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はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、今回メルロ・ポンティの第3回ということでやっていきたいと思います。
はい、前回はですね、あのメルロ・ポンティの最初の本ですね、その行動の構造っていう本を頼りにしつつ、
最終的にはね、行くスキルの感世界か。 っていうちょっとね、感名前を噛みそうな人の話をしたと思うんですけれども、
やっぱりこう、人っていうものも生き物の一部というか、まあ他の動物同じように生き物であるっていう時に、その生き物特有の世界の捉え方とか、
生きているまさに環境、場みたいなものがあるよっていう話を最後したと思うんですよね。
で、それ自体は結局そのメルロ・ポンティが言ったことよりは行くスキルさんという別の人が言ったことではあるものの、
メルロ・ポンティもそういったものをある種めくばせをしながら、自分の現象学的な発想というものを深めていますというふうなところをお伝えしたかなと思いますと。
なるほどなるほど、はいはい。だから、うちらは意外と感世界の話でいうと、その吸血大の話があったけれども、それと同じように人間も本来は人間の感世界で生きてるはずで、
そこをちゃんと実は意識してなくないとか、それ知らなくないみたいな、そういう感じだったよね確かね、雰囲気。
そうそうそうそう。で、今回の話はですね、メルロ・ポンティの使徒と言っても良いような、その知覚の現象学、知覚って知るに覚醒の覚で、
何かを感じるとか、それこそ聴覚、視覚、嗅覚っていろいろあると思うんだけれども、そういったものに対しての、
まあ大きいんだけれども、そういった本があって、その話がね、まさに今兄貴が言ってくれたような、あれなんか意外と人ってちゃんと世界を捉えてないんじゃないかとか、
僕らが普段捉えてると思ってる世界って、実は結構距離があるんじゃないかみたいな、そういうことをね、結構書いてる本でもあるんですよね。
おーそうなんだ、ほうほうほう。
はい、なのでちょっとそういった部分をね、つなげながら読んでいきたいと思っているんですけど、読んでというか、まあみんなでちょっと学んでいきたいと思っているんですけれども、
この本自体は知覚っていう感覚の話なので、結構全体としては、いわゆる体、身体論とかって言うんですけれども、
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人間の体ってどういうものなの?みたいな、そういう話をしてるのが結構メインなんですよ。
へー、あ、そうなんだ。
うん。で、そこには今回も出てくるデカルトの話も結構入ってくるんですけれども、
いきなりちょっとね、体全体に残っていると結構難しいなというか、前提となるいろんな知識がないとスッと入ってこないなって思ったんで、
ちょっとね、今回と次回が知覚の原子学の話をしようと思っているんだけれども、
今回はその中でも、いわゆる見ること、視覚ね、話をちょっと包括して、そこに絞った時に何が言えるのかなとか、
どんなことをメイロポンティが考えたのかなみたいな、そういうことを見ていきたいと思っているんですよというような感じなんですよね。
うーん、そうなんだ。この知覚の原子学っていう本の構成で言うとどうなの?いきなり全体の話をし始めちゃうみたいな、そんな感じなの?
そうだね、やっぱり身体論っていうのがやっぱりメインかな、やっぱり最初は。
うーん、あ、そうなんだ。
うん。で、やっぱりなんでかっていうとその前提として、やっぱりそもそも哲学的には精神と体、精神と物体化を分けたっていう、
あのデカルトのいわゆる二元論っていうものがベースにあるから、やっぱりそれを引いた時に、
その精神の方じゃなくて物体に属しているといわゆる体の方をむしろ捉えましょうみたいなのって、結構自然な流れというか。
あー、その前提条件がある程度こう、あるわけね。
そうそうそうそう、哲学的なね、うんうん。
そう、でもやっぱり僕らがそれを踏まえようと思うと結構大変だし、
やっぱりいきなり全体の話からするってやっぱり難しいなってちょっと僕としては思ったので、
おー、はいはいはい。
それよりはその、資格って見るっていう、この一個にちょっと集中した時に、
あのーなんだろうな、見えてくれるものがあるかなって思ったし、
あとやっぱり現象学みたいな話でいくと、やっぱこう見るとか、
その自分のなんだろうな、世界の捉え方っていうものを、
フルスタルの時に現象学的還元とかエポケイみたいな話を言葉としては話したかと思うんですけど、
なんか判断を保留するんだみたいなさ。
あー、なんかあった気がする、保留であった気がする、うん。
うんうん、ちょっとその辺の話を触れたいと思うんですけれども、
まあ、やっぱりこうなんていうかな、僕らが普段見ている、
例えばじゃあ皆さんが今、家にいるのか外の運転中の方あると思うんですけれども、
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見ているって思ってる世界と、でも本当に視覚的に捉えてる世界って違うんじゃないかみたいな、
やっぱそこに区別を入れるみたいな発想があったりするんですよ。
おー、そうなんだ、ほうほうほう。
うん、だからその見るっていうことをちょっと掘り下げていく中で、
このメルポンティの考え方、特に近くの現象学で言われるような考え方っていうのに、
ちょっと一歩踏み込んでみたいなと思ってますと、という風な感じなんですよね。
