改めて、ざっくりモネトルドンどんな展覧会ですか、まずは。
はい、2人とも生まれ年は1840年ですので、その2人に注目して、2人の画家の同時代性って言ったらいいんでしょうか、そういうものに注目したと概要には書いてあります。
前半でも帰宅作品、2020年に帰宅された作品を元に今回走り出した展覧会ということだったんですが、いよいよその2点がどんな作品なのかを改めて教えていただけたらなと思っています。
ありがとうございます。
1点目は先ほども前半部で少しお話ししましたけれども、コロなんですね。
つまり初期のルドンに対して決定的な影響を与えている画家、もう1人ウジェイのフルマンタンっていう人もいたんですけれども、
先作の面ではですね、明らかにその後もルドンの黒の時代、あと色彩の時代もそう言っていいと思うんですけれども、後引きがあるっていうのはコロですよね。
で、その作品を24年のリニューアルオープンの時、年からですね、お預かりしているっていうことがやっぱり大きいですね。
コロの作品のタイトルは何ですか。
サンジェルマン・アン・レイの道という、サンジェルマン・アン・レイっていうのはフランスの地名ですよね。
こちらに、この土地を一応タイトルとしては題材としているんですが、コロらしく、つまり実景をそのままおとなしく描いたんではないと。
あれだけいっぱい屋外でのスケッチっていうのもやってる人なんですけれども、それはほぼそのままで発表することはせずに、特に晩年にはスブニールっていうシリーズがあるんですけれども、
これはなんとかの思い出というふうに訳されています。
例えばモルトホンテンの思い出とかですね、そのような形のタイトルになってるんですね。
ですから、この作品もコロの作品もですね、サンジェルマン・アン・レイという具体的な地名は出てるんですけれども、
その実際の景色っていうよりも、それをちょうど歌枕かなんかのようにしながら、その名を借りてコロの想像上の世界を展開してるっていうようなところなんですね。
今風に言うとエモいエメみたいな。エモさはあるんです。
結構コロって詩的っていう言い方をされますけれども、詩的っていう言葉も感覚的っていう言葉も日本語でエモいっていうふうになるので、
感覚的かつ詩的な空間でちょうどエモエモな作品にはなってますね。
言うほど甘ったるくはないのがコロの自然観察って言ったらいいんでしょうか。
ルドにも共通するんですけれども、ガッチガチにですね、砂糖を人工甘味料にまぶしたような、そんなことではないんですね。
すごくしっかりした芯がある甘さって言ったほうがいいんでしょうか。
味としてはもうとにかくピュアにですね、蒸白と作ったんじゃなくて、むしろどちらかっていうと砂糖大根であったりとかですね、
砂糖きびだとかの他の雑味も含めての味、もっと言うとリアリティの味を残してる甘さって言ったらいいんでしょうか。
めちゃくちゃ好きなんですけどね、私。難しい画家でも本当はあるんですね。
その作品とが1点。
はい、1点帰宅をお預かりしました。
で、新しく帰宅を受けたっていうのはもう1点がですね、これはルドン自身の作品なんですね。
で、もともとルドンの作品はですね、一号館巨大なパステルグランブケっていう作品がありまして、これを1点持ってますと。
で、帰宅品としてはプラスアルファでパステルもお預かりしてました。
あと版画も持っていました。油絵がなかったんですね。
ルドンちゃんと油絵描いてるんです。
で、黒の時代も油絵をですね、描いてて風景画を小さい風景画を描いてて、ここがルドンらしいんですけど発表してないんですね。
結局それ何用に描いてたの?自分用なんですか?
売るわけでもないんですか?
基本的に自分用の音楽家なので。
今のところルドンはそれで食べていけて、どうやって生活してるんですか?そんな人が。
お金持ちのボンボンじゃんけんの。
なるほど、なるほど。
とても3人男兄弟だったはずなんですけれども、お兄様が音楽家、明日は建築家になるんですけれども、
ルドンは長いモラトリアム期を過ごす、デビューするのが1879年。
何歳なんですか?
39歳。
もうだいぶ遅咲きなんです。遅咲きというか、だから下積みとかじゃないんですね、別に。
夫婦戦争終わってからはですね、印象派の画家とかは基本カフェとか行って議論をしてっていう。
カフェというよりもブラスリーとかてんてんてん、お酒のほうが主だと思う。
今ではクラブみたいな感じかもしれない。
感じかもしれないですね。
もっと真面目に議論戦わせてたようなんですけれども、トニーさんと違ってですね。
どんなイメージなんですか?
