こんにちは、小説家の岩井圭也です。 News Connect 文化欄のお時間です。
本日のゲストは、哲学者・作家の永井玲衣さんです。
永井さんは、哲学者として対話の場で活躍をされていますが、
著書を出すたびに注目が集まる非営の作家でもあり、私もその読者の一人です。
今回は、「まなざす」ということを起点に、様々なお話を展開させてもらいました。
それでは本編をどうぞ。
ゲストは哲学者・作家の永井玲衣さんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今日ちょっと初めましてということなんですけれども、
永井さんの本、実は私個人的には前から読ませていただいてまして、
ありがとうございます。本当に。
すごい好きです。もう今日もね、自分の本を持ってきたんですけど、いくつか。
恐縮です。
ちょっとね、本棚に絶対どっかにあるはずなんだけど、見つからなくて買い直したやつとかもあります。
2冊も、本当に。
世界の適切な小相撲2冊目。
黄色いけどね。見えやすいけど。
これはどっかにあるはずなんですけど、絶対。見つけられなくてそうなんですよ。
永井さんはもうあれですか、ご自宅の本棚は結構綺麗なタイプですか?それとも結構わーってなってるタイプですか?
いやー、なるべく綺麗にしようと思って、一応図書館で働いていたというか、バイトしてた時もあったので、
その時の思いを大事にしながら、こんな風に綺麗には言いますけれども、
あれもやっぱカオス化してきますよね、本棚はね。
そうですね。僕も本当に本棚買ったばっかりの時は余裕がいっぱいあって、
これ無限に本買えるんじゃないかみたいな。
いや、まさしく。
やったーって言って、半月くらいで埋まっちゃうんですよね。
ですよね。
漫画全館セットとか買うと、もう一棚やられるみたいな、一段やられるみたいな。
あれ、びっくりしますよね。え、これで一段いくんだみたいな。
そうなんですよ。あれ?みたいな。
あっという間に床に積むようになり、棚の上の空間に横に差し込むようになりみたいな。
そうなったらもうだいぶカオス化が本格化してますね。
その結果見つからないみたいな。2冊目を買うみたいな。
ありがとうございます。
最初ですね、永井さんのプロフィールをご紹介したいと思います。
1991年、東京都のお生まれです。
人々と考え合う場である哲学対話を幅広く行っておられます。
諸々に水中の哲学者たち、世界の適切な保存、寂しくてごめん、これがそうなのかなどございます。
そして7月23日、写真家柳崎さんとの戦争ってプロジェクトを元にした書籍戦争ってを発売されました。
死と植物園と念入りな散歩がお好きということですね。
念入りな散歩っていうのはもう永井さんを表す本当に重要なキーワードだと思うんですけど。
重要だった。
だってね、どこに入ってるのか忘れちゃいましたけど、
プロフィールは念入りな散歩が好きだけでいいって書かれてたぐらいなので、
それすごい散歩がお好きな方なんだなっていうふうに思うかもしれないですけど、
でもこれなんか、ただそういう意味じゃなくて、
念入りな散歩っていうことの行為の意味を知れば知るほど、
永井さんのスタイルそのものなんだなっていうことがわかるっていう意味で、
すごく重要なワードなのかなと思っていて、
今日、僕もいろんなことを話したいなと思ってたんですけど、
最初にやっぱりそこというか、念入りな散歩とも関係あるんですけど、
僕もちょっと哲学対話ってやったことないんですけれども、
ちょっとなんか気になってることを一つ投げかけたいなと思ってます。
ぜひ。
僕は、まなざすっていう言葉がずっとすごく気になってて、その言葉自体が。
で、僕最初に気になったのが美術館だったんですよ。
美術館の解説って、すごいまなざしって言葉出てくるんですよ。
出てくる。
で、これって小説とかの評論ではそんなに出てこないんですよ。
たぶん、比べて。
美術館でめちゃくちゃ見る言葉なんですよ。
まなざしとかまなざすっていうの。
で、小説の中でも、まあ確かにまなざしって言葉出てくるんですけど、
だいたい見るとか見やるみたいな言葉で終わっちゃうことが多いんですけど、
すんごいまなざしって言葉出てくるなって、美術館で思って。
で、そっから僕も意図的に小説の中でも使ったりするようになってるんですけど、
まなざしってそもそも、なんで見るじゃだめなんだろうって。
なんでまなざすって言うんだろうっていうのは、ずっとね、それは不思議だったんですよね。
なるほど。
で、結構、永井さんの著書の中にもまなざしっていう言葉がたくさん出てくると思うんですよね。
まなざすっていうのは。
で、これってなんかこう、考えたことというか、
たぶん言葉って絶対選んでると思うんですよ、書くときに。
