はい、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は私、アートテラー・とにがアートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
本日は三菱一号館美術館の上席学芸員安井裕雄さんをゲストにトークをしていきたいと思います。
ということで安井さんご出演いただきましてありがとうございます。 よろしくお願いいたします。もう安井さんには本当にずっと出ていただきたかったので、ようやく
多分2年ぐらいずっとオファーをしてて、なかなかタイミング合わずに今回ということで。 そうでしたね、申し訳なかったです。よろしくお願いいたします。
いや安井さんとの関係性を振り返ろうと思ってて、今日は芸術審査のバックナンバーを持ってきたんですよ。
2021年の11月号で、5人の達人というメトロポリタン美術館特集ということで、5人の研究家の方にお会いしに行くというので、
5人の方が登場していただいたんですけど、その時に5つのテーマがあってということで、この番組ではですね、以前川瀬雄介さんには出演いただいたんですよ。
国立美術館の昭蔵画の達人として出ていた。で、安井さんは印象派の達人として出演。多分この雑誌で出てきてると。
その時のすごく印象的だったのが、これ多分1人につき6ページとか8ページぐらいのページなんですよね。
編集部から、大体30分から1時間ぐらいが取材時間ですよって言ってきたんですけど、安井さんが段ボール1箱ぐらいの資料を持ってきてくださってて。
これは多分、絶対30分1時間で終わんないなと思って、これ絶対入りきんないなと思ったのを覚えて、多分2時間ぐらいいっぱい喋っていただいて。
で、ちょっと改めて今日見たんですよ、この記事。なんかそれぞれ4コマ漫画をね、なんか漫画家の方が書いてくれてるんですよ、その記事を。
安井さん最後のページ、4コマ目に、僕の話はいくらでも長くなる、長くなるって書かれてますか。
どういうことなんですかね。ちょっと収録が始まったばっかりなのにちょっと悪い予言がありますね。
違う違う違う違う。なんかオチのように書かれてるんですけど。
いや、それ待ってっていうので、今日は、この番組は50分、なんなら全8公演で2時間ぐらいやるんで、こんなに安井さん向きの番組はないと。
恐ろしい話ですね。
ですので、満を応じして安井さんに出ていただきたいなということで、今日出演いただいておりますので、よろしくお願いいたします。
ちょっと多分一晩中ぐらいかかるかなっていう気はしてるんですけれども、覚悟しておいてやっていただいて。
はい、覚悟しております。このビルの閉館が何時だったか、まあいいやそれは、お願いします。
よろしくお願いします。さあ、ということで三菱一号館美術館の安井さんということになったんですが、この番組で三菱一号館美術館を取り上げるのは初めてですので、
改めて、一応結構全国の方が聞いてくださってる番組ですので、
なるほど。
三菱一号館美術館って何ですかっていう、初歩の初歩からちょっと伺ってもよろしいでしょうか。
はい、よろしくお願いいたします。三菱一号館美術館という、名前にまず三菱がついてるんですけれども、ここは私立の美術館でございます。
三菱寺所という不動産会社が設立し運営しているというところで、今お名刺をお渡ししましたけれども、
美術館運営部という株式会社の一営業部門なんですけれども、こちらが動かしてるという意味でちょっと珍しいケースだと思うんですね。
つまり私立の美術館って多くの場合が、いくつか違うのもあるんですけれども、公益財団法人になってらっしゃるとか。
確かに。はいはいはい。
が多いと思うんです。三菱と同じように並び称される財閥系の三井さんなんかは。
三井記念美術館。
三井記念さんなんかは、もともとは三井さんもコレクション所蔵品を持っていて、資料館があって、かつ日本橋のところで、
三井不動産さん中心に設立されたっていう形になってますよね。
そういう意味ではちょっと似てるんですけれども、コレクションとしてはそういう形で長い間持っていたもの。
一号館の場合はですね、コレクションもともとなかったんですよ。
あ、そうかそうか。墨友系の墨友の専用加工館さんもやっぱり昔からのコレクションですね。
もちろんもちろんもちろん。
ここはそうじゃないんですよね。
三井さん記念館がね、資料館でしたか。確か中野の辺りにあったはずなんですけどね。
一号館のコレクションっていうのはなくて、三菱グループの中で、もともと財団法人が2つありまして、
東洋文庫さんと青花堂さんと。
はいはいはい、青花堂文庫さん。
青花堂文庫さん、2つともがですね、東洋日本の美術であったりとか、
書籍書がその他諸々になってくるわけなんですよね。
対して一号館の場合は、もともとコレクションがないところで、
あそこの今美術館の建ってる建物をご覧いただきますと、レンガ作りの建物があるんですけれども、
もともとはですね、明治の27年にジョサイアコンドルという、1894年なんですけどね、
建築家が建てた、丸の内で最初の洋館による本格的な洋風のオフィスビルだったんですね。
で、もともとレンガ作りの建物って、もうその時点では、例えば銀沙田とか他のところにあったんですけれども、
丸の内で最初の、そういう意味ではオフィスビルとして建てたっていうものなんです。
東京駅よりも早いってことですか。
えっとですね、東京駅があれば、確か1914年。
あ、そっか、だから全然こっちの先なんですね。
