出会いと別れで言ったらあれですよ。
見ましたよ。
オズの。
魔法使い。ウィキッド。
オズの魔法使い見ましたよ。
ウィキッドは?
いいですね。
すごい良かったよ。
はい先生。
俳優が天才的だと素晴らしいんですね。
はい先生。
最高です、ジュディー・ガーランド。
先生、繋がります。
繋がります。
ウィキッド?
オーマが散々お勧めしてくれてたんで、見ましたよ。
ウィキッド。
オズの魔法使い。
だから、オズの先なのよ。
最近のでしょ?
最近のでしょ?
オズの魔法使いって言ったら、最近じゃないですか?
発表年が、あれですよね。ちょっと待ってくださいね。
映画。
1939年だから、やっぱ最近ですね。
ほぼ100年前だね。
いや、最高でした、やっぱり。
ほぼ100年前。
これはね、名作ですね。
本当に、やっぱね、ジュディーが本当にね、可愛いんですわ。
16歳なんですけどね。
もうね、116歳よ。
でもね、彼女も40代で亡くなってるんですよね。
もうこの時点ですでにですね、確か配給会社から覚醒剤渡されてるんですよね。
いやもう、当時からハリウッドはちょっとアンブがありますんで。
病みですよ。だから要するに、痩せ薬という扱いでですね。
もともと太りやすかった彼女は、体重を制限する契約を結び、事務所だか配給会社からは、食欲減退のためにですね、覚醒剤が渡されるという。
その後もずっと薬物からなかなか抜け出せずにですね、精神的にもちょっと不安定なところがあり、若くして亡くなりますけどね。
でも彼女の才能は本当に素晴らしいものがあったなと思いました。
16歳なのに本当にあどけない少女の役を見事に演じ切ってますし、何よりオープニングのですね、オーバー・ザ・レインボーですね。
素晴らしい。
オーバー・ザ・レインボー。
そうですね、はい。天と地の差がありますけどね。
あれ?そんなに良かった?
違うな、違うな。地の方だね。
地の方か。
まさに虹と地面ぐらいの差がありましたけども。
いやー、素晴らしかったですね。なにそれ。なになになに。
地だよ。
え?
え?
地?
はいはいはい。
リスナーに何も伝わらないわけね。俺が言語化しないと伝わらないわけじゃない。
しかも地だよって説明した気になってるけど、何もまだ説明できてないのよ。
もうちょっとリスナーフレンドリーなところを心がけてほしいんだよね。
そうか。
フレンドリーじゃなかった?
全然フレンドリーじゃなかったです。
ちなみにウィキッドも見ました。
見た?よしよし。
逆に聞きたいんですけど、これ1939年のオズの魔法使いを見ないでどうやって楽しむんですか、この作品っていう。
1936年以降に描かれたオズたちを見る。
いやだから、どれ?それどれ?
あれだよ。
オズの魔法使いって言ったら、小豆の魔法使いでした。
何だそれ。何じゃそれ。
何だっけな。最近さ、OZのオズ。
やったじゃん。
最近?それあれじゃないの。
なんちゃらファルコだっけ。なんだっけ。
ファルコパンチ。
ファルコパンチじゃねえよ。
スパイダーマンでさ、グリーンゴブリンの息子をやったさ、イケメンいる。
そうかな?オズ始まりの戦いって。
だからあれも違うから。あれオズの魔法使いじゃなくて、あれも結局二次創作だから。
そっか。
あれも、あれは要するにオズがオズの世界にやってきて、魔法使いを殺傷し始めるに至った経緯っていう前日端を描いた。あれも二次創作ですね。
あれもあれも。
たぶん知らない。
これ見て思ったんですよ。結局1939年の映画で描かれている描写のオマージュが随所に差し込まれるんですね。
これ見ないで見ても何一つピンとこないから、なんかもったいないんじゃないかなっていう。
逆方向で楽しむんだったら全然アリだと思うんですよ。
もうウィキッド見たからオズの魔法使い見よう、でも全然回収はできると思うね。
でもだからウィキッドだけ見てもしょうがないなっていうのはすごい感じました。今回見てみて。
それこそオズの魔法使いなんて、僕絵本で読んだのとさ、オズしか本当にたぶん情報がないかもしれない。
これも言っておきたいんだけど、ウィキッドをオズの魔法使いを履修しないで見た人が、いやでも絵本とかで読んでるしっていう人はいるんですよ。
大半だろうね。
でもね、それじゃダメなんです。それじゃダメな理由があるんです。
ウィキッド見た時に、うわーここを入れてくるんだってちょっと面白かったのが、緑色の女いるじゃないですか。
魔女でしょ。
エルファバね。
エルファバがライオンの子供を自転車の後ろに備え付けられてるカゴにしまって、チャリ拳にあるんですよ。
まずなんでオズの世界にチャリあるのかよくわかんないですけど。
意味不明なんですよ。だからそれは。意味不明なんです。あの世界にチャリンコはどう考えても合わないと思うんですよ。
もちろん馬車とかがあるから、車輪の技術はおそらくあるでしょうし、ひょっとしたらオズが持ち込んだのかもしれないんですけれども。
かといって長距離をですね、チャリで来る人なんていないはずだから、あんなところにチャリが置いてあるのはおかしいんですけど。
でもじゃあなんでチャリなんてあんなところに乗るかって言ったら、あれね、1939年版に秘密が隠されていて。
1939年のオズの魔法使いは原作とか、要するに原作ベースで書かれた絵本にはない設定があって。
それっていうのが、ドロシーが生活してるカンザス州で出会う人々とウリ二つの人たちがオズの世界に出てくるんですよ。
そうなんだ。
しかも最後、ドロシーは目が覚めたらカンザスの家にいたっていう風な描写になってて。
実際は本当に戻るんですけど、いわば夢落ちみたいな終わり方なんですね。
えー。
映画版だと。で、緑色の顔したあの魔女ね、エルファバはカンザス州でドロシーにすげえ意地悪してくる地主のババアなんですよ。
へー。
で、その地主のババアが、ドロシーがオズに旅立つ前にトトに足噛まれたと、あの犬ね。
ドロシーが飼ってるかわいい犬がトトって名前なんですけど、小汚い犬に足噛まれたからもうこれ殺処分するわ、言うて。
で、トトをですね、乗ってきた自転車の後ろに備え付けられてる両開きのランチカゴにしまい込んで、チャリンコで運んでいくんですよ。
へー、そういうシーンからか。
そう、だから緑の魔女にあてがっている意地悪バーさんが、チャリンコの後ろのカゴに小動物を乗せて、チャリで走るシーンのオマージュになってるんですね。
つまりこれは原作ではなくて、完全に1939年のオズの魔法使いのオマージュなんですよ。
だからオズの魔法使いの原作読んだからとか、子供向けの薄っぺらい絵本読んだから、ウィキッド読んでもわかるぜって言ってる人たちは、もったいないんですよ。
それは絶対にわからないから。
確かに確かに。
だから、1939年版見ないで見たから、はいお前ダメとかいう話じゃなくて、今から1939年版見て、ここってこういうことだったんだって気づいて、その面白成分を補完してほしいなって思ったっていう。
確かにそれはあるかもね。より楽しめる要素っていうか、キンダーエッグじゃなくて。
イースターエッグ?
イースターエッグ。
それキンダーサプライズやないか。
キンダーサプライズだ。
あのね、おいしくないチョコの中に完成度の低いおもちゃ入ってるやつね。
言うたれな。当時は楽しかったんだよあれね。
いやいやいや。本当にね、そういうのがすっげー多くて。でも見れば見るほど、これ本当にパート2でちゃんと回収されるのかなって不安になりましたけどね。
何?
