そうな人、そうじゃない人っていう、内と外のお話だったので、
より性に対するガッツを強烈に感じた。
でも、今聞いてて思ったのは、映画の中では、病気以外のあらゆる内と外が、
当事者とそうじゃない人、こういう考えを持ってる人、考えじゃない人、老いていく人とその家族とか、
その内と外が、いろんな内と外がこんなにいっぱいあるっていう、
なんかものを丁寧に丁寧に、個ずつリアルなんだけど、
でも全部がぐわって合わさって、内と外をひっくり返そうよ、みたいなメッセージになった時に、
それがなんか、すごくもうそこにたどり着いた時に、言葉ではなくて、
なんか、おじいちゃんおばあちゃんがみんなでこう、足を揉み合っているみたいな図があって、
だから、身体的なものにより落とし込まれた、ああいう最後だったからこそ、
私はかわいいって思ったのかもしれないです。
でもなんか、内も外も当事者も当事者じゃないもん、ないですよ、みたいな感じでした、私は。
ああ、そっかそっか。ごちゃごちゃにしようっていうよりは、
そもそもみんなそんな垣根なんかないぞっていう。
その瞬間しかないから、生きてる時の、だから、それをどうするのか、どう捉えるのか、どう捉えないのか、みたいな、そんな感じがしたかな。
多言語コミュニケーションの魅力と「言語化」への疑問
あと話すことで言うと、映画の中では、マリさんとマリールーさんが、なんだろう、お互いの言語を喋って、
お互い一つの手段っていう、あれが映像作品としてあるのは結構、なんだろう、稀有なことなのかなって。
面白かったですね。
お互いが、マリさんもマリールーさんも、日本語とフランス語が堪能だからできるコミュニケーションなんですけど、
最初お二人が会う時は、初対面なので、フランス語を喋っていて、
ただ、関係性が深まるにつれて、お互いがお互いの言葉を喋れるんだったら、そのまんまナチュラルに。
お互いが一番感情を出しやすい言葉で喋っている。
あとは、映画の表現であったのが、フランス語の字幕でフランス語を前の方で喋っている。
ただ、奥側で日本語の短い文が聞こえてくる、みたいな、この見せ方を含めて素敵っていうか、かっこいい。
お芝居のシーンで、フランスでのお芝居のシーンで、質問コーナーみたいなシーンが映画の方であったけど、あれはすごい良かったなと思う。
日本語同士で話しちゃうんだよね。フランス人ばっかり観客なのに、マリールーさんが日本語で質問して、あなたはどうのコーナーとか。
マリールーさんが日本語で答えて、観客の誰かがフランス語で言ってくれって言うんだけど、俳優さんの役の永塚さんが、
役さなくていいでしょう。大切なことを話しているのは、みなさんわかったでしょって言ったところが、わかるなって。
言葉の意味はわからなくても、何を話しているかの重要度合いとか、その話している当事者同士がどのくらいわかりあったのか、触れあったのか、言葉で。
それはわかったでしょって。意味をとらえて、それを説明する必要があるのかっていうシーンだったと思うんだけど。
たぶん彼女たちは、フランス語しゃべっているほう、日本語しゃべっているほうで、お互い理解しながら話したけど、言葉の意味的に理解できるのは、別に半分ぐらいでもいいんじゃないのっていう感じでしゃべっているのかなって。
もっと違うところでわかるよねみたいな。誤解かもしれないけど、わかるよねって思ってる感じがしたのを見てて。
何でも言語化言語化言うじゃないですか、今。
すごい好きじゃないんですよ。言語化っていうふうにして言えば、整理できたからみんなわかりますよねみたいな傲慢さみたいなのが、あんまり好きじゃなくて。
言わなかったことの意味があるじゃないですか。
そうですね。
なのに言語化みたいな。それと対極の感じがある。
だから本はすごい言語化しているのに、映画は同じ内容なのに言語化していないというか、空気みたいなもので表現されてて。
同じ題名のお話なのに、原作があってあれなのに、やっぱりなんか全然材料が違うっていう感じ。
そうですね。
それがすごい面白かった。
そういう違いもあるのか。
だから言語で書かれているからこそ、硬さとかストロングさを感じる。
意味みたいな感じなのかも。
でも、踊ってる様とか舞台の方とか、景色の描写、日本の景色、京都の里山の景色、フランスのみんな踊ってお酒飲んでる川沿いの景色とかっていうものの中にも、
でも本であったようなエッセンスを表現しているからこその可愛らしさ、丸みとか、ニュアさみたいなものがあるのかもしれないですね。
言語化の限界もあるんですかね。
黙っている人の存在感とリモート時代の情報量
限界?