多い、そういうとこから始めていくんですけれども、
えっとね、より大前提で言うと、このメルポンティがやろうとしたこと、
うん。
で、前回前々回とかちょっとお話したかと思うんですけれども、
いわゆる客観的な思考というか、いわゆる科学的な思考であれ、
哲学的な認識論的なものであれ、やっぱりどこかに正解、100点があって、
それを探すことが大事なんだっていう、その世界観自体をメルポンティが超えようとしましたって話をしたじゃないですか。
うん、そうだね、その100点満点というものが果たしてあるのかねっていうね。
あ、そうそうそうそう、そもそもねっていう話で、
それが疑似問題として、そもそも存在しないんじゃないか、問題として。
あー、はいはいはい。
うん、そもそも100点を探すってこと自体がおかしいんじゃないかっていう風なことだと思うんだけれども、
この話を見ること、視覚っていうことに応用するとどうなるかっていうと、
要は人は何かを認識しますねと、目で見て認識しますねっていうときに、
大きく2つの方向性があるんだけれども、
1つは、例えば人が何かを見て認識しますっていうときに、いろんな考え方とか理解の仕方はあるんだけれども、
一番その主流というかこの当時大きいのは、いわゆる外の世界というものがあって、
それを人間が受け取りますっていう、それ受動的な話が基本的にやっぱりイメージ沸くと思いますと。
多分皆さんも、例えば理科とか生物の教科書とかで目っていう構造があって、
そこに対して光がピーって入ってきて、それが網膜に当たって視神経を震わせて脳が刺激されますみたいなさ、
そういうのもやったりしたし、あと関東のときにも経験みたいなものが外から入ってきて、
それを人間の理性が処理をして、そこで実際認識が生じるみたいな、
そういう経験論と体育合理論の統合っていうのがその両方が働いてることだよみたいな、
そんな話とかも結構してきたと思うんですよね。
09:00
なるほど、その捉え方も近いんだ、目で見るっていうこととね。
そうなんです、だから認識するっていうときにやっぱりどうしても僕らって視覚情報、目の情報が強かったりするんで、
それでやっぱり語られることが多いんですけれども、
さっき言った外から光がピーって入ってきて、神経を通じて脳が処理するっていうのは、
いわゆる科学的な、生物学的な話ですよね。
で、要はこれでいくと、人間の視覚、見ることっていうのは光と視神経の反応、
あるいはその先の脳神経の電気的な信号だけであって、
つまりこれは物理的な因果関係というか、そういったものだけで視覚を見ることを説明しようという立場です。
なるほどだし、まあそう習った気がするよね。
そうだよね。別にそれはそうだよねというかさ、
見ることってそういうことでしょって感じだと思うんだよね。
それはそれで正解というか、一つの見方ってことね。
そうそうそう、そういう捉え方がありますねと。
もう一個は、さっきカントの話をしたけれども、
ここでもやっぱり出てくるのはデカルトで、
いわゆる理性中心主義というか、そういったものがあるとどうなるかっていうと、
これ実際なんかデカルトがこんな風に言ってるっていう話があるらしいんだけれども、
例えば皆さんカフェとか入っててさ、窓を外ぼんやり見るじゃないですか。
例えばちょっと今夏だけど冬だとすると、
まあちょっとマフラーつけたり、コートを着てたりとか、
帽子かぶったり、そういう風なものが動いているものが見えるわけだよね。
そうした時にデカルトが何を思うかっていうと、
自分が見えているのは帽子とかマフラーとかコートだけなんだけど、
その下には人間がいると判断すると。
つまり、目に見えているのはコートっていうそういった服だけなんだけれども、
当然それが動いているとか、窓の外にいるからには、
ただコートが浮いているんじゃなくって、それを着ている人間がいるだろうとか、
それが歩いていってその街中を動いているだろうとか、
そういうことを知覚、理性が判断しているんだっていう風にデカルトは捉えるんですよね。
なるほど。
目から入ってくる情報だけだと、コートであるとか帽子であるってことしか入ってこないはずなんだけど、
その奥にはきっと人間がいるだろうとか、いないとおかしいっていう風に考えられるのは知性の働きなので、
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それは見ているっていうものも結局は知性の働きなんだみたいな、そういうことを言うんだよね。
それをデカルトが言ってた。
そうそうそうそう。
なので持っていると、見ている、目に入ってくる情報っていうのはどこまでいっても不完全なデータなんだと。
その入ってきたデータっていうものを知性が処理をして、
頭の中で判断をして世界を組み立てていくみたいな、
そういう発想がデカルト的な主治主義とか、
マルシュ理性主義、理想主義と言われるものなんだよね。
はいはいはい。
今、科学の話とデカルトの話両方したじゃないですか、
これって全然違うように見える。
片方は視神経とか、機械の話をしているし、
もう片方は不自然なデータを知性が処理しているっていう話をしているんだけれども、
実はメルポンティに言わせると、両方とも同じような実は区切りなんだっていうふうな話をするんだよね。
へー、そこを対立してるんじゃなくて同じ区切りなんだ。
そうそうそう。
メルポンティから言わせると両方一緒なんだと。
根底にあるんだね。
これが実はさっき言った、100点を目指すっていうふうな客観的思考みたいな感じなんだけれども、
要はこれって、デカルトにせよ科学の方にせよ、
