偶然性の導入
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回からテーマが変わって、「偶然」というところになっていくという話でした。
はい。クキさんがですね、偶然性の問題というのを出してますというところで、こっちのテーマになったんですけど、
今回は、なぜこの偶然というのがテーマになったのか、クキさんの中で見たような話とか、
あとはね、そもそもこの偶然性って何を意味しているのか、これも導入としてやっぱり大事かなと思っているので、
これを取り上げたいなというふうに思っております。
前回もお伝えしたんですけど、1年前に偶然とか運命とかを取り上げたんですけど、
何か覚えてる?お兄さん、そういう話があって。
そうね、やったね。テーマ縛りでやってこうねというふうに。
そうですね。
存在とかやったよね、いろいろね。
やった。その中の1個で偶然というのがあって、
もちろんね、覚えてる?僕も何も覚えてなかったぐらいなんで、
逆に聞いてくださった方としても復習も兼ねてね、そこを話していくのがいいのかなと思っているんですけど、
まずね、なんでクキさんが偶然というのをテーマにしたのかなんですけど、
いろんな話はあるんだけど、ある時やっぱり歴史みたいなのが立ち寄せたんです。
なんで先生はあったんですか?みたいな。
その時に帰ってきたのが、ヨーロッパに行った時に、いわゆる現地はみんな白人なわけですよね。
その中で自分だけがいわゆる黄色人種である。
肌の色が違うという時に、やっぱり奇妙な印象があって、
それがきっかけなんだよ、というふうに答えたらしいんですよね。
なんか、うーんって感じなんだけど、おそらく人が何人として生まれるか、生まれの問題とか、
肌の色が何色かとかって、基本的には偶然じゃないですか。
もちろん遺伝的な因果関係とか、そういうのはあると思うんだけど、
肌の色そのものに決定的な意味があるわけではないですよね。
ああ、なるほど。
でもやっぱり当時の、今でもそうかもしれないけれども、生まれとか肌の色とかによって、
やっぱり、いわゆる居心地の悪さを感じるとか、
なんで自分だけ違うんだろうとかって思う。
っていうことって、やっぱり人を、これって偶然なのかな、必然なのかな、
意味があるのかないのかな、みたいな。
やっぱりそういう迷いに引き取り込むのかな、なんて思うんですよね。
文化的背景と偶然の意義
おお、なるほど、確かに。
ね、そうそう。
まずやっぱり偶然というか確率とかって話もちょっとしたと思うんですけど、
例えば、自分だけ宝くじが当たったとやっぱりラッキーやったぜっていう感じだと思うんだけど、
自分だけ事故に巻き込まれましたとかってやるとやっぱりそれは辛いじゃない。
っていうふうに、やっぱり偶然の出来事、どっちも偶然。
宝くじに当たるのも事故に巻き込まれるのも偶然ちゃ偶然なんだけど、
そこになんで自分はとか、どうして自分だけみたいなことになっていくと、
こういったいろんなことが考え出し膨らんでいくようになっているときに。
ほうほうほう。
そう。僕も結構1年前はそっちは意味付けの方とかをテーマにしたんですけど、
たくきさんはそっちにやっぱり安易に進まないんですよね。
そうじゃなくて、そもそも偶然ってやっぱりなあにっていうところを考えてたんですよね。
わー、意味付けのもう一歩、踏み込むっていう感じだよなあ。
向きが違う。
そうだね。あ、そうそうそう。
だから、安易に確率だよねとか、いやそれって意味付けだよとかじゃなくて、
いや偶然っていうものをちゃんと向き合おうとか、ちゃんと掘り下げようっていう意味でやっぱりいくんだよね。
それが哲学者としてのかきさんのすごさというか。
うんうんうん。
やっぱりお仕事だったなあっていう感じなんですけど。
わー、今のところちょっと面白そうだから質問させてもらうんだけど。
どうぞ。
なんだろうなあ。
そういうさ、偶然ってなんだろうというか。
うんうんうん。
モヤモヤがあった時に。
はいはい。
それを意味付けで捉えることが安易な方だっていう感覚。
どういう感じなんだろうなあっていうのをもうちょっと教えてほしいかなあ。
はいはいはい。あ、なるほどね。
確かにその雰囲気は伝わってくるんだけど、どういうことだったかっていう。
それは。
なんで安易なんだっけっていう。
ちょっと近い話で聞くと、僕が時々幸せになりたいと思って、
どうすれば幸せになるかじゃなくて、
