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2022-10-06 29:15

群馬県の県庁所在地が前橋なのは川越のせいかも?その2【サイタマニアクス#04】

埼玉県知りたがりラジオ『サイタマニアクス』

#04「群馬県の県庁所在地が前橋なのは川越のせいかも?その2」

・広すぎる「熊谷県」成立のナゼ

・川越と前橋の深すぎる関係

・県庁を2度も取られた高崎の嘆き

埼玉県ラジオなのに群馬成分多めでお届けします。


パーソナリティ:こけ お相手:はっしーさん


この番組は「埼玉県」というコンテンツを様々な角度からいじり倒して、おもちゃにして楽しんでみようというコンセプトでお届けするラジオです。

埼玉県に馴染みのある方もそうでない方も、この番組を通して埼玉県だけでなく、身近な場所について考えてもらうきっかけになればいいなと思っています。


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サマリー

群馬県の前橋城の歴史と川越城の変遷について語られています。川越藩から前橋藩への領地の移り変わりや藩主の移住、さらには幕末の経済的な状況とキートの輸出による前橋の復興が中心テーマです。群馬県の県庁所在地が前橋に決まった背景には、川越との歴史的な結びつきが影響しています。このエピソードでは熊谷県の設置や県庁の移転に関する迅速な意思決定の過程について詳しく解説しています。群馬県の県庁所在地前橋が川越との深い結びつきにより成立した背景を掘り下げています。