正しい外界の世界っていうものがあって、
例えばコートを着た人とか、コートが跳ね返す光とかって、
その粒感は違うんだけれども、
何らかの正しい世界観とか世界の像っていうものがあって、
それを人間が受け取るとか、それを人間が処理するっていう受け身であるっていう、
外から内へっていう発想自体はどっちも同じだよねっていうふうに考えるんですよ。
あー、なるほど。
うん。
だから、あるいはそれは人間っていう、あるいは見ている自分だけが世界の外にいるとか、
あるいはその世界のすべてを頑張ればちゃんと捉えられる。
要は帽子とコートっていうしか見えないけど、
そのをはぎ取れば人がいるっていうことはちゃんとわかるよねみたいなことも含めて、
あるいはそういうふうに人間が正しく理解しようとすれば、
100点のものが受け取れるというか、理解できるみたいな、
そういうふうな発想がこの両方にあるよねっていうふうに捉えるんですよね。
あー、なるほど。確かに確かに。
そうね。
まず外っていうものがちゃんとあるっていう大前提があるもんね、どっちもね。
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そうそうそうそう。
確かに確かに。
うん。
なのでデカウルトの方はそれを知性で構成できるっていう意味では、
ある種人間の働きっていうものをちょっと高く評価しすぎているし、
逆に科学の方はただただ光を受け取って神経が発火するだけなんですっていうと、
ちょっとそれはさすがに人間の働きを低く見積もっていらっしゃいませんかねみたいな、
そういうふうに同じ数直線上の、なんかより高い方と低い方みたいな、
そういうふうにして両方を一気に批判するというか、乗り越えようとするんですよね。
おー、はいはい、強いね、はいはい。
そうそうそうっていうところがあるので、
僕らは普段思っている、見るっていうのは外から入った情報を処理することだよねっていうことを、
メルロポンティは乗り越えようとしますと。
うんうんうん。
で、どうやってって話が今日のメインテーマなんですけれども、
ここで前回から前々回からお話ししたゲスタルトっていうものが出てくるんですよ。
おー、なんだっけ、それこそ構造とかそういう話だっけ、なんだっけ。
そうそうそうそう、まさに構造。
ドイツ語でって人の名前じゃないですよとかって言ったと思うんですけど、
つまりこれがその構造とかまとまりとか、そういったものを、
要は人っていうものは見ているんだっていう、そういうふうなことをこれから話していくんですけれども、
例えばちょっと想像してほしいんですけど、
今日ちょっとね、いろんな想像を皆さんにしていただくので、ちょっと疲れちゃうかもしれないんだけれども、
例えば山でも海でもいいんですけれども、
見晴らしのいいところにいると想像してくださいと。
兄貴はどっちだった?
海。
海ね、オッケーオッケー。
じゃあ海だとある種水平線で遠くまで見えてると思うんですけど、
そこから月が昼方ぐらいで昇ってきますっていう時に、
この見えてる月っていうのは、
ある種指の輪っかに収まるくらいちっちゃいものってするじゃないですか。
うんうんうん。
で、例えばじゃあそこから財布を取り出してコインと比べた時に、
たぶん見えているコインと月の大きさって同じはずなんだよね。
あーはいはい、あんま変わらない。
そう、あんま変わらないはずですと。
で、ただね、ただ僕らがそうやって見たとしても、
その月を見て、あの月はコインぐらいにちっちゃい鳥に足りない存在なんだって思うかっていうと、
たぶんそんなことはなくて、
海から上がってきて、なんか雄大な月が上がってきて、今から夜になるんだとかさ、
あるいはその月っていうものは、これは知識も含むけれども、
遠く、宇宙空間の中で、大きな球体として浮かんで動いているんだみたいなさ、
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そう思った時に、やっぱりコインの存在感と月の存在感って、やっぱり異なるはずなんだよね。
その海で空を眺めるみたいなシチュエーションからすると。
うんうん、存在感ね。
うん。
そう。
でも逆に、何かその、めちゃめちゃ喉乾いて、
自販機とかを探した時に、ポケットを探ってたまたま見つけてコインがあったとしたら、
そのコインの存在感ってめちゃめちゃ大きいと思うんだけれども、
そういったシチュエーションとか、どういう場でその存在を見ますかっていうことが、
やっぱりその人にとっての、まさにそのものの存在感、コインならコインだし、月なら月だし、
そういうものの、いわゆる自分に与える情報量というか、インパクトっていうのって違うよねってことを考えるんですよ。
あーなるほど、はいはいはい。同じ100円玉でも、月と比較するためにポケットから取り出した100円と、
めっちゃ喉乾いて、シーツを買う時の100円っていうのは、自分にとって違うよねっていうね、シチュエーションでまさに。
そう、これはしかもその受け取った意味だけじゃなくて、その視覚情報としてもおそらく違いますねと。
つまり、月の方に目が行くか、コインの方に目が行くかっていう、要はその焦点の当て方とかもそうと思うんだけれども、
やっぱり人間ってその、見ている景色とか視覚っていうものを全部バラバラのデータで同じような情報量で受け取ってるんじゃなくって、
当然メリハリとか、今月が種で、海は何だ、あの銃だとかさ、今コインが種で、自販機は銃だとかさ、
そういうふうに、これは図と字の関係とかって言ったりするんだけれども、
何だっけ、図?