エルファバの妹いるじゃないですか、足が不自由な。でもあれ、オズの魔法使いの冒頭で死にますからね。冒頭というか、喋る権利も与えられる。
ドロシーの家が飛んできて、ドロシーが家から出てきたら、家の下から足が2本生えてるんですよ。ドロシーがいる家の下敷きになって死ぬんですよ。
その足がルビーの靴を履いてるんですよね。
原作では銀の靴なんで、ウィキッドでは銀の靴、原作準拠では銀の靴になってましたけど、あの妹さんざん不憫な感じで描かれて、
芝居にはドロシーの下敷き、家の下敷きになって死ぬんだと思ったら、これをどういう感じで綺麗にまとめるつもりか。
どう頑張っても最終的にこいつ家の下敷きになるやんとしか思ってなくて、ちょっと心配なんですけど、どうなんですかねっていう。
なんか勝手な妄想ね。
このアリアナ・グランデとガチンコバトルを始め、その余波に巻き込まれる形で家の下敷きになって、
ちょっと火があるのがアリアナ・グランデみたいな。でもそれでもどうしても許せなくてみたいな。
魔女側は結婚し、アリアナ・グランデはごめんなさいと言いつつも、そういう流れがあるはず。
ただね、それも無理があって、何がっていうと、妹が死んだ直後に、しかもその妹がいた場所っていうのがマンチキンの村なんですね。
で、その妹が家の下敷きになって死んだ瞬間にマンチキンたちが家から出てきて、「よっしゃ悪い魔女死んだー!」って言って踊りまくるんですよ。
つまり妹も魔女なんですね。
妹魔法使えてたっけ? 使えてないです。
そうだよね。 そうだよね。
悪い魔女死んだーイェーイってなって、そこにブチ切れた姉の緑の魔女がやってきて、
ドロシーこいつお前ふざけんなみたいな話になるんで、だからウィキッドのパート2のどこかで妹は魔法に目覚めるとともにマンチキンたちから打滑のごとく嫌われる必要があるんですよ。
っていうね。いろいろどうするのかなこれっていう状況が今あって。結構心配っていう。
それは心配だね。 心配だしね。アリアナ・グランデちゃんが可愛すぎてね。
彼女ってさ、びっくりしたんだけどさ、この人天才だなと思ったのか。普通にお歌が上手ねって知ってたのよ。
でもお歌が上手なのとミュージカルが上手は全然畑が違うじゃん。あの人ミュージカルがお上手すぎて、びっくりしました私。
彼女は前々からちょいちょい言ってますけど、テレビ番組のしかもバラエティのコメディエンドですから、そりゃ小器用ですよっていう。
なるほどね。 まあだから、こんな言い方したらファンに怒られますけどね。僕もファンなんで許してくださいですけど、彼女はモノマネ芸人ですから。
元より。歌が本当に超一流に上手いモノマネ芸人なんで、もう保育するまで出せちゃうみたいな歌唱力がありながら、それを活用してですね、笑いも取り続けてきた女性なので、そりゃ上手いに決まってますよって感じですね。見事ですね、頭空っぽ女子の演じ方が。
上手よね。マジで馬鹿に見える。 楊 そう、素晴らしかったです。最高。ずっと見てたかったですね。アリアナ・グランデのシーンだけ見るためにもう一回多分俺見ると思います。
あれじゃん、コスパタイパーのアリアナ・グランデ以外飛ばすっていう。 楊 そうですね、そうですね。で、また39年版の方に戻って、今度はジュディだけ見るために、ジュディシーンだけ切り取って見ていくっていう、そんな形で楽しんでいきたいと思います。
なるほどね。 楊 はい、ここまでで17分ということでね。そんなわけでですね、見たいものだけ見た方がうまくいく。きっとね、うまくいくんじゃないのかなっていう。
そうそうそう。やっぱり忙しい中でね、どうやって時間を見つけていくかっていうのはちょっと非常に難しいんですけど、いいことにね、自分の関心があることに焦点を当てて生きていきたいなと思っています。じゃあそんなわけで、本日も参りましょう。
はい、ということで本日のテーマは、ヒューマンドラマ映画、きっとうまくいく。人生は学びの連続…だ。学びの連続…だ。でいいかなっていうね。 なるほどね。
楊 連続かって言いたいけど、まあ連続だなと。ということで、インド映画ですね。 インディーでしたね。よかった。僕は大好きです。この映画も大好きです。
じゃあまあとりあえずね、有名な作品ではありますけれども、ちゃんと説明をしてからいきましょうかね。 じゃあみなさん踊る準備はいいかい?
じゃあ2分間。ということで本日紹介する映画は2009年公開のインド映画、きっとうまくいくでございます。
この映画はですね、公開当時インド映画の歴代工業収入1位を記録し、2010年にはインドアカデミー賞で出場された16部門を受賞したという傑作でございます。
舞台はですね、インド屈指の超難関工科大学IC、家族の期待を背負ってエリートの道へと素早く入学したファルファーンとラージュは、そこで一風変わった生徒ランチョーと知り合います。
ランチョーはですね、成績トップの天才でありながら常識をいくつも覆していく、そんな自由人でした。
そんな彼をですね、あまりよく思わないですね、鬼学長とことあるごとに対立しながら、厳しいインドの競争社会、そして学力市場主義の学校経営とずっと対立構造を繰り広げられていきます。
ファルファーンはですね、本当はエンジニアではなく動物写真家になりたいと。
そしてラージュはですね、家のためにも絶対に出世しなければならない、特に極貧生活をしている母、父のためにも、みたいなね、そんなところで、インドの階層構造の中で必死にそこから何とか戦い抜かなきゃって思ってる状態なんですが。
そんな2人にですね、ラージュは終始、様々な場面ですね、なぜ成績のことばかり考えるんだというね、君たちが本当にやりたいことは何なんだと問いかけてきます。
上映時間はなんと170分ということでね、非常に長い作品なんですけれども、歌のシーン、ダンスのシーン等でね、楽しい気分になってたら意外とあっという間です。
またですね、作品の中では非常に重いインドの現状、テーマを扱っており、自殺に関するですね、セキュララな描写もありますけれども、ある種ですね、コメディ映画を通して本当に鋭い社会批判であったりだとか、深いテーマについて語ってくれるので見応え抜群となっております。
みなさんもぜひご覧ください。
いい映画。 楊 いい映画ですね。本当にいい映画でした。
で、何でしょうね、僕これは当時、仕事仲間ですね、同僚の20代前半の女の子に勧められたんですよ。
いやこれすごく面白くてって言われて、え、本当?ってなったのを覚えてます。
もうね、きっとうまくいくっていうタイトルからのお尻の形した椅子に3人のインド人が座って、こっちに向かって見事な笑顔で笑いかけてくるパッケージというかポスターがあるんですけど。
そこからですね、上映時間170分。大丈夫かっていう。本当に大丈夫かって思うよね。
なんかね、インドのアクション映画とか、何でもかんでも詰め込み系映画だったら飽きない自信があるのよ。
だけど今回絶対にヒューマンドラマでホッコリ系じゃん。絶対途中飽きるだろうなと思ったら、まあ、だわ。
飽きるシーン1個だけ。 何? オープニング。 オープニング? オープニング。
オープニング飽きるっけ? オープニングのね、歌が流れて、
彼は何とか監督家だった、みたいなのがね、3、4分くらい。山々がさ、空撮されててさ。
はいはい。 で、そこでなんかこう、なんか歌が流れるんだよ。 うん。 投げ。
もうね、ごめん。170分経つとね、オープニングで何見たか覚えてないんだわ。
あれはね、何回見ても長いのよ。 あ、そうなんだ。
そう。 まあでもやっぱ全体170分ですからね。
あのー、1個1個のシーンがやっぱ長いんじゃないですか。 そうね。 オープニングで引きも長いっていうね。
まあでも我々2001年宇宙の旅を戦い抜いてるんで、別に大したことないですよ。
あ、そうね。あのー、携帯壊れたかと思った。あの時は。 3分どころの騒ぎじゃないんで大丈夫です。
はい。であのー、まあじゃあちょっとですね、ジャブというかまあいろいろ言いたいんですけど。
はいはい。 えー、何かあります?
まず、インド騒論っていうところなんですけど。 はい。
あのー、インドのスクーターの定員数半端ねえなっていう。 そうね。
だからまあでも、大したことないんじゃない?
で、なんかあのー、まあ俺らの感覚だったらさ、二欠じゃん。
で、病人のパパを連れて3人だったじゃん。
これ限界数だろうと思って、インドスクーター乗車って調べたのよ。
そしたら法律上か、監修かわからないんだけど、
あのー、とあるね、インドに住んでますっていう人のブログを見つけて、
自転車は4人までオッケー。スクーターとバイクは5人までオッケー。
さらに子供が入ると6人まで乗ってオッケーらしくて、どうやって乗ってるの?
