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はい、今日のテーマは、水はコップを水と思うのかということについてお話ししていきます。 例えば、目の前に水が入ったコップを想像してほしいんですけど、
例えばそのコップの中に水が入っているとします。 で、ではそのコップの中に入っている水は
コップのことを水だと思うのでしょうか。 あなたはどう思いますか。この水が水だということはそうなんですけど、
コップの中に水が入っているだけなんですけど、 この状態では
水はコップのことを、コップのことも水だというふうに思うんでしょうか。 これはどういう投げかけというか、問いを僕は投げかけたいかというと、
その 仮にコップが肉体だとします。
で、水は何でもその魂でも命でも言い方は何でもいいんですけど、 仮にじゃあ水のことを自分が入っ
水が自分ということにして 仮に考えてほしいんですけど、ではここで一つ問いができます。
自分という水は 肉体のコップのことを自分と思うのでしょうか。
これはあなたはどう思いますか。 っていうことなんですけど、ここで僕が何を言いたいのかっていう話なんですけど、
例えば 僕たちは肉体の中に僕たちが入っていると思うんですけど、
僕たちっていうのは肉体のことも僕たちと思うのかっていう問いをしたいわけなんですよ。 多分多くの人は
そのまあ当たり前じゃないかっていう体は自分で動かしてるんだから自分のものに決まってる じゃないかって思うかもしれないんですけど、
ただこれ動くからといっ 動かしているからといって果たしてそれは自分のものであると言えるのだろうか
ということというか じゃあ水はコップの中に入っている時にコップはコップのことを水は
コップも水だよねっていうふうに思うのかどうかっていう話なんですよね。
ただ、なんていうか僕が言いたいのってその体の中だけに、体の中に入っている自分だけが自分じゃないっていうか、
体っていうのは自分じゃないような気がするんですよね。それはただ勝手に僕たちが動かしていると思っている何かというか、
体だけが僕っていうわけではないんですよね。自分というわけではないというか、
その全てを含んで自分なんじゃないかっていうことを僕は言いたいんですよ。
その、なんていうのかな。
なんか体だけが自分ですっていうのはちょっと自分という範疇が狭すぎるような気がするんですよね。
そのじゃあ世界と自分っていうのを分けるのは何だろうっていうのって、まあ多分ほとんどの人が肉体があるから自分と世界は切り分けられていると思うんですけど、
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ただ僕が思うのはこのコップの中に入っている水と同じなんじゃないかなって思うんですよ。
僕たちが多分自分ですって言ってるのって。
それってあまりにも境界というにはちょっと薄すぎるというか、果たしてそれは世界と私を分けるものとしてあり得るのかというか、
それって本当に境界なのかっていうことをちょっと僕は疑問に思ってて、
なんか
別になんかもっと広い意味で自分なんじゃないかなというか、そんな体だけの中に入っている自分が自分じゃないんじゃないかっていう気がしていて、
そもそも体って自分の一部だけど自分の全てではないっていうことを僕は思ってるんですよね。
だからそのコップの中に入っている水っていうのも刻々とというか、まあ一瞬一瞬というか、本当その1秒1秒後には姿を変えていっていると思うんですよね。
その蒸気になっていったりとか、はたまたそのコップが置いてあるところがすごい寒い氷点下の場所だったら氷にもなったりするわけなんですけど、
そのこれってまるでその自分みたいだなって思ったんですよ。
その器の中、肉体の中に入っている自分っていうものは刻々と変わっていってるんですよね。
まあその、代謝もしてるし、その水を飲んで排泄だったりもしてるし、細胞も生まれては死んでいったりっていう面もあるし、考え方だってすぐに変わったりするし、
っていうなんか一定の自分はいないっていうか、まさにこのコップの中に水が入っている状態を僕たちは人間だよねっていうか、
その一定の部分だけには止めることができないというか、
なんていうか、水も固定できないのと一緒で、自分も固定できないよねというか、特定することは難しいよねっていうか、
その縛りつけることはできないよねっていうことを思ったんですよ。
その、なんていうのかな、だんだん姿を変えていくじゃないですか、水も。
だから自分も姿を自分も変えていってるし、これが自分ですっていうものって、もちろんその、
ある程度は違う面から見ればそう言えてしまう部分もあるけど、
どうしても揺らいでいるんですよね。揺らいでるし、なかなか実態がないというか、
これが自分ですっていうふうには一生それの自分としていることはないっていうことなんですよね。
何が言いたいかっていうと、自分は閉ざされていないっていうか、水も閉ざされていないっていうか、
固定化されないし、特定もできないというか、
なんていうのかな、水がコップの中だけにいるわけじゃないし、待機中にもいけるし、冷たくなることだってできるっていうか、
だから例えばそれをちょっと自分っていう視点に置き換えてみると、ちょっと飛躍しすぎてしまうかもしれないですけど、
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言いように言っては、全てが自分でもあり自分でもないというか、どこへだって行けるし、
時間や言葉とか場所だったりっていうのに縛られていないっていうこと。
だから水も僕たち自分っていうものを自分って呼んでるものも、本当はもっと自由だし、固定化しちゃうのはもったいないっていうか、
体だけとか、体が自分だけのものとか、自分の見えているものだけが自分のものとかっていうのはちょっともったいないねというか、
自分は水だよねって知って生きるっていうのはまた違う景色が見えてくるような気がしたんですよね。
だから自分は閉ざされていないし、水も閉ざされていないっていう、
その肉体とか言葉とかっていうのに縛られるというか、特定してしまうというのはあまりにも苦しいなっていうのを思っちゃったんですよね。
だからこそ、水がコップのことを水だと思わないように、水は水っていうのを多分知ってると思うんですよね。
それが多分ですけど、その人が肉体も自分じゃないというか、自分の一部だけど自分…それだけが自分じゃないっていうのを
気づくというよりかは体感として感じるか感じないかっていうのはまたちょっと違う世界というか、何か今まで見えていなかったものが感じるようになるような
そんななんか、一歩なのかなっていうのを思ったという。はい、今日この頃でした。
はい、今日はここまで聞いてくださりありがとうございます。
それじゃあ、またね。