この言葉が一番しっくりくるなとかって。
だからまなざしとかって言葉に感じてるイメージとか、
どういうとき使ってらっしゃるのかなっていうのをまず聞いてみたくて。
なるほど。面白いですね。
私がまなざしという言葉を使うときは、かなり主体的なイメージ。
しかもそれは聞きとしてする主体性だけでなくて、
そうせざるを得ないとか、ある意味嫌をなく引き受けるみたいな。
目を向けるということを引き受けるみたいなところがニュアンスとして入っているような。
まなざさせられるみたいな感じが近いんですかね。
そうですね。
見させられるというか。
だし、まなざされるっていう向こう側からちゃんと向けられている。
それが目線だけじゃなくて、いろんな声とか訴えとか心みたいなものまで
こちらに差し向けられているという緊張感を表すときに、
まなざしって使っているような気がしてきましたね。
緊張感ってなんかそうかもしれないですね、すごく。
なんかその寝転がってテレビ見てるときに、
俺は今テレビをまなざしているとはやっぱり言わないですもんね。
言わないですね。
やっぱなんていうか、人と人が真剣に向き合っているときとか、
めちゃくちゃ注視して見ているときとかですよね。
そうですね。
私このね緊張感って言葉結構好きで、緊張って忌避されるんですけど、
よくなんで緊張しちゃうんだろうとかって、
確かに本番前の緊張って嫌なものなんですけど、
これを例えば対話の場に置き換えて考えてみると、
対話の場ってよくすごく居心地のいい、安心できる場所みたいに表現されることがあって、
やっぱちょっと手触りが違うんですよね。
っていうのも、そこで本当にリビングでゴロゴロして、
何でも言いたいことを言えるとか、ヘニョヘニョになれるっていうようなことではなくて、
やっぱそこでこの言葉にどう自分が真剣に向き合うかとか、
あるいはこの言葉がどう他者に響くのかっていうことにすごく選択的になるとか、
他者に向けられた言葉を聞き逃さないようにするとか、
そういうときってちゃんと緊張できる場所で、
だから私は対話は張り詰めた眼差しのような緊張感っていうものをしっかり言いたいし、
大丈夫ですよってあんまり言い過ぎないようにしてるんですよね。
それってまさに念入りな散歩に通じることだと思って、
最初念入りな散歩ってもう何週もするのかな同じところみたいな、
その勝手なイメージだったんですけど、
でもエッセン読むと意味がわかるんですけど、
要は緊張感を持ってやるっていうことなんですよね、
たぶん僕が感じた感じなんですけど。
向井 そうですそうです。
いろんな自分の周囲のものを五感だったり第六感まで使って、
しっかりセンサーを研ぎ澄ませて緊張感を持ってあたりを見ながら散歩をする、
それによって何かを発見したり未知に出会ったりする、
みたいなことが念入りな散歩っていうことで、
それは確かにめっちゃ面白いかもって思ったんですよね、
やってみたらすごい面白そうって思ったんですよ、
僕もやってみようと思って、
ちょっと暑かったんでそんなに長くできなかったんですけど、
向井 夏真っ盛りで。
ちょっと国書の中ではなかなか長時間できないんですけど、
僕もそうやって、
家の近くに道路標識があるんですよね、
速度制限の道路標識なんですけど、
ここまでってめっちゃ書いてあったんですよ、太い字で。
ここまでって書いてあって、
何がここまでなんだろうって思って、
しかも赤い丸と斜めの棒で、
絶対にここまでみたいな標識が出てるんですよね。
俺の人生ここまでなのかなんだとか、
標識ってそういうものなんですけど、
わかってもらいたいからすごい派手なマークにしてるし、
大きい文字で書いてるんですけど、
ここまで主張が強くここまでって言われたら、
思わず足やっぱ止めちゃうなっていうか、
いろんなものがストップしちゃうかもこの前ではみたいな、
でもそれってやっぱり、
当然その道って何十回何百回と通ってるんですけど、
ねんぎりな散歩をして初めて気づいたんですよ。
ねんぎりな散歩って本当に面白いなっていうのは、
僕も身をもって体験しました。
エビナに行った時に同じように標識で、
今度はここからって書いてました。
そしたら写真撮って、
ここからなのかな私もみたいな、
思っちゃうみたいな。
ここまでがあればここからもあるっていうのも、
世界の複雑さっていうかね、
組み尽くせなさみたいなのを感じますね。
そうですね、終点があるってことは支点もあってっていうことなんですよね。
なんかでも無意識に求めてるメッセージをちょっと拾っちゃったのかな、
みたいな気もちょっとしましたね。
やっぱりちょっと悩んでるタームだったというか、
作家としてどうなんだろうみたいなことを多分考えてる中で、
いい話だな。
ここまで!