あのー、僕幼少期タイにね、父の仕事の関係でちょっと長く滞在したことあるんですけど、
5人乗車してるスクーターはガチで生で見たことあります。
どう乗ってんの?
だから二欠のところにギューって密着して、子供も含めて乗ってんの。
だからそもそも二欠で、一番前の人はほぼ立ってるのよ。運転してる人は。
あ、俺さ、5人乗ってるっていうのがちょっとイメージわからなかったからさ、半分ボリショイサーカスになってるのかな?
あー違う違う違う、ボリショイはスクーターだと厳しいから、ボリショイは自転車の時だけやります。
あるの?
あるあるある。自転車の時はそれはやる。
自転車の時はボリショイ乗りすんだ?
うん。ちなみに僕大学生の時、友達と一緒に大学のキャンパス内をボリショイ乗りしたことあるんですよ、友達と。
これちょっとリスナーに伝わってるかわかんないですけど、ボリショイ乗りっていうのは、後輪の左右にも人が乗ってるっていう乗り方ですね。
まあ、ボリショイサーカスか自転車とかで調べてもらえばいっぱい出るんじゃないですかね。
わかんない。
中国雑魚とかでも見るイメージがあるんだけど。
俺ボリショイサーカスって、いっぱい乗った乗り物ってイメージ。
ボリショイ自転車で調べるとクマが出てくるよ。
あ、ほんとだ。
これボリショイ乗りじゃないじゃん。中国雑魚で多分。
中国雑魚なんか?
中国雑魚で自転車って調べたら。あ、出てきた出てきた。
出てきた。
ちょっとレベチだったやっぱり。10人くらい乗ってるわ。
やべえ。
これは。
こういうイメージ。
そういうイメージですね。
漕ぐ人、立ち漕ぎで座る人、荷台に座る人、左右にこうくっつく人っていう。
なんていうの?苦弱状態?
そうそう苦弱状態になったんですけど、結果ですね、友達のママチャリの後輪がひしゃげて乗れなくなりました。
だからこういう雑魚団の方々が乗ってるやつは特殊なスポークとか使ってるんだなっていうのがそこで体験を通してね、実感を伴って理解することができたんで。
やっぱ大事だなって実感を伴った理解ってすごい感じまして、ほんと。
ちょっと話を戻しますけど、だから全然アリなんじゃないですか。
こう多分同行法がだいぶゆるいんじゃないですかね。
ゆるそうだね。びっくりしちゃった私は。
ちょっと僕もいいですか。
なんすかなんすか。
これでも作品の根幹に関わるからあまり言いたくないんですけど、乱鳥無能説っていうのがあって。
あいつカエダマ入学なのにあんなに目立っちゃダメだろ。あれおかしいでしょ。カエダマだったらあんなに目立っちゃダメなんだよ、どう考えても。なんとなくことなかれ主義でやるべきだよ。
あの大学をほのめかされるような行動をしすぎたらね。
ね、ダメじゃんね。実家に電話とか絶対かかるだろうしねっていう。電話がないような世界観じゃないんだから。
しかも校長がちょっと調べればわかるかもね。超大富豪の息子って設定じゃん。
そうなんだよ。このランチョルダースシャマルダースチャンチャルっていう名前のどいなかの富豪なんだよね。
富豪だね。
使用人なんだろうね。
使用人の秀才の男の子ですね。ランチョルとして送り込むという。そういう一応組み立てなんですけど、入った先でやりたい放題してるからね。大丈夫かっていう。
ちょっとどいなかゆえのみたいな情報の隔絶具合だから許されるでいいのかみたいな。
いやでも、Eメールあるからさ。
多分何回か自宅には連絡入ったんだよ。そのたびにパパがヒヤヒヤしてて、その辛労で亡くなった説ありますね。
そういうことか。謎が解けたわ。
充電に溜まりに溜まった辛労が。
やっと終わったーつって。やっと息子の学歴ゲットできたーつって。そのまま死んだという可能性がありますね。
あとは何かあります?
ちょっとランチョーつながりなんですけど、ランチョーの主張がわかるんだけど、テスト盗むのはやりすぎです。
それ俺も言いたいんだけど、三馬化普通に裁かれるべき問題っていうね。
そうなのよ。
言ってることはわかるんだけど、教授の家にしょんべいしちゃダメだし、他人の結婚式で無線飲食しちゃダメだし、テストも盗んじゃダメだ。全部ダメだ。
青春の過ちっていうレベルを超えてるのよ。
ちょっとそこら辺の垣根の低さね。
なんかさ、わかるよ。大学生特有のさ、何でもできる感動。ちょっと犯罪地区のことやっちゃったりもするじゃない。
よく聞く話だとさ、10代でお酒をたちなんでみたりとかさ、煙草吸ってみたりとかさ、海岸で花火して怒られてみたりとかさ。
よく聞きますね。
よく聞くじゃない。神奈川県民だったら。鎌倉でちょっとはっちゃけるのが神奈川県民の誇りみたいな言い出もいたしさ。知らんけど。
はい。
でもまだそれが可愛く見えるよ、俺は。
まあ、そうね。やっぱりね、我々も昭和生まれですから、20になる前にお酒飲むのが当たり前みたいなことを言ってる大人に育てられてますからね。
多分大体の人が20代迎える前にお酒を口にしてると思うんですけど、多分その20代行くまでにお酒飲んだ方々を一斉に集めて、はい、じゃあ教授の家にしょんべんしたことある人って聞いたときに手が挙がる確率がかなり低いと思いますね。
きっそーだよね。だって日本で言えばだよ、日本の有名な大学の学長の家でしょ。神奈川県で言ったらですよ、横市か横国か、もしくは慶応の学長の家に忍び込んでしょんべんまき散らした上に学長の家のテストを盗んでくる。
すごいよね。
すごいよね。
やっていいことと悪いことってあるよね。
ちょっとね、おいたが過ぎるのよ。普通に犯罪。
まあでも、創作だから。創作の世界で何があったって許されるよね。でもね、この辺もなんか一つ時代というか、なんかあれもあるのかなっていうふうに思ったのは、普通に家知ってるっていうのも面白いよねっていう。
え、そうなの?
先生の家なんて知らなくなかった。
え、俺大学の学長、家知ってたよ。
なんで?
