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南大東島 かつて砂糖会社に支配された南洋の島
2026-03-30 39:54

南大東島 かつて砂糖会社に支配された南洋の島

かつて砂糖会社に支配された「南大東島」についてお話しました!


・砂糖会社が島全体を支配、島独自の通貨が流通

・沖縄本島から360km、絶海の孤島

・ペリーの琉球占領計画

・土地の所有権を巡る戦い


強権企業が島を支配、日本円すら流通せず…ナゾの離島「南大東島」のディープすぎる世界(文春オンライン)

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サマリー

南大東島は、沖縄本島から遠く離れた絶海の孤島であり、かつては砂糖会社によって島全体が支配されていた歴史を持つ。島独自の通貨が流通し、土地の所有権を巡る争いや、過酷な労働環境が存在した。固有の生物が生息する一方で、人間の歴史は企業の支配とそれに抵抗する人々の苦闘の物語であった。現在は国の補助金に支えられながらも、人口減少に直面しており、その未来が注目されている。

南大東島の固有生物とその特殊性
みなさん、こんにちは。 自然を愛するウェブエンジニア、せみやまです。
今日は南大東島についてお話ししたいと思います。 南大東島という島が日本にありまして、今回そのお話をしたいんですけども、
南大東島は日本に数ある島の中でもかなりアクセスしづらいところなので、行ったことがある方は相当少ないんじゃないかと思います。
僕も行ったことはなくてですね、いつか行ってみたい場所の一つではあるんですけども、
南大東島という場所の存在を僕が初めて認識したのは小学校、高学年くらいの頃で、少し前の回でもお話ししたんですが、
その頃僕はクワガタムシに夢中だったんですよ。 で、その頃夢中になって読んでいて、今も手元にあるクワガタムシの図鑑があるんですが、
その本で大東豆クワガタという小さなクワガタが写真付きで紹介されてたんですよ。
大東豆クワガタはあまりクワガタらしくないクワガタで、体も1センチ程度と小さく、クワガタムシの特徴であるあのオオアゴもオスでもとても小さくて、
オスとメスを見分けるのも難しい。 そんな変わり種のクワガタが住んでいる場所として、僕は南大東島という島を初めて認識しました。
あとクワガタで言うと、南大東島には大東平田クワガタという日本各地に住んでいる平田クワガタのアッシュも住んでまして、
この大東平田クワガタも結構変わったクワガタムシなんですよ。 見た目は本土の平田クワガタより赤身がかっていて、体のサイズは小さいんですが、
特に変わっているのが樹液を吸わないということなんですよ。 クワガタムシといえば、
クヌギなどの樹液に寄ってくるというイメージがありまして、 実際クヌギの樹液が出ているところでは、いろんなクワガタムシの姿を見つけることができるんですが、
この大東平田クワガタというのは、 成虫になると樹液ばかりか、
餌をほとんど食べないという変わったクワガタムシなんですよ。 これはもともと樹液を出す気が少ない
絶開のことに適応した結果なんじゃないかと思います。 それと固有の生き物で言うと大東大コウモリという20センチ以上にもなる
大きなコウモリが生息してまして、このコウモリは果物を主食にしていて、 英語だとフルーツバッドと呼ばれたりもする
オオコウモリの仲間なんですよ。 このコウモリ、大昔から天敵のいない南大東寺まで暮らしていたので、
天敵に対する警戒心というのがなくてですね、 研究者の方がこの大東オオコウモリを捕獲したとき、全然噛みついてこなかったことにとても驚いたそうなんですよ。
というのはこの大東オオコウモリというのは首輪オオコウモリというコウモリのアシュでして、
他の地域、例えば沖縄本島とか八重山諸島には首輪オオコウモリのまた別のアシュが住んでるんですけども、
そのあたりのオオコウモリって捕まえるとすごい勢いで噛みついてくるそうなんですよ。
生き物としてはその方が自然ですよね。 自然界で天敵に捕獲された場合、逃げ出さないと命に関わるわけですから、
