00:00
日々お伝えしているニュースや話題の中から一つのテーマに絞って、専門家や当事者に話を聞く週替わりの特集コーナー
Weekly Close Up。福岡ではすでにもう桜の見ごろを迎えていますよね。はい、もうちょっとね、あのハラハラとね
散っている木によってはね。散っている木もありますけどね。まだまだね、たくさんの桜が見られるこの季節
福岡県内で言うと唯一天守閣と桜を一緒に楽しめるのが小倉城ということで、今回は北九州市小倉北区の小倉城周辺の知られざる歴史というテーマで今週お送りしております
歴史学者のこの方と一緒に歩いて学んでいます。歴史学者で西日本国史文化研究所所長の木口光さんです。
小倉城から西側に移動してきました場所で、今日はお届けします。はい。どんなお話を。今ですね、いるところが小倉城の三ノ丸の土類の跡でありまして
ここはですね、まああの現在はですね、北九州市立市営中学校という中学校になっておりますけれども、かつてはですね、こちらにあの
反抗支援祭といって、小倉藩の学校があったり、あるいはあの皆さんご存知、宮本武蔵の養子と言われています、宮本いよりのお屋敷があったんですね。
で、宮本家は代々小笠原家の家老職を務めておりまして、これはまたすごいのがですね、小笠原家は15万国なんですよね、国高が。はい。宮本家はその中からなんと5000国もらってたという。
へー。ものすごい大陸ですね。ですね。それだけ重宝されたというのはなんで。そういうことですね。やはりその、宮本武蔵の養子だったというのが一番大きいんですね。
であの、現在小倉北区と文字区のちょうど境界に田向山という山があるんですけれども、ありますね。あそこはもともと宮本家の所領の一部でして、江戸時代は武蔵山と呼ばれていたんですね。
ほー。だから現在でもふもとに宮本家の墓所がございますけれども、そういった方のお屋敷がこちらにあったんですね。へー。昭和の3年からこちらはもともと小倉陸軍造兵場という兵器工場ができるのでですね、この三の丸よりも若干南側のエリアからはですね、その造兵場を建設する際に泥油を全部壊してるんですね。
ほー。だから遺構というのが殆ど残ってないんです。ただこの三の丸のエリアは一部現在西日本工業大学のキャンパスになってますけれども、そちらの1階部分に石垣が残っていたり、あるいは立場奥のところはちょっと火しかないんですけどもね、かつては石垣が残っていたんですけどもね。
へー。ちょうど小倉城からこの市営中学校に向かう途中にその西日本工業大学の敷地で石垣があったのが見えましたよね。
ですからね、本来であれば山口県の萩のような城下町が、そしてあの屋敷と土塀がこの小倉にもあったということなんですけどもね。
03:06
それが残っていればまた小倉の観光という部分でも違ったんでしょうね。
北九州って明治以降の近代化でクローズアップされることが多いですけども、実はそういう江戸時代も当然武家屋敷などもあったわけですよね。
そうです。面白いのがですね、この山の丸よりも北側のエリア、小倉北区室町というところがありますけども、室町っていうのはもともと武家屋敷と町人の住んでいるお家があったんですね。
で、もともとはごんべんにものと書いてもろもろのもろ、あれで室町と言ってたんですね。
いわゆるお武家さんと町人が住んでたので。
もろもろいたから。
はい。で、これもろ町がだんだん時代が下っていって、なまって室町となったと言われてるんですね。
僕はてっきり工事でも作ってる室があったのかなとそういうふうに思ってましたけど、違うんですね。
そうです。なまっちゃってるんですね。ですから今でもおそらく掘れば何か意向が出てくるかもしれませんけどもね。
かつては昭和の20年代はですね、この師英中学に当時在学されていた方からお聞きすると、
ブランドを掘ると銅銭が出てきてたそうです。
銅のお金、銅銭。
まあ、簡易通貨でしょうけども。