そもそも人類における幸せとは何かに興味を持ったみたいな話をしたと思うんですけど。
これはなんだろうなあ。
自分がどうとかってことじゃなくて、自分の感覚として、
幸せになるためにあれこれを示すとか、
日本の中で言われてるものをやってみるとかっていうのはなんだろう。
やっぱり分かりやすいというか、
なんていうのかなあ。
行動として見えやすいんだけど、その分ちょっと軽いなっていう感じがしちゃうんだね。
はいはいはいはい。
そうじゃなくて、
幸せになるってそもそも何か。
幸せってどういうことっていうことに立ち止まるというか、
そこの周りをぐるぐる回ってみるみたいなことって、
外から見ると何も変わってないじゃんとか、
そんなこと考えずに一回ね、山とか登ってみたらとかなんだけど、
僕としては、その前にちゃんと考えたいとか、そこに浸ってたいんだよねって感覚が時々あります。
あー。
偶然の哲学的考察
今の話、幸せとかとまだあれだけど、
例えば何でもいいや、サッカーが上手くなりたいっていう時に、
まずサッカーやるんじゃなくて、
クラブチームっていうか少年クラブに入るとかじゃなくて、
めっちゃ本読むとかサッカーとは何かを、
ちょっと頭でっかちな感じなのかな、イメージでいうと。
頭でっかちだとは思う。
そんなことになりたいんだったら、とにかく練習しろよ、頭でっかちなんだけど。
サッカーのボールの蹴り方とかさ、足はここに置いて、
軸足はこっちに置いて、こういう風にやってっていうのがサッカーの蹴り方で、
ポジションはこうなるというのが全部、分かればサッカーが上手くなれると思ってる状態に近いのかな。
たぶん近いとは思う。
ただ違うのが、サッカーをするとかって身体勢が伴うから、
当然その体を動かしながらやった方が上手くなると思いますよね。
それは頭でっかちなんだけど、
偶然とはみたいなことをテーマにした時に、
ポジってやっぱ概念だから、
頭を使うしかないじゃないですか。
それ言うとごめんね。
さっきの幸せっていうのもある意味、身体的な概念を伴うと考えていいのかな。
これは多分両方あるんだと思ってる。
幸せって、
それを感じる温かい環境の幸せだとかっていう風に、
心と身体の両方が関わるじゃないですか。
だからたぶんそのちょうど間ぐらい、
偶然とサッカーの間ぐらい幸せって。
スポーツとはまた違うんだ、そうすると。
ああ、そうだね。
僕の考えとは違うかな。
偶然の方がより抽象段が高いよね。
いわゆる日常生活の感覚からは遠いよね。
だったりとか身体制のバランスというかね。
使うバランスね。
OKですOKです。確かに確かに。
幸せになるために、
めっちゃ筋トレとかしなくてもいいかもしれないもんね。
身体の動かし方のところは薄まるもんね。
考え方だけでなんとかなる部分も出てくるというか。
一体ね。
OKですOKです。
確かにそういった、
いわゆる厳密と繋がり方のバランスがあったときに、
偶然というものをさっき言ったみたいな、
花くじが当たるとか、
事故に巻き込まれるとかっていうふうに厳密に落とし込まないで、
本当に偶然というものそのものを、
やっぱりある種、抽象的に考えるということをやるんだけど、
だけど、前回とかね、
生きの時にもお伝えした通り、
偶然って抽象的にやりたくない人なんですよ。
はいはいはいはい。
なのでこの、
遠いで抽象度が高い偶然というものを、
どういうふうに具体的なものとして落とし込んでいくのか、
扱おうとするのかっていうことが、
まさにこの偶然性の問題というところで行われていることなんだよね。
前回のお聞きで言うと、
みんながこれ1だよね、そうだよねって言ってるときに、
そのもう1段階だよね、
なんで1って思うんだってっていう構造の方に行ったんだけど、
みんながこれ、
不幸だったねとか、
あんたラッキーだったねとかって言ってるものを、
みんながそうだねそうだねって言ってるときにこういうときにして、
なんだっけっていう。
そうそうそうそう。
同じだよね。
何が落ちるんだっけって。
でも分からんな。
スタンスは分かるけど、
どうすればそうなるのかは分からん。
ね。
そこに今回はちゃんとお伝えしていく、
今回というかね、
お話しながらお伝えしてくるんですけど、
これが厄介なのが、
これすごい導入の話が長くて申し訳ないんですけど、
その偶然っていう問題自体が、
偶然だけで扱えないっていう話もあるんだよね。
どういうことかっていうと、
1年前のときにお伝えしてたんですけど、