コンドル先生の、しかもお弟子さんが作られた、タツノキンゴさんなんです。
もともとですね、そういう形で日本にコンドルっていう名前からご想像がつくように、
イギリスから生成された親取外国人なわけなんですけれども、6名館で有名ですよね。
で、6名館建てた後、野に下りまして三菱の方の技師として、設計者としてですね、勤めておりました。
で、一号館っていう後に言われるように、最初のオフィスビルから設計してたわけなんですね。
お弟子さんたち、学校で教えてたときのお弟子さんたちが施工のほうを管理するなどなど。
記念碑的な建物があったんですけれども、
これが昭和43年のときに解体されてしまして、それは領給化が原因なんですね。
で、解体されまして、それをもう一度なんとか建てたいと。
しかも明治時代と同じ、レンガをちゃんと手で焼いて、で作りたいっていうことでですね、本格的な復元をしました。
だからプリカとかじゃなくて、もう当時のように戻せばいいですよね。
ただ技法としてはですね、そう言うんですけれども、素材などはですね、もう手に入らないものがあるんですね。
あの階段で使われていた伊豆、関東の伊豆ですけども、青い石っていう素材ですね。
これは中国の御運石になっちゃったりしてですね、どうしても代替のものが必要です。
あと屋根、石なんですね。スレートって言って薄く裂いた石なんですけれども、
そのスレートそのものは国産のものが数が少ないと。
で、同時期に東京駅も先ほどおっしゃられたように、空襲で3層構造だった1番上の層がやられてしまって、
2層構造でしばらく長屋で使ってましたね。
それをまた元の形に戻そうっていう巨大プロジェクトがありましたので、まあ部材の取り合いみたいになっちゃってですね。
しかも近場で。
近場で。なんていうんでしょうか、半分ぐらいは確か使えたはずなんですけども、
記憶が定かでないこと言ってしまったらごめんなさい。100パー元の素材が使えるわけではないんですね。
で、窓ガラスなんかも残ってないパーツだったので、これはもうどうしようもないっていうことで、
今日来られる途中近場通ったでしょうかね、
マルビル、新マルビル並んでましたね。
昔、同じ場所に、今より背の低いマルビル、新マルビルって。
昔のマルビル、はいはい。
なので旧新マルビル、ちょっと系列のジョンキーがありますけれども、
こちらの方の使われていたですね、ガラス、板ガラスは昔の製法だとちょっと波打ってたんですね。
昔の洋館とかで出てくるようなガラス。
それをまた保管しておいたものを1号館では使ってるっていうような。
こだわりがすごいですね。
なので刷子類はですね、流石に金属製とかにしていかないと耐火性に欠けるっていう部分もあるので、
そういうものは変えてはいってるんですけど、現行の補効器、消防法に合わなくなってしまうものですから、
そういうような形で何とか復元をしましたというような形。
これ復元しますって時にはもう美術館スペースは作るっていうつもりで復元したんですね。
これはですね、計画上はですね、やっぱり建物をモートのように建てるっていうことが一つ重要だったんですけれども、
早い段階からあそこを美術館として使いましょうっていうことで考えていったみたいなんですけどね。
でもそうすると最初の話に戻っちゃいますけど、コレクションはなかったわけじゃないですか。
そうですね。
美術館を作るとは言ったはいいけど、どういう美術館にしていくの、ビジョンはどこから生まれてくるんですか。
それは早い時期ではあったんですけれども、建物のある程度プランができて美術館っていうところの用途が決まった時にですね、
人選をしていきまして、初代館長の高橋昭さんが館長になるっていうことになる。
今東京都美術館の館長されてる。
おしゃれ通り、トニーさんもお世話になっているというか、トニーさんがお世話していただいている人の一人ですね。
なるほど。
あきやさんが館長になられるということで、当時私は地方の美術館に勤めていたんですけれども、
設計にあたってですね、実際新しいものを建てていくときには、あきやさんとあと何人かスタッフを、学芸スタッフも考えていたんですけれども、
私自身は地方の美術館、岩手県立美術館っていうところがあるんですけれども、
そちらに勤めて、かつ新設、新しく建てるっていう経験があったものですから、
高橋さんに声をかけられまして、その直前に高橋さんとは会っていたんですけれどもね、
ご一緒させていただくことになりましたということでございます。
なので高橋さんが来てからですね、実際のところコレクションを集めるということで、
会社の方をですね、理解してもらって、つまり美術館、ミュージアムっていうのは、
コレクションがないところっていうのは美術館ではないっていうふうなところがあります。
これは今は違いますよ、なくてもアートっていうのはもうその場で作っちゃえばいいっていうアーティストが、
持ち込んで展示しちゃえばいいじゃないか、それで十分アートだっていうふうな考え方がごく一般的になってきたと思うんですけれども、
まあそうは言ってもミュージアムっていうものは、その言葉の定義からして、
例えば博物館学なんかでも教えるのはミュージアム、博物館っていうのは人と物と場が構成要素である場というのは場所、
建物も含みますけれども、それで初めて成り立つっていう言い方をします。
物のない美術館っていうのはちょっと困るよね、ということで、購入予算をつけていただくようにしました。
で、実際のところそれだけではとても足らないんですね。
つまり、例えばなんですけれども、作品を購入するときどうやって買うと思います?