図と字、図書の図と地面の字。
地面の字。
そう、主体と背景みたいな。
そういうふうに言われたりもするんだけれども、そういうものをある種、もう無意識的にこう、なんだろうな、濃淡をつけながらやっぱ僕ら見てるんだよね。
はいはいはい。
これはさっきのデカールドとかカークみたいな、光が入ってきますとか、
いったんバラバラな不完全な情報を入れて、中で処理しますってものと全然違って、
見る瞬間に濃淡がついてるし、意味付けがされているっていう、そういったことが起きてるっていう話を、この地平線から、水平線から登る月みたいな、
話でちょっと考えてみませんかっていうことを言っていますと。
はー、なるほど。確かにそうだよね。なんか、写真とかさ、映像もそうだと思うんだけど。
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うんうん。
旅行行ったりとかさ、なんかイベントで写真撮った時に、自分が見てた景色、ちゃんと目でもその記憶に焼き付けましたっていう景色だったりとか、
情景と、写真で撮った後から見返した時とか、映像で見返した時に、全然違う印象とか、あれこんなのあったっけとか、
あれ、目で見た時はすごい綺麗だったのに写真だとな、とか、そういう感覚で確かにある気がするよね。それに近いのかな。
近いと思うし、まさに確かに写真っていうのはすごくいい例えで、企画を道具として切り出したものではあるんだけど、
写真にとったら色あわせるものもあれば、写真だからよりリアリティが伝わるものって逆にあったりするじゃないですか。
あー、はいはいはい。
そう、っていうふうに、やっぱりそれってどこに正しい焦点を当てるかとか、何を聞いとるかっていう話だと思うんだよね。
で、いわゆる人間の今見ることっていうふうに話を戻すと、やっぱり見るっていうのは単純にデータを集めることなんじゃなくて、
やっぱりその視覚全体、あるいは、ちょっと次回になるんだけど、やっぱり視覚、見ることだけじゃなくて、
やっぱり風の波の音とか、砂の感覚とか、当然そういったものは全部僕らはトータルで感じてるはずなんだよね。
あー、はいはいはい。
うん。今、月を見てます。今、砂を触ってます。今、風の音を感じてますとかじゃなくて、
トータルで来たときに、やっぱりその全体っていうものを捉えて、僕らはひとつの砂浜にいて月を見ている自分っていうものを感じますよね、と。
うんうんうん。
うん。だからそれって、何度も言う通り、ただただそのデータを各感覚機関、5感から集めてますっていうこととは、全然違うんですよっていうことをメロ・ポンティは考えるんですよ。
おー。
もっと言うと、やっぱりその、僕らが世界を見るとか、知覚する、感じるっていうのは、この世界の中において、自分たちの、なんていうのかな、自分たちとか、私自身の生きる場所っていうものを作り出すっていう、世界とのコミュニケーションなんだみたいなことを言うんだよね。
はいはいはいはい。
つまり、今コミュニケーションって言ったけど、さっきまでさ、自動的、外から入ってくる情報処理するって一方通行だったんだけど、メロ・ポンティはそれを双方向にしたいんだよね。
なるほど、コミュニケーションなんだね、なるほどなるほど。
そうそうそうそう。なので、その月を見ている自分っていうものが、月の存在感を生み出しているし、その月っていうものに今心がとらわれているっていう状態を生み出している。
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で、当然、これちょっと自治会とかによるんだけれども、隣にいる人も同じように月を見てたとしても、その月のとらえ方って当然違うだろうし。
でもそこに対して何かをフォーカスしてみて、何かは背景にしりといているって、その機能自体は多分同じはずなんだよね。
っていうふうなことでいくと、やっぱりその人も何か世界とのコミュニケーションを行っている、その見るということを通じて。
っていうふうに、ある種のメロ・ポンティは見るっていうことを一方向から双方向へっていう、むしろ同時制にしちゃうかもしれないけれども、
これはちょっと待たせて話すんだけれども、そういった営みだっていうふうに捉え直しますと。
おー面白いね、そっか。
だからあれだもんね、前回か前々回で言ってた神経の話から、反射か、反射を全部集めれば人間になるというかさ、そういうわけじゃないみたいな話したじゃん。
したした。
それとちょっと似てるのかもね、いろんなこの膝を叩くとこうなりますとか、ここの神経を刺激すると小指が動きますみたいな、
それを全部集めればその人になるか、その人間が作れるかというか、解明できるかみたいな話で、いやそうはならないよね、ならそうだよねみたいな話があったけれども、
確かにその視覚情報だよね、今ここから月を見てます、肌ではこういう風を感じてます、気温はこんぐらいです、湿度はこんなもんですみたいな、
足では砂浜の感覚がみたいな、そういうもの全部を集めて、パッケージにしたら全く同じ体験というか、感覚になりますかねみたいな、ちょっと似てる気がした、なんか。
そうだね、そうだね、だからまさにそれはゲスタルトの意義でもあるんだけれども、やっぱり部分を足し上げても全体にならないというか、全体は部分の足し上げたものを超えるっていう発想なので、
だから今にか言ってくれた1個1個の刺激というか、感覚っていうものを加えたとして本当にそのトータルの砂浜にある体験を実現できますかというところとまさにリンクしてるなと思うんだよね。
そっか、その感覚が結構このゲスタルトって感じなの?構造っていう。
そうそうそう。
あーそうなんだ。
構造ってやっぱシステムだからやっぱり全体でひとまとまりだし、その1個1個を分解してしまうとその構造がやっぱりなくなってしまうというか、そういうふうな捉え方だと思うんだよね。
27:09
おーなるほど、面白いね。
そういうところがあるので、やっぱり科学、いわゆる分割していく要素還元主義みたいなものと、逆の方にいってるんですよっていう話なんだけれども、ここで面白いのが、
じゃあ見ること?近くってそういうふうに双方向なんですねっていうところまで行ったとして、でもこれで終わらないっていうか、じゃあなんで僕らは近くがそういうふうに一方向というか、外から内へっていうふうに感じちゃうんだっけっていうところもちゃんとメールポンテは考えてるんですよ。
おーそうなんだ。
これ結構なるほどなと思ったんだけれども、いわゆる見ることね、今日のテーマは見ることなんですけど、これにメールポンテが気づいたのが、どうやらこの見ることっていうのは、自分が見ているとき、
例えばその月を見てますとか、その砂浜にいますというときに、その見ているものは言ってちゃんと伝えてくれるんだけれども、見ていることがどう働いているかとか、さっき言った何を主役として見て何が背景かっていうふうな、
主者選択みたいなものっていうプロセスは、ある種隠れてしまうというか、見せてくれませんっていう、そういうふうな仕掛けがあるよっていうふうに言うんですよね。
見せてくれないっていうのは、いわゆる知覚というか、ではそうやっていろんな情報を与えてくれるけれども、そのプロセス自体を知覚する感覚機関みたいなものないよねって話。
それもそうだし、見るという働きから、何を見ているかとか、どう見ているかっていうことを意識させにくいような仕組みというか、状況があるよねっていうふうに捉えてるって感じかな。
へー、そうなんだ。
もうちょっとベルボンティーっぽく言うと、見ることっていうのは、そこでは対象、明らかになっている世界みたいなものを優先して、見ること自身を忘れるんだっていう、自分が何かを見ているということを気づかせなくさせるんだっていうようなことを言うんだよね。
へー、そうなんだ。
そう。つまり、これもね、じゃあ今皆さんの周囲の景色あったときに、もう見てるじゃん。
うん。
でもさ、自分は今この景色見てるって思うことってほとんどなくない?
