00:07
どうもみなさん、だってねこです。
今日は、どうせ死ぬのになぜ生きるのか、言葉を超えたその先にある景色とは、ということについてお話ししていこうかなと思います。
名越先生が書かれたどうせ死ぬのになぜ生きるのか、晴れやかな日々を送るための仏教心理学講義というものを読んで、
自分が思ったことだったり、こういうことなのかというふうにね、その感じたこと思ったことをお話しできればなというふうに思っています。
そもそも、もう題名にも書かれていると思うんですけど、どうせ死ぬのになぜ生きるのかということ。
これって人類が答えを渇望しているというか、この答えを知るために生きていると言っても過言じゃないのかなというのがちょっと思ったりしています。
なのでね、今回本書で紹介されていることに、まさにこれだよ、この言葉が欲しかったんだよという思いと同時にですね、
やっぱり人類の永遠の問いなんだなっていうのを感じました。
人が人であり続ける以上、生と死は付きもので、そのことについては考えずにはいられないというか、
その考えた先の答えが出ないことへのアンサーというか、というのを本書に期待しています、私としては。
なのでちょっと紹介してね、全部言ってしまうと本を買う必要がなくなってしまうので、
自分がいいなって思ったところと感じたところを少し紹介できればなというふうに思います。
じゃあすぐ結論に至ってしまうんですけど、どうせ死ぬのになぜ生きるのかということについて触れられてるんですけど、
直接というか丸々ちょっとお伝えするのは違うのかなっていうのを思うので、
間接的にお話しさせていただくと、言葉では説明できることには限界があるなというふうには感じました。
どうせ死ぬのになぜ生きるのかという問いに答えるためには、多分言葉では答えられない部分があるのかなというふうに思いました。
言葉じゃ伝えきれないその先というか、これも人生において解決できない問いっていくつかあると思うんですよね。
その中の一つとしてなぜ生きるのかっていう問いが人にとって、人類にとって永遠のテーマだなというふうに思いました。
答えが出ないってことは言葉じゃ表せられないってことなのかなっていうのは思いましたね。
03:03
だからこそその言葉の先にある景色が見えないと本当の意味でこの問いに対する答えっていうのは用意できないのかなっていうふうに私としても思いましたね。
ちょっと文中に出てきた自分がちょっとすごいいいなって思ったことを紹介できればと思うんですけど、引用しますね。
仏教では自分の心と自分自身とは別のものだと明確に定義しています。
自分を支える心の拠法の中で、僕は心というのは自分にとって付き合いにくい隣人のような存在です。
というふうにおっしゃってるんですね。
この言葉をちょっと私聞いたときに多分多くの方々が心って自分自身だよねって疑わなかったと思うんですよ。
同一視しているというか、ごめんなさいこれは大げさに言って私だけかもしれないんですけど、
この言葉があると確かにずっとそこにあるはずのない心が私自身なわけがないっていうか、言われないと気づかないというか、
その明確に同一視ってできないなっていうふうに感じました。
なんでその心っていつから自分だって勘違いしてたんだろうなっていう感じはちょっと受けましたね。
ずっと変わらないものってないはずなのになっていうのはすごい感じでました。
またこれちょっと話変わるんですけど、それをちょっと伴ってというかそれに並行してというか、
そこから多分考え方も言ってると思うんですけど、
僕たちが見ているものってその水面に映ったものを見ているのに過ぎないんだなっていうのを本書でも触れられてるんですけど、
まさにその通りだなというか、結局解釈だったりいろいろなものが付随してしまって正確にそのものだけを見ることって多分できてないんですよね。
全ての現象で今目の前で起きたこと全てを私たちは正しく見ることはできないっていうふうに言ってるんですよ。
これって本当まさにそうだなというか、その水面に映ったものを一生懸命見ようとしているようなものなんだなって私は思いました。
だからこそなんというか、だったらどうやったらこの水面に映ったものをクリアにしっかり見ることができるのかっていうのも、
この本の中で触れられているのでぜひ皆さんも手に取っていただければなというふうに思っています。
最後私の感想を言って終わろうかなというふうに思います。
正直まだ言いたいことってすごいたくさんあるんですけど、
どうなんていうか、ライオンは自分で獲った獲物しか食べないだったりってちょっとなんていうか、
人間のその心を食っている部分というか本能的な部分っていう話も出てくるんですけど、
06:05
ちょっとこの辺にしといて、普段これってどういうことなんだろうだったり、
生きていて答えのない問いに苦しめられることってすごく多くあると思うんですよね。
なんかその中の一つとして、自分って何なんだろうってこの問いの答えって一応用意されているとは思うんですよ。
仏教だったり自分なんてないよだったり、いろいろあると思うんですよね。
その哲学の部分であったとしても、西洋の哲学でも自分っていうことに対しても一応答えは出てると思うんですけど、
ただその骨の隅までわかって納得してるって人っているのかなっていうのは、
すごい感じてしまって今回これを読んで、言葉でやっぱり理解するのって、
理解したり問いに対しての答えを出すのって無理だなってちょっと感じたりはしました。
こんな時代というか、この情報にまみれた文明だったりが発展しているこの時代だからこそ、
これまでの先人が培ってきた知恵だったり習慣に、それこそそういった答えの、
問いの答えっていうのがもしかしたら眠ってるのかなっていうふうに思いました。
この本だったり仏教っていうところにも眠っているのかなっていうふうに思いましたね。
ちょっと本の紹介になってしまったんですけど、
皆さんもぜひ、どうせ死ぬのになぜ生きるのかっていう本が、
名越先生が書かれた本がありますので、もしよければ手に取っていただければなっていうふうに思いました。
それじゃあ、またね。