確かにそうやって私も夜とかにウロウロして、
もうなんかダメかもみたいな、
私ってこうなのかなみたいに。
で、ちょっとセンチメンタルになったりして、
夜の公演なんてよりそれを歓喜するじゃないですか。
で、ふーなんて言って、
私って、みたいな思ってたら、
いきなりちっちゃな犬が飛び出してきて、
ワンとか吠えるわけですよ。
うわーびっくりした!とか言って、
みっともなくなるとか、
でもそれってその散歩というか、
他なる世界ってものに身を晒すから起きるんですよね。
そうやって自分はこうだっていうふうに思い込んでる中を、
全く予期せぬ仕方で打ち壊されるっていうことが、
外気に触れると怒る。
で、それがまたたまたま、
ここまでなのかもって、
むしろ告知してもらえるっていうこともあれば、
じゃあここまでなんだって思い込んでたのを、
また全然違う方向から、
バーとか言っていいのに言われて、
ギャーとか言って、めっちゃダサい。
でもこれも私だったっていうふうに気づかせてもらうとか、
他者性っていうことに自分がずっと引き付けられてるのは、
散歩もそうだし、他者との対話っていうのもそうだし、
あるいは文学っていうものも、
私にとっては繋がってるんですよね。
私娘2人いるんですけど、
小2と年中の子なんですけど、
子供と歩いてるともう、
絶えず他者と遭遇しまくるんですよね。
まず歩くスピードが大人の半分くらい。
でも嫌悪なしに、しかも急にしゃがみ込んで、
猫じゃらしを一生懸命抜きまくるとかを始める。
後ろでぼーっと待ってるしかなくて、
スマホとか見ても危ないしなとか、
いつまた動き出すかわからないんで、
とにかくぼーっと周りを見るとかしかできなくて、
ぼーっと見てると、
あのおじさん、なんであんな格好してんだろう?
こんな暑いのにとか、
あそこの周りさん、いつもあそこで立ってるなとか、
やっぱ観察本来、本来というか、
一人ならしなかったものが強制的に、
それこそ学ざされてしまうというか、
とにかくすごくあって、
本当に異質な人と暮らすっていうことは、
何かを学ざすっていうこととすごく近いのかなっていうのは、
子供と暮らしてて日々思うんですよね。
本当そうですね。
子供たちの急に街中でしゃがみ込んで、
ものすごく小さなアリの巣とかをずっといじってるとか、
ものすごく小さな小石をずっと触ってるとか、
かと思えば信じられないスケールで物事を見てるとか、
世界の見方というか切り取り方が全然違うわけですよね。
そこにまたハッとさせられると。
それは哲学対話一緒にやっててもそうで、
子供たちの問いいろいろあるんですけど、
こないだ静岡のお寺でやったときに、
3、4歳だったかなの子供も一緒に参加したんですよ。
ピッと手を挙げてですね、大人に混じって。
最初問い出しの時間に不思議なことある?って言ったらピッと手を挙げて、
じゃあ何ですかって言ったら、富士山は必要かって言ったんですよ。
すげえ。
感動して、いや必要かどうかで見たことなかったなって。
大人たちは結構自分は自己肯定感低くてみたいな、
自己肯定感ってでも何なんだろうとか、どうやって上がるんだろうとか、
すごいそれも切実で大切な問いなんですよね。
人間関係がこうだとかいう風に言ってた中で、
その流れで富士山は必要かって言われちゃって、
みんなもうひっくり返って笑っちゃったんですよ。
面白い。
で、どうしてそういう絵描きになったのって言ったら、
なくても日本は綺麗だからって言ったんですよ。
おー。
えっ、えっみたいな。
もうなんかいろいろえっみたいな。
すごい。
日本みたいな。
綺麗、えっ富士山、あっみたいな。
そういうスケールで考えてたの?
あーみたいになって、もうなんか、
もうみんななんか呆然とこうハンズとしてて、
それについて考えちゃうみたいな。
なんか思わぬ仕方で、
マナザスってどうしてもやっぱり固定化することでもあるんですよね、世界を。
だし、見る側がもうある程度不安定な場ではいけなくて、
ここから見るっていう風に、
対象も自分も固定化しちゃう時があって、
そこからずれなくなる時があるんですけど、
とんでもない視点から見ているっていうことを告知してもらえることによって、
またそこがゆっくり動いていけるっていう幅を持つのが、
対話の醍醐味なんですよね。
なんかそう、僕も一つ思い出したのが今、
昔上の娘がもっとちっちゃかった時に、
なんかパーって一緒に歩いてて、
なんか娘が、パパ、ポニョ足すポニョは何でしょう?って言われた。
やば。
え?って思って、ポニョ足すポニョ?って。
ポニョポニョかな?とかって言ったら、
いいですね。
パパ違うよ、2だよって言われた。
確かに、そっか。
2かー!って思って。
これなんか、あれか?もっとこう、
抽象的思考に己を高めろみたいな呼びかけなのか?