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あー、それはないね。
ね。ということはさ、明確に今月を見ているとか、旅行に行って今この景色が綺麗だ、今自分は見ているっていうふうなときぐらいは多分、見ることを感じるんだけど、普段生活している中で、今自分は見ている、見ている、見ているって思うと、多分発狂すると思うんだよね。
まあそう、見ること自体が目的じゃないからね、人間の手段ですからね。
でもそれってじゃあなんでなのって話なんだよね。
へー。
つまり、僕らは常に見てますねと、目が開いてる時間とかは。
でもその、見ていることの働きとか、見ていることという自覚っていうことは、どんどん記憶がなくなっていくというか、それに気づかないっていうことが当たり前になっちゃってます。
そうね。
で、この、見ているものは見えるんだけど、見ていることは見えないっていうこと自体が、さっき言ったような科学的な発想とかデカい的な発想で言う、外から内へっていうこと?
ふんふんふんふん。
つまり本当は、見ることにおいてその図と字の関係とか、何を主役にするかとかっていろんなことが働いてるはずなのに。
ふんふんふんふん。
それはもう見えなくなっているっていう、そういう構造は視覚にもあるんだっていうことにメロポンテは気づくんですよね。
あー、はぁはぁ、なるほど。
そういう風になってるから、さっき言ったデカルトとか、科学的な物質主義みたいな感じに、自動的?
外にあるものを見せてもらってるっていう風な感覚に無意識的になってますよねっていう話。
そう。
いや、むずいな。結構早く淡々と言ってるけどさ、これ結構難しい話してるからね、これ。淡々と言わないでほしいな。
ちゃんと難しいことを伝えてるよっていう風に言ってほしいわ。
ちゃんとメリハリつけて、ちゃんと。
確かに、確かにそうだよね、ごめん。これ多分ね、良くないところで、多分台本を4回、5回ぐらい見直してどうしたら座るかなとか、
冒頭言った体のことと見ること、どっちが先かなとか色々やってた結果、その辺を通り過ぎちゃったのが申し訳ない。そうだね。
なるほどね。結構この感覚というか、それこそやっぱ意識してないところ?
前回のね、フロイトじゃないけども、やっぱ無意識の部分の話をしてくれてるので、
ハヤタとメルロ・ポンティ以外のそういうことを考えない人にとっては、
33:01
今このままね。
見るっていうことが実はそんなにも受動的なんだよとか、外にあるっていう大大大前提みたいなものを、
ただただ捉えてると思ってるよねみたいなところと全然違うんですよって、メルロ・ポンティは今ここで伝えてくれてると思うんだけど、
その差っていうものが、うちらが無意識すぎて、たぶんめっちゃすごいことだったりとか、結構難しいこと言ってるのに、
ふーんってなっちゃう恐れがあるなって、今、ハヤトの担当とした方でからね、今ちょっと思っちゃったけど、これすごい話でしょって。
いやすごい話だよ。
ごめんごめん、ほんとそう、ほんとこれすごいことなんですよ。
取ってつけたように言ってるかもしんないけど。
本当にそういうことなの?大丈夫?言わされてない?
いや本当にすごいことでごめんごめん、そうなんだよね。
次に何を言うと思ったかって台本に書いてるんだけれども、まさにこれがメルロ・ポンティが発見した減少学的な方法なんですって話なんだよね。
減少学的手法。
還元、いわゆるさっき言ったエポ系みたいな話なんだけれども、フッサールが言うエポ系とまたちょっと違うというか、もう少しやっぱメルロ・ポンティは一歩進めてるんですよ。
これちょっとじゃあもう少しちゃんと過ごそうにいるんだけど。
まず、今日何の話をしたかっていうと、僕らのいろんな知覚、語感の中でも見ることについてちょっとフォーカスをしてましたねと。
で、見るっていうのは僕らは基本的には外の情報を受け取るって思っているはずで、
例えばもうちょっとこれは科学の話なので馴染むかどうかあれなんだけれども、
例えば人間が天体望遠鏡を作りました、ガリエオガリエとかがさ、作って木星の衛星を発見しましたとかっていう時に、
要はそれを僕らは普通その人間の見るっていうことの拡張だと。
人間の目では見えないものを望遠鏡ってものを作って遠くで見るようになったとか、
電子顕微鏡とかもそうだけどさ、人間の目では絶対に見えない細菌とか電子の結合とか、
そういうものも顕微鏡が発展すればするほど見えていくみたいな感じで、
科学っていうのは人間の見るとか観察するっていうものを拡張するような仕組みなんだみたいな、
そういう話って全然あると思うんですよね。
たしかにそうだね、はいはい。
なのでよりよく見えるということはより世界がよくわかることだみたいな、
結構そういう発想って僕らあると思うんですよ。
そうだよね、たしかに木星の衛星だって最初からあったものだろうし、
36:03
細菌とかウイルスだってうちらが見えなかっただけで外の世界に存在したものだろうしね。
そうそうそうそう。
なので僕らはそういった見えなかったものが見えるようになるとか、
これまで知らなかったものが知れるようになるっていうことがやっぱり知識が増えることだし、
人間の理性をより働かせることだみたいな、
それと自然科学的な発想って結構結びついてるんだよね。
うんうんうん。
でもある種メルポンティに言わせると、
それってある種ナンセンスというか、やんちゃらおかしいぜっていう話で、
それって結局は見える範囲とか見えるものが広がってるかもしれないけれども、
データを増やしているだけで、結局その世界と関わることとか、
見るっていうことの積極的なプロセス、何を見ますかとか、
今自分はどういうふうに世界を見てるんですかっていう、
そこへの気づきが全くないよねっていう、
そういうふうなことを考えるんですよ。
わー、はいはい。
で、メルポンティ以前に、もちろんゼロではなかったとは思うんだけれども、
そういったことを指摘するとか、
見るっていう仕組み、働きってそんなもんじゃないぜって言った人っていなくて。
あ、そうなんだ。
だから、ある種僕らが今こうやって、見ることっていろんなプロセスがあるよねとか、
感じることっていろんなものを統合して一個になっていく?