台本読み返したら。
この偶然って思って、
そもそもいわゆる哲学、
しかも近代西洋、西洋系の哲学ってどこからいくと、
そこで排除されてるのが考え方なんですよね。
今で言うとそもそも量子力学とかさ、
カオス理論の感じで、
ランダムとか確率みたいな、
そういうのってどんどん取り込まれてるんですけれども、
例えば西洋系でデカルトみたいな話があったときに、
デカルトの考えだと、
真理みたいなものは明らかに真なものだけだ、
みたいな感じなんだよね。
間違った判断とかもちろん真理じゃないんだけど、
たまたま正しい判断をした、
たまたま真理にたどり着いたみたいなことも、
それは間違いだっていうふうに言ってるんだよね。
そもそもそれはあり得ないって話もあるんだけど、
偶然正しいみたいな話っていうのは、
デカルト時代の真理に覚えてないんだよね。
学問なんだろうな、ちょっと、
どういうことを扱えばいいかわからないけど、
再現性100%みたいなもの以外は認められないっていうか、
そうですそうです。
誰がやってもそれも同じ理性というものがあって、
それを正しく使えば正しくたどり着けるっていう、
それが真理なので、
たまたまラッキーで真理にたどり着きましたってことは、
やっぱりあり得ないです。
現実的には思い違いとか、
ラッキーパンチの感じで、
たまたま上手くいったってことは、
普通に起こるわけなんですよね。
あるよね。
だから、あの人めっちゃ粋だって思ったけど、
たまたまだったよね。
別にその人何も意識してなかったみたいな。
あるよね、そう。
っていうことで、
西洋近代で言うと、
もちろんそれは間違い行けじゃないって話なんだけど、
クキさんで言うと、
それでもいいじゃないか、
その偶然行きだっていうことも、
哲学として扱えるんじゃないか、
っていうことが、
やっぱりもともとの弱相という学問的な発想としてあるんだよね。
だって現実そうなってるじゃん、みたいな。
中層と現実の哲学
そう、現実ってそうじゃんと。
これも昨日の時にお話したんだけど、
やっぱり現実を説明してこそ哲学、
それが生きた哲学だっていう話をしたと思うんですけど、
クキさんはそこにこだわり続けるんだよね。
デカルトみたいな、
やっぱり真理かも、
間違いで悲しいことだっていうものを、
クキさんは中層の哲学っていうふうにちょっとかけて、
あえて名付けてラベル化して、
そこに対して自分は現実の哲学を言うんだ。
やっぱり中層じゃなくて、
現実にちゃんと向き合うんだっていうことを、
やっぱり常にって言ってるんだよね。
そこはもう本当に明確に意識してるんだね。
そうそうそう。
本当にそこを大事にしてる。
だからさっき、
自分でもちょっと中層じゃんって言っちゃったんだけど、
その概念すらも、
何とか現実的なものとして扱おうとか、
そういうふうなことをやっていくのが、
このクキさんですと。
はいはい。
だから対象じゃなくて、
その哲学を対象とするものじゃなくて、
それに向かうスタンスの話をしてるね。
そうです、そうです。
そうそうそう。
このことはもう少し説明なんだけれども、
中小哲学っていうものって、
いわゆる同一哲学って言ったりするんだけど、
いわゆるAはAだっていう世界だよね。
これを基礎とするときに言ってるんだよね。
うん。
どんどん言っちゃっちゃった。
急にふんわっちゃっちゃった。
AはAだろう。
うん、そうね。
そう。
それはそうなんだって話なんだけど、
これどういうことかっていうと、
それとして万物の根源は何ゲームなんだけど、
万物の根源が火でも水でもいいんだけど、
つまり水ってものぐらい荒れるものが生まれるって話って、
全ては水である。
例えばリンゴも水であるとか、
大地も水であるとかっていうふうに言うときに、
これって要は大地と水は現れとしては違うんだけど、
本質は一緒だっていう、
その同一だっていうことを本体に置いてる話なんだよね。
うーん。
うん。
なのでこれが中小哲学なんだけど、
こうなっちゃうと本質的というか大事なものってその根源だけで、
それ以外のもの、さっき言った水は根源だけど、
例えば大地とかリンゴはそれ以外のものですっていうときに、
そっちは非本質的なものというか、
どこから生まれたものってやっぱり肝になっちゃうんだよね。
なるほど。確かに確かに。
イデアみたいな感じだよね。
そうそうそう。
やっぱり華麗に過ぎないみたいなその本質。
そうですそうです。
どうね?
