映画はどうでした?
なんか、私印象が違ったんですよ、本と。
れいさんもさっき、まったく別物だけど、大切にされているメッセージは一緒。
なんか、本はすごい、生きることに対する強さとか、部活動的な、こう、生きてやるよ、みたいな、こう、エースとピッチャーのこの友情。
なんで、一瞬、こう、女性同士であることを忘れるかのような、力強さというか、たくましさみたいなものを感じたんですけど、
まあ、映像で見てるからっていうのもあるかもしれないんですけど、映画はすっごいチャーミングだなと思いました。
なんか、忘れられないセリフがあって、この本のほうには出てこないんですけど、
ミアノさん、体調が悪くなっていく、
マリーさん。
そうですね、マリーさん。日本人のマリーさんの方が、フランス人のマリーさんに言ったセリフで、
今夜は帰りたくない。生まれて初めて言ったって。
女性同士に、たぶんお二人が、
出会ったらしい。
二度目ましてだったかな。
二度目ましてかな。
マリーさんの舞台に行かれたくだりのところで、今夜は帰りたくないって、初めて言ったって、女性同士なんだけど、すごくシンパシーがあって、
この人に会うべくして会ったんだっていう、なんだろう、ガッツではない引き合いみたいなものに、女性同士なのにめっちゃキュンとするって思ってしまって、
ただ、その日本人のマリーさんは、この本と同じようにどんどん体調が悪くなっていって、
その体調の悪くなっていくのに向き合うマリーさん、フランス人の方がいらっしゃるっていうのは本当変わらないんですけど、
でもなんだろう、そこに、
やっぱり役者さんが演じてるから、身体的なものを感じるのか、ずっとかわいらしい感じの関係のまま議論したり、話してる内容は結構センシティブだったり突っ込んでいたりするんですけど、
かわいい感じで、終わりまでずっとかわいい感じだなって思いました。
素敵な描かれ方をしていたと思うし、
マリー・ルーさんか、フランスの人もすごい葛藤の中にいて、仕事、すごく自分の仕事に誇りを持ちながら、
でも、新しいやり方をしたいと思ってやるときに、周囲からのバッシングみたいなのがあって、
どうしたらわかり合えるのか、みたいなときに、友達ができて、みたいな、
なんかすごい日常を感じました。
そうですね、本よりより日常の要素が。
リアル、中年女性のというか、あるキャリアのある女性の葛藤みたいなのが、
主人公自身の葛藤じゃなくても、老化、人間の老化とかとどう向き合うかとか、ケアというのはどうあるべきかとか、
今の時代にすごい大きな世界的な課題になっていることを、日常として描いているから、すごく見ていて、
めんどくさいことだらけだけど、なんか気持ちよく見られたっていうか、リアルに見られて、
その中で彼女が、いろんな人との話の中で道を見つけていく、マリー・ルーさんが見つけていく感じとかが、すごくリアルだなと思ったし、
あと話すことで言うと、映画の中では、マリさんとマリールーさんが、なんだろう、お互いの言語を喋って、
お互い一つの手段っていう、あれが映像作品としてあるのは結構、なんだろう、稀有なことなのかなって。
面白かったですね。
お互いが、マリさんもマリールーさんも、日本語とフランス語が堪能だからできるコミュニケーションなんですけど、
最初お二人が会う時は、初対面なので、フランス語を喋っていて、
ただ、関係性が深まるにつれて、お互いがお互いの言葉を喋れるんだったら、そのまんまナチュラルに。
お互いが一番感情を出しやすい言葉で喋っている。
あとは、映画の表現であったのが、フランス語の字幕でフランス語を前の方で喋っている。
ただ、奥側で日本語の短い文が聞こえてくる、みたいな、この見せ方を含めて素敵っていうか、かっこいい。
お芝居のシーンで、フランスでのお芝居のシーンで、質問コーナーみたいなシーンが映画の方であったけど、あれはすごい良かったなと思う。
日本語同士で話しちゃうんだよね。フランス人ばっかり観客なのに、マリールーさんが日本語で質問して、あなたはどうのコーナーとか。
マリールーさんが日本語で答えて、観客の誰かがフランス語で言ってくれって言うんだけど、俳優さんの役の永塚さんが、
役さなくていいでしょう。大切なことを話しているのは、みなさんわかったでしょって言ったところが、わかるなって。
言葉の意味はわからなくても、何を話しているかの重要度合いとか、その話している当事者同士がどのくらいわかりあったのか、触れあったのか、言葉で。
それはわかったでしょって。意味をとらえて、それを説明する必要があるのかっていうシーンだったと思うんだけど。
