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今回で9回目となる言語学者とその思想シリーズですが、いよいよソシュールを取り上げようと思います。
ただ、過去のエピソードでソシュールはたくさん取り上げていて、どうですかね、10本以上は取り上げてるんじゃないかなという気もするんですよね。
ソシュールは1857年の生まれで、スイスの言語学者です。 その功績は測り知れないというかね。
よく現代言語学の父と言われます。 いろいろあるんですよね。
教字体と通字体の区別とか、ランガージュとラングとパロールの設定とか。
晩年にはアナグラムの研究をしていたそうですが、今回はやはり言語の姿勢を取り上げるのがいいんではないかと思います。
BGM、行けい。
始まりました志賀十五のツボ。皆さんいかがお過ごしでしょうか。エドワード・ファーロングです。
ソシュールはシーニューという用語を使っていました。 これは言語記号と言っていいようなもので、
平たく言えば単語ですね。 だいたい単語と考えていただいて話を進めていくと、
単語だから何でもいいんですけど、日本語だったら水というシーニューがあるわけですね。
水。 このシーニューは水に限らず、
2つの側面があります。 1つは音の側面ですね。
実際には音に限らず、書き言葉であれば文字だし、手話であれば手の形であったりというふうに、
いろいろなものがあるんですけど、要は表すものですね。 表現側の側面があります。
それをソシュールはシニフィアンと呼んでいます。 もう一つシーニューには側面があって、それは意味的な側面、
概念的な側面で、 水で言えば
あの流れる、川を流れたり冷たかったりするあれのことです。
意味的側面と言ってもいいのかなと思うんですけど、 言語記号シーニューはシニフィアンとシニフィエという側面を持っていて、
シニフィアンは音の部分、シニフィエは概念の部分。 これがソシュールの思想の基礎となる部分です。
それで今回のテーマの恣意性とはどういうことかというと、 一つには今お話ししたシニフィアンとシニフィエの対応の仕方、
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両者の関係の恣意性です。 ここでいう恣意性っていうのは
必然的な関係がないとか自然的な関係がないという意味で、 思う気ままにとか自分勝手にとかそういう意味ではありません。
日本語母語話者にとって、水という音があの液体、水を指すのは当然のことのような気がすると思います。
いかにも水という感じがして、みずみずしいとかぴったりだ、 とか思うのは日本語母語話者だからであって、
別に両者に、すなわちシニフィアンとシニフィエに必然的な関係はありません。 もしそこに自然的な関係があるんだったら、どんな言語でも水という音になっているはずなんですが、
そうはなっていません。 当然これは他の子犬、要は単語についても言えることで、
どんな単語であってもその概念をその音で表さなければならないという、 そういう自然的な関係はないんですね。
よくこの言語の姿勢を否定するのにオノマトペが挙げられることがあります。
猫がにゃーにゃーと鳴く、このにゃーにゃーっていうのは猫の鳴き声を模倣しているので、 このにゃーにゃーには自然的なものがある、
恣意的ではないとよく言われます。 あとは音象徴という考え方もあって、
ある特定の音が特定のイメージと結びついているみたいなものです。 まさにオノマトペの説明に使われたりするんですけど、
母音のイイは小さいことを表して、アーは大きいことを表すとか、そういったことも言われたりしますが、 そのあたりの話は一旦置いておいて、
姿勢というのが言語の本質的な特徴であるというのがソシュールの主張です。
今お話ししたのは、シーニュの内部、シーニュの中のシニフィアンとシニフィエの姿勢だったわけですが、
もう一つ、シーニュ動詞、言語記号動詞の姿勢というのもあります。 そのシーニュの持っている価値というのは、その言語の体系の中で決まるという意味で
恣意的なんですね。 どういうことかというと、また水の例で考えてみると、日本語は水と湯を区別します。
しかし言語によっては、水と湯の区別はありません。 英語は両方ウォーターです。
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湯としたらホットウォーターみたいに、別の単語との組み合わせで表現する必要があります。 つまり、日本語の水は英語のウォーターとイコールではないんですね。
英語でウォーターというところを日本語は水と湯で区別しています。 この区別の入れ方が
恣意的なんですね。 これは水というシーニュが独立して日本語という言語の中にあるのではなくて、
言語という一つの体系の中で、 湯とか氷とかとの関係の中で、水というシーニュの価値が決まってくるんですね。
そういった意味で相対的と言ってもいいし、あるいは否定的だと言ってもいいと思います。 水というのはお湯でもないし、氷でもないもの。
そういうふうに隣り合ったシーニュとの対立関係の中で、 そのシーニュの価値っていうのは決まってくるんですね。
それと言語は世界を切り分けていると言ってもいいと思います。 水と湯は化学的に言えばH2Oなわけで、
言語以前の客観的な世界においては区別がないものなんですけど、 日本語はそれを水と湯と名付けることによって別のものとして認識しています。
実際英語のウォーターみたいに言い表さない言語もたくさんあるんですよね。 水と湯が最初から客観的世界に存在しているんではなくて、
日本語という言語では、そう名付けたので区別するようになった。 後から水と湯が生まれたというのが正確だと思います。
名付けることによって混沌とした世界が質上立てられて、ありとあらゆる事物が存在するようになる。
このように聞くと言語はかなりダイナミックで動的な感じがすると思うんですが、 実際はそういうわけでもないんですよね。
我々は、 元から水とか湯っていうものが存在していると考えてしまいます。
それは仕方がないことで、 というのが我々が使っている言語は上の世代のものをそのまま
継承して使っているので、 自分たちで名付けてるとかそういうことではないんですよね。
水と呼びます、湯と呼びます。そうやって我々が切り分けたというよりは、 すでに上の世代が使ってた水とか湯とかいう区別をそのまま引き継いでいるだけなので、
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言語は世界を切り分けているっていう感じは全然しないと思います。
ある意味、決まりきったものを使っているので、
そうなるとシニフィアンとシニフィエの結びつきが当然のことであるように思われちゃうんですよね。
水を水と呼ぶのはそれが当たり前なので、 水っていかにも水っぽいな、水々しいなとか思っちゃうんですよね。
そういった常識に一石を投じたのがソシュールの研究で、 言語の新しい見方が生まれることになりました。
さらにそれは言語学を超えて、記号学という新しい学問も生み出すことになったんですね。
ソシュールの研究については、一般言語学講義という本があります。
これはソシュール自身が書いたというよりは、 弟子がまとめたものなんですけど、
それが日本語で読めるのと、それちょっと最初は取っつきにくいと思うので、
マリアマ・ケイザブロー先生の「言葉とは何か?」という 「ちくま学芸文庫」から読んでみるのがいいんではないかと思います。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。 番組フォローまだの方はよろしくお願いいたします。
お相手はしがじゅうごでした。
またね!