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RKBをお伝えしているニュースや話題の中から、一つのテーマに絞って専門家や当事者に話を聞く、週替わりの特集コーナー、Weekly Close Up。
これまで、私、北九州の八幡あるいは小倉の町、そして今年の夏は博多の町を歩きながら、詳しい専門家の方に話を聞くというコーナーをお送りしましたけれども、
今週は歩けば歴史の音がする久留米というテーマで、久留米の町を歩きながらその都市の歴史をいろいろ学ぼうということで、この方と歩いています。
久留米市市民文化財・文化財保護課埋蔵文化財チームの主査、小澤太郎さんです。
今日は明善高校の前にやってまいりました。立派な門が設置されていますけれども、ここもかなり歴史がありますよね。
そうですね。実は明善高校はもともと藩校でして、久留米藩の学校だったんですよね、有馬さんが作った。
その後、中学、明善になって、実は明治44年、ここに陸軍大演習が行われて、久留米で。
その時にここは大本栄になったんですよね。
明治40年からにはすでにある門柱なんですけど、ここ今、明善高等学校という看板がありますけど、ここに大本栄と書いてある写真が残っています。
当時はそれを見に来ていたんですかね。
大勢の人が演習を見に集まっていくんですよ。近隣から宿泊して、久留米に。
久留米は観光都市でもあったんですよね。軍都で。観光都市に。
福岡県立明善高等学校という、この書体も歴史を感じさせるものがありますね。
名物ですからね。
中の方を見ると、校舎は当然あるんですけど、ちょっと時代が違うというか、和風の建物がありますよね。
緑の銅板を吹いた屋根が見えるでしょう。
あれが明治40年の大演習の時に、明治天皇があそこに宿泊されたんですよ。
その建物がまだ今でも残っていて、今でも活用されている。
軍都久留米のシンボルでもありますね。
その久留米が軍都になった背景というのはどういうところなんですか。
明治22年に日本で最初の市が31できたんですよ。
その時に久留米も手を挙げていて、31市のうちの一番下、久留米は。
人口も少ない、面積も一番狭いということだったんです。
どうしてかというと、もともと城下町の範囲が久留米市として申請しているので、土地が全然余っていないでしょ。
だから工場も持ってこれない、あと農地もないということで、
じゃあどう発展していったらいいのかという時に、明治30年、連帯が中先を探しているというので、
福岡から48連帯を誘致したんですよ。
連帯で数千人規模移動してきますからね、久留米近郊に。
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人口も増える、税収も増える。
そしてその10年後に味を占めて、日露戦争後の軍閣で士団をどこかに設置したいという時にまた手を挙げて、
各地との競争に勝って、久留米に置かれることになって、そういう万人規模の人たちがやってきますから。
それで軍都としてのスタートを切ったわけなんです。
軍都としての姿を見せるために大演習が開かれて、観光客がたくさん来たと。
戦前、今のJR久留米駅から日説久留米駅の間に旅館が、久留米80軒以上あるんですよ。
そんなにあったんですか。
今、ホテルが少ないと言われる方もいらっしゃいますけど、その当時たくさんあって。
なぜかというと、軍都に徴兵されたりしている人たちを、ご家族の方とかに疑問に来るんですよね。
そしたら、あった、元気だねと安心するだけじゃなくて、近隣に回ろうかという話になるんですよ。
自社仏閣とか、軍隊の施設なんかを回るツアーなんかもあるんですよ。
軍事ツーリズムですよ、一種の。
へえ。
だからその走りですよね、明治40年の陸軍大演習っていうのは。
なるほど。
陸軍がもし来なかったら、その場所に久留米が選ばれてなかったら、この発展はないかもしれない。
考えるために恐ろしいですね。
これがなかったら、第一次世界大戦が起きた時に久留米の部隊が出兵するということもありませんしね。
そうですよね。
となると、また後々の産業の発展にも大きく影響したかもしれないということですね。
そういうことです。
これが近代久留米の一つの出発点だと言えるかもしれませんね。
じゃあまたその軍とに関わってくる場所があるということですので、ちょっと移動しましょうかね。
明善高校から東の方に歩いてきまして、城南中学校の道路を挟んだ向かい側にあるのが、今目の前にあります石橋芸品館。
はい、ブリジストンの創業者の石橋さんのお持ち物で、プライベートな芸品館なんですよね。
ちょっと輪と少し形とかがアーチ状の門があったりとかして、ちょっと洋を感じさせる部分があって。
そうなんですね。
門からしか見えませんけど、その奥にある建物はまた立派な勢が尽くされたような建物ですね。
なかなかセンスありますよね。
なかなか見ないですよね、こういう形式の建物。
この石橋芸品館がある場所が元々はどういうところですか?