呼びかけを受け取ってしまうんですね。
それはなんか結構ショッキングで。
ショッキングですね。
ちゃんとそこを1として認識してたというか、
意味なく言ってるわけじゃないとかっていうか、
いろいろなことを考えちゃって。
確かに。
そういう、だから全く本当に考えてないというか、
多分考えてるんだけども、
無意識のうちに排除しちゃってることみたいなのを、
それこそまなざししてるっていうのが結構ね、
子供から教えてもらうときの何かなのかなと思ってて。
福島の小学校に行ったときに、
またその哲学対話で問い出しをしたんですよね。
そしたら1人の子がすごく不安そうな顔で、
小学校2、3年生だったかな?
どうしたの?って言ったら、
あのさーって言って、
映画館に行くとねって言って、
映画館で売ってるものは食べていいのに、
なんでイオンで買ったものは食べちゃいけないの?って言われて。
そんなこと考えてたんだって。
1年生だ。小学校1年生だったな。
なんか、あ、でもパンパンにいつも子供も考えてんだなって。
これ当たり前ですけど、子供も大人も、
なんかついついちょっとぼーっとした子でとか、
親がちょっと謙遜したりとかするじゃないですか。
全くそんなことなくて、
確かに映画館で持ち込みできる場もあるけど、
禁止みたいな。
で、それって確かにイオンで買ったもの食べたいよねみたいな。
みんなで。
イオンシネマだったんすかね。
そうそうそう。
イオンシネマなんだろうなーみたいな。
なんかグッとくるなーと思って。
多分親とこの間行って、親だが誰かと行って、
イオンのもの食べたいなーって思ってたことをよく覚えていて、
学校のその対話で言ってくれるみたいな、あるんだなーって。
確かにそうです。
なんかだから、マナザスって一人でやることみたいな感覚もすごくしてるんですけど、
でも多分そうじゃないというか、
それこそ対話して見ないと、絶対に得られないマナザシ方みたいなのがあるから、
多分一人でやるよりもみんなでやったほうが、
いろいろな方向から見つめられるんだろうなーっていう、
それはさっきここまで話してなんか感じましたね。
そうだと思いますね。
マナザシもそうだし、まさにマナザシの話か、
死んだらどうなるっていう問いが現場で何回か出たことがあって、
切り口全然違うんですけど、
子供たちとか大好きで、死んだら天国に行くとか地獄に行くとか、
で、生まれ変わるみたいな。
でもなんか急に子供がピタッと止まって、
生まれ変わるってどういうふうに言えるんだろうみたいな、
すごい構造、超哲学みたいな、めっちゃむずいみたいな。
でも僕たち日々生まれ変わってはいてーみたいな、
細胞が生まれ変わってるから、じゃあこれは生まれ変わってるってこと?みたいな、
超難しい、哲学でいうテセウスの船っていう考え方があるんですけど、
思考事件があるんですけど、
そういう領域に入っていったりすることもあるんですね。
一方で、ある街の地域の集まりみたいなので、
同じように死んだらどうなるっていう言葉が出たんですね。
それは高齢の方から出たんですけれども、
みんなそれでやりたいって言って始めたら、
死んだ後は墓が、みたいないい感じで言って、
マジで死後の世界じゃなくて、自分が死んだ後の、
物理世界の。
遺産をどうするとか、心配とか、それも説一の問いだし、
それが死んだのになんでそれが気になるんだろうとか、
何を残せばいいんだろうとか、墓ってなんだっけそもそもとか、
樹木草にしてくれとかあるじゃないですか、
どういう風に弔ってほしいとか、
それって今決めることなのかなみたいな、
生きてる時に決めることなのかなとか、
別の現場でも似たようなのが出て、
死んでから決めたいみたいな話が出たりして、
みんなゲラゲラ笑ったんですけど、そうだねって言って、
同じ言葉でも、地面的には、
例えばそれが文字として何か紙とかネット上にあると、
もうこういう問いになって見れちゃうんだけど、
人々が触ると全然違う眼差し方をしていたりとかして、
こんなに奥行きがあるんだっていう風に、