ごめんなさい、失礼をしました。
そのようなところに。
どこにも行ってないんですね、ルドンは。
行ってないんですね。どちらかというと、お金持ちのおかけっていうのは、女流階級の中ではですね、サロンっていうのがありまして、
お家のサロン、今のこと。
だからそれは美術の大会のサロンじゃなくて、本当のサロン。
展覧会サロンじゃないサロンがあったんですけど、本間門のサロンの方で女性の主人がいて、限られた仲間だけをご招待するっていう。
女流画家の、たとえばベルト・モリゾさんなんかは、女流画家って今言っちゃいけないのかもしれないんだけれども、性別の問題で言うと女性画家、当時は一人で外に出歩くっていうのもできなかったんですね。
家族連れか。
たくさん通りです。
で、一人で歩くっていうのは、分け合いの人。
か、メアリー・カサトのような外国人か。
先ほども。
メアリー・カサトはアメリカの方です。
アメリカの印象派の画家ですよね。
でもない限りはっていうふうなんですけど、カサトはおそらく同僚者いたと思います。
そういうようなことはあったんですけれども。
ベルト・モリゾの場合は、じゃあ印象派が形成されたカフェにいたかっていうと、そうじゃないんです。
お家のサロンに例えばドガが訪ねてくる。
あ、そっちで交流して。
マネが訪ねてくる。
あと家族で行った、姉妹で出かけたルーブル美術館でマネと会う。
ファンタン・ラトゥールと別の画家と、そういうことの延長で。
で、ご家庭にマネというのがあったから、印象派に加わることができた。
交流できたけど。
社会的な窓口っていうのが、カフェなのかサロンなのかっていうのは、社会階層に言ってもだいぶ違ったと思うんですね。
ルドンはどちらかっていうと、比較的良い名家の方の扱いだったんです。
もともとそのサロンでルドン、バイオリン弾いてたらしいんです。
そっちでは結構社交的なんですか。
音楽家のエルネスト・ショーソンっていうのがいるんですけれども、
ショーソンはピアノを弾いて二人で一緒にやってて、
で、ショーソン曰く、音楽家崩れなんだと思ってたみたいな。
なるほど、そんな感じだったんですか。
そんな感じだったみたいな。
そういえば画家のパウル・クレイもバイオリン弾きでしたよね。
アングルのバイオリンって言うことわざになってるやつですよね、アングルのバイオリン。
さすがトニーさんですよね。
いやいやいや、ってことわざがあるぐらいになってるんですけどね。
だから本人としては、画家として無理に占くともっていうところは、
ひょっとしたらあったのかもしれないんですけども、
絵がきためていた、木炭で描いた黒の時代のものを、
本人曰くそれを使って版画集を出すことを石版画に転写して出版したっていうようなことを言ってますから、
何にしろ25部しか刷ってないもんですから。
もう関係者に配るぐらいです。市場に出るわけではなくて。
その通りでございます。本気で売るつもりがあったのかどうかっていう世界ではあるんですけども。
ただそのうちの2部がですね、結構重要な人の手に渡ってまして、
1人はユディット・ゴーティエと言いますテオフィール・ゴーティエの娘。
テオフィール・ゴーティエってビクトリー号とかと同じように、
1830年のエルナニ合戦って言うんですけども、ロマン主義の勃興期にですね、
ロマン主義と古典主義っていうか、古来からの激作法との一つの争いがあったんですけども、
その舞台と同じかに、その文学版なんですけども、その時にですね、戦闘に立って、
してったテオフィール・ゴーティエの娘なんですね。
で、その人のところに一部贈られる。で、もう一つはですね、おまけ技なんですけれども、
おまけというよりもそっちが本流になりまして、シャルパンティエだったかな、出版業者さん。
あれじゃないですか、ルノワールのモデルになった。
とても裕福なシャルパンティエさんっていうのがいたんですね。
で、そこでシャルパンティエのうちに展覧会もやることになるんですけれども、その手元へ行っていたっていう。
そことも繋がってるんですね。
そうなんですね。だから上流階級なんですね。
ルノワールは後になってからようやくシャルパンティエと仲良くなって、ほぼ同時期ではあるんですけど。
だからアーティゾン美術館にあるジョルジュ・シャルパンティエの女の子の家ってことですね。
家ですね。
あの肖像の女の子の家にあるんだ、ルドンの。
そのときに描いてた油彩画が帰宅されたんですよ。
これはまたちょっと結構飛んでますね。
ルドンはですね、まだその頃版画ばっかりで、25部のうちの一部が行ったんですけれども、
もうそれは最終的にはユースマンスっていう人の目に留まって、
サカシマという小説の中で随分と言及されて、それによって最終的にルドンの名前という世の中に出てくるんですね。
だからそういうようなプロットはあるはあるんですけれども、それはさておきまして、ようやく世の中に出たのが1879年。
もう印象派展も何回か進んでるときなんですよね。
かたや黒戸モネっていうのは印象派の名前がすでに世の中に出ていて、
78年にはテオドルデュレーという美術秘書家が印象派の画家5人を取り上げた小冊子を作るんですけども、
その中で筆頭に黒戸モネを揚げていたぐらいなんですよね。
やっぱり評価としてはモネのほうが先行していたんですね。
今回の展示でとにかくルドンの油絵っていうのを展示したかったんですけども、
これは1894年から99年の間に描かれているものと思われます。
当初製作年についての推定っていうのはなかったんですけども、
だいたいその間の様式かなっていうような感じですけれども、
その作品をモネの横に置いてみるっていうのが、
安井の最初の主眼なんですね。
つまりモネの作品って思い出していただくと、
例えば今回出品作の中では1898年の時点では、
断崖、崖ですね、海沿いの。
というタイトルの連作として発表された作品があります。
バランジュビルっていう土地で描かれた作品なんですけれども、
そちらの方とちょうど横並びにルドンの油彩が並ぶようにして、
今展示してみました。
