埼玉県しりたがりラジオ サイタマニアクス スピーカーのこけです。
この番組は、埼玉県というコンテンツを様々な角度からいじり倒して、
おもちゃにして楽しんでみようというコンセプトでお届けするラジオです。
そして、本日のお相手はこの方です。
こんにちは、くろむぎです。いつもお世話になっております。よろしくお願いします。
お世話になっております。よろしくお願いします。
いやー、前回に引き続き、くろむぎさん、よろしくお願いします。
今収録時点では、2026年の9月の末ということになるんですけど、
今令和8年ですけど、100年前の思い出はないと思うんですけど、
100年前って1926年なわけですよ。
はいはいはい。
元号で言うと何だったかって、何かわかります?
1926年、あれちょうど大正と昭和の境目ぐらい?昭和になったぐらいだったっけ?
素晴らしい。その通りなんですよね。大正15年兼昭和元年。
はいはい。
大正15年が12月24日までか。25日から昭和元年みたいな感じだったわけなんですよ。
なんかその辺の、昭和が元年になってから100周年みたいな話題って、
ここ最近なんかいろいろと耳にしたりとかって、くろむぎさんされたりしましたか?
あんまり聞いてないかな。ちょっとあんまりニュースとかも見てないもので。
なるほど。そうなんですよ。だから2025年がちょうど昭和元年から観察すると100周年ということになったので、
結構ね、昭和100周年っていうことでいろんなイベントだったりとかも行われていたりとかして、
埼玉県的には大宮の盆栽村が100周年っていうところがあって、去年結構イベントいろいろやってたりとかしたりしてたんですよね。
そう、そんな昭和100周年がついこの間だったというようなこともあって、
ちょっと100年ぐらい前の話を少し遡ってしてみたいなと思ってるんですけど、
2024年なので昭和99周年の年になるんですかね。
っていうのが、実はあることの100周年のタイミングだったんですけど、
この辺りって何かわかりますか。
100周年、1924年。
そうですね。
24年って何があったっけな。関東大震災とかその辺でしたっけ。
関東大震災はもうちょい前?ちょっと歴史に弱いのが露呈しちゃうな。
そうなんですよね。
どうなんだろう、どうなんだろうって感じです。
治安維持法とかもその辺でしたっけ。
治安維持法、ありそう。
いやでもそうかもしれない。
そんなものの記念をやらないですよね。
記念はやらなそうですね、確かに。
そう、2024年の10月がですね、武衆鉄道っていう鉄道の開業100周年だったんですよ。
武衆鉄道。
って何か聞いたことありますか。
ちょっと何だっけと思いながら聞いてました。
そうですよね、今は存在しない鉄道なんですけど、
大正13年、1924年に開業して、その14年後の昭和13年、1938年に廃線っていうめちゃくちゃ短命な鉄道なんですね。
これが埼玉県の羽生田市から岩月を経由して川口市の北の方まで伸びていた鉄道になっています。
今でもあってくれればいいのに的な路線ですね。
そうですね、その辺りの話もゆくゆくしたいんですけど、
今回はちょっと出遅れてしまったんですけど、
そんなこの武衆鉄道の開業100周年を記念してですね、
この鉄道の一章を紹介しつつ、
なんでこんなに短い期間で終わってしまったのかというところで、先人の失敗に学んでみようということで、少しお話をしてみたいなというふうに思います。
なるほど。
ということで、また鉄道ネタになります。
鉄道ネタというと、黒海さんはちょっと前に秩父鉄道の話もお相手していただいたかなと思ってるんですけど、
その辺の時代的には結構被るところもあるので、もしかしたらおさらいになる部分もあるかもしれないですけど、
まずは明治時代の終わりぐらいのところまで、少し時代を遡って、
埼玉県内の鉄道っていうのがどういう状況だったのかというところから触れていこうと思うんですけど、
確か秩父鉄道の回でもお話ししたかもしれないですけど、
埼玉県内を走る鉄道、一番最初の鉄道ってなんだったかみたいな話ってしましたっけ?覚えてます?
一番最初なんだっけ?高崎線?