川越城と前橋城の関係
【サイタマニアクス】続き
徳川家康が関東にやってくるんですけど、江戸時代の前に。 徳川家康が関東にやってくる。
で、まず最初に川越城のところに城をその時に与えられたのが?重忠っていう人物なんですね。
坂井重忠。 この方がですね、若い時から徳川家康に仕えていて、赤葉花の戦いとかにも参加するような、そういう人物でした。
で、赤葉花の戦いとかの功績がある程度認められて、その報酬という形で新たに与えられたのが前橋城だったんですよ。
前橋城の報酬。
はい。だからそうなんです。川越にいた坂井重忠が、報酬として与えられたのが前橋城で、そこから前橋に住むようになったんですよ。
なるほど。はい。
まあ最初の川越と前橋の関係はそんな感じ。
その後結構いろいろあるんですけど、川越藩の第4代藩主の秋元助友の時代まで一気にバーッと話を進めますと、
この人、川越藩の人物なんですけど、この人は平賀玄内とかを藩に呼んで、支部の鉱山を開発したりとか、
あとは荒川の洪水が発生したときに農民の救済政策をしたりとかして、川越の発展に寄与した人なんですけど、
この人、その当時、田沼小喜嗣って、歴史の教科書で出てくる人物がいるんですけど、
田沼の政治で、強硬的な政治のやり方に反旗を翻しちゃったんですね、この秋元助友っていう人が。
で、ちょっとまあ、そんなやつ川越なんかにいるなよってことで、山形藩に移動させられちゃうんですよ。
はい、山形。
で、移動されて川越のところを治める人いなくなっちゃったなっていうところで、実はその代わりに、
代わりというかその空いたところに、前橋藩でその時藩主を務めていた松平智則っていう人物がいるんですけど、
松平智則。
はい。なんで、その人の狩猟に川越藩しちゃいましょうと。
うーん。
ということで、この時川越藩なくなるんですよ。
ここでなくなる。
はい。前橋藩の領地の一部として川越藩があるような状態。
なるほど。はい。
今の言い方ちょっとよくないですね。
前橋藩の領地に元川越藩の領地を吸収するような、編入するような形になったということです。
はい。
川越藩がなくなっちゃったんですけど、すぐに復活するんですよね。
ほうほうほうほうほう。
実はこれは今度は前橋側の事情がありまして。
前橋側ね。
前橋藩の本拠地は前橋城だったわけなんですけども、
前橋城の立地っていうのはですね、
利根川が流れていって、その利根川のすぐ東側の崖の上に立つような、
そんな位置づけの城だったんですよ。
ほおー。なるほど。
その利根川のおかげで攻めにくかったりとかして、
その利根川の崖が自然の城壁的な役割を果たしていたりとかするわけですよね。
ただですね、立地的にどうしても利根川の影響を受けちゃって、
増水したり氾濫したりとかして、
結構城の範囲まで川が侵食しちゃったりとかするんですね。
さっき川越藩を前橋藩に組み込みましたよっていうのとほぼ同じ時期にですね、
前橋城の本丸が利根川に完全に侵食しちゃったんですよ。
あらあら。
で、もうこれ城に住むの、前橋城に住むの難しいよっていうふうになってしまったので、
ああ、でも近くによく考えたらこの前、領地にした川越城が使えるじゃんということで、
前橋に住んでたお殿様は今度は川越の方に移住するわけなんですよ。
はいはいはいはい。
で、今度は逆に前橋藩がなくなって、その領地が川越藩になるという逆転の立ち道になるわけなんです。
なるほどなるほど。
幕末の経済と前橋の復興
だから今この時点だと前橋藩はないけど、前橋と川越に川越藩の領地があるっていう感じです。
うーん。
ただですね、やっぱり前橋の人たちは前橋に愛着があるわけですよ。
愛着がね。
なのでどうにかして前橋城使えなくなっちゃったけどそれを使えるようにして、
藩主に戻ってきてほしいという思いがあるわけですよね。
なるほど。
ただですね、お金がないんですよ。
金。
はい。そうなんです。
で、幕末がだんだん近づいてくる頃なんですけど、
鎖国体制の中で海外から外国船とかが江戸の近郊とかにも現れるようになっていて、
幕府としてその海上の有事に備えた体制を整えようというような動きがあったりするんですけど、
そんな中で川越藩が、相模の国の三浦半島ってあるんですけど、
あそこの沿岸警護を行う役割に就いたんですね。
はい。
これによってさらに出費が重ねてしまって、お金がまたなくなってしまうということになっちゃったりします。
ただですね、川越藩、彦根とか藍津とか推し藩とかと一緒に江戸湾を防衛しようという幕府の体制がありまして、
その中で三浦半島一帯とその海上の防衛とかを担当することになって、
川越藩といえば江戸湾の防衛をする、そういうような藩の役割になったんですね、幕末頃には。
はい。
そんな中にですね、1853年、蚕六年に江戸近郊の会場で最も有名な事件だと私が思うものが起こるんですけど、何が起こったかって想像つけます?
もう一回いいですか?江戸の?
江戸の近くの海で起こった幕末の事件で一番有名な事件といえば何か。
1853年、ゴロで覚えた人もいるかもしれません。