どうやって買うっていうのが、手に入れるには。
普通に考えたらオークションだとか、ギャラリーで買うとかそういうイメージですよね。
もう全くその通りなんですけれども、どうしてもですね、オークションに出てくるっていうものは価格流動性も大きいものですから、
良いものでもあっても、例えば、今、孫歩さんにある、ひまわり、あれなんかは、実は私の先輩の学芸員さんのお一人が、ちょっと名前も場所も明かしづらいんですけれども、
当時美術館の準備なさってて、あれ買ったら目玉になるなと思って途中までビットに参加してたらしいんです。
で、一定の金額になったところで、そこの美術館の総購入予算もあれよ、あれよというまでに超えて、これはもう撤退。
そうですよね、出せないですもんね。だから財布の上限が決まってるからみたいな。
もう、こうやってサインは送ってたらしいんですけども、誰か。それすらできなくなったっていう話を聞きましたので。
そうやって考えると、またまた流動性は高いです。私知ってるコレクターさんたちなんかは、もう私はオークションで全部買ってますとかいう人もおられます。
そういう美術館もあるんですけど、ちょっと難しいですよね。
確かに。
で、また美術館の欲しがるようなものを画廊さんで探そうとすると、結構ペラペラな価格になって。
確かに確かに。そうですよね。まあマージンとかもあるし。
で、これが面白いことに、特に我が国もそうなんですけれども、私諸外国でもそうかな、西洋美術の場合はとにかく油絵が値段が高くて、
それよりも多少安く水彩、パステルなどがあって、で、最終的に。
版画とか素描とか。
版画とか。まあそれ、版画よりも素描の方が高いのかな、一点ものだと考えると。
実は、精度なんか、質なんか考えるとどっちが上かっていうのは分からないですよね。
特に素描、ピカソがちょろちょろちょろっと描いただけのものと、ピカソがガチで描いてスリスさんが頑張って吸ったのと、どっちが高いなんて言ったらあれなんですけれども。
そういえばピカソの昔アトリエに訪ねて行ったとある日本の企業の代表者が、背中にサインしてもらったか絵描いてもらったかって、ピカソにですね、そういうのが残ってるっていう話も、
これ都市伝説なんですかね、聞いたことあるんですけれども。
そのワイシャツ、南フランスのことなので汗まみれになってこう着てたやつに描いてもらったらしいんですけれども。
どっかにあるんですか、それ。
比較的近いところにあるかもしれないんですけれども、もうちょっと言えないんですけどね、そういうような話も聞いたことはありますけれども。
だからピカソであればワイシャツの絵でも高いのかとかですね、そういうものの落書きでも高いのかっていう話になるんですけど、
実際のところグラフィックワーク、漫画ですね、マルチプルのものでも良いものっていうのは良いんですよね。
で、アーティストの性質っていうのをすごく表してるものあるんですよ。
僕それロートレックだと思って、トゥールズロートレック見つけてきたのは館長の高橋明さんも当時知っていた、初代館長の知っていた、
あと私も知っていた、付き合いのあったアートディーラーさんだったんですね。
その人が仲介してくれて一号館の最初のコレクションになったロートレックの漫画っていうのが入ったんです。
それでここのコレクションの核の一つが、ロートレックのコレクションがそういうものなんですね。
うん、で、どうしてロートレック漫画で手を打ったかっていうと、アーティストとしての質が、性質が一番よくわかるものなんですね。
ユーザーよりもひょっとしたら。
あーっとね、それは言い難い。
言い難い。
それは言えばドローイングの方がいいです。
でもロートレックの性質とした時に意外とその、
ちゃんと見せることができるね。
あとドローイングだと数点しか買えないかもしれないけれども、
漫画だったらその時にまとめて買うことができる。
これめちゃくちゃ運が良かったんですね。
ある程度の彼の生涯に及ぶ画業っていうのの代表的な部分をポスターとかが入るんですけれども、これが入ってきたんですね。
その時どれぐらいの点数だったんですか。
えっと二百数十点、まあ三百弱、二百数十点だったと思うんですけども、
ほとんどを一望館が購入することができて。
だから店内でできるぐらいの全然余裕の人が入った。
そうなんですね。なので2011年に最初にロートレック展をやった時には、
その買った、購入した漫画、ポスターのお披露目。
あとアルビー南フランスのトゥールズロートレック美術館。
これはもう今から100年以上前なんですけれども、
確か1922年にトゥールズロートレックがずっと自分で持ってたアーティストプロフですよね、要は。
のものですとかを中心にして、本人のもの。
あとお母さんが預かっていたりしたもの、本人由来のものの中でもですね、
お母さんの所有に期していたものなどがいくつかに分かれてるんですけれども、
そのうちの目星部分の一つがロートレック美術館に、
トゥールズロートレック美術館に入りまして開館してます、1922年。
で一望館と姉妹提携っていうのを結んでたんですね。
そういう高橋館長の発案でね。
それがありまして、ロートレック美術館のものも貸していただいて、
要はもともと本人が描いたものがアルビーと東京に分かれてたものが、
一部ではあってもアルビーから貸していただいて、東京で公開されるっていう展覧会があったんですね。
それが最初のお披露目だったんですけども、その後も何度かロートレック展っていうのは繰り返してね、
ロートレックのポスターを中心にしたものとしてやったりとか、
あと2024年リニューアルオープンの時には一本目が不在という総合テーマで、
ソフィカルという、現代アーティストの二人展みたいな。
そういった形で不在をテーマにした二人の作品を展示するっていう形にさせていただいたんですね。
ただ、トゥルーズロートレックって、多分版画二百数十点ある分ですね、
それ購入したお金だと、ものすごく小さな油一枚も購入できないっていう。
そういう。
やっぱ誰に高いんですか、逆に。
油財は高いっていう。私は安いだけどとにかく高いっていう。
そういう話になってきちゃうので。
ちなみにコレクションしてたら今何点あるんですか。
800ぐらいなんですけれども、それはですね、ジャポニスムの銀器、シルバーですね。
あるいはガラス器、陶磁器、日本趣味のものですね。
ヨーロッパで生産されたものなんですけれども、
それのコレクションひとまとめをまたニューヨークのコレクターさん、デイビーさんという方から、
これは最初ショード目のパナソニックさんとかで、
コレクションとしては一回公開されたものを輸出返却のときにちょっと待ってもらって、
で、整ったところで購入させてもらったりっていう。
なんか全体的に集める、こういうジャンルを集めようみたいなのはあるんですか。
はい。美術館としてはですね、良いものを物本位で、クオリティが良くないものだとか、ストーリーがないものっていうのは、
