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現在、日本語は漢字と仮名を使って主に表記されます。
そこにアルファベットが加わることもありますけど、主に漢字という標語文字と仮名という標音文字を使ってますよね。
もし、日本語が漢字だけあるいは仮名だけを表記する道を選んでいたら、
我々日本語母語話者のものの考え方、思考の仕方に影響はあったでしょうか。
このことについて、この番組のLINEのオープンチャットがあるんですけど、そこでちょっと話題になりました。
興味のある方は概要欄からリンクを飛んで参加していただけたらと思います。
日本語が漢字だけを選ぶっていうのは結構難しいと思いますね。
その言語の仕組みとして、漢字という標語文字のシステムっていうのは、
中国語みたいな孤立型と言われる言語ではすごいマッチしてるんですよね。
あるいはベトナム語とか、単語の語形変化がない、あるいは節字と言われる単語のパーツみたいなものが少ない、
そういった言語とは標語文字、漢字っていうのは相性がいいと思います。
それに対して日本語は口着型言語と言われて、単語のパーツっていうのがたくさんあるんですよね。
助詞がたくさんあったりとか、「が」とか「を」とかそういったものとか、
食べられた受け身のラレとか、そういったものがたくさんあるので、
だからこそ日本語は漢字からかなという標語文字を作って、
そういう文法的な要素を表すことになり、現在に至るっていうことなんですよね。
なので今回考えたいのは、日本語が標音文字だけ、
仮名にしろアルファベットにしろ、標音文字だけ使う道を選んでいたら果たしてどうなるだろうか、
そういったことを考えようと思います。
パッと思いつくのは表記の揺れがなくなるので、
ちょっとしたニュアンスの違いみたいなのは確かに感じにくくなると思います。
友達っていうのを漢字で書くのか、ひらがなで書くのか、あるいはカタカナで書くのか、
かなりその感じ方っていうのは変わってくると思うんですよね。
しかし言語学においては原則として音声言語であれば音声を言語の本質と考えて、
文字とか初期体系っていうのはあくまでそれを写し取ったものみたいなふうに考えます。
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原則として、スタートとしてはそうなんですよね。
なのでどんな表記で表されたとしても、言語の本質とかあるいは話者の思考っていうのは変わらないんじゃないかというのが、
僕自身の個人的な考えです。
過去に実際に標語文字を捨てて標音文字の体系に切り替えたっていう言語もあって、
韓国朝鮮語が漢字をやめたりとか、ベトナム語がチュノムと言われる標語文字をやめたりとか、
そういったことがあったわけですけど、
それで韓国朝鮮語の話者とかベトナム語話者の思考が変わったかというと、
結構そこまで深いことは言えないんじゃないかと思います。
もうちょっと実用的なことを言うと、
日本語の動音語っていうのは漢字に支えられているところがかなりあって、
行動といった時に、行く動くの行動なのか、公の道の行動なのか、あるいは黄色い道の行動なのかっていうのは、
漢字という土台があるので、これだけ多くの動音語が許されている側面はあると思うんですよね。
もし漢字を廃止しちゃうと、行動っていう仮名で書くだけだったら、
何が何だかっていう感じになっちゃうかもしれないです。
それよりももうちょっと本質的な問題として、
日本語が標音文字だけ使うことになったとしたら、
おそらく分かち書きをする必要が出てくると思います。
単語ごとにスペースを空けて書くという、そういうシステムになると思うんですよね。
現代日本語はその必要はなくて、
それは標語文字と標音文字と漢字と仮名両方使っているから、
分かち書きっていうのはある意味で必要ないんですよね。
もし、仮名だけあるいはアルファベットだけ、標音文字だけで書くことになって、
それによって分かち書き、単語ごとに区切るという習慣ができたとしたら、
和舎の思考とまでは言わないですけど、
その和舎の言語感みたいなものに何かしら影響があるという可能性はあるかなと思います。
BGMです。
始まりました。4月15日のツボ。苦労人とみられます。タクシードライバーです。
現在の日本語の初期体系は分かち書きをする必要がありません。
してもいいんですけど、あんまりその必要がありません。
そんなことをしなくても、ある意味、言語の単位、まとまりっていうのが分かるからなんですね。