これですね、大正時代は久留米高等女学校という学校があったんですよ。
だからこの学校があった敷地、全部が今芸品館になっているという。
いかにその敷地が広いかというと分かりますけども。
軍都との絡みにおいてですね、一番大きいトピックスというのは、ドイツフルが来てますよね、第一次世界大戦後。
ドイツフルも日頃からいろんな運動であるとか文化活動をやっているんです。
その中で一番盛んだったのが音楽活動なんですよ。
ドイツといえば音楽、確かに。
日本人の味噌汁と同じくらい、毎日だめだというくらい、彼らの生活にはしっかり根付いたものなんですけども。
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そのドイツフルたちも普段は収容所内で演奏会をやっているんです。
これはもう今で分かっているだけでも、5年間の間に300回以上やっているんですよ。
オーケストラですよ、しかも。
収容がだいぶ4年5年経ちますと、もう本国に帰れるという話が具体的になってきます。
そうするとですね、そのへんの規制もさらに緩やかになって、外で演奏してもいいよということになって。
その時にどうも高等女学校の方から呼ばれたみたいなんですよ。来てくれということで。
どんな演目がその当時演奏されたかというのは分かるんですか?
分かります。これはプログラムが残っているんですよ。
やっぱりドイツ人が好んだのは、やっぱりドイツ出身の音楽家が多いんですけど、
特に好きなのがベートーベンなんですよね。
ベートーベン、公共曲9つ作っていまして、そのうち5つが、実はクルメが初演なんですよ。
え!そうなんですか。
有名なやつに、みなさん誰だか知っているのが、運命。ジャジャジャジャーン。
第5番。
第5番。あれもクルメが初演なんです。
へー!
この高等女学校では第5番はやらなかったんですけど、大工。
おー!
年末の風物詩ですよね。
高等女学校の生徒さん向けに演奏したんですよ。
へー!
そういうお客さんに向けて演奏したっていうのは?
クルメが初めてです。
へー!
日本で最初に初演したっていうのは、阿波の徳島の修業所でっていうことになってますけども、6月なんですよね。
で、今ほら日本では12月に大工が演奏される。
年末の風物詩ですよね。
これ世界的には日本だけらしいですよ。
そうなんですね。
そのきっかけがクルメじゃないかと勝手に思ってるんですよ。
時期的にもピタッと重なるわけですね。
しかもその月の最後、12月の終わりもクルメでまた大工を演奏してますから。
はー!
じゃあそこから広がっていったと考えてもおかしくはないですね。
そういうことも言えるかなと。
産業としても発展を遂げるクルメですけど、文化面的にもいろいろと広がっていったところは、
軍とだからこそいろんな影響を受けてるんですかね。
そうですね。
その音楽を演奏するだけじゃなくて、
彼らのクルメ高等女学校の生徒さんたちの音楽のレクチャーもしてるし、
あと市民楽団もできてるんですよ、その時に。
その時に市民楽団にも演奏レクチャーしたり、
あと楽器の作り方、変えない楽器もあるみたいで、
それを手作りで作ったみたいなんですよ。
作り方も教えたりとか、
あとカエルマギワは自分たちが使ってた楽器を売却してみたりとか、
その中にキューダイフィルにも楽器を売却してる。
ティンパニーなんかはキューダイフィル購入してるんですよね。
ということでいろいろな面で音楽文化への影響を与えてますよね。
というドイツ人の捕虜収容所もあったから、またクルメの文化に影響を与えたっていうことなんですけど、
もう一つ大きな産業にも影響を与えてるんですね、そのドイツ人が。
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それは明日またお届けしたいと思います。
はい、お楽しみに。
この時間はクルメ市市民文化財、文化財保護課、
埋蔵文化財チームの主査小澤太郎さんでした。
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