例えばジャポニスムって東西交流の成果じゃないですか。
よくよく考えてみたら、もともと三菱っていう、後に大きな財閥になるんですけれども、
海上貿易からスタートしてるようなところから、貿易ですよね。
そういうことも考えると、やっぱり一つの組織のもとになったところっていうのは、
つまり東西の交流っていうのはすごく重要ですし、
もう一つはやっぱり、ここの丸の内っていう意味、外国からの人も来てビジネスタウンになってますからね。
そういうところでも意味が大きいだよねっていうことですね。
ロードレックも言ったら日本の影響を受けてるし。
おっしゃる通りですね。僕個人的にはロードレックの影響、本当に日本の影響大きいんですけれども、
その先生だったっていうか、尊敬していたあのドガ、あの影響っていうのはものすごく大きいと思うんですけれどもね。
ロードレックはドガの影響だよ。
はい。
めちゃめちゃ大きい。
間違いなく。間違いなくそれは。で、本人も認めてますしね。
そういう意味でも面白いなと思うんですけど、
登っていくとドガは日本の版画とかにも興味はありましたし、同時にめちゃくちゃ写真にも興味があった。
なのであまりに個人的には日本のことだけを強調しすぎると、
同時代の文化的潮流っていうのを、例えばその前には中国趣味っていうのがあったわけですよね。
あるいはオリエント、広く、端っこのばしていくと日本まで入っちゃうんですけど、極東まで入るんですけれども、
ミドルイーストって言いながらアフリカ圏まで含めた、自分の外の世界っていうのをヨーロッパの人たちずっと見て、
いろいろなものを取り入れようとしましたし、何しろシノワズリというのはもうロココの時代とかにもあるわけですからね。
シノワズリでは中国と。
中国趣味ですよね。そうやって考えていくと、彼らっていうのはここではないどこかっていうような。
もうドンピシャで日本じゃなくて。
はい。外に向ける目っていうのを、例えばポール・ゴーガンなんかは結局ヨーロッパで、フランスで活動しながらもここではないどこかっていうことでタヒッチまで行ってしまうんですよね。
芸術家の一つの素質というか、憧れがある。
人類すべてではないかっていう気もするんですけれども、ある一定の時期は哺乳類であるならば育ちをすると、そうすると親元を離れてどっかへ行くというようなことになって。
トニーさんだって旅行しませんでした?というか、ガックガック持って。
前回この番組で、僕が旅行そんなに興味ないっていう話がバレて。
本当ですか。
カイズマンで言うと、海外旅行とか行くときに行きは楽しいんですけど、帰りの時間が苦痛なんです。
これ面白いですね。
いやいや、その時の学園さんもそう言われます。僕は苦痛だった。だから行きは目的地があるからワクワクするけど、帰りは自分家に帰るだけだから、行きの1日の楽しみと帰りの1日はなんかもう。
どんだけ外が良かったんですか、それは。
だから結局家に行っちゃうみたいな話だったんですけど。
面白いなあ。
これがこれですね。実はロートレックに関する展覧会は今ちょうどカフェに集う芸術家として展覧会をやってるんですけど。
そうですね。でもトゥールズロートレックさんのそういった版画は今そっちのほうで使われてる感じなんですね。
私今回担当させていただいたほうが、小企画小展示。
だから多分これ一般の方で美術ファンの方は聞いてて、三菱地方館美術館の階段、ちょうど今カフェに集う芸術家たちやってると思いますけど、今日はそれはもう終わり。
あ、ほんと。
安井さんが担当してる展覧会はそっちじゃないんで。
ほんとですね。
もう安井さんの話、あれなんですよね。それこそ2024年にさっきのロートレックとソフィカルで再開館した。
それまでこの美術館になかった小企画室ができたんですよね、展示室に。
これちょっとそのところからまず軽く紹介してもらっていいですか。
紹介させていただきます。これね、会場のご挨拶とかのところに書かせてもらってるのと同じことなんですけど、小展示室についてというのが、
2024年11月23日の再開館に伴い、1階に小展示室の約70平米を新設しました。
これもともとはストアの。
企画店の、なんか企画店グッズ売ってる部屋みたいな感じでしたね、イメージとして。
ストア2室目なので、普通の常設的なものとかもいろいろ売ってたんですけれども、
さりとって、バーのそういうスペースだったものを、リニューアルの工事のときにあそこの部分を展示室で使わせてほしいということになりましてですね。
現実的には、上では、上っていうのは2階3階の企画展示室の方では、今言ったような、例えばロートレックは出しはするんだけれども、
かなりのポーションがですね、外から借りてきたもので展示される。
で、先ほど申し上げた、曲がりなりにも購入している作品があるにもかかわらず、
それの出動機会がちょっとやっぱり低いよねと、回転率も低いよねっていうようなことから、もっとそこにスポットを当てて、
かつそれを美術館っていうのは、作品があるとこれは集めて収集して、調査研究して保存公開するっていう機能があるんですけどね。
その中での調査研究の部分もちゃんとやって展覧会しましょうっていうこと。
それで小展示室、小企画っていうのを始めました。
なので、もともとは大きい2階3階ばっかりやってたんですけど、学芸員のトレーニングっていうのもありますよね。
興味関心のあるところを深掘りしていこうじゃないかっていうことで、それで展覧会をやることになりました。
だから、だいたい800平米弱なんですけど、700数十平米のものの10分の1の面積を、
また展覧会用の、使ってなかった部分を展覧会にはこっちに使わせてもらうっていうような形にしたんですよね。
結局にはコレクションをベースにした点と同じ。
コレクションというのが、購入品もそうなんですけれども、
一号館のこれまた特徴の一つとして、帰宅品っていうのが多いです。
たまに聞く言葉ですね。帰宅ってどういうことなんですか、改めて。
中身を分類してみると、一号館が持ってないものをお預かりして、公開すると。
要するに所蔵家は別にいて。
所有権は他の人が持ってます。
ただしそれを契約によって公開させていただいて、保管する代わりに展示させてもらってるっていうことが、帰宅作品って言うんです。
海外だとこれ帰宅がさらにですね、いろいろとシステムが整っていまして、
例えばあったら所有者が亡くなった時に異像っていうシステム、これ寄贈とは違うんですね。
寄贈って生きてる間に。
あ、そうかそうか、なるほどなるほど。
そうか、寄贈作品っていうのはもう生前に起こられた。
違うんですよね。
で帰宅っていうシステムは、アメリカの例えばトニーさんに取材できていただいたメトロポリタなんかもそうなんですけれども、相当普通にやってます。
帰宅しておいて、場合によってはもう異像する、途中で寄贈するとか。
でこれは結構アメリカの美術館でよく聞くシステムなんですけれども、
