言語の3つの捉え方:本能説、道具説、過程説
言語過程説という説があります。 これは時枝本木という先生の文法理論で、
この番組内でもね、時枝文法は何度か使ったことがあると思います。 言語過程説、言語とは過程そのものだっていうような説なんですが、
やや分かりづらいかもしれません。 言語の一つの見方として、
言語とは道具だ、いわば言語道具説みたいなのが考えられると思います。 言語は人とコミュニケーションするための道具だっていうことですね。
これは割と広く一般に認められているというか、 しっくりくる説明ではないかなと思うんですが、
時枝文法が否定したのがまさにこの言語道具説で、 その言語道具説を退けて言語過程説というのを唱えたんですね。
また別の言語の見方として、言語とは本能であるっていう見方もあると思います。 他の動物には見られない特徴、人間ならではの特徴として、言語は本能である、
言語本能説っていうのも考えられるかなと思います。 というわけで今日は言語本能説、言語道具説、言語過程説、
今挙げた順番と逆になっちゃいましたけど、 これらについてそれぞれ考えてみようと思います。
ランガージュ、ラング、パロール:言語の階層
BGMです。 始まりました4月15日のツボ。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
壊れかけのラジオです。 言語学では本能としての言語のことを
language ということがあります。 これは能力としての言語、ある意味本能としての言語、
というような意味での言語で、 ソシュールという言語学者以来使われている用語ではないかと思います。
この能力としての言語っていうのは、 能力は能力なんですけど、
他の人間が持っている能力とは微妙に性格が違います。 例えば二足歩行っていう
能力は 人間特有の能力であって、
どんな国でもどんな地域の人でも 普通は二足歩行するようになるんですよね。
ただ言語の場合は二足歩行の場合と違って、 ある社会集団というか共同体というか
コミュニティの中にいないと その能力っていうのが発揮されません。
潜在的な能力として language というのは持っているんですけど、それが健在化、具体的な
言語となるためには社会というか共同体というのが必要となります。
これが他の能力、本能と違うところではないかと思います。 その共同体や社会の中で
具体的に使われている言葉のことを lang と言うんですね。 これがさっき言った道具としての言語ということができると思います。
道具あるいは社会制度としての言語で、 日本語や英語といった場合の個別の言語がこの lang に当たります。
language という能力が具体的な形として現れているのが lang ということになりますね。
ただこの lang というのもある意味で潜在的というか抽象的なもので、
というのが、 言語というのは話し手がいて初めて
現れるというか、健在化されるものですよね。 特定の話し手によって発生られた具体的な音声というのが
言葉のレベルとして一番健在化、具体化されたものですよね。
そういう個人の発話のことをパロールと言います。 ですので本能としての言語が language
それが社会や共同体の中で制度となっている、道具となっているのが lang
それを用いて具体的な発話をすることをパロールと言います。 だんだんこの抽象度が下がっていくというか、
だんだん健在化していくような、そんな関係にこの3つの言語はあります。 社会制度としての言語 langと具体的な発話のパロールというのは相互依存的な関係にあって、
パロールっていうのはその背景に lang というのがなければ話すことができません。
その社会の約束事というか制度というかルールというのを知ってないと発することはできないんですが、
逆にそういった社会制度が出来上がるためには個人的な発話っていうのが積み重ねられないといけないんですよね。
このように考えると、 鶏と卵みたいなとこがありますよね。
個人的な発話がなければルールもできないですが、ルールがなければ話すこともできないという、
一種の逆説的なパラドクス的な関係が lang とパロールの間にはあるんですね。
言語過程説:話者の主観と行為の重視
さて、時枝本木の言語仮定説の話に移りますけど、
この言語仮定説っていうのは、 僕のイメージだと
よりパロールを重視しているような、 つまり個人の発話、
その行為にかなり重点を置いているような理論じゃないかなと思います。
言語っていうのは表現するという行為そのもので、
あるいはそれを受け取って理解するという行為そのものであるというのが言語仮定説です。
時枝本木が否定した言語道具説とも言えるようなものは、
どちらかというと lang の方を重視しているような、 そんな考え方ではないかと思います。
言語仮定説っていうのは言語行為そのものに注目しているというか、 言語とは行為そのものだみたいな、かなりダイナミックな感じがして、
言われてみればそれはそうだなという気もするんですよね。
言語っていうのは話す人間がいて初めて成り立つものだし、 話者なしの言語なんていうのは考えられません。
そういった意味で lang 社会制度としての言語というのは、
ある意味話者は離れているというか、 抽象的な存在なので、
そういったものを考えるよりは、 話者の発話が関わっているパロール的な側面を重視するっていうのは、
それはそれで一理ある気はします。 どうしてもその言語、
行為としての言語っていうのは、 さっきも言ったように話者が関わっていますので、
話者の主観というものから離れることができないんですよね。 必ず話者の視点、主観というものがついて回ります。
これが時枝文法の指摘した重要なとこではないかと思います。 専門的には、
執筒字とか 入れ子型構造とか、こういったもので時枝文法というのは説明されることが多いんですけど、
わかりやすい例で言うと、 明日雪が降るらしいといったとき、
明日とか雪っていうのは、 現実世界というか、客観的事実としてのものという感じです。
それに対して、 助詞とかもそうなんですけど、最後のらしいっていうのは、
話者の主観が伴っていますよね。 話者の視点というのが関わっているものです。
さっき言った入れ子型構造というのは、 このらしいというのが、
明日雪が降る という全体をフロ式みたいに包み込んでいるっていうふうに考えるんですね。
これが学校文法的な考え方だと、つまり文節と言われるもので、
文を切っていくとしたら、
らしいっていうのは、 降るという動詞にしかついてないというふうに考えられるんですけど、
そうではなくて、もう全体を包み込んでいるっていうのが、 入れ子型構造の考え方です。
このらしいというのは非常にわかりやすいものですけど、 このらしい以外にも、
話者の発話の中に、 辞書の辞ですけど、
辞と言われる話者の主観を表す、 視点を表す要素が含まれていると考えるんですね。
らしいがない、明日雪が降るっていうのも、 話者の視点というか主観を表す要素があって、
それはゼロがあるんだっていうふうに考えるんですね。 ゼロが話者の主観を表しているっていうふうに
時枝文法では考えます。 このようにですね、言語というのが話者を離れては考えられない、
話者あってこその言語だ、行為こそ言語だという立場に立てば、 どんな発話の中にも話者の主観的なものが入っているっていうのは、
それはその通りであると思います。 その点を重視したのが言語仮定説であるということですね。
言語の多角的理解
ある意味でパロール的な側面を重視しています。 ただこれは言語の一側面であって、
他にも社会制度としての言語、ラングとか、 本能としての言語、ランガージュというのも、
否定されるべきものではないと思いますね。 その言語本能説、言語道具説、言語仮定説、どれが正しい間違っているではなくて、
いろんな側面があると考えるのがいいんではないかと思います。 それでは今回のエピソードはここまでということで、また次回のエピソードでお会いいたしましょう。
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またねー!