すげえ近くにあったから。
それはたまたまじゃん。
だから、しょんべんをかけたことないけど、「爆皮絞り取りやがってー!」みたいなことを近くで騒いでたことあります。
あ、そうなんだ。いやなんかさ、俺が子供の頃、幼稚園児ぐらいの頃は、幼稚園の先生の家にみんなお呼ばれしていくとか。
ああ。
線引きの無さみたいなのがまだちょっと残ってたと思うんですよね。でもそれがもう本当にぐわーっとなくなってったじゃない。
でも確かに僕らの時代、僕らのもっと前の時代とかだと、大学の先生の教授の家にお呼ばれみたいなさ。
そうね。
なんかそういうのもよくあった話らしいじゃん。
そうですね。
知らんけど。
なんかファッション雑誌とかでなんかちょっとネットで叩かれてなかった。
ああ、なんかあったね。
教授の家にお呼ばれこうでみたいな。それ大丈夫みたいな感じになってたけど、まあなんかあったんでしょうねみたいな感じで。
あったんでしょうね。たぶんね。
だからなんかその辺もちょっとこうインドと日本っていうのを比べたときに、いわゆるその社会の中で批判とされているような認識のグラデーションを感じることができてちょっと面白かったなっていうふうにも思いましたね。
でもう一個僕からはタイトルですけど、まあきっとうまくいくもいいねっていう。
まあそうだね。
でも現代も好きだなと。
3 Idiots。
ね、三バカですからね。いいじゃないですか三バカ。
三バカのさ、なんとなくなんだけど、それこそドリフとかさ、釣りバカとかの影響で、三バカっていう言葉のニュアンスが、たぶん日本の感覚の三バカっていう感じと、この映画の三バカっていうのがちょっと合わなかったんだろうなっていうのはちょっと思った。
そうかな。俺全然がっつりだと思って。むしろなんか、ようこの三バカのイメージがドンピシャで、インド人だったらこういう三バカだろうなっていうイメージで、なおかつタイトルが三バカってすげえ偶然だなと思ったというか。文化のリンクを感じて感動したんですけど。こんなもんじゃない?三バカっていわゆる。
でも言うてさ、バカやってんのランチョーだけじゃん。 ランチョーだけじゃないじゃん。ラージュがだって教授の家にしょんべいしてるじゃん。
その辺はやばいけど、率先してずっとバカをやり続けてんのランチョーだけじゃん。
でもそんなもんじゃない?ずっこけ三人組だって三バカって言えちゃうじゃん。それぞれ別にそんなバカでもないけど。
博士はすげえ頭悪かったんじゃなかったっけ? 博士は頭いい。物知りで。でも勉強できなかった気がする。物は知ってるけど、なんかわかんないけどね。
確かにそう考えると、いつも厄介事を持ち込むのは八兵衛だもんね。 そうそうそう。で、もーちゃん気は優しいけど運動できないって。
でもなんかこう、三バカってだから相性的なものもあるよねっていう感じだよね。そこにその呼び名に別に本当にクソ腹立つバカどもっていうことじゃないよねっていう。
あいつらまたやってるなっていう。 そうそうそう。全男子が憧れるやつね。
俺も三バカになりてーって思ったな。 そうかい? うん。けどやっぱ圧倒的に頭が良すぎてバカって呼ばれるのがすごい難しかった。
本日はここまで。俺に出ーろ。 はい、ということで。でもね、真面目なジャブが一個あって。
マジジャブね。 そう、マジジャブね。最近本当にさ、ネットとかでも多分文字にすると凍結とかされるからかわかんないけど、
やっぱぼかした書き方をするようになったし、そういう描写があるとある映像作品は必ずオープニングで一言言われを入れなきゃいけないみたいなルール化されてるかわかんないんだけれども、
自殺に関する描写、昨今やっぱり特にそういうのが言葉も含めてね、扱いがすごいデリケートになって、直接的に描くことがあんまりないんだよね。
で、本作はド直球だよねっていう。 ド直球だし、生々あっこが本当に多分この映画の雰囲気にそぐわないぐらい、多分監督めちゃめちゃ真面目に描いたよね。
そうね。ジョイなんかも本当にまんま映るし、首吊って死んじゃうんだけど、ラージュも全力で落ちるしね。あの辺なんかすごい生々しいんだけれども、僕はあれは正解なんだろうなとは思うんだよね。
僕はだから別に、実際に本当に死か生かっていうところで揺れ動いているソードウッズの間でものすごい揺れ動いてしまっている方々が、そういう文字だったり映像を見てしてはならないね、選択に一気にバタッと傾いていってしまうことがあったらよくないなっていうことには共鳴するんですよ、別に。
だから別に映像作品の前にこういう時にはこういう道がありますよ、この作品にはこういう刺激の強い描写がありますよって断りを入れる分には全然問題ないとは思うんだけれども、ただやっぱり映さなくては伝わらないものもあるということはやっぱり持っておきたくて。
やっぱりああいうことが起きて周りの人がどういうリアクションになっていくのか、その選択はいったい自分だったり周囲にどんな影響をもたらすのかみたいなことを具体的にイメージさせる、イメージすることによってかえって踏みとどまれる人もいるかもしれないし、何よりそういう苦しみの中にいる人がいるんだっていうことを見てようやく実感ができるっていう人もいると思うんだよね。
で結局自分の人生しか実体験ないわけだから、それは辛くても頑張るんで、そうやって戦っていくんで、そうやって自分たちは成功をつかんできたんだからお前もできるって言って、やっぱり何の悪気もなく言えてしまう人はいっぱいいるから、それも一つの真理ではあるんだけれども、でも人それぞれにまた違う真理があってあるんだぜっていうことは、やっぱりこうどこかできっついておきたいなというふうに思った時に
映像による仮想現実における追体験みたいなものってすごく効果あると思ってるから、僕は全くぼかすことのない全力真っ正面の描写2つも入っておきましたが、全然ありだなというか、だからこそなんかこう、なんていうの、気楽に笑って生きていこうぜっていうパーッとしたメッセージではなく、
もうちょっと本質的なところまで踏み込んだ、何を持ってオールイズウェルというのかみたいな、そんなところまでグッと深く伝えてくれたなって気がしたんで、そこはすごく良かったなと思ったシーンでもありましたという話です
そうね、本当に多分インドでも日本でもかなり自殺の人数っていうのは年々上がってきてるしさ、おそらくインドの方でも、詳しい事情はよく知らんけども、同じように問題になってきているっていうところがあるんだろうなと思うと、
やっぱそこを問題提起するために、日本でよく壊れる手法としてはさ、そういうシーンになった瞬間花びらがポロッと落ちるとかさ、花弁ごとゴトッと落ちるとかって、みたいな、あるいはロウソクの火がフッと消えるとかさ
そうだね、ゲームワークとかさ 楊 そう、そっちのイメージは、なんかその花弁、お花がその根元ごと落ちるのって、高橋留美子作品では女性がね、そういうボケの時によく使われるんで、ちょっとピンとこなかった逆に、ルーミックのせいでちょっとよくわからなくなっちゃいました
ちょっと高橋留美子の良くない面を 楊 そうですね、ランマとかでよくあったような気がします 樋口そうそうそうなの、確かに
楊 でもそうね、確かにそういうイメージカットによってぼかしていくっていうことだよね ぼかしていくっていう、まあその手法はその手法でさ、全然アリだと思うし、それによってこの、なんていうんだろうな、死が美しく彩られるっていうかさ
っていう側面ももちろんあるし、それはそれで作品のしての完成度だったりとかっていうところはいろいろ良いこともいっぱいあるんだろうけど、でも反面そういうのじゃなきゃダメってするのもまた歪みだよね 楊そうだね
楊 描写のうちの一つであってほしいね、それはなんかちょっと感じましたね そうね、僕あと一個だけしかないんですけど、さっき言ったオールイズウェルなんですけど、初見で見たときね、マジで聞き取れなくて、ヒンドゥ語のなんかおまじないなんだと思ってた
楊 ああ、わからなくもない、っていうのもそもそもオールイズウェルだからね、あれあの音楽としても出てるけど、あのスペルも違いますから え、そうだな
楊 アイゼットゼット、W.E.L.L.ですよ ええ 楊 インドの鉛、俺もなんかちょっと気になったから調べたんですけど、なんかわかんないですよ、ソースが不明だから、そのイギリス統治時代のインドで夜景が街を見回りながら唱えていた言葉
なるほど 楊 日の用心的な感じで、全部大丈夫つって言ってたのが、そのまあその強い鉛でもうアーリーズウェルになったという感じのようですけど、わかんないソースがわからないので本当かどうか知りませんが
まあオーケーみたいなもんだよね 楊 まあそうね 日本軍がオールクリアを聞き間違えた説っていうのがあるらしいですけど 楊 日本軍が?