ルドンの作品は何が描かれてるんですか。
女性の横顔、教会の中。
で、バランジュビルの方は大西洋岸ですので、
英仏海峡の崖ですので、海にそのままドスンと落ち込んでます。
海の色が、あそこの崖はチョークで、イギリス側でいうところにできてるんです。
ハクアソ、白いんです。
岩石、チョーク。
で、それが波に現れて海に流れ出してるんで、海の色だけはちょっと白濁した。
はいはいはい、そのチョークの粉と言いますか。
それが海になるから。
なんですけれども、陸のところを見てくると岩の色、
植物が生えていたので多少緑はあるんですけれども、
本来チョークが汚れて何色になってたかわからないですけど、
土色になってるはずのところはピンクだとか紫とかモーヴとか色んな色で描かれてる。
モネの作品。
なるほど。
見ていただくとモネの作品は大抵なんですけども、
空が青で雲が白で水が水色で木が茶色か黒っぽくて木の葉が緑っていう、
こういうのを固有色、ローカルカラーって言うんですけどね。
みんながイメージする色とですね。
印象派の技法って重要なのはよく筆色分割と言われまして、
パレットの上に絵具のチューブから出したそのままの色を混ぜ合わせて濁るのを避けて、
そのままカンバスの上に並べておいていって、
筆あとそのまま磨くのが印象派の技法ですよっていう風に言われます。
それはそれすごく重要で、
実際ルドンもチューブから出した白とかそのままその女性像の頭、ベールのところには使ってるんですよ。
筆あとしっかり残しながら。
だからルドンも印象派のその同じような技法っていうのはちゃんと使ってるんです。
主題が人物と風景で違うかもしれないけど、
手法は生き方は似てるんだ。
そして使ってる素材。また同じものなんですね。
同じ素材のものが新しく帰宅されたので、
モネの同じ素材のものとドンと置いたときに比較したときに意味があるんですよ。
これ油絵とパステルだとか油絵と版画だともう、
ナンセンスになってしまうので、
何にも展示も何もあったもんじゃないっていうこと。
現物がないと美術館博物館ってやっぱダメなんですよ。
実物資料で見比べるっていうことができるってものすごくやっぱ強くて、
美術館でしかやっぱり展示して意味がないもので、
これ何万枚印刷物で僕何万文字書いても多分伝わらない部分。
見たらもうビジュアルで。
ビジュアルでバッと通じる部分なんです。
しかも先ほどの固有色ローカルカラーの問題に戻すと、
ルドンの絵っていうのは教会の聖堂の中で白いベールをかぶった女性。
彼女は女性、女の横顔っていうタイトルになってるんですけど、
おそらく一番最初にキリスト教における聖体を受け取る瞬間の儀式を描かれてるんじゃないかなというふうに思います。
なぜならばルドンの書き残したものを読んでみると、
自分自身の聖体を受け取った儀式の時に、
一番最初に配慮した儀式の時には絶えなる音楽が聞こえていて、
それが一番最初の芸術的観光感動であったよっていうようなことを言ってるわけなんです。
だからそれからも類推できるし、聖女の姿ではないので、
普通のシンプルな白いベールにかけてる女性の姿、そういう主題ではあるんです。
教会の中の空間が面白いんですね。
教会って何色ですか、普通。
イメージですか?
石造りだよ。
暗いイメージですよね、イメージとして。
濃い灰色とか茶色とか暗いに近いところで、ステンドグラスがあったとしてもなんですけども、
そのステンドグラスはステンドグラスの色で描かれるじゃないですか、落ちてくる光。
これがですね、空間の中に緑のような色が塗られて、青もあって茶色もあって、
全くローカルカラーがん虫なんですよね。
教会のいわゆる固有色じゃないもの。
それは横に並んでいるモネの岩の色と同じなんです、崖の色と扱いとしては。
これはルドンがやっぱりモネとかの印象派を意識してるんですか、それともたまたまかぶっちゃった、これはどっちだと思いますか。
間違いなく意識してます。
それは68年のサロン表もそうなんですけれども、それ以降もルドンって実は印象派展見てるんです。
実際行ってみてるんですか。
行ってみてるんです。で、その時のことを後になくなってから観光されるんですけれども、書き留めてもいるので。
今までだから、前半でも話しましたけど、ルドンと印象派って結びついて考えたことなかったんですけど、実は意外と影響を受けてる。
相当近いですよね。
で、今までのところ私、モネとの近似性、あるいはモネに対する敵対心があったとしても、ルドンの方は表していたのかとか。
でも大きすぎるっていうのは十分だよね、っていう気はするんですけれども。
でも言ってるってことは意識してるってことでしょうね。
意識してる、100%。間違いなく。で、それに対してドガのことも実は印象派展の点票の時には書いてるんです。
ルドンがですか。
で、さらにその後なんですけど、第8回目の印象派展。
最後の印象派展ですか。
最後の印象派展、1886年にあるんですけど、この時にはモネもシスレもルノアールも参加していなくて、ピサロはいたんですけれども、ドガもいたんですけれども、
ポールシニアックだとかジョルジュスーラといった点票の人と印象派。
で、同じ建物ではなく通りを隔てた別モネにルドンの作品が。
え、ルドンも出品してるんですか。
ルドンも出品してます、印象派展に。
第8回最後、まあ間に合ったんじゃないけど、滑り込んだんですか。
どうして出しちゃったのっていう気はするけれども、お声をかけられて出品してるんですよ。
でもその時はモネは出てないから共演はしてないんですね。
ああ、そうですね。よく、これはあの、例えば僕ら若い頃に読んでいた高階修二先生のフランス絵画誌なんかを読むと、
印象派展の変化、変貌っていうのを象徴的に説明するのが点票のスーラシニアックの作品。
当時ピサロも点票で描いてたんですけど、受講館の今展示室にも当時描いてたような点票のピサロがちゃんと出品されてるんですけどね。
その時にはルドンはなんと木炭の黒を出していた。
そうなんですか、その時は。
切り込んでますよね。