言語化しちゃうとなくなるものが、限界というか、言葉にならないとかいう歌よくあるじゃないですか。
それですよ。
お話ししてても、会議であっても、黙ってる人の方が気になる時あるじゃないですか。
あの人黙ってるけど、何を考えているのかなとか、何か言うのかなとか、どうしても聞きたいその人が考えていることみたいになる時があって、
それって全然言葉じゃないコミュニケーション、有弁だと思う。
確かに。
怖いし、しゃべってる方が怖くないっていうか、
確かに。
しゃべり続けてる人って結構怖がってるね、なんて思う時もある。
ただしゃべりたくてしゃべってる人もいるけど、
そうですね、私最近感じてたのは、言葉にしなくても有弁だってあるじゃないですか、対面のコミュニケーションというか、会えるんだったらもっと会おうという気になってきたのは、
どうしてもリモートワークが増えたりとか、会議もオンライン会議で相手の顔が見えないっていうシーンが多かったので、
受け取れる情報が多分少なくなっていったり、
この人が何を考えてこの言葉を言ったのかっていうことを、もう一回考えなきゃいけない時間とかが発生してるなって。
直接会って話せば、こういう感情だったんだとか、思い切って電話かけてみれば、この人別に怒ってたわけじゃないんだとか、
とか、こういう理解をしてるのかな、ニュアンスみたいなものをもっと捉えて仕事をしないと、頭疲れちゃうなというか、
なんかそれを感じたんですよね。
だから、より映画の方の急に具合が悪くなる、ではその非言語的な語りなのかな、の力を浴びたのかもしれないですね。
その感想が可愛いなのかもしれない。
うん、そうね。
「話す」ことの強制と、聞くことの重要性
だから、どうやって会えないときでも回避とか、リモートワークとかリモート回避のときに、
どうやって自分の情報量を増やすかっていうのを考えてる。
ああ、そうなんですね。
まあ、とりあえず映すし、顔。
で、なんかうなずくとか、なんかこう、へーっていう顔するとか、わかんない、見てるかどうかわかんないけど、
対話してますよっていう感じが上手な人はいいなって思って、やっぱり情報量がないと間違っちゃう感じするから、
本当に思ってることがわかんないから、よっぽど上手に言葉にするとかであれば別かもしれないけど、
実際どう思ってるのかは、ちょっとなんか突っ込んでみたりとか表情を見たりとかしないとわかんないかなっていうときもある。
でもそしたら何、視覚障害の人はわかんないのかってことになるじゃない。
それも違うと思うんだよね。
だからやっぱり声のトーンとか、ちょっとした声のふるえとか、つまりとか、そういうのを聞き分けられるようになりたいし、
会ったとしても人間ね、嘘をつけるから、嘘ついてるなとか、隠してるなとか、やっぱり身体の反応とかを見たり、
そういう開かれた目と耳と鼻とを持ちたい、感覚を鍛えたいなって今思った。
話すっている、だからいろんなものが内包されてますね、そう考えると。
なんか口から音を出すことじゃないなって感じ。なんか今話してて、口から音を出すことですっていう説明じゃ全然ない話すということは。
話している時に撮っているポーズだったり、表情だったり。
さっき会議の黙っている方がいるっていうことで思ったのが、私学生の時から結構話すことをストイックにやる環境にいたなと思っていて、
中学受験をしたんですけど、その時、その前からか、会議にいたら発言をしないとその場にいる意味はないみたいに言ったりとかするじゃないですか。
会議に出てるんだから、出席してるんだから、何か発言とか意見とかアウトプットしようよみたいな。
そうじゃないと参加してないのと同じだよ、みたいな。
いう、なんか脅迫観念みたいなのがずっとあったのかなっていうことを最近思うようになって。
なので、それでなくても発表するっていうこととか授業で何か目立つってことは別に嫌いじゃなかったんでずっとやってたんですけど、
試験になった時にグループディスカッションをしてください。