え、違った? 楊 いやもっと前からオーケーある、多分イギリスだししかもオーケー書誌だったと思いますけど
日本がどうのって聞いたことあるの? 楊 アメリカで流行したつづりをわざと間違えるっていう
オールコレクトなのか 楊 そうそうオールコレクト 1839年、映画が出る100年前ですね
楊 はい、とまあそんなわけで、アールイズウェルっていう、ある意味では完全におまじない化してるってことでね
楊 オーケーいくよーっていうのがおまじない化したということです あの歌のシーンさ、好きすぎるのよね、私
楊 へえ すごく好き
楊 へえ あのお風呂入ってわちゃわちゃしてみたいなさ 楊 はいはい
楊 楽しそうだよね 大学生の男がやるさ、楽しい部分もさ、ギュッと多分
なんだ、そこそこ大学生活楽しんだ男たちだったら、男の大学生の時のわちゃわちゃ感これだよねっていう感じだよね
楊 まさにホモソーシャルノリですよね そうそうそうそう
なんか同じことはやったことないけど、でもこのノリわかるっていうノスタルジーが浸かれる
そんなシーンでした 楊 俺はどの曲が好きかな、あの女の子と踊ってるやつ好きだけどね
シュビドゥビシュビドゥビダランダン 楊 そうそうそう
シュビドゥビダランダン シュビドゥビドゥビドゥビダランダン シュビドゥビダランダン
楊 超好きやる、テンションたっかってなるよね、すげえテンションとも、もうほんとにやっぱああいう、なんていうのかななんか
楊 本当にもうなんか全部なんでもいいやって思えてくるというか、底抜けに明るいってすごくいいことなんだなって思いましたもん僕は
いやもう確かに確かに 楊 そう、なんだろうな、なんか別に向こうも別にウケを狙ってるわけじゃなくて
楊 ただ明るいんだなっていう、でもそのただ明るいっていうその強いエネルギーに自分も押されてちょっと明るくなれるんだなっていう
確かにね 楊 そこにねちょっと驚かされましたね、そういう効果ってやっぱあるんだなっていうふうに思いました
楊 じゃあ最後のジャブいいですか お願いします
楊 っていうのもやっぱ俺もやっぱ気になっちゃって、主演のアーミルカーンの年齢調べたんですよ これ撮影当時44歳です
ちょっときついね 楊 そう、ちょっとさすがにねっていうふうには思いましたけどね、でもなんかこうやっぱ体の動きで
若さを出していくというか なんかこう
幼さみたいなものをちょっと表現している、まぁそこらへんの手腕にはやっぱり結構おって思いましたけど
でも44でようやったわと まあしかも今パッと調べたけどやっぱり教育制度は日本とそんな変わんないみたいだから
18歳以上で18から21歳頃が大学生らしいよね 20歳以上も若いのってすごいよね 楊 すごいよねやっぱね
すごいね 楊 だからやっぱねやっぱすごいんでしょうねっていうそこらへんは
上手なんでしょうねって気がしますよ いや彼はねいろんな映画見たけどねすごく良かった本当に
楊 なんかミステリアスだよねでもねなんかすごいねあの 名の感じとなんかさあの
きっとうまくいくにあやかってタイトリングしたさ きっと強くなるみたいなさ
映画あるんだよ レスリングの女の子2人の父親をアーミリカンがやってるんでね
はいはいはいはい 楊 でめっちゃスパルタ教育で強くして
実際にまあ実績上げていくことになるんだけど まあみたいな
でも本当にすげー怖い親父に見えるよねっていう しかもバルクやべえな 楊 やべえのよ本当に
インド人の強い人っていう感じだもんね 楊 そうだから今回は逆に大学生を演じるために
体絞るために1日4リットル水飲んでたらしい すごいっすねーって
さすがランチョウでございます企画外の企画外の人間でしたということで じゃあねまあそんな彼の演技力しかりですね
いろんなものに助けられた結果見事にね インド映画として
ものすごい大ヒットを記録した作品ですけれども 今回はこいつを題材にですねちょっと各自バチッとはめていきたいんですが
驚くべきことにねもう50分経ってんのね これさ一応1時間でなんとかするみたいなさ
伸びても1時間半みたいな話があったんだけど これなんか2時間いくねこれ
いやなんかね最近のね傾向をねちょっとあの自分なりに分析した結果 最近ねあの冒頭の話がそこそこ長くて
だいたいね17分から20分くらい喋ってるんだよもう冒頭で でそっからあのだいたい30分近く
ドブについて話すから 本編入り始める時にはもう50分以上からスタートしてるっていうね
前はもうちょっとコンパクトに5分5分とかさ 5分10分とかだったんだけど最近なんかもうやっぱりね話したいことがどんどん多くなりすぎる傾向がありますね
で多分もうこれで力尽きてインターミッション取らないので もう見えてますから
ブーブー言ってますけどはいじゃあえっとどっちから行こうか じゃあ今日は僕からじゃあお願いします
ブーブー じゃあ行きますよはいおねがいします
何それ一応あのウィンドー日ですから 映画きっとうまくいく基礎研究と応用研究
2人が再び交差するときそこに愛が生まれるの仮説 もうなんかわかりやすくふざけてきたね
ブーブー タイトリングでわかりやすくふざけてきましたけどもはいどんなそうでしょうね
まあこの映画ってさまぁだいたいなんかこう ブログとかねいろんなやつ見たんですけどもだいたい語られ方が大抵決まってるんだよね
ブーブー言っ 学歴中芸のアンチテーゼーとかさこの自由な学びの大切さみたいな
ブーブー言っ 読み方だけしていくとどうしてもちょっと説明できない部分中のが出てきて
ブーブー言っ 通称ウイルスと呼ばれたあの校長なんですけどね
映画の中ではねずっとこの対立する立場っていうところにいるんだけれども 僕あの人ね割と嫌いじゃないのね
ブーブー言っ なんかねー
ただの悪者にするにはもったいないなっていうのがなんかずっと思ってて で今日はこの映画をねその基礎研究と応用研究の会
関係を描いたグーはとして読んでみたらもう少し校長の価値っちゅうのが上がってくれるん じゃないかなという
そういうことを 話してみたいと思います
ブーバー校長最評価説ということね そうねはい
ブーブー言っ もういいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
ブーブー言っ
えーとまずねちょっと映画の話をする前に少しだけちょっと背景の話をちょっとさせて もらいたいんだけども
まず基礎研究と応用研究って言葉があってまぁ研究者の人たちには多分おなじみの区分け何 ですけれども
意外と一般にはなんとなく知ってるけど 具体的にはっていうような感じのもんだけども
なのでちょっと整理させてもらいたいんだけども
基礎研究っていうのは すぐに役立つかどうかっていうよりかも
そもそもなんでこれが起きてんのとか どういう条件で成り立ってんのとか
どこまでが普遍で どこからが例外デッキなのかとかっていうような
そういうなんか根っこを掘るような 意図になってます
何だろうな DNAの螺旋構造の発見とか
量子力学のMイコールMR MR理論
イコールMC事情
そうそうそう それとかね
そういう基礎理論の確立とかっていうようなところなんだけれども
ああいうのって結構発見した当初は で なんでそれが役に立つのとかっていう話になったんだけど
でも後々になって ゲノム解析になったりとか
半導体になったりとか MRIになったりとかっていう
土台になる知識っていうのは それはそれでそういうもんだっていうところだよね
一方応用研究っていうのが その知識をどうやって使っていくかとか
どういう現実の問題に解決をつなげるかっていう方向に向かう研究で
さっき言ったように DNAの診断に使おうとか
量子デバイスを作ってみようっていうような感じで
基礎で積み上げた知識を 実際の問題だったり 社会のニーズに接続していくっていうような
割と研究論とか 方法論だったりとか その論文とか あるいはニュースとか見て
わあかっけえな すごいねって言われるのは大体こっち
だからあれだよね 味の感じ方を調べるのが基礎研究で
うまいチャーハンの作り方を考えるのが応用研究ってこと
まあそういう理解で全然いいと思います
リスナーのために言ってんのよ
分かりやすいでしょこれ
分かりやすいと思う
だって味覚の知見がなければね うまいチャーハン作れませんからね
この2つっていうのは本来は繋がってないと困るんでね
基礎が積み上がってから応用が伸びていくし
応用で革新的なことをやったからこそ
この土台っていうのの基礎を深めていくっていう
そういう循環がずっとあるはずなんでね
でも現実的にはこの2つって結構衝突することが多いんですよね
基礎研究やってる人は応用研究は発生なとか
そこ放ってもしょうがねえだろうみたいな
もうちょっとちゃんと基礎を理解しろよみたいなことを
言ったりすることもあるし
一方で応用研究側は基礎研究を
お前それやったから何の役に立つんだよみたいな
理論はわかったけどそれって何が変わるんですかみたいな
