311大震災の振り返り
おはようございます。野菜がつなぐ人と人、ハーティッチファーム代表 もとです。本日も農業と学びで、心も懐も豊かにするチャンネル、始めていきたいと思います。
この番組は、17年間世界を飛び回っていた 企業選手香川基組が、40歳を機にたっさら収納した経験を元に、農業、ビジネス、キャリア、
学びなどについて反省する番組です。 おはようございます。
とは言っても、これはね、3月11日の夜に収録させてもらっております。 今日はね、ちょっと雑談した後、
3月11日ということで、 あのね、311、
東北のね、大震災から 14年が経ったということで、
まあ本日はね、本当いろいろなところでニュースなどで 311のことをやっておりましたが、
またね、その あの体験、あの
なんていうかな危険をね、 忘れないように、そんな思いでお話ししようかなと
思っております。 まず雑談の方ではございますが、
やっと 御専業のポチポチが終わりましたよ。
何のことかと言いますと、確定申告ですよね。 確定申告の中の
仕分け、部門分け、御専業のポチポチポチポチをね、 やっと終わって、
各作物ごとに、 収支がね、見れるような
状況になりました。もうやっとですね。 まあね、最終的に今年の収支、決算をね、調べてみると、
一応黒字にはね、なりましたね。 大丈夫だった、良かった、今年も。
そして各部門で 収支を見てみましたが、もうやっとね、御専業をポチポチポチポチやったので、見れる
ようになったんですよ。 なったんですが、今年からはね、加工品も作ったので、これがね難しい。
どうやって加工品をね、仕分けしようかというか、 その部門ごとに分けようか、これは苦労したんですけど、
とりあえず、なんとなく、なんとなく分けました。 この辺のね、難しさ
含め、ちょっとね、また別の機会に配信しようと思いますが、 いずれにしても各部門、
カシューナス、ナガナス、あるいはその他の野菜等を含めて、各部門での収支が出せるようになったので、
これでやっと今年のね、分析はできるかなと。 そして15日まで、あと4日でございますが、
なんとか
決算、そして確定申告のね、 報告、提出まで終わるかなというところまできましたね。
良かった、とりあえず良かった。 あとはもうあの確定申告のね、表に埋めて、
税務署の方に提出するだけですので、まあまあなんとか間に合うかなというところでございます。 とりあえず黒字で今年もなんとか乗り切りました。
今年もというか去年もね、去年のやつもなんとか乗り切りました。 この辺のね、詳細の数字はまた
有料にするのかどうかを別として、本当具体的にね、ちょっと数字を上げながら、 またね、シェアしようかと思いますので、その配信もお楽しみにしていただければと思います。
はい、ということで、 本編の方に移っていこうと思います。
本日は3月11日、まあ皆さんが聞いているのは12日ですけどね。
私収録しているのが3月11日の夜でございます。 311日、
14年前のあの日。 311、3月11日お昼過ぎぐらいですかね、日本では。
大変なことが起きて。 まああの時ね、皆さんほんとどうやって過ごしていたんでしょうかね。
出発点としてのカタール
実は私はね、あの時、 3月11日、2011年ですか。
あの時はね、日本にいなかったんですよね。 ちょうど
カタールの建設現場で駐在している頃で、 2011年3月11日はね、
家族と一緒にカタールに住んでいる時でした。 あれはね、忘れもしない金曜日ですよね。
日本では金曜日のお昼過ぎぐらいですが、時差がある。 カタールでは、確か
何時間だ。 5時間時差。4、5時間時差だったんですよね。
6時間ぐらいかな。 ですが、いずれにしてもちょうど金曜日の朝だったんですよ。
カタールの時間のね。 金曜日の朝、ちょうど起きた頃に
テレビで、 あのニュースがやってたんですね。NHKで。
NHKはね、あのNHKワールドといって衛星放送もあるので、 だいたいどの国に駐在してもNHKは見れるんですね。
なんで家族で駐在していると、 結構やっぱ日本の番組を見たくなるので、NHKはよく