それありのままとかっていう話も最近あるけど、
そういうふうに自然を感じるとか、自然と自分でも一体化するみたいな発想に、
もし少しでも馴染んでるとしたら、
こういうメルポンティとかの発見とか世界観っていうものがやっぱりあるからだよねっていうふうに言えるぐらい、
結構やっぱり画期的なことなんだよね。
なるほどだけど、あれだよね。
とするとだけど、今思ったのは、メルポンティ多分すごいこと、
もうちょっとこの感覚を捉えたいなって思ったんだけど、
今、ハヤトの話で思ったのは、
例えばそういう感覚をみんなは持ってるとすると、みたいな話をしたんだけど、
その感覚を今持ってる人の多くにとっては、
このメルポンティの視点だったり考え方っていうものは、
うちらにとっての望遠鏡とか顕微鏡と同じものにしか過ぎないんじゃない?って思った。
はいはいはい。
その感覚と、今メルポンティが話しているコミュニケーションの共生みたいな話。
外に最初からあるものを受け取るっていうもの。
39:00
それを受け取るために、いろんな近くを拡張させるのだ、みたいな話のすごさと尊さもあるんだけれども、
それはナンセンスだっていう、そのナンセンスさみたいなもの。
そこじゃないだろうっていう感覚っていうものを、
このメルポンティの今回の話から少し今染みてきてる感じがするよね、今のところ。
はいはいはいはい。
それは嬉しいし、まさに染みるっていう形でしかわからないものだなとこれは思うんだけれども、
さっきね、現象学的還元みたいな言葉、ちょっと難しい言葉で言ったんだけれども、
結局何かっていうと、僕らは客観的に世界っていうものがあってそれを受け取りますっていう図式にあまりにも馴染んでしまっている。
これはもうたぶん現代人もしょうがないと思ってるんだけれども、
やっぱメルポンティはその手前にあるというか、
世界が客観化する前の、自分と世界っていうのがそうやってコミュニケーションをしている、
そういう場に帰ろうよっていう、そういうことを言うんですよね。
はいはいはい。
これって要は、頭でわかってもできることじゃないし、
難しいか。
自分は生きた世界に帰りましたとかっていうふうに、理性でやっぱできるものじゃなくて、
これ次回またちゃんと言うんだけど、やっぱり身体的なものとか、ある種の体っていうものを相動員にしないとやっぱできないことなんだよね。
ほう、なるほどね。
なので、よく身体値みたいな話で、自転車1回漕いだら漕げるとかさ、
そういうのあると思うんだけれども、
それってある種、やっぱり理性、頭でどんなに自転車の漕げ方、マニュアルをインプットしても漕げないじゃん。
あー、はいはいはい。
それと一緒で、どんなにメルポンティを読んで、現象学的還元を俺は理解したぞって言っても、できないんだよね。
まあそれだけじゃあねっていうね。
うん、そうそうそう。
で、マルとした時に、これって要は、人間の知識を増やしましょうとか、
さっき言ったような見えるものを広げていきましょうっていうこととは、そもそも逆の操作なんですよ。
いやー、難しいね、そっか。
でもそれを知るためにはこうやって知識を知らないとねっていう矛盾みたいなものが起きてるんだね、今ね。
そうだね、それはやっぱりみんながもう客観的世界で生きてしまっているからで、
その世界を経ずに生きている人とか、
もしかしたら、あんまり言い方を正しく言うかもしれないけども、原住民の人とか、あるいはちょっと悟り的なものが近いと思うんだけれども、
42:02
世界を客観視とか、自分の対象として置かないで、自分も世界も自然も一体的なものだみたいな、
そういうふうなものが当たり前できている人からしたら、わざわざこんなことは言わなくてもいいかもっていうのがあるかもしれないね。
なんか今のはあんまり伝わらなかった?