その沖縄本島などのオオコウモリは厚手の皮手袋の上からでも内出血するくらいものすごい勢いで噛みついてくるそうなんですが、
この大東オオコウモリは全然噛みついてこないって言うんですね。 大東オオコウモリは捕獲されると状況を理解できなくて、
研究者の方の手の中でただ呆然としているって言うんですよ。 長らく天敵のいない環境で命をつないできたことで、
天敵に対する抵抗とか攻撃とかそういう本能がなくなっちゃってるんですよ。 南大東島というのはそれくらい確実した特殊な場所なんですよね。
地理的に言うと沖縄本島から東に360キロも離れてて、
10キロほど北にある北大東島と南に160キロ行ったところにある沖大東島と合わせて大東諸島を構成しています。
で、僕の中では南大東島というのは今お話しした固有のクワガタムシとかオオコウモリとかそういう変わった生き物が住んでいる島の一つだったんですけど、
あるネットメディアの記事をきっかけに全く異なる興味を南大東島に抱くことになりました。
企業による島支配の歴史
それは安田美音俊というライターが文春オンラインに寄稿した
共建企業が島を支配、日本円すら流通せず謎のりと南大東島のディープすぎる世界という記事なんですよ。
このタイトルに興味を惹かれて読んでみたところ、そこには全く想像もしていなかったことがいろいろと書かれてたんですよ。
一つの島が丸ごと企業によって支配されていた。 日本円が流通せず労働者の給料はその島だけで流通する技術家で支払われていた。
八丈島系と沖縄系の住民グループがあり対立していた。
子供の頃から名前だけは知っていた南大東島にそんな歴史があったなんて全く思いも寄らなくて、ものすごく興味を持ったんですよ。
で、その後いくつか南大東島に関する本を入手しまして、それらの本や最初にお伝えした記事を読んで、自分なりにまとめた内容を今回お話ししようかなと思っています。
南大東島はさっきもちらっと言ったんですが、沖縄本島の約360キロ東に位置する海洋島です。
この島は火山島ではなく、珊瑚礁由来の石灰が積み重なってできた島で、過去に大陸とつながったことがありません。
なので、もともとの在来の哺乳類というのは、さっきお話ししたダイトオオコウモリしかいなかったんですよね。
島に生息する在来の昆虫や鳥や植物は、かつて空を飛んでやってきたり漂着したものの子孫ということになります。
南大東島の周囲は断崖絶壁に囲まれていて、なだらかな浜辺というのは存在しません。
そして島の周りの海は4,000メートルもの深さがあります。
4,000メートルもの深さの海にポツンと突き出したのが南大東島で、本当に海洋の真っ只中にある島なんですよ。
こういう立地なので、島のすぐそばの海でマグロ漁が行われています。
港でもキハダマグロやバショウカジキといったような外洋性の魚が釣れてしまうそうです。
あと魚の話で言うと、現地でインガンダルマと呼ばれている魚がいまして、
ワメオバラムツという深海魚なんですが、このインガンダルマ、白身魚でビーミーということで、
現地では愛好している方も多いんですが、人間の内臓では消化できない油を含むということで、
たくさん食べすぎるとお尻からその消化できない油がプリプリプリーと出てきてしまうそうです。
このため食品衛生法との兼ね合いで販売することを禁じられているそうなんですが、
個人的に消費する分には音が目なしということで、現地では食べられているそうです。
で、南大東島に人が定住するようになったのは今から120年ほど前からで、比較的その歴史が浅い島なんですよ。
なんですが沖縄の人たちはそのあたりに島があるということは大昔から認識してまして、
沖縄の神話に出てくる神の国、オファーガリ島と呼んでいました。
南大東島が国際的に知られるようになったのは1820年にロシアのハンセン・ボロジノ号が大東諸島の付近を通過した時からで、
この時これらの島はボロジノ諸島と命名されました。
大東諸島の領有権を日本が宣言するのは1885年、明治になってからなんですが、
それよりも少し前、徳川政権の時代に意外な人物が南大東島を訪れていました。
それは黒船で有名なペリーなんですよ。
