はじめに:戦争の記憶を語り継ぐ重要性
日々お伝えしているニュースや話題の中から一つのテーマに絞って、専門家や当事者に話を聞く週替わりの特集コーナー、
Weekly Close Up。今度の土曜日、8月15日終戦から81年を迎えます。
戦争を経験した世代も少なくなっている中で、その経験談を聞ける機会も少なくなってきました。
戦争の記憶を次の世代につないでいくことが課題となっています。
そこで今週は、語り継ぐ戦争の記憶というテーマでお送りします。
今日は福岡大空襲についてなんですが、1945年6月19日の深夜、福岡大空襲がありました。
死者、行方不明者を合わせると1100人を超える人が犠牲となりました。
被災面積3.78平方キロメートル。市の中心部の繁華街をはじめ主要な地域を消毒と化したという状況でした。
その福岡大空襲の経験者の方にお話を伺いました。
福岡大空襲を経験された浜野英子さんに先日お話を伺いました。
福岡大空襲の経験:浜野英子さんの証言
失礼ですが、今はおいくつでいらっしゃいますか。
はい、7月で90歳になりました。
ああ、ということは1945年6月19日、福岡大空襲があった当時は。
9歳です。小学校3年ですね。
どのあたりにお住まいだったんですか。
今の奈良公園、須崎ですけど、その頃は中妻障子と言ってたんですけど、今の須崎公園のところにありました。そこに住んでおりました。
小学校は奈良小学校に通ってた。
はい。
その福岡大空襲がある前っていうのはどんな様子だったんですか、このあたりっていうのは。
それはお宮でも皆さんと話しながら楽しかったですよね。
だけど急に小学校にも寄りつきたくなかったです。やっぱり戦争当時はですね。思い出すと。
6月19日の夜はどういうふうに変化していったんですか。
はい。父は年齢が高かったんですけど、特別に消消霊場が来ますよね。それで行って、母と二人だったんですね。
周りも強制疎開って言うんですかね。火事になったりして燃えるからっていうことで家を解いて、疎開してあったんですよ。
私は父が佐賀から出てきて、母が後藤だもんですから簡単に疎開できないし、何一つ出してなかったんです。着るもの一つですね。
そういう生活で、たまたま9時ぐらいでしたかね。空襲警報が鳴って、家の前に防空壕があったんですね。自分たちで作った。
防空壕に行きましょうと母が言って入ったんですけど、そのうちにやっぱり危ないとかゴーゴーという音が聞こえるもんですから、ここでは危ないから出ようと言って出たんですけど、その時に母がお祝いを取りに行くと言うんですよね。自宅までね。
家の中だったからですね。お祝いを取ってきて、十五銀行。
今の博多沢あたりですよね。
博多沢の地下ですね。そこだったらコンクリートで火も入らないし大丈夫だから、そこにだいたい万が一の時は逃げるようにしてるんですけどね。
そこに行こうと言って行き寄ったら、私が焼夷弾が落ちてくるのがすだれみたいに今考えて落ちてるんですね。それ見てびっくりして腰抜かしてるんです。
歩けなくなったもんだから母がおんぶしたんですね。もう三年生だから結構私も体格良かったもんですから。
母もそれでおんぶしたけども十五銀行まで行けないと言って、それでその当時町内にできてました防空壕。そこに行こうということで。
タオルとかそういう布を用水炉のとこにつけて、それを口とか頭かぶって防空壕に逃げたんですよね。
それからですよね、その後。あ、黒火がそこに行った人は電気があれで扉も開かなくなってお亡くなったけど、だから私があの時腰を抜かして良かったねって言って。
十五銀行に避難された方は結果はそこに閉じ込められるような形になったんですよね。もしその時に腰を抜かすことなくその防空壕に行ってたらって思う?
やっぱちょっとしますね。
近くの防空壕で身を潜めていた間っていうのは周りの何か音とか変化っていうのは聞こえてきたんですか?
もう私は焼夷弾が爆発すると思ってたら花火みたいなすがりがバーッと落ちてきたもんですから怖くなって。もう顔を上げれませんよね。
防空頭巾とタオルで目とか鼻とか覆いながら逃げたのでね、もうその時は無我夢中でした。
避難された防空壕はどれぐらいの広さだったんですか?