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さっきもちょろっと言いましたけど、日本語は交着型と言われる言語です。
一つの単語が複数のパーツから構成され得るというタイプの言語で、
さらに言うと、そのパーツっていうのが節字にしろ、いわゆる助詞と言われるものにしろ、
後ろに後ろについてくる、いわば節微字型言語と言われるタイプの言語なんですね。
固い言い方すると、語彙的要素で始まって、文法的な要素が後ろに後ろにくっついていく、そういったタイプの言語で、
本をとか言った時のをは、本という語彙的要素の後にをという文法的な要素がついてますし、
読まれるとか言う時も読まっていう語彙的要素の後にられみたいなね、受け身の要素、文法的要素がくっついています。
日本語の暗黙のそのルール、初期体系のルールとして、語彙的要素は漢字で書いて、文法的要素はカナで書くというものがあります。
だから具体的な内容を表すというか、より具体的な要素である語彙的な要素、歴史カルな要素は漢字で書かれるので、
一説によると日本語っていうのは速読に向いています。漢字だけピックアップしていけば、大まかな内容っていうのは理解できる可能性はあります。
実際そういう速読の手法があったりするんですが、いずれにせよ漢字とカナっていうのは語彙的要素と文法的要素っていうすみ分けがなされてるんですね。
言語は変化するもので、もともと語彙的要素だったものが文法的要素に変わるっていう、いわゆる文法化と言われる現象が日本語にもあって、
そうなるともともと漢字で書かれていたものが文法的要素になるとカナで表記されるということになります。
これは例えばはずだとかですね、来るはずだとか言った時のはずっていうのはおそらくかつては漢字で書かれていたと思うし、今でも書かれることはあるかもしれないですけど、
現代日本語においてはほとんどひらがなで書かれると思います。
あるいはよく見ることだのこととか、彼が来た時の時とか、この辺はちょっと揺れがあるところだと思いますけど、いずれ文法化がかなり定着していけば、もうひらがなでしか書かれなくなると思います。
少し話がそれましたけど、繰り返しですが日本語は語彙的要素を漢字、文法的要素をカナで書きます。
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その文法的要素っていうのは語彙的要素の後ろに後ろに出てくる傾向があります。傾向というよりも原則後ろに出てくると考えていいと思います。
文法的要素が前に出てくるのは、つまりそれは節当字と言われる要素ですけど、お弁当のおとかか弱いのかとかかなり少数に限られていて、ほとんど後ろに文法的要素が出てくるんですよね。
ですので日本語で文章を読むのであれば、漢字で始まっているところがある意味その言語の単位の始まりというかまとまりの始まりっていうことなんですよね。
ですので日本語は単語の境目のためにスペースを空ける必要がない、分かち書きをする必要がないということです。
冒頭の話に戻って、もし日本語が表音文字しか使わないとなると、今の話が全部パーになってしまいます。
表語文字である漢字がないとどこがその言語的単位のスタートラインかっていうのが分かんなくなっちゃうので、表音文字で表記するということはすなわち分かち書きしなきゃいけないということになると思いますね。
日本語の初期体系がもし変わったとしたらみたいな大げさな話ではなくて、パソコンの不具合でキーボードがアルファベットしか打てなくなった、でも日本語でメールを出さなきゃいけない、そういうときにローマ字表記で日本語を書きますみたいなことを想定してみてもいいと思うんですよね。
そのときにだーっと続けて書く人はいないと思います。やっぱり単語ごとにスペースを入れることになると思うんですが、そのスペースの入れ方っていうのは結構人それぞれだと思いますね。
食べさせられなかったらしいですねっていうのをローマ字だけで書くとして、どのように分割するかっていうのは結構人によると思います。
もしそれが国家レベルの改革でなされるとしたら、やっぱり基準っていうのは必要になると思うので、そのことが日本人の言語感をちょっと形成するというか、単語の感覚、語感覚みたいなのに影響するかなというふうには思います。
これについてはね、ちょうど関連エピソードがございます。語とは何かっていうことを話題にしているエピソードがありますので、ぜひそちらも併せて聞いてみてください。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。番組フォローまだの方はよろしくお願いいたします。お会いでは。