使えねえじゃんみたいなことを言ったりするっていうことも
たびたび起こってきて
どっちの言い分も分かる気もして
どっちが正しい問題じゃないっていうところなんだけれども
本当の問題っていうところはこの2つの接続が切れることだと思うのね
基礎を積み上げることっていうところと
それを動かして社会に届けることっていうのが
これがバラバラになったときに
じゃあ何に積み上げて応用研究するのかとか
何のために基礎をするのかっていうところが
どんどんまずい状況になっていく
だからここが
この映画でも同じような構造になっているんじゃないかな
っていうところで
これがきっとうまくいくの中にそのまま入ってくるんじゃないかと
思ったわけです
2人の人物を取り上げて
今差しがつくと思うんですけど校長と蘭長なんですね
その2人なんだ
校長と蘭長なんですよ
ラジュのお母さんとラジュのお父さんかと思った
それはオクラの話にしかならないから
オクラが3ルピーか2ルピーかみたいな
そういう話にしかならないからダメです
お父さんの胸蹴り
あそこにオクラついてるかもしれない
はいすいません
校長と蘭長
校長と蘭長
おるいね
まず最初に言っておきたいんだけども
今回出してきた例っていうのは
あくまで比喩として重なる意味だから
校長イコール基礎研究
蘭長イコール応用研究者っていうきれいな1対1ではない
っていうところは一応断っておきます
だけど知識に対する態度として見ると
重なる部分が出てくると
校長に関しては何を大事にしているかっていうと
どっちの体系であったり
蓄積であったりとか継承することだったりとか
あるいは厳格さとか
っていうところを非常に大事にしていて
彼が学生に求めているのは
知識を覚えろっていうのだけじゃなくて
知識がどういう経緯を積み上がってきたのか
ちゃんと理解しろとか
問題を解くにはどういう手続きをしなきゃいけないんだ
っていうところをしっかりずっと学生に求めてきていると
校長は自分が学生時代どんだけ努力してきて
ここまできたかっていうのをいろいろ語るシーンがあるって
あれ結構自慢話みたいなシーンになってくるし
その後でちょっとコケにされるから
なんか笑い話になっちゃうんだけれども
だけどもあれってものすごく実は大事だと僕は思っていて
到達することの困難さの重みを知っているっていう
非常に校長のパーソナリティの部分を語る
非常に重要なシーンだと思うんですよね
そうかすると彼にとって学問とか技術っていうのは
積み上げる時間と労力の中に非常に価値があるっていう
パーソナリティを持っている人だと
一方で団長は何を大事にしているかというと
地をどうやって生かすかとか
運営していくかっていうことだと思うんで
問題が目の前にあって
すでに問題を持っている知識を組み合わせて
現実の答えを出すと
それはなぜ機能するのかっていう説明よりも
実際に何で機能しているかっていうところを
確証を得ていくことを優先していく
だからこれが応用の趣向そのものになってくると
一番最初の方のシーンで団長が教授の質問に対して
まったくの角度から質問を答えて
それが機能するみたいな場面があるんだけども
本のシーン
本のシーンね
だからあれがまさに
教科書上で書いていることを
無意味だからもっとシンプルでいいんじゃないかっていう
知能を動かす側の人間の発想そのものだなと思っております
ここで大事なんですけども
二人の対決で古い権威vs自由な若者って
大変な構造だけじゃなくって
地の軌跡と継承を守ろうとしている人間と
知識というのを現実に接続しようとしている人間の
衝突として見えてくるわけさ
だからどっちが正しいかっていうのではなくて
どっちも必要なのに何でこんなにぶつかるのか
っていう問いとして見たときに
この映画はちょっと違う顔を見せてくるんじゃないかなと
もうちょっとだけ校長を掘り下げたいんですけども
この映画を見ていると校長分かりやすく厄介な権威
っていうふうに描かれて団長たちに邪魔して
融通が効かないおっさんっていう感じになってくるんだけども
でも彼の持っている理念自体は非常に空虚ではなくて
実態をしっかり持っているものと
彼は学問は厳しいもんだってよく言うんですけれども
しかも簡単に到達できるものじゃなくて
技術に背景があって
その背景を知らずに応用するのは危険だ
みたいなことも言ったりもする
でもこれって本当に正しいことっていうか
研究者として非常に重要なことを言ってるなと思っていて
基礎を理解せずに応用だけ追いかけると
絶対どっかで壁に当たる
その時に絶対基礎を知らないままやるから
やってしまうと
なんかまあ分かんないけど
できるからできるんだよっていうのを繰り返していると
機能しなくなった時に何もできなくなっちゃう
そのことを彼は知っているからこそ
しっかり積み上げていくことの大事さっていうことを
教育としてやってた
だから間違った人というよりかは
すごく真っ当な教育者だったと思うんですよね
信念があって理念があって
学問の重さっていうものを本気でちゃんと持っている人
ただその理念がどういう形で運用しているかっていうのが
致命的に下手くそになった人
彼がどう教育していくかっていうと
その厳格さの経緯っていうところが競争だったりとか
あるいは画一的な問題の出し方だったりとか
その答え方っていうところに降りていく
だからそれをやってしまうからこそ
ランチョウみたいな人が出てきた時に
じゃあ基礎の大事さって何?っていう教育をできなかったからこそ
あの二人の構図が生まれてしまったのかと
だからその理念は本物だけど使い方が間違った
でもそうやってみると校長ってただの悪役じゃなくて
校長が持っているすごく研究者だったり技術者として大事なもの
そしてそれを学生に伝えたかったものっていうものが
学生に対しては恐怖と競争として降ってくるから悪役になっちゃってたと
ラストに近いところで
校長がランチョウにボールペンを渡すシーンがあるっていうところなんですけども
あれを単純な対立構図として見ると
校長が敗北を認めたとか
あるいは古い権威が新しい自由に克服したみたいな
読み方ができると思うんですけれども
僕はそうじゃないと思っていて
あのシーンで一番大事だったっていうのは
ペンを渡す前の部分で
ランチョウが一番最初の方で
鉛筆使えばいいじゃんってランチョウが言ってるんですけれども
宇宙空間はボールペンが描けないから鉛筆でいいんじゃないか
みたいなことをランチョウが言ってたんですよね
そこで校長はその時には答えられなかった
よく知らなかったからね
だけども鉛筆だと折れた黒鉛の粉が無重力して
目に入ったりとか電子機器に入り込むから
だから鉛筆使っちゃダメなんだみたいなことを
ちゃんと力説すると
だから対宇宙用のボールペンを作る技術者がいて
その鉛筆でダメだったことの積み重ねが
このボールペンを生み出したんだっていうことを
熱弁するシーンがあったのね
ランチョウはなんでそういう
鉛筆でいいじゃんっていうことを校長に問ったんだけども
校長は意外と真摯にそのなぜにちゃんと答えているんですよ
だからあの場面でランチョウの起点が勝って
それがずっと続いてたっていうことじゃなくて
校長の側にあった知識とか技術って背景がある
その条件を踏まえなければ
しっかり応用っていうのはできないよねっていう考え方が
ランチョウに届いた場面だと思うんですよ
だからこそあのシーンが僕すごく大事だと思ってて
なぜそうなのかっていうことを問うことができる
つまりランチョウになぜそうだったのかっていう
答えられる人間がちゃんと応答できたと
だからあのペンは勝利のトロフィーじゃなくて
知識の継承をしっかりしましょうよっていう
橋渡しのシーンだったのではないかなと
校長が長年持ってきた技術に背景があったりとか
積み重ねが必要だっていううちの態度っていうものを
ようやくランチョウという先端の人間に
受け取れる人が現れたぞっていう時に
校長ってすげえ頑張って頑張って
ずっと伝え続けたけれども
ようやく継承者っていうか
つなぐ人が現れたっていう
校長がやりたかった教育っていうのが
初めてうまくいったシーンって見ると
すげえあのシーンが感動的になってくる
この基礎研究と応用研究というところを
ちょっと引っ張り出してきたんだけれども
この映画で結局観客に何を言いたかったっていうところなんだけれども
ランチョウは映画の中でずっとエンジニアに関する
純粋な情熱を持ち続けて
何でそうなるのかっていうのを知りたがってるし
問いを持ってる
でも彼の問い方っていうのは
体系的に積み上がるっていうよりかは
目の前の問題に
何でどうすればどうなるかっていう
事象と結果事象と結果っていうようなタイプになってる
校長は体系と継承っていうのを守ってきたと
一番大事なのがどちらか一方でも
学問的知識っていうのは完成しないと
基礎だけでは知識っていうのはどんどん閉じていって
机上の空論になっていくし