うーん、そうだね。
いや、もちろんそういう人たちというか、そういう感じもあるんだろうけれども、
さっきの話で言うと、例えばガリレオが望遠鏡を作って衛星発見しましたっていう時に、
例えばそれは視覚の拡張でしかないのでナンセンスですってメールをポンティは言ったとして、
それってちょっと面白いなと思ったんだけど、
それは無意識的に外の世界を受け入れているだけです、みたいな、そう方向じゃないです、みたいな話があった時に、
思ったのは、とはいえガリレオだったりとか、電子顕微鏡だったりを作ろうと思った人みたいな人は、
たぶんね、このメールをポンティが言うこの共生、コミュニケーション、
多分双方向で生きていないと作らないんじゃないかなって思ったんだよね。
はいはいはい。
だからここの違い、さっきメールをポンティの今伝えてくれている一方通行じゃない双方向の感覚みたいなものを、
さっきそれを道具みたいにしちゃうと、ただ視覚を拡張させるものになっちゃうよ、みたいな話をしたけれども、
それと同じで、その感覚を借りている場合は、
外にあるそういう道具をただ使わせてもらってますっていうだけ、っていう一方通行のままなんだけど、
このメールをポンティの今、ハヤトが話をしてくれているここにアクセスすることで、双方向ってなんだろうみたいなものだったりとか、
あとガリエオの望遠鏡じゃなくて、なんでそもそも望遠鏡だとか、なんでそんなことを思ったのかっていう部分には絶対に、
そこって一方通行からじゃ出てこない感覚じゃん、ガリエオにせよ、ガリエオにせよ、みたいな。
そういうところに双方向性みたいなものとか、一方通行と違うものの種みたいなものがあるんじゃないかなって、ちょっと今話を聞きながら感じているって感じかな。
はいはいはいはい、そういうことね。確かに、その話を言うと、あくまでも今僕がナンセンスって言ったのは、ガリエオが望遠鏡を通して木星を見ることとか、
45:09
その見る働きに対して外から内へっていう、その拡張ですよっていうふうに話をしたんだけれども、
確かにね、言ってくれたように、そもそもそこまでの熱意を持つとか、誰も作ったことがないぐらいの精度の望遠鏡を作るとか。
そういうことでいくと、今度は道具論とかやってくるんだけど。
道具論、それもメルロポンティなの?
どっちかというとね、ハイデガーとかの方が近いんだけど。
なんかあるんだ、そういうの。
道具っていうものって人間にとってなんだみたいな、そういうふうな話は哲学的にあるはあるんだよね。
でも、もうちょっとそれ行くと先になっちゃうんで、あくまでも今回その体とか見ることにちょっとフォーカスしたいんだけど、
自分が世界を見るとか、ある種メルロポンティが言うように客観的な世界じゃなくて、生きた世界とかって言ったりするんだけど、
そういう自分と世界を分けるんじゃなくて、自分も世界の中にいるし、逆に世界も自分の中にあるみたいな、
うちとそとって切り離さないんだみたいな話をするんだけど、
そういうふうな世界の捉え方とか、生き方っていうものをするっていう話でいくと、
もうちょっと原始的というか、本当に世界と自分っていうものがどういうふうに関わり合うのかみたいな、
結構そういう本当に関係の始まりみたいなところを問うテーマというか、そういう領域であるかなとは思うんだよね。
ハイト的にはそう思う。別に原始的である必要はないと思うけどね、その感覚においては。
原始的って言葉が良くないのかな?どんなふうに受け取った?
うんとね、これ自分を棚に置いて話すよ。
はいはい。
今回のメルロ・ポンティの感覚、普通は自分も含めて普通の人たちは、
そういうことで外にものがあるっていう大前提、それを受け取るっていうスタンスで生きてます。
そっから今回メルロ・ポンティが言うところの共生、双方向的な感覚を、
何となく知りたいとか実践しようとした時には、やっぱり身体値というか、実践あるのみですね、難しいですねっていう話があった時に、
実践しようとする時の第一歩だったりとか、想像してみるっていう意味での原始的な感覚。
はいはいはい。
48:00
現代的とは違う情報が溢れてて、いろんな正解みたいなものが頼まなくてもどんどん入ってくるっていう状況から離れて、
原始的な方に行った方が、そういうメルロ・ポンティが言うところの感覚、得やすいですよ、みたいな話で言うのなら理解できるんだけれども、
はいはい。
そっちこそが、原始的な方こそが共生に近いですよ、みたいな感じになっちゃうと違うかなっていう風に捉えられたら嫌だなって思った感じかな。
だから今のこの現代でも、毎日最先端のAR研究をしている人たちとかの中でも絶対いるじゃん、どっちも。
どっちもいるじゃん、多分。
そうだね、そうだね。
みたいな話で言うと、あんまり原始的なとか、自然の方が、みたいな。
そういう感じじゃなくて、第一歩としてはアリだと思ってるぐらいの、これは自分の感覚だったよね。
オッケーオッケー、多分これぐらい原始的っていう、プリミティブみたいなことを言いたくて使っちゃったのが、やはりこの天住民とかさ、
ちょっと自然みたいなところと繋がっちゃったのかなと思うんだけれども、どっちかっていうと、生きた世界、さっき言ったような関わり方みたいな話でいくと、
前期の言う通り、別にそれが都会であろうと田舎であろうととか変わらず、後でもしかしたら時代とかってものも越えてくるかもしれないんだけれども、
そこにおいて自分が今生きているというか、今この場にあるっていう、その在り方のゼロ地点というか始まり方において、
このメーロポンティが言う、現象学的還元とか生きた世界っていうような、世界を客観化する前の在り方があるよっていう話なんだよね。
客観化する前ね、はいはいはい。
世界っていうのは外部にあって外から内に入ってくるんだっていう、そういう捉え方じゃなくて、
そもそも人が何かを見る、月を見るっていう時には、その見方とか、見るということ自体に自分の働きかけとか、月からの働きかけとか、
そういったものがあるんだっていう、この関係性っていうところから世界を始めること。
なるほど、そうか。早くはちょっと原住民のっていう言葉を出したから、そこに引っ張られちゃったんだけど、
そことはもうすでに話は切り分けられていて、メーロポンティが言うところの、誰でもいい人間、
当社比で、よりプリミティブな、当社比で原始的な、もっとその素朴な世界との関わり方があるよねっていう話ね。
51:11
そうそうそう、そういうことそういうこと。
なるほど、であれば。
ごめんごめん、ちょっと言葉がね、混ざったりとかね、繋がってしまって申し訳なかったんだけれども。
今兄貴が言った通りかなと思ってますと。
なので、ずっと今回同じ話をしていくんだけれども、メーロポンってやっぱりその客観的な世界の捉え方とか、
世界っていうものの外に自分とか主体とか認識っていうものを置いて、
その神様みたいな視点から世界を捉えるっていう風な、そういうものをやっぱり徹底的に批判するというか、
それは違うんじゃないかっていう風にやっぱり言いたい人なんですよね。
はいはいはい。
なので、今回お伝えしたのは見ることっていうのも、外の世界を客観的な自分が見るんじゃなくって、
むしろ世界と自分っていうものは絡み合っているとか、一緒に世界を作っている、それが見ることだみたいな。
そのぐらいでも理解してもらった方が、そういう感覚ねとか、そんなこと言ったんだっていうことがイメージしやすいかなと思うんですよね。
私、今日の冒頭ではいとか言ってたけれども、いきなりこの話?