うん。
イデアのほうが大事とか本質的で、
そこから作られたものの見せ方だっていう話になっちゃうんだけど、
これはやっぱり真理を探求するとか、
突き詰めていくっていう意味では憧れる部分もあるんだけれども、
空気さんはどうせそこに馴染まないんだよね。
粋だね。
粋なのかもしれない。
だからやっぱり現実の中小哲学って現実っていうときには、
この同じとか同一っていうもののこだわりをちょっと薄めましょうよと。
例えばリンゴはリンゴである、リンゴのイデアがあるとかっていうときにさ、
でも待ってよと。
現実的に言ったら昨日食べたリンゴと今目の前にあるリンゴって違うじゃないか。
っていうことを当たり前に認めましょうって話なんだよね。
この違いってわかるかな。
今言った中小哲学と現実の哲学の違い。
リンゴはリンゴであるっていう話と、
昨日食べたリンゴと今の目の前にあるリンゴは違うじゃんっていう感覚の違い。
わかってないと思う。
言われた通りにしかわかってないと思う。
わかってないんだと。
もうちょっとお伝えすると、
例えばさ、今目の前にリンゴがありますよと。
でもこの目の前のリンゴって別に今食べてもいいし、
明日食べてもいいし、昨日食べてもよかったみたいな話してるじゃないですか。
つまりこの今目の前のリンゴと自分っていうものに置いては、
それを今食べるってこと自体に深い意味がないっていうのは偶然なんだよね。
でもそこにこそ現実の彩りがあるというか、
そんな偶然の中で、例えば今私と目の前のリンゴは出会っているみたいな。
リンゴだから感動感ないけどさ、人の出会いとかもまさにそうだよね。
1年前の偶然の時にもそういう話をしたと思うんですけど、
たまたま出会った人とか物事がその後の人生に影響を与えることとかってあるよねっていう時に、
それこそが現実の彩りである。
だから豊かさであるっていうのが話なんだよね。
中小の哲学だとリンゴはリンゴでイデアしかないから、
昨日のリンゴと今日のリンゴは別に無関係変わらないじゃんって言ってもいいんだけど、
そうじゃなくて昨日収めたリンゴの方が今日より美味しかったよねとか、
あるいは今日のリンゴをそのまま食べるんじゃなくて、
アップルパイにしちゃおうとかって現実でいっぱいあるときに、
それで一個一個全部偶然の出来事なんだけど、
そこにこそ豊かさとか楽しみとかがあるよねっていうふうな発想がありますよね。
いうふうな違いかな。
息でも同じようなことをやってたのかもしれないけれども、
やっぱりこちらが今までこのラジオで増えてきた哲学とはやっぱり全然違うよね。
全てを一つに説明しようとするっていうのは、
なんとなくイメージがつく。
それを哲学、たぶん抽象哲学って表現してると思うんだけど、今回は、
さっき言うような、一個一個このリンゴとあのリンゴとあっちのリンゴは違うっていうことを、
哲学でどう扱うんだろうねっていうイメージがまだ持ててないからイメージできないんだろうね。
今回聞くとそのイメージがもしかしたら出るのかもなって今思ったかな。
それはすごくいい観点だと思う。哲学の多様性だよね。
哲学って法術の追求だけじゃないんだみたいな。
赤ちゃんと言葉の認識
もちろん法術を追求してるんだけど、偶然っていうものをね。
してるんだけど、それを違うやり方があるんだっていう話だよね。
そうなんだね。
OK、そうですね。それはぜひね、今回のこの偶然性の問題の中で僕もお伝えしたいなとか意識したいなと思ったんですけど、
ここからまた戻るんだけど、こういったいろんなことの話を踏まえて、
僕自身が偶然性の哲学は何かっていうのを言ってるんだけど、
それはつまり現実っていうものを性的、いわゆる留まったものとか切り取ったものとして把握するんじゃなくて、
真の意味においても動いてる、ダイナミックなものとして肯定するものなんだっていう風に言うんだよね。
さっきの話を言うと、現実の偶然性ってどっちかっていうと、今を切り取ってこれがいいであろうとか、永遠の現のものとかって言っちゃうんだけど、
現実はそうじゃなくて常に変わっている。
だからその変わっている、動いているっていうことを僕らに考えましょうぜっていう話なんだよね。
なるほど、なるほど。ちょっとわかった気がする。
これは前回の西田貴太郎さんの話を踏まえるとちょっとイメージがわくね。
そこが近いよね。
実験室で風がない状態とか摩擦がない状態、空気がない状態みたいなところでやっていたのを、
ちゃんと現実世界空気あるし、摩擦もあるし、ちょっとそっちでやってみようみたいな。
そういう感じのイメージができてきたね。
そうだね、そうそう。イメージはそんな感じ。
そのときに本当にそうやって哲学でできるんだって。
まさにAKって言われたことが。
どうすんのじゃあっていうところが立ちはだかる気がするよね。
ちょっとここからまた本の中に少し入っていくんですけれども、
そもそも偶然性、ここに書かれている偶然性って何かっていうと、
普段使う偶然性って偶然ではないとかたまたまではないっていうのはちょっと広いんですよね、意味が。