正解です。日本鉄道っていう鉄道があって、そこが今おっしゃっていただいた高崎線開業したって言ったところにターンを走って、
宇都宮線、いわゆる東北本線ですね、その後に東武鉄道が浅草から伊勢崎の方まで、いわゆる伊勢崎線ですね、が開業して、
前回話した秩父鉄道、当時は上武鉄道の熊谷から長所みたいなのが、
初期、明治時代の終わりぐらいの埼玉県内にあった鉄道という感じになります。
この時、第二次鉄道熱気って言って、全国的に施設の鉄道会社が乱立した時代で、
本当に短距離で地方に鉄道を付設しようみたいな動きがすごく盛んになってた時代だったんですけど、
なので前回の秩父鉄道と渋沢栄一の絡みについて話した回があったと思うんですけど、
この辺りの秩父鉄道の前身の会社の設立っていうのが動き出したのも、大体この辺りになってくるわけなんですね。
じゃあどれぐらいそんなに鉄道がいろいろ計画されてたのかっていったところを知るたびにある資料があるんですけど、
明治の28年から29年にかけて、埼玉県内で設立された鉄道会社のリストみたいなものがあるんですけど、
埼玉県内を通過するものも含めて、大体何社ぐらいの会社がこの時に立ち上がった、あるいは立ち上がろうと計画をしていたかっていうのが想像つきますでしょうか。
何社ぐらい?そうですね、現状でそんなもんだから、30ぐらいいたとか?
はいはいはいはい。そうですよね、30でも結構多いですよね。
もっと多い?
そうなんです、この2年間で75社の。
倍か、すごいな。
っていう鉄道会社が立ち上がった、計画だけで飛んだしちゃったようなやつも含めてですけれども、そういった記録が実は残っているんですね。
それぐらい鉄道っていうものにみんな各都市、各地方の都市がうちの町に鉄道をというような形で動いていたというような時代だったわけです。
それ成立したら鉄道だらけになっちゃいますね。
いや本当ですよ、ただでさえ日本って鉄道がすごいっていうふうに言われてますけど、その日じゃなかった可能性がありますよね。
もうすごいことになりますね。
そんな中ですね、現在の羽生村と岩月町、今では埼玉市の岩月区、そういったところの有志たちが地元に鉄道を引こうというような計画を立てたというのが今回お話しする鉄道の話になってくるわけなんですけど。
この中心になった人物の名前ぜひ覚えていただきたいと思うんですけど、飯野岸郎っていう政治家です。
飯野岸郎さん。
飯野っていうのは飯野原ので飯野というふうに書くんですけども、この方は羽生村の出身で、ゆくゆく埼玉県の議会を37年間勤めたというような人物になっておりますと。
教育に結構力を入れてたことで知られていて、現在の鹿児壁高校だったりとか、あとは旧正の浦和高等学校、現在の埼玉大学の設置っていったところにも結構力を入れて動いていたというような政治家になっています。
地味にというか結構派手に重要な役割を果たしてますね。
そうですね。だから羽生田の小学生中学生あたりは多分この人のことを歴史の授業とかで習うようなそういう人物になっているのかなという話としては聞いたことがあります。
地元の偉人ってやつですね。
そうですね。そういった方が中心人物になっていたというような鉄道会社がありました。
この会社は当時は日光を目指していたんですよ。
なるほどね。
日光を目指していたということもあって、会社の名前が最初は中央電気鉄道株式会社というような名前で設立していました。
中央。
だから埼玉に限らず日本の真ん中をドカンと通してやろうぜというような多分意気込みがあったんだと思うんですけど。
とはいえ最初から日光まで一気に路線を引くってことは難しいわけなので、まずは川口の川口町。
川口町っていうのは今でいう川口駅のもう少し南辺りって言ったらいいんですかね。
その辺りが中心地だったんですけど、その川口町から岩月、今でいうところの岩月駅の地付近みたいなところをまずは路線としては申請をするというところからスタートしました。
ちなみに川口から先、さらに南の方に品川まで鉄道ではなくて別の交通手段を使って交通を整備しようとしていたんですけど、どんなものかって想像できますか。
川口から品川、川?
お、正解です。すごいですね。
よかった。
いわゆる引き船のシステムというのを使ってですね。
引き船って地名になってるんでもしかしたら馴染みあるかもしれないですけど、川に船を浮かべて、それを川沿いの道から引っ張って進めていくというような仕組みで船を動かすというようなことをやるということで、引き船を使おうというところで、実は品川まで接続していくというような計画で立ち上がっていました。
なるほどね。
さすがに都心の方までには鉄道を通すっていうのは結構難しい。
何なら都内の方が、当時は東京市ですけど、その中の方が交通網がより複雑に計画されてたところになってくるので、なかなかそこに入り込めなかったっていうのもあるんだと思うんですけど。
なので、そんな形で橋田から最終的に品川まで接続するというような計画でまずは申請をしていたところではあります。
なるほど。
結局ですね、そこからなんやかんやあって、ちょっと会社の名前が変わります。
中央軽便電気鉄道株式会社というような名前になります。
中央はそのままですよね。
電気もそのままで、間に軽便っていうワードが入るんですけど、軽便鉄道の話ってどこからしましたっけ?