確かに印象派展にあれで勝負するんですか。
あれで勝負する。
なかなかなやつですって確かにそう考える。
でもよくよく我々考えてみると、木炭が上手なのかかって、例えばとか、印象派の中にもいるじゃないですか。
ベルト・モリゾとかも黒で描いたりしてます。
あれはマネーの影響と言われますけれども、よくモリゾは好んで黒使ってますよね。
かつ我々知ってる限りでは、例えばバルビゾン派のジャン・フランス・ファミレ、彼は木炭使えますし、パステルも使えますし、油絵も描く。
ルドンと三拍子同じなんですよ。
ちなみにバルビゾン派で言うと、このルドンと、モネとルドンの小企画がやってるカフェ展の後はフォンタネージ展。
イタリアの。
イタリアの画家の。フォンタネージってバルビゾン派の影響を受けた風景画家なんで。
日本に来て美術の先生になったあの画家っていう。
親と外国人。
そうなんです。バルビゾン派の、イタリア人ではあるんですけれども風景画家である。
この月に繋がるんですか。
繋がってはいるんですね。で、そのまあ、風景画家たちが当時等しなみにやっぱり影響を受けていた。
あるいは視界の片隅に必ず置いていたコロっていうのが先ほども出てきているように。
やっぱりその当時のアートシーンを考えてみると、インションハムコロの作品っていうのは常に頭の中にあったんですね。
ただ一人だけコロに学んだと言ってないのが、これがまたモネなんです。
そこにまた線が。
またが出てくるんですけれども。
なるほど。
ルノワールなんかはコロが描いたラロッシェルの港、ああいう風に描きたかったんだけど、ついに無理だったみたいなことを、
息子のジャン・ルノワール、次男の映画監督に証言してたりもしますし、ピサロ。
ピサロはサロンに出した作品はコロの弟子ってはっきり書いてました。
自分でですか。直接の弟子ではないけど。
直接教えも受けてます。
書いてるからでも書いてる。
1855年のバンコク博覧会の会場でコロの作品を初めてピサロは見て、当時セント・トーマス島というところにいたんですけども、
一回フランス、パリには来て勉強してたんだけど、もう一回フランスに来て絵を学ぶために来た時に見たのが、ピサロの方はコロ影響を受けた。
で、ドガの方はアングル。
の影響を繋がっていくんですか。
アングルのですね、バルファソンの浴場ってトルコ風呂って言われるやつかな。
あの女性、トルコ風呂じゃなくて女性の裸体なんですけど、あの作品がですね、
ドガの学友の理性のお友達のお父さんが持ってたものなんです。
で、アングルが出品したかったんだけれども、所蔵者がなんかあると嫌だからってことで断っちゃったんです。
で、ドガがそれを聞いて出品してくださいっていう。
で、その時に出品されたと。
で、その作品というのがアングルにとっては大変重要なものだったので、
ドガとコレクターが合わせてですね、アングルに。
で、アングルの方が礼を言ったんだそうですね。
ドガに対して。
ドガに対して出品のために手助けをしてくれたそうねっていう、そういう事情は聞いてた。
ドガにアドバイスするんですね。線を描きなさいと。できるだけたくさんの線を。
で、現実であれ、実際のものであれ、あるいは記憶によってでもいいから。
これいくつかバージョンがあるんですけれども。
そうは言っても線描の大切さを教えてる。
で、ドガってそういう意味で線描を重視するっていう中では印象派の対局っていう風に言われながら、
印象派の風景画家たち、モネ、シスレ、ピサロン、対局って言われながらも印象派伝に参加してる画家でもあるんですけども、
もともとは最初申し上げたように寄り合い状態ですからね。
ただ共通点あるんですよ。
例えば筆色分割っていうようなものを積極的に用いたりとか、
あとローカルカラーに関係ない色を使って固有色を無視したドガもそうです。
そこに繋がっていくんですね。
みんな同じ仲間なんです。
面白いですよね。
確かに。
1号館なんかは本当にありがたいことに、アングルさんが尊敬したラファエル。
イタリアに行ったドガが若い時に描いてるんですけどね。
ラファエルのシスティーナの、違う、アテネの学童ですね。
アテネの学童ありますね、はい。
フレスコ画なんですけれども、それのちょうどラファエルの自画像をピックして描いてるわけですね。
そうやって考えてくるとドガがいかに、
あの作品ちょっと面白くて、もともとドガのものだと思われてなかったんですよ。
ドガが死んだ時アトリエに残されてましたけど、
同時に山のようなミュージアム級の名作がいっぱいあったもんですから、
オークションに出された時も、確かドガ作ってなってなかった。
ドガのコレクションと思われてたんです、他の作家のっていう。
ところが1986年だったかな、その当時の研究者が、これドガ作だっていうことで童貞し直して、
改めてドガの作品に入れ捨てられることになったっていう、
いわく因縁付きの作品でもあるんですけど。
そうなんですね。
なお面白いですよね、ドガの別の一面を見せて。
ドガって、これ本当に途中で気づいたんですけれども、つい最近まで気づいたのが、
ものすごくその時代の、なんていうのか、リアリティを表現しようとしたんですね。
同時代の主題を描いて、歴史画はあれだけ描けたにもかかわらず。
バレリーナ描いたりとか。
そういうことをやっていって、同じ時代のものを描こうとするんですけれども、
ちなみにモネさんの方はどれくらいそれがあったのか、僕正直わかんない。
ただ、相当ほどは本は読んでたんですけれども、目の前のものを見てそのまま描いてるんだっていう、これはポーズです。
自分をそういうふうに見せていたっていう時代の人なんだよね。
でも結果としてやっぱりそういうふうにしてたモネの作品はやっぱり未だに一般の美術に深くじゃなくてもライトな層にも人気なのは、そういうところが通じてるのかもしれないですね。
通じてるのかもわかりやすさということ。
ただし、ただしなんですけども、あのクロード・モネも全く人気がなかった時代もあるんですよ。