日本でも国立西洋美術館さんなどの例を見ると帰宅を受けてるものもあるんですね。
地方美術館にもあるし。
で特にですね、このシステムの中で面白い例が、フランスの相続税をよく物納するっていうのがありますけれども、
あれはフランスのシステムの場合だと大仏弁催っていうのがありまして、相続税のですね。
これはダシオンっていう言葉があるんですけれども、要はアーティスト、パブロ・ピカソ。
彼が亡くなる。亡くなると大々的に海外に作品が流出するじゃないですか。
それをストップさせるために、ダシオンのシステムってできてるんですよね。
当時の文化大臣がアンドレ・マルローさんって言って、日本にモナリザが来ました、ミロのビーナスが来ましたの頃の文化大臣だと思うんですけれども、
その文化大臣の名前をつけてアンドレ・マルロー美術館っていうのがルアーブルっていうフランスの聖の河口の港町にあるぐらい。
でマルローさんはともかくとしてそういうシステムを作ったおかげで、
例えばピカソが亡くなった時に作品が全部海外に出て、全部じゃない、大部分が目干し物が海外に出るという流出がストップしたんですね。
その代わりあれは税金の代わりなので、国庫に入っていると、形として。
総国税とかが免除される分みたいなこと。
かつ一丁断った場合には具体的に言うと、例えば戦争が始まって国庫が閉閉して国の存亡の危機っていう時には売られるとか。
そういう可能性もあるんですか。
はい、そういうことができるようになってます、システム上は、税金の代わりなので。
で、例えば思い返してみるとロシアなんかはソビエトになった時にエルミタージュの中にあるものをアメリカ人のお金持ちたちに見せて、持ってていいから、買っていいからっていうようなことをやったわけですね。
で、メトロポリタンに入ってるものもそうですけど、ワシントンのナショナルギャラリーですね、ごめんなさい。
あの作品の目星ものって実はそういうものが入ってる。
っていうこともあった例を考えると、穴がちないわけではなく、つまりダシオンで出来上がったマレ地区にあるピカソ美術館の中身のものがある日突然バッと出て行ってしまうかもしれない。
ソフィー・カルさんの場合は、1号館でリニューアルオープンの時やったの。
ソフィー・カル展っていうのをピカソ美術館の一部でやろうとしたら、ピカソ美術館全館乗っ取られて、ピカソのコレクションが地下の狭いところに押しやられたみたいなね。
そういう例もありましたけれども。
ただですね、このダシオンっていうシステムであって、フランスの方は維持されてるんですけど、ちょっとそこまで日本ってまだ。
一応それを真似てはいるんですけれども、先ほど冒頭で申し上げたような企業美術館でそれをやっていこうとすると、ちょっとまた税金のことが入ってくるので。
でもいくつか帰宅はされててというものも、今回の展示室ではそういう可能性がある。
おっしゃるとおりです。帰宅のされ方も受け方もですね。
一号館の場合はですね、開館前に早い時期に個人の方から一回帰宅を受けてるんですね。
その作品は最終的にその方が亡くなられるときに帰宅を解除しまして、今では東洋文庫さんに入っています。
ご縁がありまして。
その今、その初期確定で安井さんがモネクロス展覧会をされているので、今日はその話をお伺いします。
はいわかりました。帰宅もなので、初回の帰宅を受けて、個人の方から。
でその後なんですけども、お返しすることになったんですけども、その後大きなロットで2011年12年に帰宅を受けまして。
で単発での帰宅っていうのが続きます。
また個人所蔵家の方から10点預かってお返しするっていうのも間に入るんですけれども、その後2024年のリニューアルの時がもう一度大きな帰宅を受けるチャンスになりまして。
で実は今回の小展示、小企画というのは、やった方がいいなと思ったのは、新しく帰宅を受けた作品2つがキーになってるんですね。
つまり今回の展示のうち16点のうち5点は1号館の所蔵品のルドンさんの版画なんです。
もともと持っていた。 もともと持っていたもの。
でそれ以外の11点は帰宅品なんですけど、11点中9点は前からリニューアル前から預かっていた。
見せた機会もあった。
展示もしましたし、他の館に貸し出したりもしたことのある経歴のあるものもいくつかありますが、
今度のその2点っていうのは、これはちょっとせっかくだから、それをキーにできないかなって。
それが理由なんですね。
いやこれあの、僕は展覧会でまず何びっくりしたって、その言ったら点数としては16点。
で部屋としては全実の10分の1ぐらいの部屋の。
面積はそれしかないのに。
のに、のにと言っちゃいけないですけど。
のにです。
解説がPDFで公式ホームページからリンクで見れるんですけど、35ページ。
安井さんの筆がのるにのる。
いや病気ですね、保護。
その言葉は僕は言わないようにしてたんですけど、とんでもない熱量だなと思って。
それでもこの番組でこの展覧会についてお話ししていただこうと思って、この時間まで用意しちゃった。
もうこの時点で今番組何分になってるんですか。
あら。
3週だと。
やっばー。
もうなんか予想はついてましたけど予想以上に、もう前半の終わりが見え始めてるんで。
やばいですね、博物館の構造とその問題点に入ってきましたからね。
大丈夫、大丈夫です。ここからいよいよモネとルノンという展覧会やってますってことなんですが、
もうまず率直に、モネとルノンはそれぞれモネの展覧会もこれまでいろんなところでやってますし、
ルノンもやってるけど、このモネとルノンの2人が結びつくことが、僕は新鮮で、
なんでこの2人って思ったの?で、ちょっとそのあたりから教えてもらっていいですか。
お願いします。それはですね、今年の春先に大きなモネ展があったの、ご記憶でしょうか。
それは国立西洋美術館のモネ展です。
アーティゾンさん。
アーティゾンさん、はいはい、今年やってました。
で、モネ没五百年って歌ってたんです。
で、モネ没五百年のモネ展っていうのは、実はフランス本国のオルセイも開催しないんですね。
小さな展覧会はやるんですけれど。
本当だったらフランスの国民的な中だから、フランスってやりそうなもんですよね。
それを日本でやったんですね。
それはアーティゾン美術館さんとの長い交流の歴史もあるし、内容的にもっていうことで日本でなさってるんですけれども。
とりあえず没五百年、これキーワードですよね。
4月には大きなシンポジウムもあって、フランスからも何人も研究者が来て発表なさってたんですけど。
それくらいのメモリアルイヤーで、もう一回たぶんオルセイでは10月に発表のコロックって言うんですけどね。
シンポジウムがあるであろうというふうに、モネ関連で聞いてます。
で、没五百年。
実はオディロン・ルドンは今年没五百十年なんです。
モネは1926年に亡くなって、ルドンは1916年に亡くなってる。
で、モネは12月生まれなので、ルドンは4月生まれなので、ルドンのほうが先に生まれてるんですよね。
生まれる成年は近いの?