たぶん彼女たちは、フランス語しゃべっているほう、日本語しゃべっているほうで、お互い理解しながら話したけど、言葉の意味的に理解できるのは、別に半分ぐらいでもいいんじゃないのっていう感じでしゃべっているのかなって。
もっと違うところでわかるよねみたいな。誤解かもしれないけど、わかるよねって思ってる感じがしたのを見てて。
何でも言語化言語化言うじゃないですか、今。
すごい好きじゃないんですよ。言語化っていうふうにして言えば、整理できたからみんなわかりますよねみたいな傲慢さみたいなのが、あんまり好きじゃなくて。
言わなかったことの意味があるじゃないですか。
そうですね。
なのに言語化みたいな。それと対極の感じがある。
だから本はすごい言語化しているのに、映画は同じ内容なのに言語化していないというか、空気みたいなもので表現されてて。
同じ題名のお話なのに、原作があってあれなのに、やっぱりなんか全然材料が違うっていう感じ。
そうですね。
それがすごい面白かった。
そういう違いもあるのか。
だから言語で書かれているからこそ、硬さとかストロングさを感じる。
意味みたいな感じなのかも。
でも、踊ってる様とか舞台の方とか、景色の描写、日本の景色、京都の里山の景色、フランスのみんな踊ってお酒飲んでる川沿いの景色とかっていうものの中にも、
でも本であったようなエッセンスを表現しているからこその可愛らしさ、丸みとか、ニュアさみたいなものがあるのかもしれないですね。
言語化の限界もあるんですかね。
だから、どうやって会えないときでも回避とか、リモートワークとかリモート回避のときに、
どうやって自分の情報量を増やすかっていうのを考えてる。
ああ、そうなんですね。
まあ、とりあえず映すし、顔。
で、なんかうなずくとか、なんかこう、へーっていう顔するとか、わかんない、見てるかどうかわかんないけど、
対話してますよっていう感じが上手な人はいいなって思って、やっぱり情報量がないと間違っちゃう感じするから、
本当に思ってることがわかんないから、よっぽど上手に言葉にするとかであれば別かもしれないけど、
実際どう思ってるのかは、ちょっとなんか突っ込んでみたりとか表情を見たりとかしないとわかんないかなっていうときもある。
でもそしたら何、視覚障害の人はわかんないのかってことになるじゃない。
それも違うと思うんだよね。
だからやっぱり声のトーンとか、ちょっとした声のふるえとか、つまりとか、そういうのを聞き分けられるようになりたいし、
会ったとしても人間ね、嘘をつけるから、嘘ついてるなとか、隠してるなとか、やっぱり身体の反応とかを見たり、
そういう開かれた目と耳と鼻とを持ちたい、感覚を鍛えたいなって今思った。
話すっている、だからいろんなものが内包されてますね、そう考えると。
なんか口から音を出すことじゃないなって感じ。なんか今話してて、口から音を出すことですっていう説明じゃ全然ない話すということは。
話している時に撮っているポーズだったり、表情だったり。
さっき会議の黙っている方がいるっていうことで思ったのが、私学生の時から結構話すことをストイックにやる環境にいたなと思っていて、
中学受験をしたんですけど、その時、その前からか、会議にいたら発言をしないとその場にいる意味はないみたいに言ったりとかするじゃないですか。
会議に出てるんだから、出席してるんだから、何か発言とか意見とかアウトプットしようよみたいな。
そうじゃないと参加してないのと同じだよ、みたいな。
いう、なんか脅迫観念みたいなのがずっとあったのかなっていうことを最近思うようになって。
なので、それでなくても発表するっていうこととか授業で何か目立つってことは別に嫌いじゃなかったんでずっとやってたんですけど、
試験になった時にグループディスカッションをしてください。
で、グループディスカッションの傾向としては、司会進行役をやっている方は受かりやすいです。
なぜならリーダーシップを発揮していて、パキパキ喋れることができる。
あとはタイムスケジュールを管理している人も、議論のタイムスケジュールを管理しているのも存在意義があるからすごくいいポジションです。
で、それにもなれなかったら何かアウトプットをしましょうっていう、なんかそういう話すっていうことはある種、強制的な側面があるのかなって思っていて、
特にプライベートで集まっててもそこが抜けてなかったんですよね、今まで。
へー、でもそんな人ばっかりいる学校ってすごいつまんなさそうだけど。
嫌じゃない?みんながリーダーシップ取って、みんながタイムキーパーできて、みんながいいアウトプットするとかって、なんか気味が悪いよね。