ちゃんとはしてないんじゃないかな。
簡単に言うと、今の電車の企画よりも少し幅が狭い鉄道だと思っていただいたらわかりやすいかなと。
なるほど。
ちょっと小型の鉄道っていう感じですね。
結局鉄道の免許を得られたのが、川口町から旧春岡村の宮ヶ谷島っていうところに免許が得られたというようなところです。
宮ヶ谷島は本当にローカルな地名なんですけど。
そうですね。大宮の東の端っこの方でしたっけ?
そうですね。ちょうど埼玉市の三沼区と岩月区の境目のところに位置するんですけど、
綾瀬川がその旧大宮市と旧岩月市の間に流れてるんですけれども、その大宮川の停止地帯のことを宮ヶ谷島というような地名で呼ばれているんですけれども、
位置関係、おそらく黒麦さんはなんとなくわかると思うんですけど、岩月駅からはちょっと離れてますよね。
そうですね。
なんでこんなところに一番最初終点を置いたんだと思います?
なんで?あの辺だって三沼の名前の通り田んぼですよね。
そうですね。
田んぼだから米とかを運ぶとかそういうあれですかね。
実は全然そんなことはなくて、確かに米というか田園地帯なのであの辺あたりは、
作物いっぱい採れるところだと思うんですけど、これが実はさっきの鉄道乱立時代というのは少し関係していてですね、
部州電気鉄道っていうまた別の会社が実は当時ありまして、これが鹿児島岩月大宮川越っていうルートで出願をしてたんですね。
野田線の。
そういわゆる野田線のラインと似てるんですけど、別にそれとは全然関係ない会社で、
その部州電気鉄道っていうのは計画だけされて結局完成せず終了している会社なんですけど、
そこの路線とちょっとバッティングしてしまう部分があるんで、その路線からは離れた場所に終点を置かざるを得なかったというのが実情としてあると言われてますね。
なるほど。
とはいえですよ。免許が取得できたので、あとは建設して開業すれば通せるはずなんですけど、
この当時って免許を取得してから大体どれぐらいで開業に至ることができるかっていうところを想像してほしいんですけど、
大体何年ぐらいあれば開業できそうですかね。
えーーー。だって免許取ってから工事を始めるわけですよね。
そうですね。
どうなんだろう。3年5年ぐらいじゃ効かないんじゃないですか。
そうですね。当時どれぐらいかっていうと、これ実は会社の資本力とか計画力とかそういったところに結構かかってくるところがあって、誤差がいろいろあるんですけど、
例えば京成電機軌道、今でいう京成鉄道は1909年に免許を取得して1912年開業なので3年ぐらいで開業してるんですよ。
割と早い方ですか?
そうですね。この辺は早いところなんですけど。
今も残ってるから結構しっかり作ったんでしょうね。
まあおそらくそういうことだと思います。それでいうと東上鉄道、今でいう東部東上線は1912年に免許取得して1914年に開業してるのでもう2年ですね。
だから頑張ればそれぐらいで行けちゃうっていうところですよね。
もちろん路線の距離とかそういったところにもよる部分もあると思うんですけど。
一方じゃこの部州鉄道、普段の鉄道はどれぐらいかかったかというと免許取得してから開業までに14年かかったんですよ。
これまた結構かかりましたね。
というのも様々な事情で計画が変更に次ぐ変更を余儀なくされてしまったというところがあるんです。
なのでまずその計画の部分でのいざこざについてちょっと触れてみようと思うんですけども。
先ほど言った中央軽便電気鉄道という名前だったというようなお話もしたんですけど。
電気というワードが入っていることもあって、いわゆる電気を動力とした鉄道での開業を想定していたんです。
当時っていわゆる電気で動かすかそれとも蒸気で動かすかっていう大体この大きく2択が取れるわけなんですよ。
電気で動かす場合にはもちろん電気機関車を動かすために電気が必要なのでそれをどこかから持ってこなくちゃいけないと。
いわゆる発電所みたいなところから電気を引いてくるっていうのが一般的なんですけれども。
発電所からその沿線に電気を引くことができるとその沿線に電灯とかが整備することができて。
いわゆる電気で電灯を作ることができるというようなメリットがあるんですね。
ただもちろん発電所とか大型な設備が必要なんで予算が加算でしまうといったところが問題になってくるわけなんですよ。
実はこの社内でもいわゆる革新的でハイカラな電気を取り入れたいっていう電気派と現実的に考えた蒸気じゃないっていう蒸気派。
