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2025-09-24 12:49

昭和100年、私たちも100年:加藤時計店

加藤時計店 社長 藤島金蔵
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日々お伝えしているニュースの中から、1つのテーマに絞って、専門家や当事者に話を聞く週替わりの特集コーナー、
Weekly Close Up。今週は昭和100年、2025年が昭和100年にあたるということもありまして、
昭和100年、私たちも100年と題して、100年を迎えた企業や商品などにクローズアップして
お話を伺っております。きょうは、福岡に100年続く時計店に注目します。
福岡市博多区の福岡市博多区の時計店です。
福岡市博多市場のみの島商店街にある、加藤時計店の社長、藤島勤三さんです。
藤島さん、おはようございます。
おはようございます。よろしくお願いします。
そして、100周年おめでとうございます。
まず、今年その100年を迎えて、どんなお気持ちなんですか。
私もちょうど官暦になったんですが、
父もまだ95歳で、
ぼちぼちやっているだけで、喜びって言いますかね。
やり続けられたことがいいのかなと思って。
日々の積み重ねが100年につながったということですね。
藤島さんが今、3代目でいらっしゃるんですかね。
はい、そうです。
創業はどういうきっかけで、時計店を始められたんですかね。
創業はですね、祖父が熊本の金山町生まれで、
五福屋の次男だったんですけど、
祖父が保障倒れで、五福屋が潰れるわけですよ。
で、祖父が13歳。
で、祖父の兄が2つ上か3つ上じゃないかなと思って、
口減らしでですね、ロシアのグラジオストックの
曹祖父のおばのところに料亭していたみたいで、
もらっていくわけですよね。
でもやっぱり昔の料亭とか料理屋っていうのは、
あんまり環境が良くないところだから、
おばが手に食をつけるために、いろんなところに
黒い国なんで、魚屋とか自転車屋さんとか、
9つくらいいろんなところに行ったみたいですけど、
で、たまたま料理屋の隣が時計、宝飾品を扱うお店で、
極寒でも、当時は修理とかそういったのが主なんでしょうけど、
極寒のところで冬はあったかいとこ、
そこで料理ができるので、そちらに
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曹祖父と兄は行ったみたいですね。
20歳くらいまでそこにずっといたけど、
ロシア革命が激しくなるもんやから、
年もいい年ですしね、韓国の今のソウルだろうと思うんですけど、
京城って言うんですけどね。
そこでかとこと経験を始めるんですが、
当時儲かったんでしょうね。兄は遊び人なんで、
球つき、ビリヤードですね。テニスしたり、
飲み打つ家具がものすごく好きだったみたいで、
1ヶ月とか平気で帰ってこなかったらしくて、
それで何年か兄と一緒におったけど、このままじゃ、
で、その時に、
もともと鹿児島の方みたいですけどね、
鉱山を持ってた方がいてですね、
その人から祖父に腕が良かったんでしょうね、声かけられて。
手具、耐久ですね。
同町の前で時計店を始めたんですけど、
鹿児島時計店って名乗ると当時は、
かとうきんはまさか朝鮮出兵とかしてるんで。
イメージがあんまり良くなかった。
木村時計店という名前で時計店をずっとしてたけど、
終戦とともに博多の方に引き上げてくるんですけど。
その水野島に来たっていうのは何かご縁があったんですか?