あー、えっと、あれは、雷光…ペリ…じゃない、日米和親かな?違うか。
前半であってます。
前半、雷光です、ごめんなさい。
雷光です、そう、ペリ雷光なんですよ。
いやでござんすとか言ってましたね。
いやでござんすなんですね、私何て思ってたかちょっと忘れちゃいましたけど。
そうそう、そのいやでござんす黒船雷光だと思うんですけど、ペリ雷光かな。
で、この時に実はペリに同行することになったのが、川越藩の第5代の藩主の松平恒則とかが実は同行してるんですよ。
だから実はですね、この鎖国家の中で、江戸の近郊の海上警護とか、すごく川越藩っていうのが、立場がちゃんとしていたというか。
海上警護といえば川越藩っていうのは非常に確立していて、出費はかさんじゃって困窮はしちゃうものの、
江戸近郊の海上事情にめちゃくちゃ詳しい状況になるんですよ。
やっぱりね、なるほど。警護してる以上は。
そうなんです。
そんな中ですね、安政6年、今度は1859年なんですけど。
1859年。
でこれ何が起こるかっていうと横浜が開港するんですよ。
はい。あってましたね、ありましたね。
そうなんです。
ここにいち早くチャンスというか正規を見出したのが、この時海上事情に詳しくなっていた川越藩だったんです。
例えばですね、川越に安岡玲南っていう川越の藩の学校とかで教授をしていた受学の先生がいるんですけれども、
この人はですね、横浜に国際的なキートの相場があるぞと。
で、キートって実は前橋の特産品なんですね。
あー、あったあった。
だからこれはキートの品質の向上と増産を今していくべきだということを、藩の中で進言したりとかしていたりするんですね。
他の人で言うと深沢雄三っていう、これも川越出身の藩士の人がいて、作事武業っていう建物の建築とか修理を担当する役職に就いてた人がいるんですけど、
この人もですね、キートの輸出ってところに目をつけて、前橋でキートを生産して、川越が持ってる輸出のノウハウとかを活かせば、
前橋の再建の資金を苦免できるんじゃないのっていうのを考えたんですよ。
あー、なるほど。
川越って立地的に、新樫川っていうのは近くに川があって、その川を使って江戸とかに輸出をするっていうノウハウがすでにあるわけなんですよ。
はいはい。
それプラス川越街道っていう街道も使えたりとかしていて、江戸とのネットワークっていうのがすでにあった状態。
なので、キートをですね、川越藩の専売品、藩の専売品として輸出するということを、川越藩の事業としてやり始めることになります。
はい。
これがですね、めちゃくちゃ大当たりしまして。
おおー。
莫大な資金を稼ぐことに実は成功するんですね。
おおー。
はい。
で、そのおかげで、慶応3年も幕末なんですけど、前橋城の廃城からもう100年近く経ったタイミングで、ようやく前橋城が再建されるということが念願叶ってできるようになるんです。
はい。
で、前橋を再建されたので、前橋藩も復活して、もともと川越に住んでいた藩主も前橋の方に移動することになります。
はい。
で、本来だったらそのタイミングで川越藩ってなくなっちゃったりとかするんですけど、同じくらいのタイミングで領地の再編っていうのも行われて、前橋藩と川越藩がそれぞれ残る形になりました。
ほうほうほう。
ただですね、この時もともと川越出身だった藩主の中には、前橋に結構ついていった人物っていうのがいるんですよね。
うん。
さっき出てきた作事武行の深沢雄三っていう人物もその一人だったりするんですけど、他にも早見健三っていう川越出身の藩主とかも前橋の方に前橋城が再建されたタイミングで渡ったりしています。
川越と前橋の関係
やっぱりその辺は、上司と部下の関係っていうんですかね。やっぱり藩主にはついていきたいっていう気持ちがあるんだと思うんですけど。
ああ、そういう。
まだそういう時代ですからね。
なるほど。
はい。しかもその深沢、さっき挙がった深沢雄三と早見健三っていう人物はですね、その後も継続的に木糸の品質向上とか、あとは機械化の促進とかを実現したりとかして、早見健三っていう人物は後の富岡製糸場の所長にもなったりするんで。
ああ、出ましたね。
なのでもう本当に木糸とかそういったところの生産にすごく力を入れてた人物だったりします。
でですね、時を明治に今度は移動させます。
熊谷県の設置の話までちょっとまた遡るんですけど、今お話ししたように、前橋と川越っていうのはそれこそ一緒だった時代もあるし、それぞれが関係し合って木糸の生産とかをしていたっていう時代もあったりとかして、結びつきが強いんですよね。
はい。
なので熊谷県設置しようってなった時に、熊谷の、違う、出馬の中心であった川越と群馬の、その時県庁が置かれていた前橋っていったところの結びつきが強かったので、ここは一緒に合わせて管理しても差し支えないという判断になっても不思議ではないというようなことなんですね。
それで熊谷県というのがおそらく設置されたんではないだろうかという、ちょっとここは私の考えベースのところがあるんですけれども、そういった経緯であれだけ大きな熊谷県というものが設置されたのかなと、出来上がりましたというところになります。