ですからね、いろんなものがまだ埋蔵されているかもしれませんけどもね。わかりませんけど。
三の丸のどるいっていう看板は、師英中学校の一角に展示されてますが、道路沿いに。
ただそれを感じられるものっていうのは、特にこの辺にはないってことですか。
今説明板がございまして、ちょっとぼり上がってますね、土が。これはどるいなんですよ。
なるほど、なるほど。
これがですね、このどるいが、今師英中学のところにおりますけど、この南側の西小倉小学校って小学校があるんですけど、
あの辺までずっと本来続いていたんですね。
ただ、西小倉小学校のエリアは貞平城の敷地内になりますから、先ほど申し上げた通り、昭和3年の聖地の時にですね、遺構をすべてなくしてしまったんですね。
しかし、我々が建っている場所に三の丸があったってことは、小倉城って、今我々が知っている敷地以上に、
広いんです。
相当に広かったということですね。
今の八坂神社があるところが北の丸ですし、十二支団司令部の正門があるところは本丸なんです。
その南側のところが松の丸ですね。二の丸もありますし、かなりのエリアなんですね、本来は。
ちょうどその本丸の周辺が今、城として残ってるっていうことですかね。
宮本武蔵あるいは井織の逸話として何か残ってるものってあるんですか。
今ですね、田向山の頂上に宮本武蔵の碑文が残っていますし、それと面白いのは岩流島の戦いですね。
06:07
岩流というのは佐々木小次郎の豪なんですね。佐々木小次郎が岩流と名乗っていたんですよね。
あの島は正式名称船島って言うんですよ。本来は小倉藩領なんですね。
ところが幕末のあの時に山口県に返任をされてしまいまして、現在は山口県になっておりますけれども、あれは本来小倉藩領なんですね。
そこには菊池さんも複雑な思いがありそうですね。
ございますね。
いわゆる武蔵小次郎の血統があった時代というのは小倉藩領で、映画なんか見ると小次郎とっても若いんですけど、
実は逆でしてね。なかなかの高齢の方だったと言われてますね。
宮本武蔵はとどめまで刺さなかったのに、もう勝負は決してますからね。
とどめ刺さなかったのに、小倉藩氏があとでとどめを刺したという説も残ってますけどね。
宮本武蔵、佐々木小次郎というと、宮本武蔵がスターのように描かれることが多いですけども、
武蔵は熊本に、小次郎はここ、小倉藩のエリアですね。
北九州市民としてはこの二人の血統をどんな思いで見てる方が多いんでしょうね。
じくじたるものがありますよね。
田向山に行けば宮本武蔵の色々残っておりますけども、実際は小次郎がこっちの人ですからね。
そうなんですよね。小次郎に関するものっていうのはあまり残ってないんですか?
これは実際かなり謎めいな人物でありまして、いまだに全容がよくわかってないんですね。
今後もし何か文献なんかが出てきてわかる時が来るかもしれませんけれども、
ただ今わかっているのは武蔵よりも高齢だったということだけはわかっているんですね。
ただかなりの力を持っていたと言われてますね、この辺で。影響力のある人だったと。
そんな武蔵や小次郎に思いを馳せながらこの辺を歩いてみるといいかもしれませんね。
幸いですね。
いやー、新しい発見。
本当、私も地元ですけど全然知らなかったなってことがたくさんありました。
今回は宮本武蔵の養子とされる宮本いよりの屋敷跡についてお話を伺いました。
歴史学者で西日本国史文化研究所所長の菊池光さんでした。
ガールズパンチ!バッテン少女隊のバッテンラジオ隊!
バッテン少女隊の春野紀伊菜と青井凛はです。
RKBラジオでお送りしているガールズパンチ!バッテン少女隊のバッテンラジオ隊はポッドキャストでもお楽しみいただけます。
ラジコ、スポティファイ、アップルポッドキャスト、アマゾンミュージック、ユーチューブミュージックでバッテンラジオ隊と検索してフォローお願いします。