同じ年です。
なるほど。没年は10年違うけど、生まれ年って言ったら溜めってことですよね。
溜めです。
1月、12月だから、学年も一緒。
学年も一緒ですね。とりあえず早生まれ。
フランス9月入学だとどうなるんでしょうね。
私それ、1学年上?
え?
確かに確かに。
それはやられたな。でも同い年です。
同じ同い年溜めですね。
はいはい。申しそびれました。
そのあたりのところが私も下手で、展覧会にはサブタイトル的にモネ生誕100年、ルドン没五百十年ってしてるんですけれども、
ガチなところはガチ同い年っていう。
そこが共通?
そこが共通って生まれ年。1840年。
で、この年はまあ本当にいろいろな人が生まれた年でもあって、
例えば考える人のロダン彫刻家。
あの人も1840年。
ポール・セザンヌの学友、親友、幼な友達、
最近セザンヌといた夏みたいなのもありましたけれども、
エミル・ゾラ、小説家。
彼も1840年。
あたり年なんですね。
イザベラ・シチュアート・ガードナー。
あのボストンの近郊に、イザベラ・シチュアート・ガードナー美術館という文字通りまんまの美術館があるっていう。
彼女も1840年生まれとか。
他にも何人か面白い人がいるんですけれども、
もうアート関係でいうとそういう人たちの生まれた年なんですね。
結構あたり年でもある。
で、もともと私自身はモネのこともやってましたし、
ルドンも展覧会作らせてね、いただいたこともありますので、
ある程度調べをしていたので、
まあこの二人並べてもいいなっていう。
これまで並んだことはあるんですか、なんか展覧会で。
この小学生以外で、モネとルドンの二人展覧会。
普通は並べないですよね。
そう、なんかやっぱりモネが印象派で、
まあ僕のザックエッジした知識だとルドンは象徴主義でっていうと、
美術史でいうとなんか次の世代みたいな感じで、
勝手に同い年とは思ってなかったです。
なんかもう年も離れてて。
ところが同じ時代っていう。
いやそれトニーさんのリアクションが普通で、
あのSNSでも展覧会の名前を公表したら、
モネとルドンってわらわらマークみたいな。
ああ、だからちょっと合わないと思って。
もうみんな普通に合わないとしか思ってないです。
でも同い年で同じフランスって言ったら、交流もあったってことですか。
これがですね、相互の記録を見てみるとめちゃくちゃ面白いんですけれども、
モネの方は多分ルドンのことについて、
何か書館とか何かで書いたっていう記録ないです。
あ、そうなんです。
で、モネの方は先にデビューしてるんですよね、ルドンよりも。
ルドンよりも早く、正しくはあのサロンでデビューした、
展覧会でデビューしたっていうの。
自前の展覧会を作った印象発展っていうのがありました。
あれはいわゆる持ち売り企画なんですけどね。
えっと、なんていうのかな。
えっと…。
闇鍋に近い状態で、みんな一品ずつ持ってきて鍋の中に入れて出来上がったら、
なんかとんでもない料理になったっていうような感じで。
しかも参加費が60フランだったもんですから、
60フランに応じた点数出品できるっていうような感じにはなってるんですけれども、
何しろ一緒に開催したドガさんなんかは、
サロンの審査を通った履歴もありまして、
サロンの関係者の画家たちばっかりに声をかけて、
彫刻家にも声をかけてたもんですが、
会場の中には印象派の夫婦二人のアングルのバストですから、
胸像があったりとかですね、大理石がおったんていうね、
彫刻家が出品していたんですけども、
そういうものも含めての31人が出品したっていう展覧会になってたんですね。
で、それ第1回の印象派展で、2回目以降はちょっと整理されて、
基本的にモネ以外にはピサロだとか、シスレイだとか、
先ほどの話出たドガだとか、モネ、ルノワール、
あとベルト・モリス、ザ・セザンヌ、
この辺りのが初期の印象派。
この展で聞くメンバーですね、展覧会で。
そうなんです。
なので、印象派という絡みで言ったら、
今回の小企画もベルト・モリゾさんっていうのは所蔵してないので、
お預かりしてないので、帰宅品の中でも残念ながら出品できてはないんですけれども、
それ以外は一通り先ほど申し上げた帰宅の11点の中で、
ちょこちょこっとあるものを全部出してるんですね。
この印象派のときに、ルドンはもう画家だったんですか。
これがいいご質問で、実際にはですね、作品制作をしてるんです。
どんなものかっていうと、1800、これは70年のことなんですけれども、
チャペル、小さな教会。
そこの壁面に絵を描いてくださいって知り合いの建築家に言われて、
ただし、全く新しい主題を想像するわけではなく、
オールドマスターのちょっと真似をしながら、なんちゃって壁画を作ってくれて。
宗教画的なもの。
宗教画的なものなんですけどね。
まあそれの経験はあったんですけれども、
その後、夫婦戦争に従軍してしまって、帰ってきた後は何しろちょっと引きこもり壁と言いましょうか、
ペイルル・バードというボルドの近郊の、ボルド今大変な価値になってますね。
ちょっと心配なんですけれども、火災が起きてるんですよ。
ネスペイもマドリード近郊で火事が起きてるっていうことで、大変なことになってるんです。
今年の熱波で。
まあそれはともかく、夏の間、バカンスの間、実家に寄生するとペイルル・バードっていうワイナリーがありまして、
ブドウ農園ですよね。そこのお家に、ルドン家の主流だったもんですが、行ってこもって木炭の絵をいっぱい描いていた。
