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日々お伝えしているニュースや話題の中から一つのテーマに絞って専門家や当事者に話を聞く週替わりの特集コーナー
Weekly Close Up。今年2025年は戦後80年の締めを迎えます。
戦争を体験した世代の方がどんどん少なくなってきて、その方々に直接話を聞く機会も減ってきているということになります。
いかに戦争の記憶を語り継いでいくのかというのが重要になってきます。
そこで今週は、戦後80年記憶の伝承というテーマでお送りしています。
今日は、16歳で立原井陸軍飛行学校に入校した後、特攻隊員に指名された者の出撃することなく終戦を迎えた元特攻隊員の鳥谷邦竹さん、98歳の証言です。
7月末、先月ですね、私鳥谷さんが住んでらっしゃる佐川の方に行ってまいりまして、お話を聞いてきました。
鳥谷さんはですね、1943年16歳の時に福岡県竹前町にあった立原井陸軍飛行学校に入校しました。
その後、どのような経緯で特攻隊員として終戦を迎えたのか伺いました。
鳥谷さんが入隊されるのはいつ頃なんですか?
昭和18年ですかね。
1943年の年ってことですね。
そうですね。立原井陸軍飛行学校に入ったのは4月5日が入校式だったからですから。
昭和18年の7月に立原井陸軍飛行学校に入られたんですね。
第一次試験はですね、250から300人ぐらいの受験生がありまして、簡単な身体検査と学科試験だけだったんですね。
採用通知が来たのが2、3ヶ月後で、東京の村山村のですね、飛行学校に入校しろという通知だったんです。
そこには日本全国から合格したのが1500名ですね。
入学してきたんですよ。
ここで1年やるかなと思ったら、そうじゃなくて、そこで本格的な通信と整備と操縦と3つに分かれるんですね。
みんな第一志望は操縦ですね。
若いからみんな飛行機に乗りたいという気持ちがあるんですが、1年間、一番最初は殴られ方から行くんですよ。
殴られ方?
びっくりしました。
連体責任という名目でですね、一つの班が、私は一中隊の5班だったんですけど、
5班、一つの班が25名ですね。
それで25名、いろんな練習があるんですけども、1人が失敗したら連体責任でガポガポやられるんですね。
腕立てを2時間ぐらい。
2時間ですか。
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過酷な訓練ですね。
もう本当は、今で言ったら残酷ですよ、本当に。
入るんじゃなかったと、そんな気持ちがあったりしませんでした?
そうです。
来るんじゃなかったなと思いましたですね。
4月の5日に入校式、桜の花がものすごく肯定に、その時に校長閣下の訓示がありまして、
まあ忘れもしませんけども、最初の失敗は最後の失敗と思えと。
っていうのはもうやっぱりパイロットっていうのは、一回失敗したらもうおしまいと。
やり直すことができないということですね。
その格言だけは本当によく覚えてまして、
私も戦闘機では、私一人単独戦闘機だったものですからですね、
離着陸だけは1,300回してます。
それだけやってるんですけど、一回も失敗はしなかったですね。
とりあえず優秀なパイロットだったんですね。
優秀は優秀と言われるだけなんですけども、
編隊飛行でですね、私一番寝てました。
とても命がけでですね、自分だけじゃなくて、
編隊飛行で飛ぶこっちの人に、自分がぶつかったらもう2人で亡くなるっていうような、
あれだったかですね、ヘリじゃなくて普通の飛行機だったらやっぱり、
1機長1機副班機と言う、しつけべったいですね。
本当に立ち払いではですね、1年間陸軍ですから、
全般はもう本当に陸軍の兵隊さんの訓練ですね。
鉄砲担いで、灰の背負って、防毒面を持って、
全般はもう歩兵の訓練ですね。
ダザイフのあの山道でも練習をやりましたんですよ。
鉄砲担いでですね、あそこまで立ち払いから歩いて興奮していって、
そしてあそこで突撃の訓練。
ダザイフの大きな草の木のあそこで野営して、
で翌日また鉄砲担いで歩いて立ち払いまで帰ってきましたですね。
その頃、鳥谷さんは16歳という年齢でしたけども、
兵隊になるってことは厭わなかったんですか?
あの、私たちがその頃の年齢の時はですね、
もう男は全部兵隊に行くというふうな時代だったかもしれないですね。
志願して早く行ったがマシというふうな気持ちもあったんですね。
実際、そのパイロットの訓練も受けて、戦地にも行ったんですか?