応用だけでは知識っていうのは浅くなっていくし
どこかで絶対進まなくなる瞬間が出てくると
だからこの映画を本当に描いてるっていうのは
どちらかを勝たせることじゃないと思うんだよね
だから知識を深めて知識を生かす
その両方をどう繋ぐかっていうことを
問うてる映画なんじゃないかと
だからオールイズウェルっていう言葉が
映画の中で繰り返される
上手くいく大丈夫っていう意味で使われるんだけれども
あれって何もしなくても上手くいくじゃなくて
ちゃんと向き合って考えて繋げていけば
上手くいくっていう風な
そういう研究者としての
基礎的な心構えっていうところを
言葉になっているんじゃないかなと
だからその基礎と応用っていうところが
繋ぐことができたときに
初めて上手くいくんじゃないかなと思っている
だからそのタイトルで言うと
きっと上手くいくっていう
日本語のタイトルっていうのも
悪くねえんじゃんってちょっと思えるよね
なんだっけ落ちるか
何言おうと思ってたか忘れちゃったな
そうそうそうそう
この映画を改めて見直していったときに
誰が正しくて誰が間違ってたっていうよりかは
なぜか二人が違い続けて
交差した瞬間に
何があったのかっていう風なこと
お互いがお互いを否定するんじゃなくて
お互いがお互いの共通性であったりとか
必要性っていうものを感じることができたっていうところが
すごく大事だった映画なんではないかなと
それには蘭長というちょっと過激で
すげえじゃんって見える人にも
校長っていう積み上げていった人っていうのは
やっぱりすごく大事だったんじゃないかなと
これは勝手な僕の妄想になっちゃうんだけれども
蘭長が最後に教員になってるじゃないですか
小学校かなんかの
あれって
ある意味校長のリスペクトの赤い
だったんじゃないかなってちょっと思っていて
多分校長がちゃんと蘭長に継承しなかったら
蘭長はただの技術者と研究者になってて
教育の方には目を向けてなかったんじゃないかなと思うよね
あのペンを渡されて教育っていうものを引き継いだからこそ
基礎教育としてその低年齢の子たちに教えるっていうところから
最先端の技術も研究する研究者っていうその
基礎と応用を全く同じ場所でやるっていう結論に
たどり着いたんじゃないかなと思うと
実は校長ってめっちゃ大事な人だったんやって
思いたいなってそういう映画でしたという
なるほど
まあ別れなくもないんだけどね校長のスタンスもね
で彼自身が言ってる何が大事かっていうと大事なことは確かですけど
結局どこにねじれがあるかってやっぱり偏差値なんですよね
偏差値と競争絶対主義なんですよねそこなんだろうなって気がしますね
じゃあちょっとそこらへんを受けてですね
僕の方もお話をしたいんですけど
今ね校長の話にも一理あるよと
校長が重視しているものが一体何なのかっていうお話もあったので
そこの若干カプサなる部分はあるんですけど
僕の説こちらでございます
きっとうまくいく
国家の近代化だいたい同じルート説でございます
はい
ダンボール肉まんですか
ダンボール肉まんですか
いつの何の話してんだよ
だいぶ昔の中国の話
知ってますけど
知ってますけど
近代化と何の話があんねん
この映画を見ながら僕がずっと感じてるのが結局
違和感というか奇妙な懐かしさなんですね
それはすなわち受験戦争であったり詰め込み教育だったり
偏差地市場主義であったり
いい大学に入っていい会社に勤めてみたいな
そういう親からの期待だったりと
もろもろねそしてその重圧に耐えきれない人が出てきたりみたいな話が
これよう考えたらついこの間までというか
今現在も続いている日本の現状とはそこまで変わらんのじゃないかという
今でこそようやくなんていうのかな
子どもも減っていくっていう中で子どもたちにどうやって未来に期待を持たせて
しっかり社会で活躍してもらうかみたいな話が展開されるようになってきているので
おそらくは80年代90年代初頭あたりの温度感とは全然違う時代にはなったなというふうに思ってはいるんですよ
この作品はインドの今って言っても2000年代ですけどを描いた作品なんだけれども
結局それがかつての日本と重なるなっていうのは
それすなわち新興国であるインドの今っていうのが昔の日本に重なるのだとすれば
国家が近代化していくときにほぼ必ず通る共通のルートっていうものがあって
そのうちの一部がいわゆる子どもたちにストレスを強いるような
競争偏差主義なんじゃないのかというふうに感じたわけなんですよ
ちょっと今日喉の調子が悪いんであんまりしゃべれないんですけど
まず2009年の頃のインドって急速な経済成長を待っただ中今も現在も続きますけどね
人口も中国を抜いて最も多くなっていますけれども
2000年代のインドっていうのはIT産業を中心にして
平均年間8から9%GDPが成長していくっていうそういう状況だったそうです
映画に登場するICっていうのはこれ実在するIITインド工科大学をモデルにしているっぽくて
ここはですねインドは国策として設置した超エリート理工科大学なんですね
理工芸大学軍で国策っていうぐらいですから国で運営して
それで競争力のあるグローバルな人材を作り上げるための最優秀大学になっていくわけですが
入学試験としてJEEっていうのがあるらしいんですけれども
これが世界でも最も過酷な入試の一つとして知られていて
毎年100万人以上受験して合格率が2%です
この試験に合格するためにインド全土から若者がコタっていう都市に集まってきて
そこで入試するわけですけれども
この街はですね300以上の予備校が密集してます
そしてそこに毎年大量の学生が集まってくるという
ただ集まっているだけじゃなくてそこでずっと入試に向けてひたすら受験勉強をずっとし続けるわけですよ
まさに戦争なわけじゃないですか
わずか2%の合格率これを突破できたら未来が変わるわけですよ
そうだね
2024年に掲載された論文があるんですけど保健師に
そこに載っている情報として
2023年だけでコタ
さっき言ったねその予備校がいつも集まっているJEEの都市なんですけれども
ここでコタだけで29人の学生が自殺をしていると
2011年以降累計で120人以上
インド全土では2022年に学生の自殺者は1万3000人
1時間に1人以上の学生が命を絶っているという
そんなことが起きてしまったわけなんですね
だから変な話映画の中で学生になったジョイロボがですね死んでしまうという
ジョイ死んでるよというのにドローンで気づくっていうくだりがありましたけれども
でまたラージュもそうですね
いずれも校長に追い詰められてみたいなところはありましたけれども
事実上ですね要するに勉強で競争に勝てないという現状について
それを受け入れられないあるいはそこから抜け出す方法がわからないというところで
師を選んでしまうっていうのは
これインドの大学内所は受験接続の中で日常的に起きていることであるということを
まず理解しておかないといけないと
それを考えると1980年代の日本とだいぶ重なるなって気がするんですよね
60年代の高度経済成長から結局僕らが生まれる80年代に至るまでにですね
日本では良い大学に入って良い企業に勤めてっていう神話ができるわけですよ
そうすると結局学力偏差値による勝負が始まって
それを予備校が煽って予備校で勉強して学校で成績を取るみたいな
入試で絶対に他を蹴落とすっていうふうなそんな世界観が展開されていって
いやそんなのついていけないよっていう他のところにタレントがあるのにっていう子たちは
どんどんどんどんこうすさんでいってね
いわゆる校内暴力の問題だとかいじめの顕在化みたいなものが出てくるのが
だいたい80年代以降になってくると
いじめ自殺みたいのが結局議論の土俵に上がってくるのも
80年代後半あたりになってくるんだけれども
要するに日本も結局いわゆる急激な経済成長とともに
教育っていうものを過度な競争の中でですね
エリートを作っていくみたいなそんな国策の中で
結果としてたくさんの自殺者を生み出してしまっていた
これ完全にインドの2009年代と重なりますよねっていう
そこら辺で考えてみると割とやっぱり韓国なんかも受験大国で知られていて
これなんかもう有名な話ですけれども
受験の日にはね遅刻する受験生のためにパトカーが出動するとか
なんかバイクに乗って白梅に乗って受験会場に行くとかって
リスニング試験の時間帯や飛行機の離着陸が制限されるとか
マジかよって思いますけどマジなんですよね
なんでかっつったら結局試験の結果が結局人生を決めちゃうからなんですよ
いい大学に入ったという実績のためだったら
もう本当に命もあって本当に賭けかねないというのが
この韓国の現状だったりするわけですね
結局インドも日本も韓国も地理的にも文化的にも違うんだけれども
なぜかしらそこら辺の教育に関する変革と子どもたちに与えるプレッシャーみたいなものが
ある一定の間隔でちょっと重なるなっていうふうに見えてくる