そういうことをお伝えしていくんですけども、
そこの冒頭でこの偶然性っていうものは必然性の否定だっていうふうに言われますんですよね。
必然性の否定。
どういうことかっていうと、偶然性っていうのを考えるには、
まず必然性っていう方から考えなきゃいけないというようなことをまず言っていきます。
なんでかっていうと、やっぱりこれはね、
僕らが何か物事を考えるとき、概念的に考えるときに、
どうしてもこういう仕組みになっちゃうんだって話なんだけど、
例えば、赤ちゃんとかが喋り出しますよっていうときに、
あーとかだーとかってまだ概念ではないんだよね。
そこからワンワンとかって言い始めるときに、それは概念に多分なってくるんだけど、
でも赤ちゃんってさ、よくある犬だけじゃなくて、
例えば猫とかさ、椅子とかさ、それも全部ワンワンとかって言い出したりするじゃない?
だから、たぶんまだワンワンは何かわかってはいないんだけれども、
だから、なんとなく何らかの普遍的な、自分の周りにあるものっていう普遍性を想定して、
そのワンワンという言葉で表現はしてるじゃない?
はいはいはい。意外に持ち始めただろうと。
そう、持ち始めただろうというときに、
これは知識とかなんだろうね。
はいはいはい。
だからそのワンワンって言い始めた言葉が、その認識っていうものが、
何らしか赤ちゃんの中でもワンワン性みたいな、ワンワンらしさみたいなものを結びついている。
という意味では、やっぱりその普遍的なものとつながるっていうのが、
やっぱり僕ら人間の知性とか概念っていうものが大前提なんですよ。
なるほどなるほど。だから例えばママとかから覚えた場合、
母親のことを例えばママって呼び出して、
それ以外のものは全部ワンワンって言うかもしれないっていう話だよね。
そうそうそうそう。
父親のことをワンワンって言って、ミルクのことをワンワンって言い出すみたいな話だよね。
そうですそうです。話で言うと。
で、まさにそこが同じか違うかっていう話で、
ワンワンっていうものは全部何らかの同じものなはずなんだよね。
そこでママだけ違うとすると、それはママはそことは違うっていうふうに理解してるってなると、
まさにこの同一性、さっき言った同じである、そのAはAであるっていう話と、
そのAはBである、BはBであるからママはこの人であるっていうふうに、
その同じとか違うっていう感覚がまさにここにはつながってきてるんだよね。
で、このあるものとあるものが同じだっていう判断こそが必然性でもなります。
ほうほうほう、なるほど。
でも赤ちゃんからするときにお母さんが来るときにママっていうのは、
それは必然的な反応というか、
要はお母さんが来れば必ずママっていうことは必然なんだよね。
はいはいはいはい。
そう。
ただ、もしかしたら間違えてお父さんが来るときにママって言っちゃうかもしれないし、
でもそれが次来たときにママがワンワンって言うかもしれないしってみると、
そっちはいわゆる偶然というか、必ず起こることではない。
そういうときにそこにその同じか違うかっていう、
もっと言うと同じってものを判断することが必然なんだっていうふうにお父さんは説明していくんだよね。
はいはいはい。
はい。
偶然と必然の探求
繰り返しになっちゃうんだけど、それは必然だよとかって、
僕らが言うときに言ってるのは、それは必ず同じことが起きるよねとか、
当たり前だっていう意味で、さっきのカートの話もそうだけど、
誰がやってもとか、何であっても同じそういった再現性がある。
この同じが必然だっていう話なんだよね。
なるほど。はいはいはい。
うん。で、今その同じが必然だっていうときに、
今度はそれと違うってなぁに。
ママって呼んでて、その違いとなぁにって話があるじゃない。
そういうときに偶然ってことが見えてくる。
ふんふんふん。
例えば、何て言うのかな、
赤ちゃんが少しずつ言葉を覚えるっていうときに、
ママもパパも犬も猫も全部ワンマンって言ってたけど、
なんかよく聞いてると、
お父さんが、赤ちゃんの中ではワンマンだったんだけど、
お父さんがある人に対してママと思っている。
とか、自分に比べるときに、
ママはねとかって言ってて、そのときに、
あ、それは違うんだっていうことが分かる。
ふんふんふん。
で、そうすると、赤ちゃんがママって呼ぶときに、
例えばママが喜んでくれるとかって話があるときに、
そこはたまたま、まだママっていう概念がないから、
たまたまワンマンだったママって呼ぶときに、
あ、喜んでくれてるなとか、
なんか反応が違うなとかっていうのを受けて、
赤ちゃんが、あ、これはママって呼んでいいのか、
ちょっとそこまでの仕組みが働いてるかは分かんないけれども、
まあ、彼氏こうね、ロジックで考えていくと、
そういうことが起きているでしょう。
はいはいはいはい。
なので、その最初の1回ママって呼ぶのがもしかしたら偶然というか、
たまたまやってみてっていう感じなんだけど、
それがいろんなフィードバックを受けて、
そのママって呼ぶのが必然になっていくのかな、