熊谷県の二極化
そうですね、そういう流れだったんですね。
まだちょっとお話ししようと思うんですけど。
熊谷県設置されるんですけど、やっぱり県域が広いんでどうしても。
高崎にも市長、市長者みたいなのを置くことになるんですね。
熊谷県っていう名前のとおり、本庁、県庁の本庁は熊谷に置いていて、
熊谷に置いた本庁は、実は旧いるま県側の管轄を担当して、高崎の市中で市長者で旧群馬県側の管理をするっていう、結局二極化した管轄の分け方をしていたんですよ。一つの熊谷県だけど。
今度はこんなふうに結局広くて二極化しちゃうんであれば、別の管理でも良くないっていうことで、明治9年に熊谷県のうち旧いるま県側が埼玉県と統合されて、ほぼ今の埼玉県と同じ形になりますと。
なるほど。
同様に旧群馬県域、熊谷県のうち旧群馬県だったところがまた元に戻るような形で、今の群馬県の形になるというような戻り方をするわけなんですよ。
今は私チラッと言ったように、旧市長は高崎に置かれてたんですよね。熊谷県の市長。
ですよね。
なので群馬県にまた戻ったときに、県庁を高崎に設置しようと思ったんですよ。
思った。
ただ熊谷県時代に市長として使ってた建物っていうのは、そんなに大きくないんですよ。県庁として使うために想定されたものじゃないので。
なのでまた別な場所が必要なんですけど。
ちょっと前の話になりますけど、高崎城の建物って取られちゃったじゃないですか。軍に。陸上省に接種されてるままなんですよ。
なので、近くにあった安国寺っていうお寺。
そのお寺を仮本庁に据えて、群馬県の業務、県庁業務っていうのを実は最初スタートしてるんです。
ただですね、このお寺言うほど大きくなかったんですよね。
はい、大きくない。
大きくなかったんで、このお寺だけじゃなくて、他の建物も使って業務を最初行ってました。
県庁って〇〇課みたいな感じでいろんな課があるじゃないですか。
ありますありますあります。
総務課とか定務課とか。
なので高崎の場合は一例挙げると、例えば書務を担当してた、多分書務課的なところになると思うんですけど、それは安国寺の仮庁舎で行いますと。
で、租税、税金とかを対応するのが、文庁、熊谷県時代の高崎市長を使ってやったりとか、
あとは学務みたいな学校関係のことは、カラス川学校っていう学校機関みたいなのがあって、そこでやったりとか。
みたいな感じで、本当に課とかそういう単位で周辺の建物とかを利用しながら業務を行うということをやってたんですね。
ただやっぱりこれだとちょっと手狭だなというか、機動力ないじゃないですか。
バラバラになってますね。
というところで白羽の矢が建ったのは、実はまた前橋城になるんですよね。
確かにそうなりますね。
当時の知事が、旧前橋城を仮庁舎として使いたいという交渉を政府で行って、その1週間後にはもう前橋に県庁が移動して、業務を開始するっていうスピード感だったんですよ。
ここでちょっと日付の話をするとですね。
群馬県ができて、高崎で県庁の業務が開始するのが明治9年の9月1日なんですね。
明治9年の9月1日。
知事から政府に前橋城を使いたいっていう申し入れがあるのが、9月の21日なんです。
9月の21日。
前橋に仮庁舎を移動して業務が開始されるのが、9月の29日なんですよ。
29日、はい。
なんかおかしくないですか。
なんかおかしいというか、早すぎません?
こんな1ヶ月間の間にこんなにっていうのは、こんなスピード感でいくのかというのは思いましたね。
思いますね。
知事から政府に話があって、すぐに前橋に移動するっていうことが決定されるっていうのもなかなか早いですね。
1週間ちょっとでも移動してるので。
そんなことあるのかと。
実はですね、これには裏がありまして。
実はまだ熊谷県だった時代に、前橋が根回ししてるんですよ。
県庁とか市庁舎みたいなのを前橋に設置するように政府に請願してたんですね。
はいはい。
ただですね、とはいえ高崎のほうが都合がいいからっていうことで、高崎にしようというような話があったわけなので、
政府としても、そんな請願があったからといって、
そんなそれをすぐ具のみにして、じゃあ移そうかってなるわけじゃないんですよね。
で、一個ですね、政府から条件みたいなのがその時提示されていて。
条件。
はい。で、移転の資金ですね。県庁移転する資金をじゃあ用意してくれよと。
はいはいはいはいはい。
で、だいたい10万円ぐらい用意してくれよと。当時の金額でですね。
いくらぐらいなんですかね?
当時の銀行の支店長みたいなのの給与が17円とかの時代なので、
数十億とかの規模なんじゃないかなと。本当に今の金額に換算したら。
すごいですね、そりゃ。
まあ、なんで、政府として半分冗談でこの金額提示したんじゃないかっていうふうに考えてるんですけど。
あー、そもそもね。
まあ、そんだけの金額で出せるわけないだろう。
まあ、出せてくれたら嬉しいけどね、はははぐらいの。
なるほどね。
ただここでですね、前橋が本気を出してくるんですよ。
さっきのあれですか、さっきの。