で、これはトニーさんが読んだことがないであろう、私のもう一つのフィールドなんですけれども、
今までお話しする機会もなかったからね。
つまりモネっていうのは1950年代になって、まずヨーロッパで再び巨大なスイレンが展示されるようになって、
で、次に55年にアメリカでニューヨークで展示されるようになって、初めて逆訴求的に再評価されていくっていうのがヨーロッパでのモネ評価の在り方。
亡くなった時っていうのも時代遅れ。
なるほどなるほど。
で、その当時は、例えばセザンヌ・ルノワール、まだ人気があったんですけど、というよりもセザンヌのピークっていうのは、
1929年のニューヨークの近代美術館開館の時に、中小絵画の祖、近代のモダニズムの誇りがセザンヌであるっていう歴史記述をはじめちゃうので、
その時はやっぱり一つの、そこからあとは頂点が続くんですよね、セザンヌ。
その時はもうモネはだからもうオワコンというか。
だって近代美術館そのものいらない、買う必要ない、どうせ高いだけだし、みたいな。
ルノワール持ってる、持ってるよ、一応一点だけだけど、画賞にもらったものみたいな、そんな感じの世界だったので。
さらにラディカルだったんですけど、それはさておきまして、だからモネといえども、ずっと平坦な評価の歴史を辿ってきたわけではないということが一つ言えるかな。
もう一つ、ダンガイっていう作品なんですけど、よく連作っていうこと言われますよね。
一つの主題をたくさん書きますみたいな。
時間変えて、天気も変えて、日も変えて、それがですね、ドイツ講座でまとめて、あの連作ほとんど知られていない。
そのダンガイ。
ダンガイっていうシリーズ。
他はまあ、摘み藁とか、スイレンとか夢だけど。
セヌ川の朝の連作と同じ頃に、同じ時、古典で発表されているにも関わらず、当時のジャーナリストも記録してないんです。
つまり、セヌ川の連作のことをレポータジュしたジャーナリストは、セヌ川の連作のことは書いてるんだけど、ダンガイのこと一言も言ってない。
サロン上では残ってるんですけど。
ダンガイは今記録されてる、出てるだけじゃなくて、他にも別バージョンがあるんですか。
20点以上あるんです。
日本にもあるんですか、それは。
はない。海外にあるかもしれない。
僕、把握してるのはほぼ海外。
というよりも、あまり意識に昇っていないので、見落としてるかもねっていう気はします。
じゃああれも一つの連作シリーズの一つなんですね。
そういうことに気づいてはいたんですけれども、実際もう一度調べてみると、間違いないよね。
ということで、いろいろとお話を伺って、さすが安井さんだと思ったのが、2点紹介していただくだけで、今この時間になってしまいまして、
なんと後半で安井さんのプライベートを聞いていきたいんですけど、今からいいですか、そっちに移っても。
いや、ちょっと待って。
いや、さすがにだからやっぱ2点の話でこれだけ広がるから、当然PDF35枚になるわっていうのが今よくわかります。
そうですよね。口をつぐめばいいのに。
違う違う。別にいいんで。
アウトプットせんといて、どっかに手取っておけばいいのにね。
さすがだなと思って、もう広がる広がる。
わかりました。後半お願いします。
いいですか。これ毎回ゲストに聞いてる質問なので、改めまして、いつから美術に興味を持っていましたか。この安井さんという人間がどこからできたのかが興味津々で。
小学校上がる前には美術展覧会は行ってました。
それはもう自発的にですか。さすがに親に連れられて。
さすがに親に連れられてです。
両親が美術。
母親に連れられて。
美術関係者ってわけではなくて。
全然全然。
普通に美術が好きで。
職業は母親に言わせると、母親は主婦と絶対名乗らなかったな。職業も言わなかったな。畑仕事をする人でした。
で、美術館に一緒に行くと。
行きましたね。
当時、私の生まれ育った町って美術館って言われてるものは文化センターの中にあったんですけども、多かったのは博物館で展示してたのでね、そこを見に行きましたね。
ちなみに出身どちらなんですか。
愛知県です。
なるほど。
はい。
で、美術館に行くようになってて結構好きだったんですか。子供ながらに美術館って。美術見るのは。
え、たぶん。
ちょっと、なんで自分の話になるとこんな急にスピードが遅くなるんですか。さっきまで流れるような、モネとかルーナンとかの話は止まらなかったのに。
いや、子供って100%間違いなく好きか嫌いかで展覧会行かないですよね。
そりゃそう思います。
あのね、ちょうど今日見てて、SNS見てたら、ルーブルのメディア館長で一号館でシャルダン展っていうのを開いたときに監修してくれたピエール・ロンザンベールさんっていう人がいるのね。
その人が雑誌の記事を、新聞、雑誌広告を作るよね。こういう感じで。
彼、昔も日本に来たときに、当時の高橋館長と僕と展覧会の作業の合間合間でお話を、シャルダン展ガチです。
開会式の前だったかな、インタビューとか一連のやつ終わって、少しお茶を飲みながら話をしてたときに、
おっしゃってたんですけれども、フランスはイタリアに美術の、美術史の世界では完全に負けていると。
いまだにですか。
もちろん。なぜかというと、中学高校でフランスでは美術史の講義が一切ないと。で、この差は大きすぎると。
当然日本もないですよね。
で、同時に言ってたんですけれども、まず子供たちが17歳の年までに、18、19かもしれないけど、思春期までに、美術館博物館に親に連れられていかない限り、
一切行く習慣は芽生えないと。
フランスでもなんですか。
もちろん。
ルーブルとかあるから、そういうイメージあったけど、そうなんですか。
もちろん。
で、私それ本当だなと思ったのは、北フランスの小さな町で留学していたときのことなんですけれども、
イタリア人、地続きなので、秋になって新学期いきなり来ます。授業来ます。
マスターだったと思うんですけれども、普通の学部?いや違うな、マスターだな、あの子たちが。
で、一緒になってたんです。発表してましたね。
何をですか。
美術士の講義で、演習で。
学生が?