気づかせてもらえるのはありますね。
なんかお墓は、これは他の人も言ってたかもしれないですけど、
僕は大阪の出身なんですよ。
関西って古墳がすごいいっぱいあるんですけど、
古墳ってお墓だよなみたいな、
遠足とかで行くんですけど、小学校。
うわーとか言って、みんなでお墓の中、
お墓って何だっけみたいな。
向井 確かに、そっか、古墳ってお墓ですもんね。
古墳ってお墓なんですよ、多分。
沖縄のところもそういうの近いものありますけど、
お墓めっちゃ観光してるな、俺たちみたいな。
向井 お墓に入っていいのかとかね。
そうなんですよね。
玉霊園でそれやったらまずいだろうみたいな。
小学校が見てください、山田さんの墓地ですみたいな。
じゃないですか。
でも古墳とかだとやるんだよなと思って、
それは結構不思議な感じでしたね。
向井 確かに、そうやって当たり前だと思ったものが、
ひっくり返っていく瞬間っていうのを、
私は哲学モメントって呼んでるんですけど、
そうやって不安にさせられることでもあると同時に、
やっぱ笑っちゃうんですよね。
互いの問いを聞き合ってるときって、
ポロンと涙が出ることも多いけど、
なんかね、みんな笑ってんすよね。
それが楽しいんすよね。
意外になるとやっぱ、人は不安になるか怖がるかどっちかなんですかね。
向井 ねえ、なんなんですかね。
結構笑いと恐怖は神ひとえみたいなことをたまに聞きますけどね。
笑う方向に転じるか、怖い方向に転じるかがありますけど、
要はこう思ってたものが違うかったっていうことの瞬間に出てくる感情だと思うんで、
笑っちゃうか、ゾクッとするかなのかなと思いましたね。
向井 もともと私が哲学に惹かれたのは、不条理っていう概念なんですよね。
それは世界っていうものをどんなに、それこそまなざそうとしても、
まなざして固定化しようとしても、
世界っていうのはどうやったってすり抜けちゃうし、私を超えてしまう。
それはどちらかっていうふうにおっしゃったんですけど、
同時でもあるというか、うわ、怖っ、はははは、みたいに笑ってしまうっていう、
そういうのがあるのかもしれなくて、
だから私は不条理文学と言われる、カミュとか、
作家がすごくカフカとか好きなんですけど、
カフカなんてあれ、最悪だけどめっちゃ笑えるみたいな、
向井 同時なんですよね。
確かにコントみたいなもんですからね。
向井 そうですね。
僕は割とラーメンズのコントとか、
シソンヌのコントとかよく見るんですけど、
やっぱね、怖い時あるんですよね。
なんか本当に、わーははははって笑えるオチじゃない時というか、
なんかそういうのがあって、
だから本当に近接なんだなーみたいなのがすごい感じてるんですけど、
なんか小説で笑わせるのってすごい難しいって言われるんですよ。
ユーモア小説ってすっごい難しいって言われてて、
やっぱホラーとか、
例えば本格未成とか驚かせるみたいなジャンルはあるんですけど、
笑わせるのってすごい難しいって言うんですよね。
なんでなんだろうなーって僕ずっと不思議なんですけど。
向井 でもなんかこうよくよく、
私戦後文学と言われるジャンルすごく好きなんですけど、
ものすごい悲惨な、で重い小説たちですよね。
でもとんでもないユーモアがあって、
例えば私好きな詩人で石原芳郎っていうのがいるんですけど、
彼の棒を飲んだ話っていうめちゃくちゃ重い話があって、
それは毎朝知らん男がやってきて、
私に棒を飲ませるって1メートルくらいなのかな?
棒を飲ませるんだ。
なんかでかい棒を飲ませるんですよね。
で夕方になると同じ人がやってきて、
またその棒を回収するっていう話なんですよ。
じゃあその棒が一体何の表彰なのかっていうのは、
めちゃくちゃ議論がきっとあると思って、
彼の非常に過酷な戦争体験とか、
シベリア浴流とか、
彼は過酷すぎて失語症にもなったような人なので、
そういうふうに容易に考えられるんですけども、
その中で棒を飲まされるんですけど、
主人公はこれ毎回飲まされるけど、
上と下ってちゃんと区別してくれてるのかな?
