仏教の禅の図画集「十牛図」についてお話しました!
十牛図(宝樹山萬福寺HP)
https://www.houjuzan-manpukuji.com/jugyuzu.html
十牛図(wiki)
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サマリー
このエピソードでは、禅の十牛図について話されており、自分探しの旅の意義や理想の自分を見つけるプロセスが紹介されています。特に、牛が理想の自己を象徴し、各図が異なる段階を示していることが強調されています。
十牛図の紹介
みなさん、こんにちは。自然を愛するウェブエンジニア、セミヤマです。
今日は禅の十牛図についてお話ししたいと思います。
最初にお知らせなんですが、次回あたりにお便り会をやろうかと思っています。
収録や配信まで少し間がありますので、送りそびれているお便りやセミヤマに伝えたいことなどありましたら、概要欄のメールフォームから送っていただけると嬉しいです。
10月24日の金曜日あたりまでに送っていただけると、お便り会でご紹介できるんじゃないかと思います。
で、今回は禅の十牛図についてお話ししていこうかと思っています。
禅というのは仏教の禅ですね。
ちなみに最初に言っておくと、僕は実家の母大寺は隣在宗ということで、たまたま禅宗のお寺なんですが、
日本に住む多くの方がそうであるようにソフトな仏教徒をかつ、年始には神社に初詣に行くというタイプのゆるい宗教観の持ち主です。
そんな僕なんですが、この十牛図というものをたまたま知る機会がありまして、今回は皆さんにこの興味深い図について共有できればと思います。
この十牛図なんですが、中国の北宗時代の禅宗の僧侶郭安さんが制作したと言われています。
北宗時代は西暦で言うと、西暦960年から1127年にあたるということで、まあまあ昔に作られたものなんですね。
それがめぐりめぐって、現代の日本にまで伝わっているということなんですけども、
この十牛図は理想の自分に至る道、言い換えれば自分探しの旅の道のりを10枚の絵で表したものになります。
もともとは禅の修行僧のために用意されたものなんですが、理想の自分、より良い人生を生きるための目標の追求というのは、今を生きる僕たちの多くが意識したり、頭を悩ませている問題かなと思います。
そのヒントを与えてくれるのがこの十牛図なんですね。
で、十牛図の牛は牛と書くんですが、その名の通り絵の中に牛が登場します。
十牛図に出てくる牛というのは本当の自分、理想の自分を表現しています。
10枚の絵に出てくる人物と牛との関係性や描かれ方によって、理想の自分や目標との距離感や向き合い方を表現したのがこの十牛図なんですね。
十牛図にはそれぞれの図に対応する文章も添えられていて、より理解を深めることができるようになっています。
牛を探す旅の始まり
十牛図の絵は描かれた時代や地域によっていくつもバリエーションがあるんですが、今回愛知県にある鳳凰寿山万福寺さんというお寺のホームページに掲載されている十牛図の解説ページを概要欄に貼らせていただくとともに参考にさせていただいてます。
こちらに掲載されている十牛図の絵がとても緩くて味わい深くて、僕のお気に入りです。皆さんもよかったらチェックしてみてくださいね。
それではまずは第一図からいきましょう。第一図は人牛、牛を尋ねると書きます。十牛図は十牛図と言いつつ、牛が出てこない図が結構あるというか、実を言うと牛が登場する図が10枚中4枚しかありません。
なんですが常に牛、つまり目標あるいは理想の自分というのは絵のテーマとして意識され続けているわけです。で、一枚目の人牛に書かれている人物は牛を探して旅をしている旅人なわけです。
目標を立てるという観点から言うと、自分の進むべき目標を立てたいけど決めかねている。理想の自分ということから言うと、そういうイメージが頭の中に描けていないという段階かもしれません。
そういう時期ってありますよね。僕も高校卒業の直前まで、高校を出た後何をするか決めかねてまして、とりあえずゲーム好きだし、友達も同じ学校行くしということで、東京の専門学校のゲーム制作家に進んだということがありました。
ゲームを制作するためのプログラミング言語、C言語とかを学びましたけど、今それが直接役に立っているかというと、ちょっとわからないですね。
結局その後、web系という別分野に進むことになったんですけども、そう僕はその頃人牛でしたね。自分の進むべき道がわからなくて、牛を探してさまよってました。
続いて第2図は、見るに足跡の跡という漢字ですが、牛の足跡を見つけるという図になります。第1図では牛を探してあてもなくさまよっていた旅人が、第2図では牛の足跡を見つけることに成功しました。
大きな一歩ですよね。そう遠くないところに牛はいるんだということはわかったわけですね。またまた自分の例えで恐縮なんですが、そうですね、専門学校を辞めてからいろんな仕事をてんてんとしてたんですが、やっぱ
web系なんだろうなというのは、その頃にはなんとなくわかってました。専門学校ではゲーム制作に使うプログラミング言語しか使ったことがなかったんですが、ある企業でweb系のプログラミング言語やデータベースに触れる機会がありまして、
それまでは高校時代にhtmlで赤岸よ来たれというタイトルのデスクリムゾンとエヴァンゲリオンを足して2で割った内容のホームページを立ち上げたくらいで、webプログラミングというのは全くやったことがなかったんですけど、割とすんなりできるようになったんですよ。
