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戦後80年~記憶の伝承~:「原爆の子の像」モデル佐々木貞子さんの兄
2025-08-04 10:43

戦後80年~記憶の伝承~:「原爆の子の像」モデル佐々木貞子さんの兄

SADAKO LEGACY 理事長 佐々木雅弘
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日々お伝えしているニュースや話題の中から一つのテーマに絞って、専門家や当事者に話を聞く週替わりの特集コーナー
Weekly Close Up。今年2025年は、第二次世界大戦の終結から80年の締めを迎えます。
戦後80年ですね。戦争を体験した世代が少なくなり、戦争の記憶を次の世代へ繋いでいくことが課題となっております。
今週は戦後80年記憶の伝承というテーマでお送りします。今日は広島市の平和記念公園にある原爆の子の像のモデルになった佐々木貞子さんの実の兄であるこの方にお話を伺います。
佐々木レガシー理事長の佐々木政宏さんです。佐々木さんおはようございます。おはようございます。
佐々木さんは広島で被爆された時というのは4歳だったんですかね。私は4歳から5歳に向かってました。妹の貞子さんもいらっしゃって、お母様そしておばあ様と一緒に暮らしてらっしゃったんですかね。
父も一緒でしたんですけど、軍隊に行ってましたので。当時その被爆された時っていうのは4人でいらっしゃったってことですね。
そうなんです。その時の記憶っていうのはどういうものが残っていますか。鮮明に残っているものがいくつかあります。
一つ目は当時はそれこそ海西の真夏のすごい暑い日でした。ちょうど朝食をとってたんです。私たち4人は。近所のおばちゃんがきれいなものが空に飛び降るから
早く出て2,3時で広島弁で私たちに呼びかけたもんですからね。貞子と私と母と3人だけは外に出まして。指さされた方向がちょうど東の空だったんですね。
東の高い空に2機の飛行機が太陽の光に照らされてキラキラ光ってるわけですよ。今考えると最初の1機目が原爆を投下したエノラゲイ号。
2番目の飛行機がその状況を撮影する飛行機ということだったと思います。それがものすごくキラキラ光って初めて見たものですから、あの飛行機っていうの。それが印象に残っています。それがまず第一ですね。
それはまさに原爆が投下される直前だったってことですかね。もう直前も直前も本当にその飛行機をずっと眺めていたかったんです私たちは。きれいすぎて。おばちゃんが朝のご飯だから入っていい加減食べなさいって中から呼んだもんですから、仕方なく貞子と私と母は中に入って茶舞台に座ったその途端に破裂したわけです。
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だからちょっと何十秒か遅れてると、たぶんこんな人お話をしている私もなかったし、あったとしても爆心地方向を向いてますから、たぶん顔はとろけていたでしょうし助かってなかったかもわかりませんね。
という状況でした。他にはですね、一発の原子爆弾が爆発して、みんな原子爆弾って知らないわけですから、広島に大きな爆弾が落ちたけなってぐらいの話で、げなげな話です。
私たちはすぐ茶舞台に座りましたが、原爆ですから、いわゆる爆風と衝撃波というのがものすごいわけですよ。
だから衝撃波と爆風によって、爆心地から2キロ以内の木造の家屋は全倒全壊したわけです。今でも写真残ってます。残ってるのは鉄筋コンクリートの頑丈なものの、それも全部じゃなくて一部が残ってるということですね。
で、倒壊したもんですから、ちょうど朝食の時間ですもんね。みんな火使ったわけですから、全市がそれによって火事になったわけですよ。だからそこにわーっと火が出たわけですけど、私たちは爆風とともに家が崩れてですね。
私は畳7枚の下敷きになったわけですね。ちょうど茶舞台が足になって、そこにバタバタと積み重なって落ちてきた、少しの余裕の空間に私はいたと。
佐田子は、なぜか知りませんけど、みかん箱が道路に飛ばされ、その上にちょこーんと乗っかって、お母ちゃんお母ちゃんって鳴いてたわけです。
外に飛ばされたんですね。
そうなんです。だからどういうふうにして飛ばされて、どんなふうにしてあんなところに乗らなきゃいけないかということは全くわかりません。だから一瞬の衝撃がそういうふうにさせたんだろうと思いますね。
全体がすぐ火事になりましたんで。今度は火炎が渦巻くですよ。火災全体が火事になるわけですから。火の勢いというのは一見なら火炎というのはなかなか巻きませんけど、すべての周りが全部火事ですから。
そうすると炎が全部が混ざり合って、渦のように円を巻いて火炎になるわけですね。だからそういうふうになりかかってきたんで、母がこれは危ないと、命がないと思って、佐田子と私とばあちゃんを連れて近く100メートル先に川がちょうど流れてたんです。
これは三笠川って言うんですけど、ここにまず逃れようというのが母の考えでした。ここの途中に逃れる途中に言ってみれば、そのまま見てた方は顔が溶けてるわけですから、体が溶けてるわけですから、着てた着物が全部なくなり、
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屋根柄、鉄、自転車、ガラス等々が一瞬のうちに混ぜこちゃになって溶けるわけですね。だから人間の体ってひとたまりもないわけですよ。
だからそのまま呼んだおばちゃんなんていうのは、もう全く影も形もないぐらいになくなってしまった。それぐらいに原爆の光線がすごいんですよ。一瞬が100万度ですから、一瞬ですけど、それからすぐ3、4秒後に地表温度が3000度から4000度になるわけですから。
太陽の表面温度が6000度ですから、いかにすごい温度かというのがわかるんですよね。その中を逃げていったということです。だから逃げる途中の道路側には、子供を抱えて息絶えてる人とか、まだ息がしっかりあって、でも水ください水くださいって言うし、あれ大きな火傷ですからね。
熱線を見るというのは、もう火傷した人間が真っ先に欲しがるのは水なんですよね。ご主人のように。水を飲ませると息絶えるわけですよ。だから川に逃げたときに、もう川の両岸は、もうそういうカタカタで、もう本当に地獄絵であるじゃないですか。地獄の絵の中にあるような、そういう状態だったんです。
4歳でもそれだけやっぱり鮮明に記憶が残っているっていうのは、いかにその時の原爆の衝撃が凄まじいかっていうことも言えますよね。
当時の状況を覚えている、私はギリギリの最後の年代。私より一つ下でもダメです。もう覚えてます。1歳。私はギリギリあるぐらいですから。
ということで、佐々木雅宏さんに当時の被爆体験、広島での原爆が投下された時の体験を話していただきましたが、非常に細かく描写してくださって、自分がその場にいるかのような迫力もあったかと思います。いかに悲惨な光景だったかということですよね。
佐々木さんにはその後も色々とお話を伺っておりまして、ちょっとこの時間だけでは紹介しきれない部分もありましたので、
今日この後、また8時30分頃のグロウアップマガジンのコーナーでも佐々木さんの声をお届けしたいと思います。本当に貴重な証言でもありますので、
ぜひ佐々木さんの声に耳を傾け、そしてそこで皆さんがどう感じるのか、その感じたことをまた次の世代につなげていくきっかけにしていただければと思います。
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この時間は、貞子レガシー理事長の佐々木雅宏さんでした。
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