この2派に分裂してしまうというような事態になってしまうわけです。
結局どうなったかというと蒸気派が優勢となって。
社名も中央鉄道株式会社と電気というワードを抜いて新しい会社を作るというようなことをしたわけです。
ただやっぱりそれでもちょっと電気にこだわりを持っている人たちというのがいるわけですよね。
そういう人たちがちょっと意外な行動に出てしまいまして。
その電気派の人たちは会社を作るにあたってホッキニンというメンバーを募って会社を設立するという動きがあるわけなんですけど。
その蒸気に堅入りしていた人たちをホッキニンから除免して、その上で私たちは中央軽便電気鉄道ですよということで会社を維持するというような行動に出たわけです。
これによって同じ鉄道の免許に対して2つの蒸気派と電気派の異なる会社が存在するという状態になってしまったわけなんです。
それは良いんですかね。
良くないです。
良くないので当時鉄道を管轄していた鉄道員がこれを判断させないといけないということになりまして。
結局その蒸気派の中央鉄道が正式なものだよということになって、電気派の会社は任意解散してくださいねというような動きになったので、一旦これで幕引きということになるんです。
ここが内部でのいざこざですね。
これだけ見ると予算の都合とかもあるんで、蒸気に変更した方がメリットがあったからそっちを取ったというような結末に見えるんですけど。
ちょっとここにもう一つ複雑な事情がありまして。
さっき明治の末期って鉄道多く計画が乱立していたよというような話をしたんですけど。
その中の一つに岩月電気軌道っていう路線計画があったんですね。
これがまたちょっと複雑なんですけど、計画してた路線が大宮岩月枷壁っていう、いわゆる現在の東部の路線、東部アーバンパンクラインとほぼ同じ区間。
さっき出てきたのとはまた別の会社ですよね。
そうなんです。さっき出てきたやつとはまた別のところで同じような区間を計画していた鉄道があったんですよ。
ダダかぶりしてますけど大丈夫なんですか?
大丈夫ではないんです。
ですよね。
この鉄道、ただ思い入れが強いというか、やる気がすごくて。
中心になってたのは岩月の当時貴族院っていう院がありますが、その貴族院の議員も務めている斎藤善八っていう人がいるんですけど。
その人が岩月町の有力者として立ち上がっていて、さらにそこに斎藤善八っていう人物も加わってるんです。
この人何者かっていうと、全国の地方の鉄道とか電気会社の設立っていったところに発起人だったり出資なんかをして関わっていくというような人物でして。
結局トータルこの人100社から150社ぐらいの企業設立に関わってるという。
いわゆる電気鉄道のプロフェッショナル的な人。
この人に加わってもらってるというのが大きいんですね。
結局この岩月電気軌道っていう路線なんですけど、用地の買収とか結構時間がかかっちゃったりとかしまして、結局免許取り消しというふうになります。
結局後々全く別の北総鉄道っていう会社が同じような路線を免許取得して東部アンバーパークラインの前身となることになるんですけど。
このタイミングでは鉄道の免許としてはこの岩月電気軌道は取り消しになっちゃうと。
ただここで諦めなかったというのが、鉄道はダメだったんですけど伝統事業は計画がすごく進みまして。
結局大正4年に岩月、春日部、宮城、杉戸この辺りで伝統事業が開始することになります。
この会社のおかげで初めてこの辺りのエリアにランプから伝統に変わるというようなことが起きるわけです。
この岩月電気軌道について競技が始まったのが明治44年頃なんですけど。
これってさっきお話の中であった中央軽便電気鉄道から中央鉄道というふうに社名が変わる。
そのいざこざがあった都市なんですね。
この岩月電気軌道の設立に向けた競技に参加した人物の一人に名前があったのが飯野岸郎だったんですよ。
飯野岸郎って一番最初に出てきましたけど、今話しているテーマになっている武衆鉄道の設立に大きく関わった人物なんですけど。
実はこの岩月電気軌道の方にも肩入れしてたんですね。
最終的に中央軽便電気鉄道は中央鉄道に代わって、要するに電気を諦めるという選択を取るわけだったんですけど。
これもしかしたらこの飯野岸郎は早々に電気については岩月電気軌道の方に任せちゃって、中央鉄道の方は鉄道だけ頑張ってくれればいいみたいな考えがあったのかもしれないなというところが少し見えてくるわけですよ。
だからこの計画があることで、特に岩月からの出資者にとっては、この中央鉄道がその電気鉄道にこだわらなくても岩月には電気くるし、別に蒸気でもいいやというような判断もできると。