そういうことが起きていくわけなんだよね。
なるほど。
哲学的視点からの真理
で、今のはね、さっきの赤ちゃんの話なんだけれども、
哲学的な話でいくと、
デカルットの話をして、真理ってのは明らかに真なるものだみたいな、
それ以外は認めないとかって話をしたと思うんですけれども、
でも、もしかすると、実際そうなんだけど、
100年とか1000年経ったら、
それは真理じゃなされる可能性って全然あるわけじゃないですか。
まあ、はいはいはいはい。
うん。
で、いうときには、
まずそういう真理も、
前も言ったけど、代わり得るとか、
たまたま今それが真理であるだけっていうことも言えるわけだよね。
はいはい。
それはあれだよね、トラグマティズム的な話。
そうそうそうそう。
トラグマティズム的な話。
うん。
はいはい。なんかやったよね、それも。
そうそうそうですそうです。
今役立つものが真理だみたいな話をしたときに、
やっぱりそれは、
まあ、それは、それも偶然。
たまたま今この時代においては真理だと言われているという方もいるよね。
つまりそれは、
真理ではない、真理とは違う可能性というのを考える。
うーん。
っていうときに、
その違うということに、
まさにその偶然というものが入り込んでくるという話をするんだよね。
偶然性の意味と影響
えっと、クキさんが。
クキさんが、うん。
はいはいはいはい。
あ、ごめん。
時代で言うと、
プラグマティズムより後なのかな?
前なのかな?
ちょっとごめんね。
えっとね、後だと思うな。
後。
えっと、後なのね、後です。
ああ、はいはいはい。
うん。
確かプラグマティズムは、
そういうその、
真理、絶対的な真理というよりは、
その真理を仮置きしている感覚を持っておきましょうね、みたいなイメージで。
うんうんうん。
雑に言うとだけど、
そんな感じでいいよね。
そうだね、合ってます合ってます。
うんうんうんうん。
だから、ある種そのそういったね、
その何だろう、
ツッツキの流れとか、
そういった違うことも受け入れるという流れはあった中で、
その偶然性というものに捉えているというのもあるとは思うんだけど。
うん。
で、そういう意味で言うと、
この偶然性というのもそういった違いを基にしているというのも話なんだけれども。
うん。
あ、そう。
だから考えると、
例えば必然しかない世界というのを考えるときに、
ちょっとまた世界の話なんだけど。
うん。
例えばこういう必然の世界というのは、
常にもう一個の真理は永遠と変な真理になるから、
後、世界って変化とか発展がないんですよね。
ほんとちゃんと同じ世界。
ある時それはもう神の世界って言っちゃうかもしれないけど、
うん。
うん。
ほんとに神の意思が支配する世界みたいになっちゃいますよ。
うんうんうん。
で、そうじゃなくって、
今ある真理もいつか叶っていくよねとか、
本来その、何だろうな、
あってもなくても良い存在、
だから存在っていうものも、
何だろうな、
生まれたとか、
たまたまここにあるっていうことが、
何だろうな、
成り立つ世界っていうのが、
こういう偶然的な世界。
うん。
そうした時に、
これを指していくくさは、
その偶然とか偶然性っていうものだっていう風に言ってるんだよね。
はいはいはいはい。
うん。
でもそういう意味で言うと、
僕らが普段普通で考える偶然、
たまたまっていうか、
ちょっと違うというか、
広がりがあるっていうことがイメージが湧くんじゃないかなと思っていますよ。
なるほど。
確かにたまたまとか、
そういうバクチー的な要素とは全然イメージは違うよね。
そうだね。
そう。
必然と比べた時、
同じと違うっていうのがコンテリアルという風な話で捉えていただいていると思うんだけど、
で、
これはね、
くきさん自身の言葉で言うと、
その、
この偶然性っていうのは、
その、
有あるだからね。
うんうんうん。
あるっていうのか、
無、
無いっていうものに目指している状態だよ、
とか、
その、
無っていうものが、
あるっていう在り方を、
その、
犯しているっていうか、
何だろう、
包んでいる状態であるっていうのに良いんだろうね。
うーん。
どういうことかっていうと、
さっき言った通り、
じゃあ、
真理がある、
真理がその永遠に出るって言っちゃうと、
もうこの、
真理っていうのはもう、
あるからあるとしか言えない。
もう過去もそうだったし、
未来も永劫そうだっていうふうにしか言えないじゃない。
うーん。
そうじゃなくって、
たまたま今これがシミュロされているっていうと、
真理じゃなくなる可能性があるというときに、
これは真理じゃないっていうのに近づいてくるんだよね。
うーん。
っていうふうに、
その、
あるからあるじゃなくて、
その、
何だろうな、
無いことと合わせてあるというか、
はいはいはいはい。
その、
あるっていう在り方のうちにも、
その、
無いっていうものを含んでいるみたいな、
そういう二元性っていうのが見えてきます。
うーん。
えっと、
これ偶然性のイメージってこと?