いや、その戦地に行く直前にですね、特攻に命令を受けたんですよ。
4月の初め頃、まあ4月の5日か頃だったと思うんですけども、
20年の4月、命令ですよ。
なんとか小隊長以下15名ですからですね、
4月何日をもって特別攻撃隊をもって特攻を命ずるという、
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そういうふうな命令でですね、
特攻命令を受けたら大当たりの訓練ばっかりです。
たった1回だけ猛気爆弾を抱えてですね、
軸して水平飛行して着陸して、それだけをいっぺんやったことがあります。
戦闘機にあんな爆弾抱えたら、もう戦闘機じゃないですよ。
もう輸送機と同じですね、着陸だってもうスーッと下に落ちていくというようなですね、
操縦法も全然違ってくるんですね。
重さでコントロールもなかなか難しい?
コントロール効かないんです。
そして特攻に出るのがこのチランですね。
チランとそれからバンセイとあるんですが、陸軍の場合ですね。
特攻が、特攻機が成功したのはですね、
本当の初め頃、海軍の石隊っていうのが、
あの人たちが出た頃が成功したんですけどですね、
もうそれからあとは全部途中で落とされるんですよ。
私たちも分かってたんです、それは。
それは知らされてたんですか?
いや知らされてるのではなくて、もう情報で分かってくるんですよ。
間違いなく途中で落とされるなっていう気持ちがあったんですね。
出発して行く時にですね、もうお前たち来るなって、
もう無駄遣いになるぞって言いながら出発して行ったんですよ。
名前は京都出身の大石康一っていうのが、
中南線で行く時に私物を届けてやって、
ありがとうって、プロペラ回ってるから声は聞こえませんけど、
ありがとうって言うのは分かる、口の動きでですね。
でもお前たち来るなって言ってましたからですね。
だからお互いに分かってたんですよ。
だから彼らも途中でもう落とされてるんですね。
無謀な作戦だったんですね。
もう分かりきったことなんですけどね。
特攻隊員として飛ばなくて良くなったタイミングっていうのは、いつ頃なんですか?
沖縄が陥落したでしょ。
6月の23日ですかね。
その日にですね、お前たち特攻一号、解散するって言われた時は、
うわぁ、バツァーって言いたかったんですけども。
内心はそう言いたかったんですけども、
特攻隊員は残念だったなって顔をして、同期生ばっかりだった時は、
うわぁ、良かったな、命びらしたなって喜んだもんですよ。
内心では行きたくない、飛びたくないとか、解散を命じられた時も、
やった、良かった、死なずに済んだとかいろんな思いが正直なところあったと思いますが、
それを表には出せない時代のムードっていうものもあったということなんですね。
そんな貴重な鳥谷さんのお話をお伺いしましたけれども、
そんな鳥谷さんの自身の経験を話そうと思ったのは、
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90歳を迎えた頃だったということで、比較的つい最近のことなんですね。
同じような特攻を経験した仲間たちがどんどんなくなっていったことがきっかけだったということで、
ある仲間とのエピソードを語ってくれました。
特攻にですね、2回か3回か出たんですよ。
行ってもやっぱり途中でやっぱり死にきれなかったですよね。
私も深くはちょっと、そういうことをあんまり深くは聞けないんですよね。
聞いたって本当のことを言わないはずですよ。
生き残ってね、帰ってきたらもう悲惨なもんだぞと、死んだ方がマシだったと思うと思うと、
ちょっと出たら帰ってくるなと言ってましたですもんね。
それと特攻の話をするとですね、喧嘩になるんですよ。
私は特攻の本当のことを、特攻にも表もあれば裏もありますから、
裏の話をすれば彼は言い上がるんですね。
だからこれが生きてるうちはちょっと本当のことを言えんなと私は思ってたんです。
けれども、7、8年前に亡くなりました。
亡くなったから私はもう卑怯って言われるかもしれんけども、
本当のことを言おうと思って講演からしてます。
ということで、その仲間だった方が亡くなったことをきっかけに、
本当のことを語りたい、伝えたいという思いから、
鳥谷さんも自身の体験を話すようになったということなんですね。
16歳で立家大陸軍飛行学校に入校した後、特攻隊員に指名され、
出撃することなく終戦を迎えたという元特攻隊員の鳥谷邦竹さん、
98歳の方にお話を伺いました。
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