当時鎖国をしていた徳川政権下の日本にペリーが黒船でやってきて強制開国させたというあの有名なお話がありますが、
ペリーとしてはそれでも幕府が開国しなかった場合、プランBを考えていたようなんですね。
それは日本本土ではなく琉球諸島を占領して補給港にしようというプランだったんです。
当時琉球王国は薩摩藩に支配され搾取されていたので、
その占領から解放してあげれば現地の人たちの協力も得やすいだろうとペリーはそういうふうに考えていたようです。
実際もしペリーが琉球占領を目指したらことがどう運んだかはわかりませんが、
琉球王国が薩摩藩に搾取されていたというのは実際そうでした。
薩摩藩が琉球王国を支配して搾取して、
で、琉球王国はさらに都、八重山地域の島に過酷な税をかけていた。
そういう状況がありました。
開拓の始まりと過酷な生活
もちろん時代も地域も違いますから僕は伝え聞いているだけではあるんですが、
薩摩藩に支配されていた頃の沖縄都、奄美の状況はそれは過酷なものだったようです。
奄美のある村では粗鉄しか食べるものがなく、それすらも食べ尽くして、
数十人の村人がアダンの木で首を吊って集団自殺をしたそうです。
都島では妊婦税と言って一人頭いくらの厳しい税がかけられていて、
子供が生まれてくると生まれてこない方が親も子も苦しまずに済むと言って、
両親は自らの手でクバの葉っぱで生まれたばかりの赤ん坊を包み息うめにしていました。
生命力の強い子供の泣き声が何日も聞こえていることもあった。
そんな話も残っています。
薩摩藩が南方諸島の人たちからそうやって絞り取った利益は、
薩摩藩が計画した軍事空出たの資金に流れていきました。
その軍事空出たは後に明治維新と呼ばれることになりました。
話を南大東島に戻します。
1891年にアメリカの船がナンパして南大東島に漂着しまして、
この時救助に向かった日本の探索隊が南大東島で真水が飲める池を発見しました。
この発見が南大東島開拓の足掛かりになりました。
その後の1900年、明治33年には玉置半衛門という八丈島出身の実業家が
八丈島で募った開拓団を引き連れて南大東島の開拓に乗り出しました。
この玉置半衛門という人は鳥島という別の島の開拓にも関わった人物でして、
この鳥島についてもいろいろとあるので、いずれセミラジオの別の回でお話しできればと思います。
この1900年に南大東島に上陸した開拓団は八丈島で募った20名でして、
この人たちは玉置と交わした開拓から30年が経過したら、
自分で開拓した土地の所有権はその耕した人に与えるという約束の下、開拓に乗り出していたんですね。
ただ、絶海の孤島での開拓作業は過酷で、早々に帰国する人も少なくありませんでした。
それでも30年我慢して働けば自分の土地が手に入る。
それを夢見て初期の開拓者たちは島の開拓を進めていきました。
ただ結果から言うと、この30年働けば耕した土地が自分のものになるという約束は島を運営する会社が移り変わる中で守られることはありませんでした。
で、南大東島の主要産業というのは、この明治の開拓初期の頃から今に至るまでずっと
サトウキビの栽培と生徒、サトウの製造なんですね。
なので南大東島における開拓というのは、もともとの草むらや森を伐採してサトウキビ畑に変えていくということを意味していました。
当初20名の開拓団から始まった南大東島の開拓ですが、開拓から11年が経った1911年には沖縄から生徒の技術者を招いて
牛の力で動かす圧削機を使った生徒が行われるようになりました。
それだけ描くと、じゃあ順調だったのかなという気もするんですが、当時の南大東島での暮らしは引き続き過酷なもので、
1913年には島でチフスが蔓延し、当時2500人だった人口のうち200人以上が亡くなりました。
毎日どこかの家でお葬式が行われ、一家の家で1日2回お葬式をやるところもあったそうです。
南大東島では限られた水場をみんなで共有していたので、感染症が蔓延しやすい状況がありました。
1912年には島の漁業発展のために移入された船が到着したその日の夜に盗まれて、
朝になると島から労働者夫婦と若者一人が消えていたそうです。
そうまでして島から逃げ出したかったんですね。
