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#123世界と僕らは“0”
2026-04-08 09:15

#123世界と僕らは“0”

本内容では、般若心経の教えを通して、「恐れ」や「存在」の本質について静かに考察されています。

恐れは行き止まりや逃げ場のなさから生まれるものですが、本来は何も閉ざされておらず、私たちは自由な存在であるという視点が示されます。
さらに、人は空間や時間、肉体に縛られているようでいて、実はそうではないという気づきへと広がっていきます。

自然の中にある穏やかさや争いのなさは、その本質を映しているのかもしれません。
これまでの「善」や「真・美・愛」といった概念も、すべては「空」や「0」、そして「縁」という一つの在り方に集約されるのではないかと考えられます。

悟りとは、自分がその「0」であると気づくことなのかもしれません。
言葉では捉えきれない不確かさの中にこそ、本質がある――そんな深い静けさを感じさせる内容となっています。




BGM拝借元
ベルガマスク組曲 第3曲 「月の光」
BGM:Kamatamago (https://kamatamago.com)


参考図書
https://amzn.asia/d/07GvgTqm


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感想

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00:05
はい、今日のテーマは、世界と僕らはゼロ、ということについてお話ししていきます。
今日、ちょっと般若心経を読んでいて、考えていたことだったり、
いろいろ考えた、思ったことだったりっていうのをちょっとここで話しできればと思うんですけど、
恐れるのはそこが行き止まりだから、逃げることができないからっていうふうに書いてあったんですよね。
それって心もそうだし、肉体もそうだしっていうことでもあるんですけど、
それってどういうことかって、本当は閉ざされていない。
だから逃げる必要もないし、怖がる必要もない。
これっていうのは、僕たちは空間にも時間にも肉体にも縛られていないっていうことなんですよね。
でも、普段生きてたら、肉体があるからどこへでも行けないし、
時間があるから時間が限りもあるしって思うかもしれないんですけど、
でも、たぶんないのかもしれないなっていうか、
だから時間も空間もたぶんここにあるし、ここにないしっていうか、
たぶん縛られてしまっていると思うんですよね。
逆に縛られてないのに縛られてしまっているというか、
本当はそんなものどこにも縛られていないはずなのに、
僕たちは縛られているように感じてしまうというか、
でも、その縛られているように感じるからこそ、
僕たちはこういう日常って呼ばれているこの社会の中で生きられるというか、
この世界と呼んでいる現実っていうものを生きられているような気もするんですよね。
だからそれがないとたぶん、ないとというか、それがたぶん欠如してしまうと、
僕たちが嘘を守って生きているこの世でたぶん生きられないのかなっていうのは思ったんですよね。
で、その中で、じゃあ争いを生まないためにはどうすればいいかっていうことを話してた部分もあって、
それっていうのが、平和の心は自然の命にあるっていうことなんですよね。
自然って争わないんですよね。
なるようになるというか、春になったら春になるしみたいな、
散る時は散るしっていう、本当にその循環の中であるっていうか、争わない、
川の流れに逆らわないっていうのが自然だと思うんですけど、
太陽は昇るしまた沈んでいくっていう流れで争わないっていう考え方っていうのがまずそこにあるよねっていう話も聞けたんですよ。
で、ここまでの話を振り返るというか、考えてきたというか、話してきて、自然は争わないよねとか、
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肉体とか心っていうのは縛られないよねっていうこと、
自由だよね、怖がる必要もないし逃げる場所もない、僕たちは閉ざされていないんだっていうのをさっき話したんですけど、
究極この前話した部分に繋がるなって思ったのが、
究極人は善を積むことを求めるというか、そこからその心善美愛に集約していくっていうのを話したと思うんですよ。
自分のためとかみんなのためとか、ゆくゆくは心善美愛っていうものに全て集約してしまう、
そういったものを通して言葉が違うだけでそういったものになっていくというか、
そういったものを僕たちは最終的には求めるというか、
そういったものになっていくっていうのかなっていうのを思ってたんですよね。
で、今日この般若心経を読んでて、その心善美愛に集約するっていうのも、そういうのも全てゼロであり、