テレビをつければNHKを見ていたんですが、 カタールはムスリムの国で、
ムスリムは、 イスラム教では金曜日が休みなんですよね。
ということで、金曜日休日、朝起きてテレビをつけたら、ちょうど
津波の映像が流れる頃だったんですね。 っていう状態で、向こうにいる私たちによって全く何が起きているのか、
本当わからない状態ですよね。 地震が起きたってことはニュースでなんか連呼してるんですけど、
その映像で、 海がぶわーっと持ち上がって陸上の方に水が流れていく、あの映像。
本当ねー、 なんて言うんでしょう。びっくりするというか、想像だにしていない映像が流れるので、
現実なのか何なのかわからないような状態。
妻も、妻はね、生まれが宮城県なんですよ。
で、まあもちろん海の方ではなくて内陸の方、実家はね内陸の方なので、まさかそこまではっていうところですが、
電話しても通じないとかね、そういうようなことで、本当に何が起きているのかわからないような状態でテレビの画面にずっと釘付けになってきた。
まあそんな3月11日でしたけど、 日本ではね、本当もっと大変なことになっていたんだろうと。
後々日本に帰ってきてからというか、日本にあの頃ね、いたメンバーと話を聞いても、
もちろん同じ会社の駐在していないメンバーは日本にいたので、
私の前職の会社では横浜で、それなりの高層ビルですのでね、
本当ビルがね、折れて倒れるんじゃないかと思うぐらい、高層階の人たちは相当斜めになったらしいですね。
感覚的には。 ビルも相当揺れていると。
まあそんな状況でしたが、
本当にあの時日本にいた方々は相当大変な目に遭われたんだろうなと思っております。
まあ幸い私の妻の親類というかね、親族の方で亡くなった方はおられませんでしたが、とは言ってもやっぱり
あの時宮城県で過ごすことがなかなか難しくて、私の実家の方にね、
揺り上げの保育所の奇跡
妻の両親兄弟含め、みんな避難してきて1ヶ月ぐらいいたのかなぁ。
栃木県の方で避難して過ごしてたっていうような時期もありましたね、あの頃。
でまあ今日はね、別にあのその頃の話を思い出しながらというわけじゃなくて、
今日ニュースでいろいろな311、2011年のね話をやっている中で一つ
飛び込んできたのが、私の耳に入ってきたのが、揺り上げという
宮城県の海沿いの町ですね、そこの幼稚園の子供たちもちゃんと避難させた先生方の話、それが出てきたんですね。
揺り上げっていうのは本当私も学生時代、宮城県でしたので、学生時代に
よく遊んだ海辺の一つではあるんですが、ほんと海沿いの町です。
そんな揺り上げのね、ほんと海から近い幼稚園で、ゼロ歳から、ほんと未就学児から
子供よちよち歩きの子までね、見ていた幼稚園、保育所。保育所ですねあれは。保育所でその子供たちをみんな逃がした。
ほんと奇跡の保育所と言われているような、そういうところの、当時の園長先生の話をやっていたんですが、そこで言っていたのが
偶然で奇跡は起きないっていうことを言っていたんですね。
なんでそうやって園児たちを逃がせたかというのも、ほんと毎月避難訓練をして、で避難ルートも
マニュアルに書かれていたことも疑いながら、自分たちでちゃんと検証しながら、未就学児のそしてよちよち歩きの赤ちゃん、子供までを連れてちゃんと逃げられるか、そういうことを
ずっと確認しながらマニュアルを改訂して改訂してやってきて、そんな中で出来上がったマニュアルが
あの3月11日の2ヶ月前だったらしいんですよ。それに従って動いた結果
子供たちを無事助けられて親御さんのもとへ返すことができたと。あんな海沿いの保育所なのに返すことができたと。
備えの重要性
それを聞いた時にねやっぱり思ったんですよね 本当になんていうかそういうのって日々のね備えで初めて成り立つもの
そうなんだろうなと。どれだけいいマニュアルがあろうともそれを使う人たちが
その 実際にそれが起きた時のことをね考えてられなかったら
絶対それ通りに動けないんですよね。どんなに良いマニュアルだったとしても
こういうのっていうのはねあの 私全職で建設業をやってまして海外の現場とかで
