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始まりました。志賀十五の壺、深澄隆子、宇鴎の目お銀、吹き出物マリー、3人揃って、埼玉弁に誘りたいです。
今回お便りをいただいてますんで、そちらにお応えするということで、やっていこうと思います。
こちら、KJさんからいただきましたギフトと一緒にいただきました。ありがとうございます。
志賀さんこんにちは。収録いつも楽しみにしています。先日、中国語を学習していて面白いなと思ったことがあります。
それは、髪を切る、手術をする、みたいな表現です。
中国語でも日本語と同じような言い方をします。でも動作をするのは美容師であり、医者ですよね。
ちょっと髪を切られてくるとは言いません。どうしてなんでしょう?ということで、KJさんどうもありがとうございます。
これは非常に面白いですよね。中国語でも同じ言い方をするっていうのは知らなかったですけど、少なくとも日本語ではそういう言い方をしますよね。
髪切ったとか言いますけど、切ったのは美容師であるし、手術するもそうだし、あるいは家を建てたとかもそうですよね。
家を建てたのは実際には大工さんですけど、彼は家を建てたとか言えるわけですよね。
つまり自分がやったわけじゃないのに、あたかも自分がやっているような表現になっているわけです。
英語だとね、こういった言い方は多分できないんだと思うんですけど、高校の時とか英作文で髪を切ったとかは、
I cut my hair とか言えなくて、have my hair cut みたいに詞彙を使わないといけないですよね。
でも理屈で考えたらそっちの方が正しいと言えば正しいんですけど、日本語、あるいは中国語では私は髪を切ったという表現が許されているわけです。
これは非常に面白いテーマだと思いますね。
日常生活ではなかなか気づかないし、KJさんみたいに中国語とか他の言語を学んでいて気づくようなものだと思います。
こういった言い方は改材性の多動詞文、あるいは改材性の文と言われることがあって、
佐藤拓三先生っていう先生がその第一人者なんじゃないかなと思います。
それではこの改材性の多動詞文の特徴をですね、詳しく見ていこうと思います。
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どんな文でもこの改材性の多動詞文、つまり実際には誰かにやらせているのにあたかも自分がやっているようにね、
見た目はそうなっている表現が許されるわけじゃなくて、ある程度条件があります。
一つは変化を表す多動詞でないと使えません。
紙を切る、手術をする、家を建てる、こういったものはその動作を行う前と後で状況がねガラッと変わっているようなものですよね。
変化を表さないような多動詞だとおそらく無理だと思いますね。
お母さんが子供に本を読んであげたっていう意味で、子供が本を読んだとはとても言えないと思います。
それは読むっていう動詞が変化を表さないからですね。
2つ目は動作の仮定が特定されるような動詞では使うことができません。
つまりある程度抽象的な動詞じゃないと厳しいんですね。
成人式用にスーツを作った、こういった言い方はできます。
実際に自分が作ってなくても言えるんですけど、
一方、この冬のためにセーターを編んだっていうのは本当に自分が編んだ時しか使えないんですね。
これは作るっていう動詞に比べて編むっていう動詞がその動作をかなり特定しているから、より具体的だからということです。
紙を切るとか手術をするとか家を建てるっていうのは具体的な動作を表しているというより、複合的な動作の集まりですよね。
より抽象度が高いと言ってもいいかもしれませんけど、そういった動詞の場合しか改材性の他動詞文は作れません。
3つ目の条件として、その自体をコントロールする能力が非使役者、つまり実際にその動作をする人にはないっていうものなんですね。
これはちょっとわかりづらいかもしれませんけど、言い換えると自分でその自体をコントロールできないような場合は、改材性の他動詞文っていうのは使えないんですね。
例えば、昨日照明写真を撮ったっていう言い方はできます。
昨日照明写真を撮られた、撮らせた、撮ってもらったじゃなくて、照明写真を撮った。
こういう言い方ができるのは、ある程度自分の思い通りに写真を撮ることができるからなんですね。
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で、これと比べて、昨日似顔絵を描いたは言えないんですね。
昨日似顔絵を描いてもらったと言うしかなくて、というのが、似顔絵っていうのは描く人描く人によって結果が変わってしまうものだからなんですね。
紙を切ったとか家を建てたみたいな言い方ができるのは、それがある程度自分の思い通りにできるからだということです。
まあそう考えると手術をするっていうのがどうなんだろうな。自分の思い通りと言ってもいいのかな。
まあこの辺は段階的というかね、程度の問題な気はしますけど、紙を切らせたじゃなくて、紙を切ったと言えるのは、それが変化を表す動詞だからということ。
それが抽象的な動詞であるからということ。そしてある程度自分の思い通りになるからということ。
この3つの条件が揃っているので、まあそういう言い方ができるということなんですね。
というわけで、なんでこういう改材性の多動詞文、つまり自分がやったわけではないのにあたかも自分がやったように言えるかっていうとですね、最後の条件が関わってるんじゃないかなと思います。
つまりある程度自分の思い通りになるので、その事態をコントロールしているのは自分だということで、私は紙を切ったみたいに私が主語になれる。
まあそういうことなんじゃないかなと思います。
これは他の言語でどうなってるかっていうのは結構気になりますね。
なんていうかね、実際には存在している人を無視してしまってあたかもその主語の人物がやったように表現するっていうのは、いろんな言語で見られてもおかしくはないんじゃないかなと思います。
まあもちろんね、昨日手術をしたっていう風に言ったとして、本当に自分で手術したっていう解釈もあり得なくはないんですけどね。
ブラックジャックとか本当にやってましたからね。
というわけで今回のトークは改材性の多動詞文と言われるものについてお話しいたしました。
最後まで聞いてくださってありがとうございました。また次回のトークでお会いいたしましょう。
お相手はシガ15でした。