この場合まではなかったですね。
二間ぐらいはあったんですか?
ちょっと切れるぐらいですかね。
8畳10畳あるかないかっていうぐらいですね。そこに何人ぐらいいらっしゃったんですか?
その時は6人まだいたかもわかりませんけど、私の覚えてるのは6、7人と思うけどまだいらっしゃったでしょうね。
大人の方がほとんどですか?
そうですそうです。子供は私ぐらいじゃなかったんやから。
中ではどんな会話があったとか、外からどんな音が聞こえたとか。
大丈夫って言って、タオルとかこうして。
口を当てて。
はい。で、煙が入ってくるから入り口を塞いでねって。
扉はちゃんとあったのにやっぱ煙が入ってるっていうとこがちょっとさざかじゃないんですけど、やっぱ煙が入ってたんですね。
畳を中にすいてたんですよね。その畳をドアのとこに立てかけたりされたのは確かに覚えてるんですよ。
町に出たのはじゃあそのあくる朝ですか?
で、出たんですよ。出た時に、やっぱどこ今歩いてるかもよくわからませんよね。
真っ黒毛の死体があるから。
だから私はこんなに洋服屋さんあったかな、マネキンが焼けてると思ってたんですね。
そしたら死体で子供さんを胸に抱いて、親の方はもう黒焦げだけど、下の子供さんは少しあれがあったっていうのが、
それはやっぱ一番残酷だなぁと思いましたね。
そしたらもうどうしようもなくて、何かある時は奈良小学校に行けばいいんじゃないかっていうことだったから、
母と他の方もいらっしゃって、奈良の方に皆さんも行かれるから。
それが大体何時ぐらいとか、いつ頃ですか?
朝方ですよね。もう夜明けになってから。
6月20日ですね。
もう完全にもう明けてましたよね。
防空壕から出て、その奈良小学校に向かうまでの道中っていうのは、どんな景色だったんですか?
もう景色なんてわかりません。やっぱもうくすぶって、もう真っ黒系で、建物ないですもんね。
あちこち燃えているような状況?
もう一切ありません。
もう燃えた後?
はい。十五銀行の形があるだけで、骨組み一つ残ってない。
焼け野原だからですね。自分の家もようとわからない。
ご自宅もかなり焼けてしまったんですか?
だからもう全部、もう何一つこの辺は残ってません。
本当はその十五銀行の建物だけが残っているでしょう。
それと奈良小学校。だからその建物に向かって行ったら、奈良小学校ということで。
語り継ぐ決意:戦争体験を伝える理由
濱野さんが、戦争体験っていうのを語らなかった時期が長かったと思うんですけど、
でも語らなきゃというふうに、気持ちが変わったきっかけっていうのは何だったんですか?
自衛権で。
集団的自衛権の話ですか?
そうです、集団的自衛権。
それで、だんだんおかしいなと思ってきたんですね。
もしこのまま行ったら、また戦争がある可能性もあるんじゃないかな。
そうしたら、やはり言っておかないとわからないなと思って。
それがなかったら、そっとしとったかもわかりませんね。
それまで黙ってたんだから。
次の世代のために伝えたいこと、どんなことですか?
やっぱりもう、戦争は絶対嫌っていうことですよね。
いろんな犠牲を払わないといけないし、悲惨ですよね。
戦争を知らない我々の世代も、やっぱり知らなきゃいけない。
そして、それをまた次の世代に伝えなきゃいけないという使命がある中で、
浜野さんは、その戦争を知っているというところは、
やっぱりこの記憶を語り継ぎたいという思いは強いですか?
そうですね、特に最近。
まだ一人、二人、だんだん亡くなっていったから、
やっぱり子どもたちのためにも、
自分の子どもにも大変言ってなかったんですよね。
お話ししてなかったからね。
だから、やっぱり一人でもそういう残酷さとか、
ちょっとでもいいから伝えとったら、
やっぱり何かの時の抑止力があるんじゃないかなとは思っていますね。
まとめと今後の放送予定
という浜野栄子さんの貴重な福岡大空襲での経験をお話ししていただきました。
ほんのちょっとのことで自分の命が守られたということではあったんですけれどもね。
まだまだ浜野さんのお話の続きがありまして、
八時代のグロウアップマガジンのコーナーで、
引き続き浜野さんのお話をお届けしたいと思います。