祖母の妹が赤城町で
財務署っていうのを輸出してたらしくて、
そこの疎開先が水野島だったんですよ。
水野島は疎開先で焼け残っておるもんやから、
そこに家族一家労働をしてきて、そこを譲ってもらってですね、
そこで時計屋を始めたみたいです。
政府の代から2代、3代と今続いてきてるってことですけど、
藤島さんも迷うことなく継ごうと。
いえいえ、そんなん思ってないです。思ってます。
高校の時はラグビーばっかりやってですね。
東高科でラグビーさせてもらってましたけど、
大学にも関東に行く話があったんですけど、
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父としては毎月仕送りするお金とかが当時大変だったろうと思います。
でも行っちゃいかんと。福岡の大学に行けと。
でも福岡の大学でもラグビーはあんまりしたくないしねと思いながら、
バイトに明け暮れて、大学時代。
卒業もするんですけど、そのまま就職もせずに、
先輩の焼き鳥屋さんでずっと働いてました。
見かねた父が当時九州で一番大きな商社と、もともと取引先やったんで、
そこの北九州支店に放り込まれて、
時計宝石メガネが何たるかを習いに行きましたね。
なるほど、そういう修行の期間があったんですね。
ありました、ありました。
でも当時バブルはじけてましたけどね。
当時土曜日休みじゃないんで、土日は大きなお店の販売応援に行きます。
新入社員なんで、もうあちこちの大きな店を見せてもらったり。
いろいろね。
じゃあもう365日時計に関することを学んで。
ほぼほぼ、もう休むことがなかったんで当時。
でもラングビーで培った体力で。
そうですよね、体力精神力が。
そんなんじゃないんです、そんなんじゃないけど。
その時計の修理だとか、そういう技術っていうものもそういう期間に身につけたんですか?
いやいや、違います。
で、レッジモークを3年行った後、祖父がアメリカはすごいんだぞって言って、
祖父は何回も行ったことがあるんだって。
アメリカ行きたいと思って、1年間放浪死に。
で、アメリカを全米回るうちに、やっぱりどうしてもやっぱ、実家が時計屋やから、
時計屋、宝石屋、メガネ屋がどんなとこあるかとか。
気になりますよね。
そう、ビッグタウンにしかないわけですよね、時計屋さんとか宝石屋さんとか。
ちっちゃな町に行くと今みたいなホームセンターの片隅に時計がパラパラ、
で、リペアショップが靴の修理屋さんの隣とかにあったんですけどね。
日本もやっぱりこんな風になるんじゃないかなと、僕ももうなんか感じたことがあって。
で、もともといじったり、車いじったり、バイクいじったりする。
ガキの頃は時計バラバラにして遊んでたりしましたけど。
だから、もう販売は無理かなと思って、やっぱ資金力いるし、
お食品もそうですしね。
だから、その時、メーカー修理でホールクロックって、
大きな壁から立ち上がっている時計を修理する方とたまたま知り合って。
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で、その方が藤島くんと、ごたん百姓出ずいらずって言って、
ごたん持ってる百姓は一生誰にも迷惑かけずに食べていけるよと。
だから、あなたもうねに技術をつけたらどう?って言われて。
まあ、図書館巡りして時計の修理の資料漁ったりとか。
で、バラバラにしながら。
で、僕も学校行ってないんで。
で、小さい頃は職人いましたけど、
もう父からすると、こんな売れようのに、この息子はバカやないかいなっていうぐらい、
お前なんで修理やらせないかんとかって言うわけですよね。
まあ、見た目わかるでしょうけど、あんまり頭も下げたくない、こびたくない性格だったんで。
だから修理してお客さんに返すと、もっと喜んでもらえるんじゃないかなと。
物売りは売ったら100万、200万のものを売ると、
やっぱりあなたから100万のものを買ったけどっていう気持ちはあるけど、
修理の場合はちょっと意味合いが違うと思うんですよね。
修理して渡した時も、ありがとう、こんなのがこんな治ったよと。
まあ、今感じてますけど、その時はそんなこと思ってませんよ。
ただ単にやっぱりお店を守らないかんとか、そういったことがあるんでですね。
でもそこでの、その修理の技術を身につけるっていう選択がまたこうやってね、
3代目として続けられている。
そしてそれが歴史として初代から数えると、ちょうど100年っていうのは本当に素晴らしいことだと思います。
いえいえ、ありがとうございます。ぼちぼちです。
これからもぜひ頑張ってください。
そうですね、頑張ってください。
はい、ありがとうございます。
今日は朝早くからいろんなお話を聞かせていただきまして、ありがとうございました。
すみません、なんか一方的にいっぱい喋りました。
いえいえ、とんでもないです。貴重なお話ありがとうございました。
三ノ島来たら寄ってください。
という三ノ島商店街で、もう続けて100年の歴史を迎えたという
加藤時計店社長の藤島勤三さんにお話を伺いました。
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