はいはい。
この話を身体全部の話でされたらとんでもないね。
いやーそうだよね。
どう説明されるのかも想像つかないし、どう理解していいのかも想像つかないね。
この見るっていうことだけで、これだもんね、今回の。
いやーそうね。
私も兄貴が途中で言ってくれたからよかったけれどもさ、やっぱりあまりにも僕ら普段は見ることとかさ、身体を動かすことって当たり前にやりすぎていて、
そこで見ることにはプロセスがあってねとか、身体を動かすことにはこんな不思議なメカニズムがあってねとか言われても、やっぱり分かんないっていうか、
あ、そうなの?みたいなやっぱりそうなっちゃうと思うんだよね。
あーはい、あの驚きポイント分かんない問題ね。
そうそうそうそう。
たぶん今回見ることだけでそうだったから、もし先に身体のことやってたとすると、なんかもうちょっと待ってみたいな、何が何だかってなってたなって思うのよ。
僕の伝え方も含めてね。
なのでちょっと今日の話でやっぱり兄貴の驚きポイントというか、やっぱりここが伝わんないよねとか、こういうところがやっぱりメイロポンティすごいねってなるポイントってことを逆に僕もちょっと見えたから、
54:02
次回にちょっと身体全体の話、今日の話を踏まえて身体っていう話をするんですけど。
身体全体の話はするんだ。
するよ、もちろん。
なるほど。
やっぱそれが一番重要だし、哲学的にやっぱメイロポンティのすごいところ。
それまで意識ってものが圧倒的に強くって、身体なんてのはもう意識の、むしろ機械だみたいな。
そっかそっか、上下関係、そして二元論みたいな話だったね。
物心二元論っていうものがやっぱりまだまだ残っていた時代に、やっぱ全然そうだね、身体っていう方がむしろ主体主なんだぐらいの。
むしろ私っていうのは私の身体なんだぐらいの、そういうことを言い出すんですよ。
なるほど、そっか、確かに。
もちろん次回聞かないとだけど、確かに今回の話になかったら理解できなさそうだね、全く。
何の話してんのか。
いきなりで言われてもね。
なるほど。
でも今回の見ることってこんなにすごいんですよとか、普段僕ら見てるものっていうのは見る履歴が隠されたもので、
そこに目を向けることで僕らは生きた世界っていうものを取り戻すというか、そこに帰ることができるんですよっていうことが何となく伝わってると、
そういう雰囲気の世界があるのねとか、そういう僕らは普段意識してないものに何かメスを入れようとしてるのねみたいな、
そういうことが伝わってればもう今日はOKかなと思ってるんですよね。
なるほど。はいはい。
だからその、外にある正解を取りに行ってる感じだったりとか、ただ流れ込んでくるっていう感じじゃないですよっていう感覚を。
そうそうそう。
うん。
なるほどね。
じゃあ次体の話をしますよっていうところに。
体は今日の結論というか、着地点ですっていう感じ。
本当に前提の話なんだね。
実はやっぱ難しいのがさ、前提の話が多すぎてさ、もう3回、約3時間話してるのに、やっと次本題の体ですみたいなさ。
だって本当は多分あれだよね、ちゃんとやろうとすると本当はもう1回デカイルドの心身二元論だったりか物心二元論だったり。
そうだね。物心二元論、心身二元論そうだね。
その辺も多分ちゃんとやった方がもっと面白いみたいな話になるんだろうけども、その面白さって何?っていう話に今度はなってくるよね。
2、30回、デカイルド10回やってからみたいな話になるけど、それ面白いんだっけっていう話に今度はなってくるっていうね。
57:01
そうね、ちょっとね、届ける方もしんどいし聞く方もしんどいと思うから。
デカイルドのことはちょいちょい話もしますし、いずれも取り上げてもらえるので、よければ聞いてくださいっていう感じではあるんですけど、
本当にそれがなくても一定伝わるように話したいなと思っているし、次回はね、やっぱりより面白いというか、
人間って、思ってるとちょっと雑談っぽくなってるかもしれないけれども、最近ジムに行くとかヨガをするとかさ、やっぱ体への注目って高まってると思うんですよ。
あー、はいはい、そうだね。
人ほどこのメールポンっていう哲学ってハマるというか、体をそういうふうに捉えたんだとか、それまでの流れでこんなふうに変わったんだっていうことって結構面白いと思うんで、
そういったことに関心ある人こそ、ぜひ聞いていただきたいなと思うような内容ですね。
はい、わかりました。では次回ですね、このメールポンティの身体の方ですね、そちらへ入っていくというところで楽しんでいきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。