で、グループディスカッションの傾向としては、司会進行役をやっている方は受かりやすいです。
なぜならリーダーシップを発揮していて、パキパキ喋れることができる。
あとはタイムスケジュールを管理している人も、議論のタイムスケジュールを管理しているのも存在意義があるからすごくいいポジションです。
で、それにもなれなかったら何かアウトプットをしましょうっていう、なんかそういう話すっていうことはある種、強制的な側面があるのかなって思っていて、
特にプライベートで集まっててもそこが抜けてなかったんですよね、今まで。
思いもよらない返しが対話を深める面白さ
へー、でもそんな人ばっかりいる学校ってすごいつまんなさそうだけど。
嫌じゃない?みんながリーダーシップ取って、みんながタイムキーパーできて、みんながいいアウトプットするとかって、なんか気味が悪いよね。
確かに。
嫌だな、それ聞く人いないじゃん。
そうなんですよ。だから試験の会場はそうなるけど、
そういう素養があればみんな聞き役もできるってことなのかな。
みんなそのおのおの試験終わったら試験のことは忘れて、レポートが上手な子、プレゼンが上手な子、日々の創作が上手な子っていろんなタイプはそれでもいたんですけど、
ベースそういう入り口を求められる話すことが強制されるっていうのは結構染み付いたものだったんだな自分にって思ったことがあって、
その上で思ったのは、私は結構意識的にか無意識的にかわかんないんですけど、自分でも。
人の話を聞いてるときにへーって顔をしてみたり、すごいつぼっちゃったときは机バンバン叩いてたりとか、
なんか別に意義のあることを発していなくても、私と一緒にテーブルを囲んでくれている人は参加者とみなしてくれてるんだっていうことに改めて気づいたときがあって、
去年ぐらいだったと思うんですけど、それでいいんだってようやっと思えたんですよね。結構時間がかかりました。
そうですね、結構時間かかりましたね。
それも話すっていうことに含まれてるのかな。
そうじゃないですか、なんか話すことができる人は聞くことができる人みたいなこと言いません?なんか違うのかな。逆か?わかんないけど、聞けない人は対話ができない。
不安になります。対話ができてるって。できてるって書かれると難しくないですか。
でも対話は聞くことからしか始まらない気がするけど、わからないけど。
聞くっていうのも、ただ目の前でふんふんって聞いてるのと、意味まで理解したアウトプットが出てきてるな、この人っていうのと、なんか2種類あるのかなって思ってて。
今私が言った聞くはやっぱり、対話における聞くだから、世間話とかじゃなくて、言ってることを聞いて、それってどういうこと?とか聞くとか、私はこういうふうに思ったけどとか言うとか、なんかエピソード言うとか、それで違う話にどんどん展開するとか、そういう聞くかな。
なんかそれが真を捉えられているのかとか、ちゃんと相手の想定に対してずれてないかなとか。
でも私はずれててほしいから、ずれてたほうが、最初に言ってた通りで、話していると自分が思いもよらないことを言うのが楽しいから、想定内のことを話してると、それはーってなっていくから、さっき言ったよね、みたいになっていくから、
違うことを問われたりとか、聞いてくれた人が自分の意見を混ぜて戻してくれたりすると、え?ってなって、話しているときに自分の考えが広がったり、深くなったり、高くなったりするから、自分と違うことを言ってほしい。
自分の想定を超えてほしいっていうか、超えなくていい、違ってほしい。自分が思うことになるのは、これ仕事の話になっちゃうけど、自分がこうだなって想定内のことって、すごい大したことじゃないから、わかるからってなっちゃうから、そこをいろんな人の意見を、え?そうなの?とか思いながら、
新しくするのが嬉しいから、たぶんこの急に具合が悪くなるもそうだと思うんだけど、何かを言ったことに対して、こういうふうに捉えてるんですね、私は全然違うことを思ってた、みたいに言うから、え?そうなの?みたいな。