縁なのかなって思ったんですよね。そのゆかりっていう意図編の方なんですけど縁っていうのは。
だから、もしかしたら全てはゼロになるっていうことなのかなと思ったんですよ。
その出会いがあったり別れがあったり、さっき話してた自然は争わないっていう点に関して、
まさにそれを具現化しているのが自然だなっていうか、自然ってゼロなんですよね、たぶん。
周り曲がって巡るというか、それ縁の象徴でもあるしゼロの象徴でもあるなというか。
で、例えばそこに全部集約するんだったら、その心善美愛っていうのもゼロになるのかなと思ったんですよね。
それも縁っていうか、そういったものに集約するっていうか、なるのかなって思ったんですよ。
で、さっきの心善美愛を突き詰めていくとたぶん悟りになるんじゃないかなっていうのを僕は思ってて、
自然もたぶんですけど悟ってるんですよね、もう。で、その悟りっていうのは自分がゼロになるというか、
ゼロだって気づくことが幸せというか、そのもうゼロだよねっていうのが、
もう体感としてわかるっていうのが空でもあるし悟るっていうことなのかなって思ったんですよ。
で、ゼロは自然だし心善美愛だしすべてのもの、すべてがそこにあるというかすべてがゼロだしすべてが世界でもあるしすべてがゼロ。
だけどゼロは移ろい変わっていきそこに永遠にある。
で、それって何にもならないっていうことでもないと思うし、ただ特定できないと思うんですよね。
でもそれって言葉にはたぶんできないってことだと思うんですよ。
ゼロだから分けることができないんですよね。ゼロは割れないから。
だからたぶんその、世界の理というか僕たちが悟りだよねとか心善美愛だよねとかって言われているものっていうのはすべてゼロになるというか、
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すべてゼロでできているというか、すべてゼロのまとまりとしてなっているんじゃないかなっていう気がしていて。
だからその、なんかちょっと今日考えてたのがじゃあ物語もじゃあ意味ないんですかみたいな話になると思うんですけど、
なんかそれっていうのもゼロが永遠にゼロゼロゼロゼロって回っているみたいな感じだと思うんですね。
なんかそれに僕たちはたぶんは繋がってるなっていうのを感じやすいというか、円が円を描いているというか、
ゆかりの方ですけど、円がゼロゼロゼロゼロって続いていくことに関して僕たちは何か嬉しさというか、
なんかそこにゼロを感じることができているからこそなんか僕たちは感じるものがあるのかなっていうか、
だから最終的にはゼロにもなるし僕たちはゼロでできているっていうことが分かるというか、
体感するのかなっていう感じなんですけど、悟りもそうだし、たぶん心前美愛っていうのもそうなんですよね。
でその、じゃあゼロになるってどういうことなのっていうのもたぶんだけど、
その自我がなくなるっていうことっていうのと、たぶん主語がやっぱ世界とかになるからだと思うんですね。
それが世界であり僕たちでありゼロであるっていうことなのかなと思ってて。
その、僕たちはどうしても僕はとか私はとかお金持ちになりたいとかどうしてもその主語が一人称だと思うんですけど、
それが次元っていうかそのたぶんゼロだよねっていうのが分かってくるにつれてたぶん外れていくんですよね。
僕じゃない、僕たちだ、違う僕たちじゃない世界だっていうふうにだんだんたぶんゼロになっていくんですよね。
それがたぶん悟りっていうことでもあるし、愛っていうものでもあるし、真理とも呼べるし、善っていうことも言えるし、
たぶん美っていう美しさにもたぶんつながると思うんですよね。
だからたぶん僕たちが求めてるのはゼロであり、僕たちはゼロなんだけど、それがゼロだとまだ分かってないというか、
それもできてるゼロってじゃあ何なのかって言ったら縁でもあるし、ゆかりでもあるしというか、
僕たちがつなぎにつないできたものすべてがゼロっていうか、ゼロを積み上げてきたと言ってもいいし、ゼロをつないできたと言ってもいいし、
延々に繰り返すこのゼロの中で僕たちはゼロという世界で生きているというか、
ゼロという人間を生きていると言っても過言でもないし、ゼロという物語を紡いでいっていると言っても過言じゃないのかもしれないなというか、
だからこそ僕たちはなくならないし、あり続けるというか、あるけどないというか、
その中で僕たちはあるからこそ閉ざされていないっていうことでもあるし、
ある意味自然でもあるよねっていうことなのかなっていうのをちょっと思った今日この頃でした。
何を言ってんだって思うかもしれないですけど、多分そういうことなのかなっていうのを感じたという。
09:03
今日この頃でした。
ここまで聞いてくださりありがとうございます。
それじゃあまたね。
09:15

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