確かに。
嫌だな、それ聞く人いないじゃん。
そうなんですよ。だから試験の会場はそうなるけど、
そういう素養があればみんな聞き役もできるってことなのかな。
みんなそのおのおの試験終わったら試験のことは忘れて、レポートが上手な子、プレゼンが上手な子、日々の創作が上手な子っていろんなタイプはそれでもいたんですけど、
ベースそういう入り口を求められる話すことが強制されるっていうのは結構染み付いたものだったんだな自分にって思ったことがあって、
その上で思ったのは、私は結構意識的にか無意識的にかわかんないんですけど、自分でも。
人の話を聞いてるときにへーって顔をしてみたり、すごいつぼっちゃったときは机バンバン叩いてたりとか、
なんか別に意義のあることを発していなくても、私と一緒にテーブルを囲んでくれている人は参加者とみなしてくれてるんだっていうことに改めて気づいたときがあって、
去年ぐらいだったと思うんですけど、それでいいんだってようやっと思えたんですよね。結構時間がかかりました。
そうですね、結構時間かかりましたね。
それも話すっていうことに含まれてるのかな。
そうじゃないですか、なんか話すことができる人は聞くことができる人みたいなこと言いません?なんか違うのかな。逆か?わかんないけど、聞けない人は対話ができない。
不安になります。対話ができてるって。できてるって書かれると難しくないですか。
でも対話は聞くことからしか始まらない気がするけど、わからないけど。
聞くっていうのも、ただ目の前でふんふんって聞いてるのと、意味まで理解したアウトプットが出てきてるな、この人っていうのと、なんか2種類あるのかなって思ってて。
今私が言った聞くはやっぱり、対話における聞くだから、世間話とかじゃなくて、言ってることを聞いて、それってどういうこと?とか聞くとか、私はこういうふうに思ったけどとか言うとか、なんかエピソード言うとか、それで違う話にどんどん展開するとか、そういう聞くかな。
なんかそれが真を捉えられているのかとか、ちゃんと相手の想定に対してずれてないかなとか。
でも私はずれててほしいから、ずれてたほうが、最初に言ってた通りで、話していると自分が思いもよらないことを言うのが楽しいから、想定内のことを話してると、それはーってなっていくから、さっき言ったよね、みたいになっていくから、
違うことを問われたりとか、聞いてくれた人が自分の意見を混ぜて戻してくれたりすると、え?ってなって、話しているときに自分の考えが広がったり、深くなったり、高くなったりするから、自分と違うことを言ってほしい。
自分の想定を超えてほしいっていうか、超えなくていい、違ってほしい。自分が思うことになるのは、これ仕事の話になっちゃうけど、自分がこうだなって想定内のことって、すごい大したことじゃないから、わかるからってなっちゃうから、そこをいろんな人の意見を、え?そうなの?とか思いながら、
新しくするのが嬉しいから、たぶんこの急に具合が悪くなるもそうだと思うんだけど、何かを言ったことに対して、こういうふうに捉えてるんですね、私は全然違うことを思ってた、みたいに言うから、え?そうなの?みたいな。
人それぞれだねっていうことがわかるとか、そういうことが対話とか往復書館とかの楽しさで、一番嫌なのは本当に話が合いそうな人の対談とか読むの、本当につまんない。
いやー、でもなんか、
予定調和、はいはいはいはい、いい話でしたね、みたいな。
もうなんか、そこのお味噌一緒じゃん、みたいな。
そうそう、美容対談みたいなやつとか、やっぱりきれいは力をくれます、はい、みたいな、そういう、なんか、うーんっていう。
そことそこが対話する必要じゃないじゃん、みたいなことですもんね。
うん。
あー、そうか。
やっぱり思いもよらないところに到達したい、っていつも思ってるわけじゃないけど、そうじゃないとあんまりこう、本もそう、本を読んで、なんか本を読んで、こう、あ、なに、こんなお話を書く人がいるんだ、みたいな、うわーとか思うのが楽しいから。
確かにな。
なんか、たまにエッセイとか読むのがすごい嫌な時があって、なんか素敵な話が書いてある。
だけじゃん、みたいな。
だけじゃん、なる時が、時々ですよ。
エッセイも大好きだけど、もう刺激が欲しい時は、もう絶対的にこう、ぶん殴られるような本を選びたいし、だからいろんなタイプの本を常備してて、選ぶ。
だからストーリーを読みたいわけじゃないの、その刺激の度合いで本を選んでて、びっくりした、みたいな。
苦難の話ですよね。
いやいやいや、まあ、掃除で話すことについては話してると思います。