なんかやっぱりルドンって言うと初期は暗い、モノクロのルドンといえばみたいな。
ノワールって言うんですけれどね、そのルドンの黒なんかもずっと描いてたんですけれども、発表してなかったんですよ。
この時代としては印象派手屋も行われて、こっちはもう片屋も華やかなカラフルだけど、
もうルドンは黒。で、発表もしてないんですよ。
うん、そうなんです。
ただし、前日談があって、1868年、不沸戦争の前に、印象派の画家のうちの2人がサロンに展示してるんですね、サロンで。
全国大会的な方ですね。
パリの中心の。国レベルで見ても、鑑賞者数が一番多くて、一番権威があって、かつ一番販売機会が大きいのがサロンなんですね。
そこに誰が、2人は。
はい、その時に出品していたのは、実は4人いまして、ピサロ、シスレ、ルノワール、モネだったんです。
で、それ以外にも先輩のですね、クール・ベ・マネなんかも出品してましたし、コローも出品してたんです。
神夕コロー。
神夕コロー。
マルビソン派の人。
ルドン、コローが大好きだったんです。
で、ルドン自身も実は、その展覧会にサロンに出品する予定だったんですけれども、審査も通ってたんですけれども、出品、ストップして、辞めてしまいました。
自身で。
自分の作品は。
自分で作品を辞めちゃって。
辞めちゃったんですよ。
えー、それなんか理由はある?
ちょうどその年に、サロンについての批評、サロン評っていうんですけど、それを出身地のボルドーの新聞、ラ・ジロンドっていうんですけどね、これに掲載するために準備をしていて。
で、新聞批評を書くために、展覧会、辞めちゃった。
え、ということは、批評家の仕事がメインだったんですか、その時。
2つ探ってたみたいです。批評家の卵であり、まあ、画家としてはどうだろうって感じだったみたい。
じゃあ、まあ、批評家を目指す以上、プレイヤーになっちゃうとちょっと批評家としてブレちゃうから、ちょっと自信ないし、とりあえず今、画家を辞めて批評家でいこうとした時期がある。
えー、その回は批評でいってみようかな、みたいな感じかもしれないです。
えー、それで批評家としては成功したんで。
残念ながら、そのラ・ジロンドっていう新聞批評も、後になってから逆に注目されるようになってるんですね。
それも画家になって。
下手すると亡くなった後に、もう一度見直されて。
つまり失敗だったという言い方もできるかもしれないんですけれども、冷静に見てると、すごく後のルドンの性質っていうのがよく見えてる。
で、本当に面白いんですけど、ルノワールは取り上げない。
えーと、ルドンがですか。
ルドンは。
いろんな人取り上げようがあるけど、もうあえて取り上げてない。
じゃあ、なぜモネとピサロだけ取り上げたんでしょうね。
2人は取り上げてる。
2人は取り上げてる。
その取り上げてる時に、当然、あれですか、モネは褒めてるんですか、ルドン。
あまりいい言い方をしていません。
結構、辛口評価なんですか、あれは。
というよりも、ド辛辣。
そうなんですか。
なんか、イメージとしては、なんかこう、まあ、暗いイメージはあるけれど、なんか物静かな作風じゃないですか。
なんか、物を言わない。
意外と、じゃあ、そっちだともう、評論だと言う方なんですか。
頭の中は、有弁だったんじゃないでしょうか。
で、いろんなことをものすごく考えてるけれども、
口に出すタイミングが、あの、少しゆっくりなのかなっていう気がします。
モネに対しては、どういうことを実際言ってるんでしょうか。
はい。
彼の作品を見て、その主題、描き方っていうのが、画面のサイズに合ってないと。
身も蓋もないんですけれども、実はそれ、当時モネが目指してたことなんですね。
もっとはっきり言うと、当時は、モネが、貴族な主題を大きな画面に、歴史画にふさわしいサイズで出して、物議を加盟していました。
クール弁も、例えば、オルナンの埋葬なんかに至っては。
一般的な、要するに普通の人のお葬式ですよね。
名もない人の葬式を、英雄のお葬式でもあんなに大画面に描かないのに、それよりでかいのに描いちゃった。
で、モネは、それよりさらに大きい作品を、草上の忠則という作品を出品しようとして。
マネと同じ名前のタイトルのもの。
当時は実は、マネの方は水浴で、モネの方は草上の忠則。
で、モネの草上の忠則が出た後に、マネが真似して、草上の忠則にした。
でも、モネも描いてるってことですよね。
モネも描いたんです。
それを批判してるってことですか。
いや、それはね、断片しか残ってないです。
で、その後もう一回大きいのを描くんですけれども、
サロンの審査で落とされて、お友達のバジールっていう人が、
医学部の学生さんを途中で辞めて、医者になるのを辞めて、
画家になって、夫婦戦争で亡くなっちゃうんですけどもね、
当時の2500フランの50回払い、1回50フランの分割で買って、
モネの生活を助けてたっていうお話があります。
学生なのにってやつですね。金持ちの家のボンボンのことみたいな。
モネにとって見ると点々だと思うんですけれども、
良い金ズルであったわいっていう。
いや、それだけじゃなく、画家としても切磋琢磨していた間柄っていうふうに言えるはずなんですけども。
その批判をして、作品をでかくあえて描いてるぜってルドンが批判したじゃないですか。
それはモネは見てるんですか。
この日、ニチャンネラみたいなやつにって言ったらあれかもしれないですけど、
モネはこの野郎みたいに思ってたから、
もう記録残ってないっていうのは、モネはルドン嫌いだったってことですか。