イタリア語の学生が母語がフランス語、距離が近いんですけど、見事でした、その発表。
で、フランス人の先生が、いや本当に素晴らしい。確かに語彙がイタリア語のままになっていたり、フランス語としてはちょっとの部分はあるけれども、本当に素晴らしいって言ってた。
私はその時にドギモを抜かれましたね。
それはイタリアでは結構当たり前のように美術士の勉強があるってことですか。
だって小中、小学校はない、中高で美術士の講義があるんですよ。
そうなんですね、それは義務教育的なことですか。
そうなんです。つまり、ピエール・ロザンベール曰く、ルーブルの名誉館長曰く、素晴らしいこと言ってるんですけども、
我々は小中で、読み書きのうちのレクチュールだから読んで、各本も含まれるんでしょうけれども、彼の道は学ぶけど、見ることを教えないと。
これはすごいことだと思いません?兄さん的に。
兄さんの場合はさ、だって生まれながらに絵を描くっていう環境、方が近くにおられてるはずだったんだよね。
父親がそうだったから、あれですけど。
つまり見るっていうことを職業としておられる方がいるわけなんですよね。ただ美術士の場合はそれを言語化するっていう、見る言葉を学ばなければいけないんです。
これはすごく重要なところで、で、フランスっていうのがいつまで経っても教育システム上で遅れをとってる、イタリア人という言い方をしてるんです。
今日まさにちょうどその記事を見つけて。
でも、安井さんはこの業界に入るには、どこでその。
道を間違ったんだろうね。
間違ってないと思う。
道を間違ったんだろうね。
間違ってないですよね。むしろ安井さんここしか居場所ないですよ。美術館しかたぶん、あなたは美術館しか居場所がないです。絶対に。
美術館っていうのは本当に素晴らしいところで、いろんな能力はあるけれども他にできないこともいっぱいあるっていうのが人間なんですけども、
そのどこか一箇所を強みを持ってると結構いけるところでもある。
例えばデザインセンスとかあって、計算苦手だけれどもとかそういうような時でも美術館からのお仕事ってあるんですよね。
安井さんは美術の道に行こうと思ったきっかけというか、それ何歳ぐらい、高校生中学生とかどこですか。
なんで印象派のやつは年代がスラスラ出るのに自身のこれが出ないんですか。
世の中で自分のことほど分からないことはない。
分からない。
多分、ルドンもそう思って悩んだんだと思うよ。
大学はでも美術系なんですか。
違います。
違うんですか。
いわゆる文学系ですね。
その時は学芸員になろうとか美術の道に行こうはないんですか。
一切思ってなかったです。
いつから。
大学入って1年目っていうのは授業行ってなかったですし、2年目はですね、
3年生の時には当時仲良かった人に影響されて、3、4年の間は1日1本くらいの割合で映画見てたかな。
映画の方です。
映画の方。
で、美術館外衛が始まったのは高校の時です。それも間違いない。
それは自発的にさ。
1年生。
はい、行ってました。行ってました。で、美術館で展覧会やられた時に見てしまった感じ。
でも大学も別に行くけども別にその世界に行くとは思ってないんですか。
全然思ってなかったですね。就職できるんだろうかっていうよりも何よりも大学行っていいのかな系の感じだったので本当に。
モラトリアもルドン張りにやってた感じですね。
で、きっかけはどこで美術学院さんになろうって。
さすがにどんな状態でも学校を終えなきゃいけないじゃないですか、みんな。
で、その時にたまたま募集をしてるよっていうところを教えてもらったもんですか。
じゃあやるか、美術館ならなんかできそうだしみたいな。
めちゃくちゃいい加減な理由ですよ。
卒論とかは一応美術を学んではいたってことですよ、大学で。
学んでたのかな、俺。学んでた。
でも美術館、でも学院資格は取ったってことですか。
取りましたね。一番教職とかに比べると簡単だったから単位数少なくて。
図書館の師匠って当時そこの学校の先生めっちゃくちゃ厳しくて。
終わるわけがないよ、こんなもんって思ってたから。
で、美術館ならいいかな。最初の美術館はどちらなんですか。
ひらがなの広島美術館って、広島県広島市にある広島銀行という大日銀が立てた財団法人です。
意外と県立美術館かと思いきやったやつですね。私立の美術館ですかね。
私立の美術館。もう一つ広島市の現代美術館っていうのがあったもんですから。
その三つある美術館のうちの一つに運良く就職しまして。そこがスタートみたいな感じ。
でも最初から西洋美術だったんですか。
それはそうだったかもしれない。大学の一番終わりの時には住んでいた場所が
北フランスの一番端っこだったので、お隣のベルギーの町にもよく行ってたんですね。
アントワープだとかブルージュだとか、あとブリュッセルだとか。
大学は海外なんですか。
留学1年してたので、北フランスだったので、そこから拠点に行ってました。
先ほどのイタリア人の学友の話は、その時の話なんです。
なるほど。
授業をとにかく受けられるだけ受けてたので、その時は真面目に美術史の勉強をしてました。
通じましたか、今ので。
通じました。
おかしな人ですよね。
それで美術の世界でもどっぷりじゃないですか、今。
そうですね。
なんで急に、僕の話だと知るほどに何かがわかんない。
不器用ですから。
つまり一つのことをこうやってると、複数って、トニーさんならできるかもしれないけれども、
天体じゃなくて、宇宙じゃなくて、なんかそういうのもやってなかったです、トニーさんって。
別の人?