というようなこともあって、結局蒸気鉄道に舵を切ったのかもしれないなというところが少し見えてくるというところですね。
というすごく複雑な話をしちゃいました。
順調にこの内部のいざこざも収束してうまくいくのかなと思いきや、結局そこからもいろんなことが起きていくというわけです。
本当にいろんなことが起こるので、いろいろ端緒ってお話するんですけど。
例えばですけど、もともと岩月から羽須田、さらにその先の雄市とか、いわゆる行田の方ですね。
とかに伸びる路線だったり、あとは記載とか波乳とかそっちの方に伸びる、複数の路線も計画してたりしたんですけど。
その記載波乳の方の鉄道については、これもまた他の鉄道計画との兼ね合いで認可が下りないというようなことがあったりだとか。
あとはこの時期的には第一次世界大戦があったので、レールとか鉄鋼とかそういう資材が口頭して鉄道の普通とか全然進まないみたいな。
あとはですね、もともと起点川口を想定してましたけど、これをわらびに変更するっていうようなことも起きました。
なんでこれが起きたかっていうと、川口って苗木産業ですごく発達している町だったんですね。
その苗木産業、さらに当時は工業の発展もすごく一流しかった地域でもあったので、こういったことが川口の町の中ではすごくうまくいってたんですけど、それによって地価がすごく上がってしまったと。
なるほど、そっちか。
それで用地の買収ができなくなっちゃったっていうようなこともあったりとかしました。
っていう中、いろんなことが起きた結果、社名を中央鉄道っていうところから部州鉄道っていう風に変えることになります。
なるほど。
本当に中央っていう壮大で抽象的な夢を描いてたところから部州っていうローカル線として生きていく方向に舵を切ったんじゃないかなというところですね。
なるほど、埼玉県内で頑張ろうと。
そういうことですね。そんなこんなで、ようやく最初の免許取得から14年経って、羽生田から岩月間っていうところが開業できるというようなことになってくるわけです。
なるほど。
せっかく大正13年に開業したのに、昭和12年なので14年後には廃業してしまうというようなことになってしまうんですけれども、
せっかく開業したのになんで廃業したのかっていうところですね。これもいろいろあるんですけど、4つにしました。
部州鉄道に限らず地方鉄道全般に影響するような原因が大きく2つあって、
それから部州鉄道固有の事情が2つあったんじゃないかなって私はちょっとまとめてみたんですけど、
こうなるとどういうような原因があったかなっていうのは想像できる部分もあるかなと思うんですけど、
何か思いつくものありますかね。
廃業が何年でしたっけ?
廃業が昭和12年です。
昭和12年。戦争にはまだ早いか?
戦争も関係ありますね。
なんだろう。
でもさっきもチラッと言ったんですけど、1つそれあると思っていて、
いわゆる第一次世界大戦の影響があるかなと思ってます。
いわゆる第一次世界大戦が勃発したので、ヨーロッパで大量の武器とか軍需品が必要になるということになったので、
日本は輸出産業がすごく活発になったわけですよね。
そうですね。
それで軍需、特需というようなことで日本は景気が良くなったりとかしたんですけど、
逆に言うと日本国内で鉄鋼とか石炭とか需要が増えているのにヨーロッパから輸入できないということがあって、
需要が高いのに供給が少ないということで資材の価格が急凍してしまったというのが1つ原因としてはありそうだなというふうに思いますね。
それで言うと、もう1つ地方鉄道全般に影響するところであるなというのは、
地方鉄道はどうしても資金を集めるのが大変なんですよね。
この武衆鉄道も発足当時からずっと赤字手続きでやっていったわけなんですけど、
それでもなんとかやってきたのは政府から補助金があったからなんですよ。
なるほど。
軽便鉄道補助法という法律がありまして、
これが営業を開始してから5年間、建設費に対して年間で5%の収益が得られなかった場合、
その不足額を政府が補給しますよというような補助金がありまして、
これで地方にお金がなくてもどんどん鉄道を作ってもらっていいですよと、
地方に鉄道を普及させようというような目の見で制定されたものだというふうに言われてるんですけど、
最悪営業をしていく上で儲からなくてもこの補助金があればどうにかなるというようなことになってきたわけなんですけど、