おそらくなんですけど、まずボルドーっていう地方の新聞に掲載されてるっていうことが理由で、
見てない可能性もあります。
もし読んだとしても、当時のモネってあんまりお手紙を書いてる時期ではなく、
というよりもっと正確に言うと、その頃の書簡ってあんまり残ってないんです。
で、困ったことに、フィンセント・ファンゴフォのお手紙あれだけ書いてるのに、
テオと住んでいたパリ時代は全く書簡がないんですよね。
テオに書かないから。全くというのは正しくないです。
手を当てがないんですよ。
まあどうせ家で一緒に喋ってるから。
そうですね。たぶん途中から軽薄な雰囲気になって、
で、お兄ちゃんはまたプラッと南フランスに出て行って、
しおくれお願いねっていう感じなんですけれども、それはそれとしまして、
モネって意外に記録した画家が、あるいは悪く言ってる画家が全く影響を受けてないというと、
そうでもなくて、結構読み解くのが複雑。
ちなみになんですけど、ピスアローも書いてるわけですよ。
それはコメで。
これがですね、スペインの画家を思わせる堅実さみたいなことを確か言ってたと思うかな。
結構いいこと言ってるんですよ。
ちゃんとしたことを言ってますね。
でも言ってる以上はまだいいんですよ。
要するに4人のうち取り上げられてない人もいるわけじゃないですか。
これはもう無視みたいなこと。
カムシ?
カムシ。ルノーラカムシされてる。
ただ当時のサロンっていうのは膨大な出品数があったはずですし、
ともなく大量の画家が出品していたにもかかわらず、
クールベとマネオを取り上げておいて、
その後ピサロ・ルドンっていうのは、ピサロ・モネですね。
モネっていうのはルドンの評価としては相当高い。
だから要するに取り上げてるだけ?
そうなんです。
申し上げたように、コロってルドンの英雄だったんです。
もう一つはウジェノフロマンタンっていう人のことも好きだったんですけども、
二人とも特徴があって、風景の中に人物を置くっていう純粋なる風景画ではないんです。
特にフロマンタンっていうのは最初話に出たオリエントの影響を受けたオリエンタリズムの画家なので、
ルドンはまずそういう画家になりたかったんですね。
コロのように歴史的な何か物語のエピソードの空気をまとった人物像を、
その風景の中に配する作品、こういうのを求めようとしてたんですね。
だからコロに初めて会った時、いつだったかっていうのは正確なところは断定できないんですけども、
どうもコロの言葉をその後書き留めているんですね。
で、その時聞いたことが100パー一軸ではないと思うんです。
むしろルドンっていう人が何か表現したいっていう時の寄りどころになるような内容を、
本当に話したのかどうかわかんないんだけれども、主機に留めるぐらいに重要性があった、
何か考えとしてまとめたのかもしれないんですけれども、
コロが言った全体の曖昧な言葉の中でその部分をピックアップして書き留めるっていうのは、
ルドンの強い意思が働くわけです。
で、どういうことを言ったかというと、これは会場の解説にも出してるんですけども、
不確かなものの傍らには確かなものを置いてごらんと。
これがまず第一です。
で、二つ目が、毎年同じ場所に行って同じ木を描くといいと。
これはものすごくですね、二律背反するところがあって、
不確かなもの、確かなもの、目の前にクールべばりに写実的に描くものと、
曖昧な幻想的なコロを自身が描いている妖精たちの姿だとか、
曖昧なことをした空間、そういったものを置くように。
それが理想的だってことなんですか?
ルドンのその後の作品を見てみると、結構そういうファクターって多いんですよ。
確かに、現実世界も描いてるけど、現実的じゃないものも描いてるみたいな。
ただ、もっと言うと、頭の中の曖昧もことしたものを表現する、
不確かなものを表現するときにですね、表現っていうレベルで考えると、
目の前に可視世界ですね、見えて表現することが、
描くことができる確かなものでしか描けないというディレマはあるわけなんですね。
つまり、実際のリアルなものっていうのを、現実のものを描くことができない限り、
不確かなものっていう、頭の中に思い描いたものも構成できないっていう、
大変経時条学的な問題になってくるんです。象徴主義ってそうなんです。
全てのものを想像だけで描いたっていうふうに言われるかもしれないですけれども、
そんなことってありえないですね。
現実描けない限りそっち行けないからこうですもんね。
はい。なので、コローのその言葉っていうのは、
ルドンにしてみると、ものすごく導きの方針になったんだと思いますし、
次のセンテンスも面白くて、毎年同じところ行って、同じ場所を描くといって、
実はルドン、それは実践してないんです。
その言われたのに。
言われたのに。
なんでですか。
それは、はっきりとは答えられないんですけれども、
ただ、毎回見て観察を繰り返すことの重要性っていうことを説いたとも思いますし、
複数の観察の末にたどり着く、何か真理のようなものに求めていたのかもしれない。
つまり、歌詞世界の見かけではなく、内面の一番深いところの真理、
あるいはルドンが表現したいものっていうふうに。
なので、同じものを見ても、同じように風景を見ても、
ありのままに、その見かけに徹底的に執着するクールで、
その後を継ぐようなものへと、
その中にあるものを見かけを使って表現しながら描こうとしたルドンではないでしょうか。
お粗末様です。
一回分これでいかがでしょうか。