要するにですねこれって結局のところ
世界の仕組みってそういうふうにできてるからとしか言いようがないんじゃないのかなっていうふうに思うんですね
つまりですね
いわゆる伝統的な社会があるわけじゃないですか
昔から守られてきた生活様式みたいな中で
子どもっていうものが子どもとしてじゃなくてただのミニ大人ですね
ミニ人間として扱われて仕事を覚えてそのコミュニティの存続に寄与するっていうふうな世界から
徐々にですね近代化を進めていく上では
必ず投資先の一つに教育っていうのが入ってきて
優秀な人材育成をするために教育をするっていう構図に切り替わっていく
単純にそのコミュニティ存続のために必要な仕事を覚えたら大人になれるじゃなくて
その教育でもって競争させられてその教育の中で高成績を収めた者のみが成功者と呼ばれっていうふうな
そういう構図っていうものが必ず近代化の一プロセスとしてやっぱり出てきてしまっていると
だからやっぱりそういう傾向が出てくるんじゃないの
さらに言えば結局その形で成功した人たちは今度は社会のシステムを作る側に回るんだよね
そうすると彼らは結局その環境で生き抜いてきた自分自身をモデルにして考えていくわけだから
結果その構図っていうものが社会の実態とはかけ離れた形で維持されていってしまう
つまりはいいじゃないかと落ちこぼれが言ったところで
落ちこぼれども落ちこぼれども
でも我々の教育によって優秀な人材は育成されその優秀な人材が次をつないでくれるんだっていうふうに考えられてしまうと
結局取りこぼしていかれた子供たちっていうものは全く拾い上げられるような機会を得ることがないっていうのが
最も大きな問題なんじゃないのかなというふうに思うわけですね
何よりね特にインドがここにおいて非常に難しいのは
いわゆるですね階級社会っていうものがどでかく残ってるからですね
インドはヒンドゥ教が大きいもちろん最近イスラムも増えてきてるんですけれども
もともとヒンドゥ教の場所ですね
カーストがあるわけです
ヴァイシャ、シュードラ、クシャトリアとかバラモンとかいろいろいるわけですけれども
結局非冷俗、冷俗階級にいる人たちっていうものは
基本やっぱりずっとそこから抜け出すことはできないんですよ
ブリルが言った文化資本、キャピタルカルチャー
っていう概念っていうのは結局教育と階級の関係性っていうものに言ってて
要するに機械の平等が全く保証されないですよねっていう
教育っていうのは本来それを保証するためにあるんだけれども
実はその逆に機能してしまっていて
結局教育で成功するために必要な知識や態度や振る舞い
言葉遣いあるいは読書習慣みたいな
そういう基礎的な力を身につけるためのものっていうのは
家庭環境を通してすでに作り上げられてしまっている
上流階級たちが結局それらをずっとある意味では独占してしまってるんだよね
仮想にいる人たちっていうのはそもそも家庭環境
生まれてからある程度教育を受けて
それらを吸収するに耐えうるような
基礎的な力っていうものを結局育てることができないような環境にいるから
結果的に誰にでも開かれているはずの
誰にでも同じ条件で開かれた試験っていうものが
結果その生まれてその時に持っていたものの差によって
大きく離されてしまう
実質的にはその上流階級にいる人たちが
有利な形で設計されてしまうっていう風な
大きな問題っていうのをやっぱり抱えている
そう考えると結局ラージュなんか特にそうだけれども
家庭側の状況でどうやって他の人たちと
同じだけの力を発揮できようかっていう風な問題もあって
でもそういうところを結局見ないのが
競争社会の受験戦争なんですよ
開かれてるじゃないですか同じ条件じゃないです
同じ日に同じ時間で同じ条件で同じように試験やってんだから
それで結果が出なかったら君らの責任じゃないですかと
こっちは公平にやってるんだからっていう世界なんですよね
一体何をもって公平とするのかっていうお話であって
たった一回の閉域試験で一体何が分かるんだっていう話に
しかならないはずなんだけれども
いや完全に条件揃えてるんだからっていう風に
言ってしまうっていうのがこのいわゆる受験絶対主義の
怖いところだなという風に思うわけです
やっぱりその辺でどうにかならんのかなっていう風に
すごく見ながら思っていたんだけれども
ウイルスもすごく思想的には子どもたちに
より良くなってほしいし
ある種自分が勝ち抜いていきたい世界の中での
ものの見方考え方っていうのを
ついで言ってほしいって思えば確かに間違ってはないのかもしれないんだけれども
彼の一番の問題は結局その思想が勝つこと
負けないことっていう結果のところに固執してしまっている
そしてその結果偏差値市場主義
偏差値によって子どもたちの序列をつけるために
試験を受けさせるっていう試験の仕組みに
自分の身を置いているってことですね
だから結局彼が言っている基礎的なこと
教科書に載っていることをしっかり覚えるんだっていうことも
全然間違いではないんだけれども
結果的にそれが何のためのテストなのかっていうのを
一番見失ってしまっているのはウイルス自身なんだよね
結局その辺りをちゃんと組んだ上でですね
やっぱり校長を批判していかないといけないという気がするので
だからオーマーが言っていることも本当に正しいなというふうには思いました
で有名な心理事件の弟子がいますね
エドワード弟子とリチャードライアンの自己決定理論
報酬依存型の人間の反応みたいなあれですけれども
有名なのがパズルの実験で
パズルを一個解くごとに1ドルの報酬が与えられるグループと
全く報酬が与えられないグループと分けてひたすらやらせるんですね
片方には報酬をあげていくともう片方にあげないと
結果ですよ報酬を与えられたグループには
報酬がなくなったとたんにパズルへの興味を失います
もうちょっと報酬なくなっちゃったんで
って言われたらもうパズルやらない
報酬なしのグループは結局ずっと自由時間にすらもパズルを解き続ける
それは一体何かって言ったら目的がそもそもすり替わってないからですね
いわゆる報酬っていうものが与えられると結局その報酬って目的化してしまうから
そこが一番の問題でだからランチョンが繰り返し言っていることっていうのも
おそらくは本当はそこなんだよねその閉鎖中で勝つためにやってるわけじゃない
結果はそこじゃないと
学ぶ意義っていうものは学んだことによって生き方をより良くする人から感謝をされるだとか
そういうことにこそ目的を持っていれば学ぶことをやめることはないよねっていう話なんだよね
そういうところをしっかりと組みながら見ていきたい映画だなというふうには思いました
そう考えるとランチョンが言ってることっていうのは一貫して学びを楽しむことっていうふうな視点であって
それも間違いじゃないよねっていう
結局一番大事なのは多分大間もそういうことを言おうとしてるんだと思うんだけれども
別に校長の意見とランチョンの意見は別に相反してるわけじゃないんですよ
要はランチョンのように学ぶことを楽しみながら
ありとあらゆる社会的な事象と教科書にあることを組み合わせて見ていったら
結果的に教科書を調べなければならない場面も出てくるし
その中で新たな知識が生まれて自分の思いつきが実現可能かどうかを分析したりだとか
あるいは自分が計画していたことをどういうふうに修正すべきなのかだとか
そんなことをいろいろと考えられるようになっていくわけで
結局両立ができてしまう何の問題もなく
でもそれが結局うまいこと描かれないっていうのは非常にもったいないなというふうには思っていて
だからその辺をちょっと目をつぶってやれば
僕はすごくずっと楽しい作品だったなというふうには思って見てました
したがってとりあえず言っておきたいのは
結局近代化の中で教育に力を入れていく
より豊かな国にしていくために子どもたちが何を学ぶかを精査する必要がある
その中で結果につなげていくために競争主義っていうものを取り入れていく
いずれも全くの間違いというわけではないとは思うんだけれども
結果的にそれが子どもたちのために本当になったのかどうかの検証っていうものは忘れてはならないと
子どもたちは別にあれじゃないからモルモットじゃないので
彼らは彼らでその一瞬しかない人生の一瞬一瞬をすごく大事にしてるわけじゃないですか
二度と来ない一瞬を積み重ねて少年時代を過ごしてるわけじゃないですか
だから結局その教育的な方針っていうものが一定程度子どもたちのためになっていてくれないと困るんだけれども
結局近代化の時には国家のため国家の繁栄のためっていうところに結局
守護がドスッと置かれるからいつの間にか子どもがない場所になるというか
使い捨てのようにねいい奴だけ来いよと
そうじゃない子たちは別にもう縁がなかったんでさよならみたいな風な態度になってしまう原因はそこにあるのかなというふうには思っているので
だとしたらこれから先繁栄し得る可能性がある国家にお住まいの方々は