これからもだんだん事情が変わってきまして、
1920年代頃になってくると鉄道に代わる自動車というものが急速に普及してくるわけですよね。
だから地方に鉄道ができても結局自動車とかバスとかトラックとかこういったところと競争が発生してくるような環境になっちゃったんですよ。
なので結局地方の鉄道ほぼほぼ赤字路線になってしまって、
こういったところに再現なく補助金を出すというのはなかなか効率が悪いということを政府も気づき始めまして、
どんどん補助金が縮小されてしまうというようなことになったんですよね。
今まではもう一律で5%の収益が得られない場合というような条件だったんですけど、
ちゃんと収益制とか輸送料とか経営改善できてますかみたいなところも指標として増えて、
それが達成できてないと補助金あげられませんみたいな。
結構厳しく絞っていったというわけです。
なのでちょっと何もやってない補助金に頼っていればいいやっていうような短絡的な考えのところはどんどん淘汰されてしまったというようなことがありました。
この辺りはどの地方鉄道でも共通に影響してくるところだったんですけど、
部州鉄道固有の問題として一番大きいものが、さっきから何度かワードに出ている東部アーバンパークライン、いわゆる総部鉄道の開業というところがでかいですね。
例えば岩月に住んでいる人が東京に行こうというような場合、
総部鉄道が開業する前は岩月から部州鉄道に乗って羽須田に行って、そこから大宮に行く、東京みたいな形で南下していくというルートを取るわけなんですけど、
もちろん東部ノラ線が開業したことによって直で大宮に行けちゃうので、羽須田に行く理由がなくなりましたよね。
ということで、部州鉄道もこの総部鉄道、いわゆる東部アーバンパークラインが開業したタイミングが収益のピーク。
ここから徐々に旅客も乗客も手荷物の輸送とかも全部含めてどんどん減少していくというようなことになります。
そりゃそうだというようなことにはなってくるんですけど、さらにもう一個政治的なところで問題を抱えていたのが部州鉄道でして、
当時の政治って大きく声優会計と県政会計みたいな、なんかこの2局だったみたいな。
なんか勉強しましたね。久しぶりに聞いたな。
本当ですか。私もあんまり詳しくないんですけど、部州鉄道って北起任がさっき言った井井の岸郎とか、
あとは開業以降取締役社長に本田定次郎、取締役に駒崎ゆきえもん、このあたりの人たちはみんな声優会計の人たちだったわけです。
一方で岩月町、さっきチラッと話が出たところで、斎藤善八っていう地元の有力者がいるみたいな話もしたんですけど、
このあたりは声優会計ではなくて、その逆の非声優会計の人たちなんです。
当時の岩月ってこの政治的な2局のバランスがちょうど5分5分ぐらいだったんですよ。
その状態だったので、県政会側の動きにあまり心よく思ってないような人たちもいて、
例えば部州鉄道に土地は売りました。
ただレールを敷くっていう実際の工事になったタイミングで、やっぱり嫌だかもみたいな感じで反発するみたいなメンバーもいて、工事が全然スムーズに進まないと。
こういうの本当は部州鉄道側はしっかり声優会側と県政会側の調整をしないといけなかったんですけど、
それが最終的にうまくいかなかったっていうのも工事が全然進まなかった理由の一つだったようですね。
こんな感じの理由ですね。いわゆる戦争による資材高騰、それから慢性的に資金が不足してたっていう話と、
あとは総部鉄道が開業した政治的な2局の対立があった。
こういったところが複雑に絡み合って短期で終わってしまったというようなことになってしまったのかなというふうに思います。
最終的に部州鉄道は羽生田から鳩ヶ谷町の手前の上根村っていうところまで延伸するっていうことになったんですけど、
それより南側は資金が足りなかったので進むことができなかったと。
やっぱり結局ここより南に延ばしても鉄道としての存在意義っていったところが、当時のタイミングでももう薄れているというようなところがあったわけですね。
先ほど言った総部鉄道が開業したから結局大宮経由で移動できればいいよというような話もあったりだとか。
あとは部州鉄道って再建者の一つに部州銀行という銀行から借り入れをしていたんですけれども、
その銀行も部州鉄道の経営あんまりよろしくないんじゃないかというところで強制執行を申請するみたいな動きもあったりとかして、
そういったところでお金の確保が一気に難しくなって、結果的に自主的な解散を選択せざるを得なかったというようなことです。