僕じゃないんじゃないですか。
別のトニーさんかな。
宇宙の話はあんましてもないですよ、僕。
あれ、何の話でしたっけ、それ。
そのままで開始、え、別人?
たぶん。
おかしいな。
おかしいな、トニーさんのように超人的なのはちょっと無理なので、今のとこきっとここからじゃん。
じゃあ今のとこはきっと。
最後にちょっと僕、安井さんを学芸人さんとして本当にすごい人だなって尊敬してるんですよ。
本当にこれ、そのエピソードの一つがあって。
安井さんが前にここの展覧会の、まあイーロンって展覧会されてるんですけど、ミレーの種まく人が来た、ボストン美術館から来たって展覧会のときに、
俺もそれすっごいなと思って、いまだに覚えてるのが、三菱時効館美術館の展示室っていくつかあるんですけど、
まあちょっと一番広い部屋ですよね、にミレーの種まく人が、そのときのメインですよね、もう一番のメインを置くというときに、
安井さんがこの実際見に行かれたと、バルビゾンに行ったときに、結構暗い場所がアトリエだったから、
こんな普通のなんか照明の、美術館の照明できっとミレーは見てなかったやつだと。
たぶんあのアトリエで見てたから、あの照度に合わせたいっておっしゃってて、結構暗い照度で展示してたんですよ。
で、だけどそこにいきなり人間が外から光から入ってくると、あの目の暗さにたどり着かないからって言って、
展示室の一部屋目から二部屋目で、たぶん三部屋目とか四部屋目にある、そのメインがあるんだけど、
ちょっとずつ照度を落としてって、目が慣れるように照明の設計してったっていう、おっしゃってましたよね。
いったかもしれない。
それが、その展示のためだけに、いきなり照明を変えちゃうと、もうみんなの目が慣れないから、ちょっとずつ変えるっていう。
だからそれって、たぶん僕が教えてもらったから気づいたけど、一般の人気づかないじゃないですか。
照度がちょっとずつ下がっていってるっていう。
なんかそういう展示の一つのためにそこまでするんだっていうのに、すごい僕は感動したんですよ。
なんかその、いやご本人ですよね、それの。
あ、俺?
そうだったんだ。
いやそれはですね、簡単に言うと、美術館に勤めてるとですね、ゴジュウルックスっていうとっても怖い壁があって、
紙に描かれたパステルだとか、あと日本の絵とかでもそうなんですけれども、あるいは染料を使った衣類なんかもそうなんですけれども、照度をできるだけ抑えたいと。
で、光による化学変化をですね、抑えるためにそういうことをするんですけど、逆に言うと人間の目というのは特に日本人、アイリスがですね、濃いですよね。
黒目の部分がってことですか?
はい。で、ヨーロッパ人ここの部分が、例えばグレーであったりブルグレーであったり、ブルーであったり、グリーンであったりするじゃないですか。
つまりアイリスの部分の色が薄いっていうことは、目に届く光の量が明るさっていうのが日本人よりも多いはずなんです。
だから同じゴジュウルックスでもう少しはっきり見えてるはず。ところが国際基準はそれに表せられちゃってるものですから、我々としてはもう対象の仕様がないんですよ。
で、数値だけ言うと外外光っていうのは1600層遥かに超えたところから入ってきて、で、そのまま見ていくと、実はですね、例えば明るいところから急にトンネルに入ると運転なさってるときに交通事故起こすぐらいに暗いんですよね。
はいはいはいはい。
それは導光が閉じている状態なので、開かないと光が目の中に入る量が絞られすぎるってこと。逆もあるんです。
暗いところから明るいところに行くと目が追いつかないので、開き切った導光を今度閉めなきゃいけないっていうことがあるので、その効果っていうのは実は明るいところから暗いところに入っても順応するのはものすごく時間がかかるんですよ。
それ分かってた。もう一つは種をまく人の場合はちょっと特殊で、描き方としても絵肌が特に暗く、
しかも日陰の部分、あれは未来の生まれ育ったノルマンディの風景なので、ノルマンディの多分海岸に近い傾斜地、先ほどの段階の話じゃないけれども、そこで種をまいてるので日陰になってます。
はいはいはい。
絵肌が日陰なんです。つまりその日陰の明るさに合わせなきゃいけないので、目を鳴らすっていうことが必須なんです。
で、ガンガンに周りを明るく照明かけちゃうと、その一瞬でその明るいところに目は全部引っ張られるから。
人間ってほらさ、例えば鬱になってますよっていう人の一つの治療法が運動をするっていうか、歩かせる動かせるっていうものと同時に朝日を浴びさせる。
睡眠障害を、時計をリセットするのも朝日の光ですよね。ほんのちょっとカーテン開いてあるだけで全然違うんですけれども、それと同じくらいやっぱり人に対して働きかける効果があるんですね、光は。
で、目っていうのはそれをすごく感じるんです。
これは美術館の人間だからっていうよりも、人間の行動っていうことを考えたときに、あと生理的な反応っていうことを考えるとむしろ普通のことだと思うんです。
美術館とは全く無関係にストーリーを作っていってると思います、私は。