それくらい島での暮らしが過酷だったんだと思います。
その人たちその盗んだ船でどこかにたどり着けたんでしょうか。
故郷に帰れたんですかね。
それは気になりますよね。
企業による支配体制の確立
で、南大東島ではさっきもちらっと言いましたが、
日本円ではなく島だけで流通する紙幣が使われていました。
労働者に支払われる給料はすべてこの大東島紙幣で支払われていたんですね。
とばくはかいろくかえじという漫画で、地下の強制労働施設でのみ流通するペリカという技術家がありましたが、
ちょっとそれを連想させるものがあります。
もし島での暮らしが嫌になって逃げ出すことができても、
この大東島紙幣は日本本土では使えませんから、無一文の状態になってしまうわけですね。
こうなると島から簡単に逃げることはできないわけです。
この頃の南大東島では島に食料品などの物資を持ってきたり、
島民に販売する会社も玉置が経営する玉置商会が運営していました。
さらには島における警察組織すら玉置が人件費を払っていました。
南大東島は沖縄県に組み込まれていたものの、市町村制がしかれず、
日本の行政機関の管轄街にある玉置商会による自治という名の支配が行われていた島だったんです。
この玉置繁栄門は1910年に亡くなり、
その後南大東島は東洋政党という会社の手に渡りました。
この東洋政党は玉置が作り上げた島民を支配するためのシステムを引き継ぎ、
絶対利益の追求のため、さらに過酷な活性を島の人たちに課していきました。
その中でも強烈なのが、会社命令に従わないものは戸作地没収というものです。
30年必死に働けば自分の土地が手に入る。
それを夢見て、チフスで多くの仲間を失いながら、必死に働いてきた人たちに、
会社命令に従わないものはその権利を剥奪するぞと脅してきたんですね。
島を1年以上離れた者や、正規の手続きを踏まずに島を離れた者についても、
戸作地を没収するという規定もありました。
人を島に縛り付けて、とにかく砂糖きびを作れ、砂糖を作れ、余計なことはするな、会社には背くなと。
会社に背けば、無一文で離島を命じられることにもなるわけです。
社畜という言葉がブラックユーモア的に使われることがありますけど、
この頃の南大東島に住んでいた人たちの状況と、その社畜という言葉が恐ろしいほど符号していて、
ちょっと恐怖すら覚えます。
他の地域から削絶されたこの小さな島で、絶対的に有意な立場にある企業が、
そういう力なき人たちから、いかに効率よく削除するかを追求した非人道的なシステムを構築していたんですね。
本当にひどいことだと思います。
戦争の影響と米軍統治
まあ、ちょっと目線を変えて言うと、島にもともと住んでいた大東大コウモリからすると、
開拓民の人たちは、大コウモリの住処である森を伐採する破壊者でしかありませんでした。
ただ、世界という荒波に揉まれながら、どうにか溺れないようもがく一戸人という意味では、
南大東島を開拓した人たちも、僕も変わらないので、
今回はそこに寄り添ってお話ししたいと思います。
大東大コウモリには、なんかごめんって思います。
僕が直接森を伐採して、サトウキビ畑に変えたわけじゃないけど、
なんかごめんって勝手に思ってますね。
話を戻すと、当時南大東島では、子供に高等教育を受けさせるにも会社の許可が必要でした。
許可がおりても、ペナルティとして土地を1ヘクタールほど取り上げられたそうです。
子供に教育を受けさせると、会社にペナルティを払わなければいけなかったんですね。
正当会社にとって教育のある人間というのは不要だったわけです。
ひたすらサトウキビ畑と正当工場での労働に従事する会社にとって都合のいい人間さえいればよかったんですね。
1921年には会社に恨みを抱いた労働者が会社に放課するという事件も発生しています。
この時期会社関係の人は本土の出身者が多かったようです。
島民は八丈島出身者が多く、さらに島民に私益される立場の私益人として沖縄出身の人が南大東島に多数住んでいました。
この頃それぞれのグループはお互いに軽蔑し合い、決して誘和することはなかったそうです。
会社にとっては住民が一致団結して会社に歯向かってくることがないわけですから、都合が良かったと思います。