人それぞれだねっていうことがわかるとか、そういうことが対話とか往復書館とかの楽しさで、一番嫌なのは本当に話が合いそうな人の対談とか読むの、本当につまんない。
いやー、でもなんか、
予定調和、はいはいはいはい、いい話でしたね、みたいな。
もうなんか、そこのお味噌一緒じゃん、みたいな。
そうそう、美容対談みたいなやつとか、やっぱりきれいは力をくれます、はい、みたいな、そういう、なんか、うーんっていう。
そことそこが対話する必要じゃないじゃん、みたいなことですもんね。
うん。
あー、そうか。
やっぱり思いもよらないところに到達したい、っていつも思ってるわけじゃないけど、そうじゃないとあんまりこう、本もそう、本を読んで、なんか本を読んで、こう、あ、なに、こんなお話を書く人がいるんだ、みたいな、うわーとか思うのが楽しいから。
確かにな。
なんか、たまにエッセイとか読むのがすごい嫌な時があって、なんか素敵な話が書いてある。
だけじゃん、みたいな。
だけじゃん、なる時が、時々ですよ。
エッセイも大好きだけど、もう刺激が欲しい時は、もう絶対的にこう、ぶん殴られるような本を選びたいし、だからいろんなタイプの本を常備してて、選ぶ。
だからストーリーを読みたいわけじゃないの、その刺激の度合いで本を選んでて、びっくりした、みたいな。
苦難の話ですよね。
いやいやいや、まあ、掃除で話すことについては話してると思います。
「元気でね」という言葉に込められた関係性の力
いやだから、映画も本も見てほしい。
そうですね。
読んでほしい。
本を読んだ人は、映画を見たら面白い。
面白い。
映画を見た人は本を読んだら面白いという珍しいものだと思います。
そうですね。そしてそれが異なるものであるというのが、また面白いポイントですかね。
お友達と話したりするのが、すごく楽しい題材だと思うし、
家族をケアしてる人、自分が病気の人、死ぬのが怖い人、仕事に悩んでる人、舞台が好きな人とか、あらゆる人に神話性があると思った。
あんまり刺さんない人いないんじゃないかな。
だからすごいリアルだからだと思う。
日常が、みんなにあることが抽出されてるっていうか、きれいに。
人によってはかわいく見える。
人によってはすごくシスターフッド的な、女の人同士の助け合いに見えるだろうし、
人によっては、ワーキングウーマンの辛さの話かもしれないし。
1個だけ、私も映画で、いいなぁ、このセリフっていうか、こういうしかないなっていうセリフがあって。
主人公が死にそうなときに、誰かがお見舞いに来て、じゃあ帰る。
立ち去ろうとするときに、何て言ったらいいかわかんない。
もう多分会えないなっていうシーン。
次会うときは死んでるなみたいな瞬間のときに、
またねーなのか、なんて言って去ろうかなって躊躇してるときに、
元気でねーでもまたねーでもいいんだよって、死にそうな女の人が言うとこがあって。
そうだよなと。
この人死にそうだからまたねーがないなとか、元気でねーも元気じゃないんだからないなとかって、なんか考えちゃうけど。
別にそれはもうすぐ死にそうな人でも元気でいてほしいわけだから、元気でねーでいいんだっていうふうに思いました。
だからあのセリフも素敵だなと思った。
言葉選びの正解とか考えて傷つけちゃいけないとか、ここでは不謹慎だとかなることもあるんですけど、
関係性の中でピタッとする言葉を選べればいいんだなみたいな感じをあのシーンでは感じました。
言葉より関係性が話すっていうことを作ってるかもしれないですね。
まとめとリスナーへのメッセージ
まとめた。
お時間がほらそろそろ。
無理やりまとめた。
そうかもしれないです。
そうですね。すみません。お時間ありがとうございました。
来月の方もまたご相談させていただきます。
ありがとうございました。
45:10

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