あ、そう。
偶然性っていうものを、
あるとか無いとかっていうことに引き付けとるんだよね。
はいはいはいはい。
うん。
これ前回もね、
その、
二元性、
二元性っていう域の中で、
その、
散々おっしゃったと思うんですけど、
うん。
やっぱりこの偶然性っていうものも、
必然っていうものと比較したときは、
二元性の話なんですよね。
わー、
なるほどね。
あると無いの間の話をしてるってことはね、これは。
そう、
間とか両方がある状態の話。
はいはいはいはいはい。
うん。
うん。
そう、
ただその、
何か存在とかを考えても、
なんかあるからあるってやっぱり言えなくって、
うんうんうん。
いや、
無くなる可能性とか、
むしろ過去は無かったっていうことがあるから初めて、
その、
あるということが起きるんだみたいな、
うんうん。
そういうことをこう言い出すんだよね。
あー、
そして、
うんうん。
さっきその、
無が有を犯しているっていう話で言うと、
うん。
また、
これが無くなる可能性もあるよねー、
みたいな、
永遠不変じゃないよねーっていうことも、
あ、
そう。
言い表してるというか、
そうですそうです。
うん。
うんうんうんうん。
そう、
っていうのとこれもこう、
偶然っていうか、
振り込んでいくんだけど、
やっぱりこれも、
なんだろう、
すごいなんでそんなこと考えるのって話なんだけど、
プラグマティズムとかと一緒で、
やっぱり完全折り捨てるってわけではないんですよね、
もちろん。
えー、
そうなんだ。
だから学問なので、
うん。
で、
例えばそのね、
前、
そうしたハイレッカーも似てるような形で、
その、
なんであるものがあって、
むしろ無ではないのかみたいな話、
ちょっとだけお伝えしたこともあると思うんですけど、
ほうほうほうほう。
まあそういうふうに、
むしろ無の方が大事だよなっていうふうに言ってたりとか、
うんうんうん。
まずこれちょっと取り上げたいんですが、
シューリングっていう哲学者は、
もうこんな似たような発想を持っていたらしくて、
うんうんうん。
で、こう、
ここからやっぱ、
ぐっちぃさんはしっかりこう、
影響を受けてるんですよね。
なるほどなるほど。
うん。
で、
もっと古い、
近代とか、
あの、
現代哲学とかじゃなくて、
もっと古いとこにいくと、
その、
まあ仏教の方なんですけど、
あの、
有名なお話である、
ミリンダ王の問いっていうのがあるんですよ。
うーん。
ミリンダ王、
これ話したことあったかな?
ないと思うな。
ないかも。
ないかな。
実際はぐっちぃさんが、
その本の中でも増えてるらしいんですけれども、
これ、
もう時代でいうと、
紀元前2世紀とかでも、
全然古いんですけど、
うーん。
その時代に、
このね、
ミリンダ王っていう王様が、
その王王さん、
これあの、
偶然の哲学の考察
ナーガセーダって言ってらしいんですけど、
うん。
と、
なんかね、
いろんなのまあ、
対話?