えー、キートですか?そんなですか?
あ、そうですそうです。
そうそうそう。
まあ、あのですね、まあそのとはいえですね、お金一気に用意するのは大変なので。
どういうやり方したかっていうと、当時の前橋の市長がまず1万円をバーンと出すんですね。
はいはいはい。
当時の金額の1万円なのでもう億ぐらいのもしかしたら額言ってるのかもしれないですけど。
なるほど、バーンと。
はい。で、まあ市長はこれだけ出しますよと。
だからみんなも出すよねっていうようなことを言って。
はいはい。
有志にお金を持ってそうな人にですね、巨額な請求書を送りつけ始めるんですよ。
一口5000円とかの。
はい。
まあ、それでとはいえですね、早々そんな大金は出せないんですよね、なかなか。
まあ無理くりそれで仕方ないって出しちゃった人とかもいるんですけど。
結局寄付がですね、5万円までしか集まらなかったんですよ。
でもそこまでいったと。
もちろん数十億、もしかしたらそれでも数十億ぐらいになってるっていう金額なわけですから。
一応ですね、これを政府に、まあちょっと10万円には至りませんでしたすいませんってことで提出したらですね。
はい。
いやいやいや何言ってんだと予想以上じゃねえかってことで。
まあもともとそうこれ、期待してなかった部分でね。
そうなんです。
なんでこれでもう移転を許可せざるを得ないような状態になったんじゃないかと。
あー。
なるほどね。
しかもですね、お金だけじゃなくて、ハード面での整備っていうのも水面下で行ってたんですね。
どういうことかっていうと、前橋に県庁を誘致してくる場合って、
その庁舎になる旧前橋場も整備する必要があるんですけど、
その周辺の施設として、例えば県の職員が住むための住宅とか、
あとは市販学校とか衛生所とか、
県庁が運営していくのに必要な建物とかですね、
そういうのをもうあらかじめ用意しておいたんですよ、前橋側に。
あーなるほど、もう至り、つくせりというか。
前橋と川越の関係
しかもですね、その庁舎を移転するための部署みたいなものを、
あらかじめ対策本部みたいなのを設けて、専用の担当者も雇って、
いろんなところと移転に伴ってやり取りをするときとかにも、
高崎とか熊谷とか、いろんなところに荷物とか書類を運べる、
仕組みみたいなシステム化したものを作っていたりとか。
準備がすごい良かったわけですね。
もう完全に準備勝ちですよね。
こういうことを行われた結果、一瞬で、
高崎から前橋に県庁を移転するということに成功したというわけなんですよね。
もう先を見越してね、動くものをやっぱり勝つんだね、今すぐ。
なんでそれができたかというと、やっぱり前橋地商の給信力もありますけど、
お金とかを出せるような状態にした木戸の商人とか、
そういった人たちの力も大きかったわけですよね。
やっぱりこれだけの資金を集められるほど莫大な資金を木戸商人たちは稼いでたというわけで。
この木戸の生産と輸出のモーカルシステムっていうのを構築できたのは、
前橋と川越の深い結びつきによって生み出されたものと。
なんで前橋市場がもし廃場になって川越市場に移転するとかそういうことがなければ、
もしかしたら前橋は単なる木戸の生産地で終わっていたかもしれないと。
なので川越が頑張らなければ、もしかしたら県庁は高崎のままだったかもしれないと。
そんなお話でした。
新たな発見と地域の理解
川越を越えてそういう話があったんですね。そういう繋がりが。
面白いなあ。
ということでいかがだったでしょうか。
本当にまた詳しいお話を聞かせてもらって。
まさか川越のほうと群馬のほうがまさかこんな繋がりがあったというのは初めて知りましたし。
またその繋がりによって前橋というものに、前橋という地域に県庁が分かるようになったというのもひも解いて知ることができたのはすごくそうだったのかと。
いやいや、高崎じゃないの?っていうのを漠然とした疑問もありつつも。
だから前橋かというところがすごく今日の解説で深く知ることができたのは
すごくためになりました。ありがとうございます。
我々どうしても埼玉市とかそっちに寄っているというか、そっちがメインの地域だったりとかするので、
どうしても荒川を越えて西川の事情とか川越の事情とかってあんまり知らなかったりするじゃないですか。
確かに別地域みたいな感じの地域になっちゃう。
そうなんですよね。
なのでちょっと今回私も調べてみて初めて知ったことというかいうのも結構多かったりとかするので、
こういう面白さも埼玉県まだまだ秘めてると思うので、そういうところもまだまだ紹介できて、紹介していけたらいいなと思ってます。
ぜひまたお話も聞けたらすごく嬉しいので、呼んでくださいとすごくありがたいです。
はい、ありがとうございます。
ということで、では次回もよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
29:15

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