会社は住民の一部を手厚く接待するなどして、意図的に分断を狙ってもいたようです。
とても巧妙ですよね。
また南大東島では八丈島出身の人と沖縄出身の人の結婚は戦後になるまでは認められなかったそうです。
時代が昭和になると島は東洋政党から大日本政党という会社の手に渡りましたが、その支配の構造は変わりませんでした。
島で労働者として働く人たちは汚れた着物を身につけ、夜は電気の通わない家でランプを灯して生活していました。
一方、政党会社の社員とその家族は昼はテニスやビリヤードを楽しみ、夜は電気の通った快適な家で暮らしていました。
労働者の家族は海に囲まれた大東島で、夏の暑い日に子どもや若者が海に泳ぎに行くときにさえ会社の人に見られないように隠れながら行ったそうです。
やがて第二次世界大戦が始まり、外の世界から隔絶した南大東島にも戦争の影が忍び寄ります。
南大東島にも軍事拠点として日本軍が駐留するようになり、昭和20年1945年3月27日には日本軍の飛行場に向けて米軍艦隊が激しい砲撃を浴びせました。
毎日のように空襲があり、島に爆弾の雨が降りました。
米軍機の爆弾で砂糖工場が破壊され、3万票の砂糖が燃えるということも起きました。
補給を絶たれた南大東島の人たちは孤立し、戦時中は砂糖きびの生産を停止して、生きるためのさつまいもなど自給自足のための作物を植えるなどして窮地をしのいでいたようです。
この時期着るものがなくなり古い着物を直して使ったり砂糖を詰める浅袋を着ている人も少なくなかったようです。
砲撃や爆撃によって何人かの島に住んでいた人と日本の軍人が犠牲になりました。
第二次世界大戦では沖縄で地上戦が行われ、当時沖縄に住んでいた人の4人に1人が亡くなるという惨劇が起きました。
姫百合の島で有名な姫百合学徒隊も米軍の毒ガスで殺されたり、本当にひどい状況だったと聞いています。
南大東島は四方を囲む断崖絶壁のおかげで、戦争中に米軍の大部隊が上陸してくることはありませんでした。
ですが、終戦後の9月には米軍が上陸し、島の日本軍は無条件降伏となり、軍の設備は爆破されました。
そして、大日本政党が所有していた島の土地や施設はすべて米軍の管理下に置かれることになりました。
戦後すぐの昭和21年、1946年には南大東島に初の村制が施行され、南大東村ができました。
皮肉なことに米軍がやってきて会社から島を取り上げたことで、南大東島は初めて日本の自治体に組み込まれたんですね。
土地所有権問題とキャラウェイ高等弁務官
1950年には沖縄出身の実業家によって大東東業という会社が立ち上がり、島の政党業が本格的に復活しました。
なんですが、この大東東業は以前の政党会社とは違い、南大東島のすべての土地を所有している圧倒的支配を行う企業ではなく、
依然として島は米軍の管理下に置かれたままでした。
そんな中、戦争まで島を支配していた支配的政党会社である大日本政党は、
なんとか島の所有権を取り戻して利益を確保すべく沖縄県などに働きかけていました。
沖縄の代表と南大東島の代表と大日本政党とで三者会談が何度も開かれましたが、
なかなか合意には至りませんでした。
この時点では南大東島のすべての土地は米軍が管理して最終的な所有権が宙に浮いていたわけです。
この島の全土地が再び大日本政党の所有となれば、会社がその土地を自分たちにすんなりと与えてくれるわけがないと、
南大東島の人たちは考えていたわけです。
なので、三者会議は平行線を辿りました。
で、当時沖縄の占領に関して強い権力を持っていたキャラウェイ高等弁務官という人がいるんですが、
南大東島の人たちはこのキャラウェイに陳情を行うんですね。
高等弁務官はその任期の間際に気前のいい采配を置き土産に置いていくことが多かったようで、
そのタイミングを狙った陳情でもありました。
陳情がこうそうしてか、南大東島のすべての土地は一部の社有地を残して、
その土地で農業を行っていた人たちの所有となりました。
このことから南大東島にはキャラウェイへの感謝を伝える共造も立てられています。
沖縄全体としてはキャラウェイは圧倒的な強権で沖縄を支配した人物ということで、