みたいなことを気にし始めるんですよ。
その肛門に近いか口に近いかであるじゃないですか。
棒をグッと飲むとしたら。
すごい気になるみたいになって、
一応確認するんですよね。
棒飲ませるやつに。
これ大丈夫ですか?みたいな。
そこで言いくるめられちゃうんですよ。
一緒だろ?みたいな。
それに対して、
畜生そうか!って言うんですよ。
本当にね、笑っちゃう。
すごい。
本当にすごいと思います。文学者って。
畜生じゃないだろうって。
畜生そうか!って納得しちゃうっていう。
そういうのがありますね。
ホラー小説で、
ソネ・ケイスケさんの
ジュナンっていう短編があるんですけど、
ほんとタイトル通りで、
とにかく不条理に悲惨な目に合わさるんですよ。
結構前のはうろ覚えなんですけど、
確か目が覚めたら、
ビルの隙間かなんかに繋がれてるんですよ、鎖で。
動けないみたいな。
嫌だ。
自分が手の届かないところかなんかで、
めっちゃご飯食べてる人がいるとか、
不条理にボコボコにされるとか、
うわーって変な奴が来て、
ずっと喋り続けるとか、
理由はないんですよ、その悲惨な目に合うのに。
とにかくジュナンを受け続けるっていう。
かわいそすぎて、
ちょっと面白くなって、
ちょっとおかしくなってくるんですよ、なんか。
どんだけくんだよみたいな、
そのジュナンがっていう。
なんかホラーなんですけど、
なぜかなんかちょっとおかしみが、
感じられてしまうっていうのがあって、
なんか結構そこやっぱ、
表裏一体というか、
ほぼ同じなのかな、下手したらとか。
思っちゃいましたね。
呼ぶ気とかもそうですからね。
割にもうなんかもう、
どうしてみたいな、
やれやれみたいな、
なったりとかね。
やれやれってそうですよね。
やれやれって近代文学の、
ちょっと一つの提案。
確かに。
滑稽さみたいなもの。
そこから滲み出る、
ユーモアみたいなのも、
そうだし、
いぶせますじもすごい好きなんですけど、
みたいに、
本当にちゃんと、
悲哀とユーモアっていうのを、
真正面から描いた人もいるし、
あとその、
シーナ・リンゾーっていうね、
戦後文学の、
めちゃくちゃ堅い重い人ですけど、
深夜の主演っていう、
すごく有名な作品があって、
戦後のとてつもない貧困と飢えと、
苦しみと死の気配と、
っていうところなんですけど、
主人公が、
人にこれで首連れって言って、
ロープをボンって投げられて、
自死を強いられるんですよね。
最悪の状況なんですよ。
で、ロープがもう輪になっていて、
これで死ねって言われて、
そのロープを拾ったら、
たまたまなんだけど、
その紐が、
紅白の色だったっていう。
紅白じゃんっていうシーンが、
1、2行あるんですよ。
これすごいなって、
ここでこれ入れてくんだっていうのは、
やっぱ驚愕しましたね。
でもそうだなって、
人生ってそうだよなっていう。
面白いですね。
いやすごい。
それでもありますか?
ご自身で書かれてて、
なんかそのシーン入れたいな、
でも入れたら崩れちゃうなとか、
いやふざけすぎちゃうなとか、
あんまり難しいと思うんですけど、
小説で。
すっごい難しいです。
ですよね。
すっごい難しいですし、
なんかこう、
なんていうんですかね、
難しいんですけど、
1つの感情だけを、
先鋭化させて表現させたいのか、
複数の感情を表現したいのかっていうことにも、
結構よると思ってて、
どっちかというと、
エンタメ寄りの小説家で、
やっぱりここは、
どうしても怖がらせたいとか、
っていうところでは、
やっぱ思いついても、
バッて取っちゃうこともあるんですけど、
中間小説寄りのものであれば、
結構そういうのをあえて、
返帳的に入れたりとか、
なるほど、返帳か。
ありますね、はい。
なんか、やっぱ総構造がある小説は、
僕はすごい優れてる小説だなと思ってて、
一本道じゃない小説っていうのが、
それはエンタメでも、
純文学でもどういうものでしょうかと思うんですけど、
服装的なものとか、
いろんな読みを許容する小説っていうのが、
僕は優れた小説だと思っているんですけど、
やっぱそういう意味では、
やっぱり返帳って絶対必要だと思うんですよね。
何の返帳もなかったら、
ずっと一本道のまま絶対行っちゃって、
その分読みも固定されちゃうので、
要はその紅白の紐だっていうことがあるだけで、
めちゃくちゃ読みの幅が広がるんですよね。
本当に。
だから、でもそれって多分やりすぎると、
収集つかなくなっちゃうんですよね。
そうなんですよ。
なんか無限大の読みがあるっていうのは、
一見いいように聞こえるけど、
無限大もそれはそれでなんかどうなんだって、
それって何も表現したいものと同じなんじゃないかとか、
だから、どこで何をどれくらい入れるかっていうのは、
もう超重要だと思います。
うわーすごい。
やっぱ小説家のことを、
本当に私は心から尊敬してるんですけど、
やっぱ凄すぎますよね。
でもそれやっぱ書いてて、
これはちょっと読みを狭めすぎちゃってるなとか、
あるいは広げすぎちゃってるなっていうのは、
書いててわかるんですか?