僕は学生時代は数学とか理系科目の点数はそれはもうひどいものだったんですが、webプログラミングって数学苦手でもできるんだなっていうのが一つ発見でしたね。結構いるんですよね、文系webエンジニア。
とはいえ本当に初歩的なところからスタートしたわけで、まだまだ牛の足跡をようやく見つけたという感じだったと思います。続いて第3図は兼牛。ミルに牛と書いて兼牛ですね。
お待たせしました。3枚目にしてようやく牛が絵の中に登場します。先ほどご紹介した万福寺さんの住牛図の解説ページに掲載されている兼牛の絵なんですが、端っこにひょっこり見切れた牛の顔が書いてあって、すごく可愛いのでぜひ見ていただければと思います。
兼牛ではついに旅人が牛を発見します。ただ旅人と牛の距離は離れていて、まだまだ牛は遠くにいるという段階ですね。
僕のことで言うとweb系でやっていこうと決めたはいいものの、技術不足でなかなか思うようにいかず、先輩にダメ出しされまくっていたそんな時期が兼牛だったかもしれません。
第4図は特牛。牛を得ると書いて特牛と読みますが、ついに旅人は牛を捕まえます。目標に手が届いたんですね。ただ捕まえはしたものの、まだまだ牛は血気盛んで目を離せば逃げてしまいますから気を抜くことはできません。
続いて第5図では牧牛。牧場の牧に牛で牧牛と読みますが、牛を飼いならすという絵です。暴れん坊だった牛もようやくおとなしくなってきたと。目標や理想の自分がよりかっこたるものになってきたという状態かもしれません。
さらに第6図、起牛帰家。これは騎馬船の木に牛、帰る家と書いて起牛帰家と読みますが、牛に乗って家に帰るという絵です。
絵の中の人物は暴れていた牛をおとなしくしつけることに成功し、さらに牛の背中に乗って笛まで吹いています。かなり余裕が生まれてますね。
そして第7図は暴牛損人。忘れるに牛、存在の損に人と書いて暴牛損人と読みます。牛のことを忘れて人だけがいるという状態ですね。
せっかく捕まえた牛なんですが姿が見えなくなってしまいます。ただこれは目標を見失ったということではなく、目標や理想の自分というものをことさらに意識しなくても良くなった状態ということなんじゃないかと思います。
今の僕は仕事的な話で言うとそういう感じかもしれません。牛を探してさまよっていた頃と比べると自分の生き方とか仕事について確信を持って進むことができています。
人間なので不安とか迷うことがないかというと全くそんなことはないんですが、最終的にはなんとかなるだろうと思って日々を生きてますね。牛を忘れてただ俺がいるという感じです。今の僕はこの暴牛損人がしっくりきますね。
最終的な成長と気づき
で、重牛図は残り3枚となりましたが、第8図は人牛愚房。ちょっと難しい漢字を含むんですが、牛のことも人のことも忘れるという意味で第8図はもはや何も書かれてません。無が描かれてます。
目標に向かって歩んでいた旅人も目標であるところの牛もすべていなくなってしまいました。どういうことかというと、これ禅でいうところの空の境地ということみたいです。
禅の修行では悟りを開くことが一つ目的としてあるんですが、その悟りにすらこだわるな捨てろというのが空の境地なんですね。このあたりはかなり抽象的な話になるので触れる程度にとどめておこうかと思います。
続いて第9図は返本厳厳。本を返す返本に漢暦の漢根厳の厳で返本厳厳と読むそうです。これはすべてが元通りになるという意味で図には流れる川や花を咲かせる木が描かれています。
人や牛は引き続き描かれていません。自然の風景だけが描かれているんですが、これは一切のこだわりを捨てて世界をありのままに見なさいということみたいです。
そして最後となる第10図、日展水種はこれも難しい漢字を含みますが、町に出て生活するという意味になります。図にはホテイ山が描かれています。
ホテイ山は中国の唐の時代の禅僧がモデルとされていて、日本では七福神の一人としても知られています。サンタさんのような大きな袋を担いでいて、その袋には人からもらったものが入っています。
そして人に会うと袋から取り出したものをあげる、そんな存在なんですね。かつて牛を求めてさまよっていた旅人が町に出て人に何かを与える存在であるホテイ山になったわけです。
物をあげるイコール他の人の考えや行いに影響を与える人物、導いてあげる存在という見方もできます。牛を探す旅を通じて旅人はホテイへと求めるだけの存在から人に何かを与えられる存在へと成長したわけです。
そんな重牛図なんですが、いかがだったでしょうか。禅問答というくらいで、禅というとあまりにも抽象的で難解で日常を生きる僕たちと交差するところが見出せない、そんなイメージをお持ちの方も少なくないかなと思います。
なんですが、牛という親しみやすい生き物をモチーフに制作された僕たちにヒントを与えてくれるこの重牛図、まずは概要欄から画像などをチェックしていただけると面白いんじゃないかと思います。
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今日は禅の重牛図についてお話しさせていただきました。ご視聴ありがとうございました。
17:55
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