公共の場での行動への誤解と観察の重要性
Reverse Diverse。アタッチメントを探求する。
あのー、ちょっと話変わるかもしれないんですけど、
例えば、あの、自閉症の人で、こう、まあ、少し大きくなったといいますか、大人になって、
で、例えば飛び跳ねているとか、こう、独り言を言っているとか、
そういうのが、あの、公共交通機関とかに乗っていると、出くわすことあるじゃないですか、
それに対して知らない人が怖い、みたいな、そういう感情を、あの、持つみたいなこともあるんだと思うんですけど、
私はなんか、それはなんか、やっぱ残念で、あの、というのも、あの、怖いっていうことを思うのは、まあ、知らないわけだから、
未知のものに対するね、恐怖。
反応だから、それはどうしようもないと思うんですけど、怖かったら、よく見たらいいと思うわけなんですよね。
その人が一体、何か、何をしているかとか、あの、なんていうのかな、その敵みたいなものがどこかに向けられているのか、
それとも、少しパニックを起こしていて、それで落ち着かせようとしているのか、
そういうことはなんか、少し見たら、観察していたら、分かるんだけどなって。
だから、怖いと思ったら見てればいいのになって。
で、その、なんか、何か危ないことが起きないようにするとか、なんかそういうこともできるはずで、
誰かが怖がっていたら、距離を取ればいいとかですね。
なんかそういうことがあって、その時に観察するっていうのはどういうことかっていうと、
その人は一体何を見ているだろうかっていうのを想像するみたいな。
何かに反応しているのか、それは普通のいつものなんか、日常の中で、
ただ心の中の声が外に出ているだけなのか、みたいなのは、分かるよなと思うんですけどね。
なんかそういう、その時に何を見るのか、どんなふうに見るのかっていう枠組みっていうのかな、
視点がないと、なかなか難しいのかもしれないなとは思う。
そこの視点を与えてくれるのが、たぶん特別支援教育とかだったりするのかもしれないし。
認知の歪みと対処法
あとその認知の歪みのパターンみたいな、追い詰められていて、
なんか自分が攻撃されているっていうのを感じて、怯えて、
それが大きな行動になっているような感じなのか、発散しているのか、みたいなね。
だから両方必要だと思うんですよね。その相手を観察する。
相手っていうよりは、相手と自分の関係の中で何が起きているのかを観察するっていうことと、
あとその自分が、例えば怖いという感情を持った時に、
私はなぜ怖いと思っているのかっていうふうにメタ認知を働かせる。
怖いと思ってるから相手が怖いはずだ、相手は恐怖をもたらす対象だって決めつけるんじゃなくて、
それは自分の感情とその事実を混同しているってことでしょ?
そうじゃなくて、そこを一回切り離して、
なぜ自分は怖いと思っているのかっていうところにメタ認知を働かせるとか、
いろいろその対処方法はあるんだと思うんだけど、
どっちがいいのかっていうのは状況にもよるのかもしれないし、
本当は両方あるといいんだろうと思うけど。
インクルーシブ教育と想像力の違い
だからインクルーシブ教育で、子供の時にいろんな人と一緒に過ごすことができた人と、
やっぱり均一な、みんな言葉が通じるとか、ルールがあれば守るみたいな中で生きてきた人で、
そこへの、それこそ見るポイントとか、想像力の働かせ方とか、
そういうのがやっぱり違ってくるのかなっていう。
そう思うよね。やっぱり、
他者の意図の不明瞭さと対人関係の負担
世界自閉症啓発での特集のところで、最後の頃かな、ちょっと言ったんだけど、
やっぱり少なくとも私にとっては、相手の意図って全くわからない。
他の人にはピンとわかることが自分にはわからないっていうのがずっとあって、今もあって。
だから対人関係っていうのはすごく混乱を生じさせる。
ものすごく感情的にも負担が大きいものなんですよ。
混沌としている私の中ではわからないことが多すぎて。
物や環境へのアタッチメント
だから、例えば家の中のものをすべて把握していたり、
数えていたり。
どこに何があるかっていうのをビジュアルに再生したりできるっていうのは、
私は人への愛着よりも物とか環境への愛着の方が強いんだろうなというふうには思ってる。
愛着っていうかアタッチメントだよね。
アタッチメント理論って基本的に人へのアタッチメントの話なんですよ。
なんだけど、もしかするとね、私のようなOSを持ってる人間っていうのは、
人へのアタッチメントはちょっと薄くて、もともと。
もっと物とか環境へのアタッチメントの方が強い。
そっちが安心をもたらすっていう意味で、
なんか強いのかなっていうふうには思ったりする。
自己理解とアタッチメント理論の再考
結構この間いろんな話をして、私もいろいろと勉強をする中で、
またちょっと違う観点から自分を眺めるで、
ある種の仮説を立てる経験にはなったかなと。
ちょっと私もそうですみたいな人がいたらコメント欄に書いてほしいな。
だからアタッチメント理論面白いと思ったんだけど、
私そこまで人へのアタッチメントがないなとは思ってる。相対的に。
そういう意味では私もあんまりそこまではないんですよ。
むしろそのなんていうのかな、仕組みみたいな。
人間というものの仕組みみたいなことの方に関心があって、
人間の感情とかそういうものに関心があるかっていうと、
そこはちょっと距離を置いておきたいみたいな感じはしますね。
だからその、なんだっけ、ライナスの毛布だっけ、
の話なんかとてもよくわかる。
いつも同じものを持って安心できるっていう。
別に実の母親がどうこうとかじゃないんだけども、
母親というアタッチメント対象というよりは、
やっぱり私もものだったかもしれないなと。
それがどういう意味なのかはまた解明したいけど。