要は王様が質問して、
そのナーガセーダさんが答えるっていうのを、
いろいろやったっていうのは残ってるんですよね。
うんうんうん。
うん。
で、
そのやり取りの中に、
あの、
こんなのがあって、
その、
なんで一切の人々が等しくないのか。
そう、
なんである人が長生きだけど、
ある人は早く死ぬとか、
うんうん。
なんである人はお金持ちだけど、
貧乏だとかっていうのが起こるんだ、
っていうことを、
こういう、
あの、
質問してたよね。
うん。
これって、
まあ、
いわゆるこう、
なんだろう、
日常的な疑問っていうこともそうなんだけど、
そうじゃなくて、
まあ、
本来、
なんだろうな、
まあ、
人間ってことは共通しているはずであると。
うんうんうん。
で、
普遍的な人間という存在を考えるときに、
でも、
現実と違うじゃないかと。
うんうんうん。
これって何?っていうのを解いてるんだけど、
これってまさに、
その、
抽象的な人間と現実の人間の違いを考えてるとか、
はいはいはい。
そういう、
あ、
なんだろうな、
あの、
いわゆるこう、
概念化した人間と、
と言う意味で、
すごいたくさんの、
この発想と近いというか、
そういう根源を、
うん。
なんか2000年前に先取りしたような感じなんだよね。
ほうほう、
なるほど、
うんうん。
もうちゃんと、
ちゃんと問答してるんだね。
うんうんうん。
вызDoしてる?
うーん。
うーん。
うーん。
うん。
そう、
で、
まあ、
よく、
たくさんはそこに、
この、
必然と偶然とか、
自分が取り組もうとしている抽象と現実とか、
うんうんうん。
そういうようなテーマを読み込んでいく感じなんだよね。
はいはいはいはい こういう大垣さん的なスタンスから
やっていくヒントにしてるだったりとか そうそうそうそう
売れてるよっていう感じなんだよね ちなみにセプクランドでこのミリンラウンの問いですよね
なんで人が違うんですかと 長生きの人も早口な人もいるんですかっていうのに
その大垣さんで長生のさんがなんて答えたかっていうと
実はこれはカレマによって決まるんだっていうのが まさに仏教の答えなんですよね
あーそうか仏教的にはね はいはいはい
仏教的にはそう だから現実の世界とか表にあわてるものを見てみるとみんな違って見えるんだけど
実は人それぞれの奥にカレマというものがあって そのカレマの例えば強い弱いとか多い少ないとか
そういうものによって必然的に 有効な人もいればマズい人もいるんだけど
これは偶然だって必然なんだっていうのが 仏教の考え方なんだよね
なるほどねカレマを想定してるからね あーそうそうそうそう
死んでも残り続けるカレマポイントによって変わるんだもんね そうそうそうそうそう
仏教的視点の探求
なんかやった気がするなぁ ありましたやりました
受け継がれちゃうからね
なので仏教はまさにその偶然としか思えない 人一人一人の人間は違うとか
あるいはそうね あのもっと言うとあらゆる存在に対して実はそれが根っこではつながっているんだとか
まさに二元論者と一元論者ってやっぱそういうことだから
っていうふうに答えることでミリンガオにちゃんと回答を与えてるわけなんだよね
あーそうかそこもそういうもんだとか 逃げないんだね
そうそうそうできない 仏教ではこうだよお釈迦様はこう言ってますよ
ただ僕ら今卒学って話でいくとやっぱそれでは満足できないというか
やっぱりそのカルマっていうものに頼って 全部必然であるっていうふうに言いたくないんだよね
ちゃんと偶然っていうことでも意味があるとか偶然には偶然のやっぱりそのなんだろうな
領域がある そういうことをちゃんと明らかにしていくために
まずは僕さんっていうのは偶然性の問題っていうものを解釈とか捏索をしたっていうような判断ですよね
そう考えるとすごいね このカルマに代わる納得感の良い答えをちゃんと作ろうとしてるわけだもんね
そうですねそうです
すごい試みだね
それもね難しいんだけどどうしてもちょっと神っぽくなっちゃう部分があって
それはねやっぱり難しいんですけど
そのあたりの話を次回以降またちゃんとお伝えしていく中で
本当に偶然でもちゃんと分けて考えていくので
偶然A、偶然Bとかあったときにじゃあ何?っていう話をですねまた次回以降お伝えして
このクキさんがどんなふうにこの偶然とか現実の手伝いとかね
これやろうとしたのかっていう話をですね お伝えしていきたいというふうに思っておりますというところですね
分かりましたでは次回ですねこの偶然性をどういうふうにクキさんが実案的に扱っていくのかというところを見ていきたいと思います
では引き続きよろしくお願いします
お願いします 今回もありがとうございました