手がビリッとするというか。
結構わかります。
で、あと私は結構手癖的に、
ほっとくと一本道になりがちなんですよ。
ほっとくと一本道になりがちなんですよ。
それのせいなのかは別にわからないんですけど、
もともと僕理系出身なんですよ。
だから語彙を誤解させちゃダメな世界から来てるんです、ある意味。
一意的な文章を書く世界から来てて、
来たらなんかあれなんか、
ここでは一意的な文章が全然尊敬されないぞみたいな。
迷い込んできていいですね。
その中で結構僕もいろいろ悪戦苦闘してるんですけど、
だからその分意識はしますね。
その分どこでそれを使おうかとか、
書いてるときは絶対わかりますね、それはかなり。
そうなんだ。
あえてそれやるときもありますし、
例えばすごい何ですかね、
ちょっとマーケティングっぽい話で嫌なんですけど、
例えばこれは若い人に読んでほしい、
あんまり読書が慣れてない人にもスッと入っていってほしいというときは、
あえて一意的に取れる文章で主体的に構成することもあります。
要はあんまり慣れてない人だと、
いっぱい選択肢を与えられてもどういうことってやっぱりなっちゃうかなと思うので、
あえて一意的なもので書くこともありますし、
そうじゃない、もっとこう含みのあるものを書きたいときには、
服装的な表現を使うこともありますし、
結構そういう見られ方、それこそまなざされてるっていう存在なんで、
そこは意識して結構変えますね。
なるほど。
でもまなざしを意識しすぎちゃうと本当に固くなっちゃうというか、
私はそれすごい悩むんですよね。
めちゃくちゃそうですね。
特に今この時代に、これがどう読まれるんだろうとか、
時代的な背景もあったりとかしたときに、
それで怖ばっちゃったりとか、
あと読み手を信じられなくなっちゃうときもあったりして、
そこに自分でも抗いたいなと思いつつ。
なんかそうなんですよね。
さっき言ったマーケティング的な考え方って、
もう本当に読み手の軽視と表裏一体というか、
若い人はこういうの好きだよねみたいなとか、
読み慣れてない人はこういうの好きだよねみたいな、
すごいステロタイプというか、
そういうものに陥ってしまう考え方でもあるので、
なんかそれはもうずっと堂々巡りですね、本当に。
ずっと堂々巡りで、
でもやっぱ結局なんか自分が面白いと思うかどうかで、
最後は判断するしかないなというのは思ってますね。
確かにね。
迷ったらもうそれでいくっていうふうに決めてますかね。
いっぱい決断がありますね、だから小説を書くって。
そうですね、もう本当に無限通りのそれこそ、
パターンの中からやっていて、
私ももともとプロットって設計図をガチッと決めて書くタイプだったんですけど、
最近はあんまりもう、書くんですけど、
書いた上で結局それに従わないみたいな書き方をすることが多くて、
自分で自分を裏切っていくんですか?
すごいアイロニカルな。
結局そっちのほうが面白いなって思っちゃうんですよ、書いてる時に。
一回見たしそれみたいな。
一回書いてから自分で。
一回それ見たしみたいな。
もっと面白い展開あるんじゃないかみたいなので、
自分でこう変えちゃうんですよ。
で、それも本当に毎回いろんな選択肢がある中で、
ここで新キャラ出すかどうかとか、
ここであえてこの視点を入れてみようかとか、
本当に無限取りの選択肢がある中で、
ずっと選択をしていくみたいな感じですね。
で、結果全然当初とは違うラストになるみたいなこともありますし、
そっちのほうがでも最近は面白いなって思います。
書きながら本人もわからなさを持っているみたいな文章って、
私も読んでて楽しいっていうか、
そういう文章好きだなと思いますし、
成人もあんまり、
私はほぼ構成というかプロット書かないので、
何を書き始めるかわからないまま書くんですけど、
そうなんですか?
1文目からとにかく書いてみるって感じなんですか?
私の場合は2冊目に世界の適切な保存というのがあるんですけど、
自分が書く動機っていうのはそれなんですよね。
自分のことを書くというよりは、
これまで出会ってきたいろんな世界や他者の、
絶対にこれを忘れたくないって思う、
例えば一言とかを書きたいと。
なので、例えばワードの白紙に2つぐらいそれをポツンポツンって置いて、
その2つは全然関係なくて、
その時すごい書きたいみたいな。
で、その間を埋めていくみたいな書き方をします。
僕毎回思うんですよ。
なんでこんなにつながって最終的に予期せぬところに着地するんだろうっていうのは、
それもあるってことですね。
ミステリー作家とかでもよくいるんですよ。
トリックも犯人も決めずに、とにかく試験書きますみたいな人が。
それはやばい。
いるんですよ。結構これが結構なしかも人数いるんですよ。
ミステリー作家でおられるんですか?