安全面のことって本当にあの難しいんですけど その安全
防止運動というかねそういうところでも一緒なんですよ どれだけマニュアルで絶対的に安全な方法のマニュアルを書いていても
工事現場で働く人たちがそういう認識がなかったら 死亡事故って絶対起きるんですよ
それを 起こさせないためにどうするかっていうので
何が一番大事かというと 本当に
常に常に常に常にみんなが安全のことについて 考えて話して議論してっていうことをやり続けなきゃいけないんです
一人一人が現場にいる一人一人がで最初それをどうやってその流れを作るかというのは もちろん
マネジメントだったりとかそして一番重要なのはマネジメントでもワーカーレベルでもなくて シニアマネジメントレベル
要は一番上で考えたことを下に伝える人たち そのシニアマネジメントレベルが
ちゃんとその行動できてないと下にも伝わらないし 広がっていかないんですけどそういうねどうやって広めるかっていうのはあるんですが
にしても何が大事かっていうと常に常に自分たちで考えて自分たちが何でそれをやら なきゃいけないかっていうのを
実行できているかどうかなんですよね こういう大災害の時にも
まったくそれが効いてくるというか同じなんだなっていうのは 今日そのニュースでね延長先生が当時の延長先生が言っていたその言葉を聞いて改めて
ね感じたんですよね 皆さん大震災311って毎年毎年やってますがだんだん記憶も薄れてきてね
のどごと過ぎればっていうこともあってもうあの大変さっていうのはやっぱり何年 か何年か経っていくと忘れていくんですよね
私自身こんなことを配信していますが 忘れて言ってるあの時の
まああの時で日本にいなかったからましてやなんですけど あの時どれほど大変でああいう思いをしないために何をしなければいけないかってあの当時は
皆さん考えていたと思うんですけど 今だんだんだんだん忘れてきていると思うんですよね
それをもう1回常にねほんとことあるごとに思い出して 自分はいざそういう時のために何をしなければならないのか
それはねほんともう1回考えた方がいい それを思い出させてくれる
311なんだろうなと思っております 私は
自身の生きる力
ああいうことがもう1回起きた時に何をしなければならないのか どうやって生きていくのか
それをねほんと考えた 方が
いいということをまた思い出していただければなと思います 311あの時日本に私いませんでしたが
あの時に感じたことはねやっぱり都市にいることの怖さはねほんと感じましたよね 人の話を聞いて
栃木に戻ってきたのはねまあ本当自分のやりたいことをやるとか いろいろねそういう夢っていうところで戻ってきたのはあるんですけど
ある意味そのね守りっていう意味では 都会にいるよりもよっぽどこっちにいた方が
生きれると思ったんですね生きる可能性があると思ったんですよ 自分でものを作って自分で
インフラが止まったとしても生きられる環境を自分で持っておかないとダメだと思ったん ですね
それはね栃木だったんですよやっぱり私にとって ここならば野菜もある米もある
自分のところにね米もあるそして 井戸水なんでもちろん電気が止まったら井戸水は組み上げられないですけど
あの 家の前に池があるので最悪そこから水も確保でき
っていうようなで太陽光をつけて電気も 昼間ならば
太陽光で発電もできるからそれを使うことができる っていうんで横浜では
確保できなかった自分で生きる力をこっちなら持てるって思ったのも こちらに戻ってきた一つの大きな理由なんですね
やっぱりね都心にいてインフラそして食料を全部他人に委ねてしまっている あの環境は怖いとあの時311のあの出来事でねほんと思ったなと
いうところ これはあるという意味も含めて皆さん大災害の時何ができるか改めて311
このタイミングでね考えていただければなと思います 皆さんが生きるためにそして隣の方が生きるために何ができるか何をするか
もう1回 想像して考えてそして
備えていただければなと思います はいそれでは今日も良い1日をお過ごしくださいまたねー