恐れられてもいたので、南大東島とそれ以外の地域で大きく評価が分かれる人物ではあります。
砂糖バブルと現在の産業状況
企業による圧勢が終わった南大東島では、1967年頃、
砂糖の後継期によりバブルのような状況が発生していました。
八丈島出身の大農家は昼間から漁艇で宴会を行い、島には漁艇やパチンコ店が立ち並び、
タクシーが行き買い、ビンゴという掛け事が流行り、ドル札が飛び交う、そんな状況もあったようです。
ただ、バブルはいつかはじけるもので、今現在国内の生糖業、砂糖の製造というのは政府の助成金によって成り立っているそうです。
国産の砂糖は海外産の砂糖に比べると製造コストが高くて競争力がないんですね。
そこで国産の砂糖業を保護するために、政府は海外から輸入する砂糖の原料に対して、
助成金というお金を徴収して、そのお金を沖縄の砂糖きび農家や生糖業者への補助金に当てているわけです。
南大東島や沖縄の砂糖の買い上げ価格には、本来の価格の何倍もの補助金が当てられているんですね。
仮に南大東島で砂糖に対する補助金がゼロになった場合、島には他に産業というのはほぼないわけですから、
島で暮らしていくための収入を得ることが難しくなってしまいます。
そうすると結果、多くの人が離島することになってしまいますよね。
政府としてもそれは避けたいんだと思います。
ちなみに、南大東島シュガートレインと呼ばれる砂糖きび運搬用の列車が、
南大東島では80年代まで走っていました。
沖縄では戦時中に線路が破壊され、その後復旧することなく電車のない件となったんですが、
今現在モノレールが運行しているのと、
そして例外的にこの南大東島シュガートレインは80年代まで砂糖の原料である砂糖きびを満載して南大東島を走っていたんですね。
その光景をフィルムに収めた写真集が出版されてまして、電子書籍でも読むことができます。
南大東島の現在と未来
概要欄にそのあたりのリンクも貼っておきます。
ということで、南大東島の自然や歴史についてお話ししてきたんですが、いかがだったでしょうか。
企業が島全体の土地を所有し、過酷なルールで島に住む人たちを縛り搾取していた。
そのことに衝撃を受けて南大東島について自分なりに調べてみたんですが、
あまりの過酷さに資料とした本を読み進めるのがしんどくて、まとめるのにかなり時間がかかってしまいました。
逃げ場のない絶海の孤島ということもあって、本当に島の人たちの行き詰った様子、
ただただその日を生き延びるために労働に汗を流すしかない、そういう苦しいところが読んでいてすごく伝わってきました。
一時は砂糖バブルが訪れた南大東島も、今は政府の補助金でなんとか産業を維持しているという状況で、
島の人口は緩やかに減り続けています。
南大東村のホームページによると、2026年3月現在、島には1205人の人が住んでいるそうです。
これから南大東島がどうなっていくのかというのは、僕は引き続き関心を持っています。
南大東島は那覇から船で15時間、1日2便の飛行機で1時間ということで、決して行きやすい場所ではないんですが、いつか行ってみたいと思っています。
今回、南方針社の南大東島の人と自然、足書房の南ボロジノ島、南大東島の開拓と歴史という本を資料とさせていただきました。
南ボロジノ島と南大東島の開拓と歴史は絶版ですが、南大東島で島に住む人たちが強いられた過酷な歴史について詳細に記されています。
南方針社の南大東島の人と自然は、大東大コウモリをはじめとする島の生き物や自然、そして島を生きる人々や文化にスポットを当てた本で、これとても読みやすく面白かったです。
こちらは今現在、アマゾンで新品を購入することができます。おすすめです。
この辺りのリンクや南大東島に関する記事について概要欄に貼っておきますので、よかったらチェックしてみてくださいね。
セミラジオではお便りを募集しています。
Xのハッシュタグセミラジオや概要欄のフォームからお送りいただけると嬉しいです。
今日は南大東島についてお話しさせていただきました。ご視聴ありがとうございました。
39:54

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