いるんですよ。
それはわかんないわ、読者って。
だって書いてる人もわかってないもんって。
でもそれって完璧な、ある意味ミステリーだよなと思って。
書いてる人もわかってないから。
リアルすぎ。
僕、やっぱ世界の適切な報道ってすごく好きな本なんですけど、
その理由の一つはやっぱ、そのまま書くことの難しさっていうことをすごく書き表してる本だと思ってて、
ずーっと悩まされてるんですよ、僕はもう小説を書いてて。
そのまま書くことの難しさっていう。
やっぱ言語って本当になんか万能じゃないなーみたいなことを書くたびにずっと思ってて、
それでもずっと言語でやるっていうことをやり続けてるんですけど、
その難しさ、そのまま書けない。
世界はそのまま書けない、100%書けないものなんだっていうことを思い知らせてくれると同時に、
でもそれでも言語で表現しようとするから、
なんか美しいんだよねっていうことがすごくわかる本なので、
だからやっぱ僕世界の適切な報道ってすごく好きな本なんです。
嬉しい。
やっぱりこう書けないものがあるよねっていうところからスタートするっていうのが、
文芸の中でも特に詩が表現してると思っていて、
だからすごく詩の助けを借りながらこの本は作られてるんですよね。
ほとんど詩論のようなつもりで書いてるんですけど、
それは別に詩に限らず、別にジャンルは何でもよくって、
世界をよく見ること、眼差すことだったり、よく聞くっていう時にどうしてもある態度というか、
そのまま書けないその切なさと、でもその尻尾を捕まえたかもしれないという希望と、
そこに翻弄されながらそれでも書いてみるっていうことが、
特にこの世界の適切な保存だったなって、今になって思いますね。
なんかちょっと前にこれはアザブ・ケイバリオさんって、それこそ前回出てくださった方が別のところで言ってたんですけど、
小説家の仕事は書くことじゃなくて見ることだと思うって言ってたんですよ。
へーと思って。
そっかーと思って。
アザブ・ケイバリオさんってタワマン文学っていうものが書かれてて、
僕が全く知らないブランドの小説とかがガンガン出てくる小説なんですけど、
それは片羽さんがその世界を見たから書ける。
それもバーって見たわけじゃなくて、眼差して覚えて、分かっているから書けるっていうことで。
出力するときじゃなくて実は入力するときに小説家の仕事の重要さがあるとかって思うと、
適切な保存のためには適切な眼差しが必要なのかなっていう。
眼差しって今日なんかこう話してて思ったのは、答えを出さなくていい作業なんだなっていう。
もちろんそうじゃないんですけど、対話とかって言われると、
何らかのゴールに最終的にたどり着かなきゃいけないみたいなイメージがある。
じゃあ今日はそういう結論ってことですかね?みたいな気がするんですけど、
眼差す作業って別に答え出さないというか、本当に注視している。
どっちかというと問いを立てることに近いような作業だから、
その答えを出さないということに重きを置いている言葉表現なのかなっていうのが今日思いました。
うん、終わらないですからね、眼差すってことはね。
しかも私が一方的に眼差しているっていう快楽に身を浸しそうになるけれども、
そうではなく世界の方からも眼差されている。
それはもうそれこそ終わりがないっていうかね。
世界ですもんね。
世界ですからね。
相手はね。
私より多いですから、世界の方が。
変わっていくししかも。
でも緊張関係の中で、じゃあ何をするのかなっていうのが一つ自分の核っていうことにあるのかなとは思いますね。
AIとかも最近すごい聴かれますよ、職業柄。
AI小説どう思いますか?みたいな。
聴かれそう。
めちゃくちゃ聴かれますよ。
公演行ったりとかセミナーとか喋ったりすると絶対出てくるんですけど、
僕いつも思うのは、どうやったらAIで人間に近い小説を書けるのかっていう議論をするのがみんな大好きなんですけど、
そもそも全く同じ小説だとしても、
著者いわゆる何菓子って書いてあるのと、
著者AIって書いてあるのと、
AIのやつ読む?みたいな。
読むか?みたいな。
仮にその人間との時点に到達したとして、
みんなどっちかというと眼差されることをあんまり考えてないというか、
自分は見る側なんだみたいな。
AIで小説を作る側なんだって。
でもみんなそれを見てるし、
その視点の方こそをもっと考えなきゃいけないのかなってずっと思うんですよね。
本当にそう思いますね。
私の大学の先輩で、過人でエッセイストの堀静香さんという人がいて、
先生になられた。
大学先輩なんですけど、哲学科の。
学校は地獄。
そうです、学校は地獄の。
彼女と対談したときに、
彼女ってすごい死ってものをすごい考えるんですよね。
死ぬの死なんですけど。
死なないやつと話しても意味ないって言ったんですよ。
なんかすごい残ってて。
いいですね。
すごい残ったんですよね。
AIは死なないじゃんみたいな。
死なないやつと話しても意味ないからって。
あ、そうか。
うちら死ぬから話してたり、なんか書いたり。
死というものに私たちは眼差されてるっていう存在だと思うんですよ、人間って。
そこがあるからこその有限性の中でのもがきみたいなことがある気がしてて。
確かにAIに有限性って感じない。
ないですね。
だからそうなったときに、そこにあんまり面白さがもしかしたらないのかもしれないし。
私はAIは使わないんですけど、いろんな理由で。
死なないやつと話しても意味ないって言葉を超える言葉がちょっと今なくて。
よく思い出してます。
おもろいな。
めっちゃ面白いですね。
ということであっという間にお時間になってしまいましたが、
永井さんには次回もお付き合いいただきます。
一旦本日はありがとうございました。
ありがとうございました。
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