でもそこまでしてその作品を見せるための環境を作ってくれたっていうことに僕はすごく感動した。
でもあんまり同僚は気づいてないと思うんですけどね。
そのこだわりがすごいなって思ったのをどうしてもちょっとリスナーさんにも伝えたくてあれだったんですけど。
どうですか。同じような、同じ展示室にやってたらですね、先ほど監修してもらったピエール・ロザベルなんですけれども、シャルダンの絵を展示していたときに、
どう見てもある作品にサインが入ってるっていうのが、絵が茶色いものですから黒いもの、見えなかったんですよ。
あれシャルダン電脳会議中、たしか3ヶ月あったはずなんで、ほぼ毎日のように展示室に行って作品見続けてたんですね。
そしたら目が慣れてきたのがある日、あるときだけサインがあって。
文字が浮かび上がって見えたんですか。
あれ、なんかの映画みたいだなみたいな。
ハリーポッターか、ハリーポッターそんな関係なかったわ。
ハムナプトラでもない、なんだったかな、浮かび上がった感じ。
実際あったんですか、そこにサインが。
そこにあったみたいな。
シャルダンの二段傘のサインが、あれはエカティリーナの種類の物だったんですけど、ちょっと人間の目って一体どうなってるんだろうっていまだにわかんないです。
なので美術っていうのは私、永遠にアマチュアというか素人のまんまなので、わかんないんですよ。
毎回その35ページ、わかんないけど4メガか5メガ分文字を書かないと、ちょっとやっぱりわかんないっていうのは調べないとちょっとどうにもならないっていうのはそのせいなんじゃないでしょうか。
それの準備ができないってなんかだと、安井的にはこけますね。
でも今回はもう完璧に準備もできてですね。
だって16点だけ自分で選ばしてもらってね、自分でやれるわけですからね。次はわからんぜ。
ちょっとやっぱすごいなと思ったのは、過去一位くらい、いや博覧競技だなって思うし、安井さんすごいなって思うんですけど、自分のことになった瞬間、ものすごいスローリーになったんですよ、この番組史上。
過去ないくらい。なんでこんなに自分の話。
いや大丈夫、リスナーのみなさんはたぶん2倍速にその返信もらえば全然問題ないから。
他の場合は逆に1点何倍速か、0.8倍速くらい。
ちょっと減数しないとね、0.5倍ぐらいがちょうどいいんじゃないかなと思うんですけど。
いやいや、美術の話となると止まらないはずなのに、なぜ自分の話がそんなにっていうのが。
おかしいですね。不思議ですよね。
それはね、自分が前にもね、なんていうのかな、美術の方の世界で言うと、あと研究の世界では才能がないなっていうことを思ってる人が。
いや本当に、何か詰め込んでおかないと、あるいはそのメトロポリタンの読書の時も、芸術の時も、あれだけ持ってきとかないと落ち着かない系の。
本当に段ボールいっぱいに資料を持参していた。
当時メットに今入っている作品がこの本の中にあるんだよっていうような話から始めたと思うんですけどね。
それっていうのはやっぱり物証がないとあれば、作品がないと話ができないのと同じで、何か本に書いてあるっていうのがないとできない。
だから未だにその病気が抜けずに、本がないと落ち着かない。けらいともうその本のどこにあったかが思い出せないっていう。
今もう末期症状で。
だって借りていたマンションの床が、ここのライアウト変更の時に職場に置いてあった本を持ち帰って、その後ジャンダイン床が下がってきてるんですよ。
本当にですか。
4階の時だったんですけど、このままだと2階の大屋さんご夫妻と3階の大屋さんお嬢さんご夫妻を潰すなと思って。
それでもうマンションの1階に、あの相当壁地に移ってもう避難するしか、これこれもう方法がない。
本当にそんなに本で重さで。
3トンのトラック使いましたね、その引っ越し持って行った時には。で、今はその時よりもまたさらに増えてると思うので、どうしよう。
本当ですね。地下1階ができるってことですね。重さで1階が下がって。
ありがたいことに1階。
床抜けるか、やっぱり。
地下ができると思います。
ワイナー。つまりその話してる量っていうのは、自分が安心してないっていうことなんです。
なるほど。
言葉で武装していないと、だから申し上げたように、中学高校から美術史の勉強してたわけじゃないので、身についてないものなんです。
一家制のものでしかないので、どの展覧会でも同じようにやっておかないとちょっと無理っていうことが起きてくるわけですよね。
いやいや、僕が言うのもなんですけど、マジで自信持っていい人もいますよ。
そんなことないって。
だって別に今、こうは言ってるけど、手元で見ながら喋ってるわけじゃないんですもん。安井さん全部。
いやでもね、今の一瞬でも、例えばどこの展覧会で発表されたとか、誰が買ったとか、今の一瞬でも間違えてるかもしれないと思って、見直そうとしてるっていう自分がいるよ。
いやいやいや、大丈夫ですよ。
本当にそれはね、ちょっとそれはないな。
いやいやでも、たっぷりお話いただきまして、改めてこの展覧会の告知を最後にしてください。