これを見た当時の人たちがトラと初めてこの作品を通して出会ったかというと、実はそうではない。
テレビシリーズがあったの?
そうなんです。もともとテレビシリーズで人気を博したキャラクターなんですね。
ただ、第一作と最終話以外はもう二度と見ることができないんですね。
そうなの?
フジテレビで放送されたんですけれども、まだ当時はフィルムが高価であったこと、
あとはテレビ放送の映像作品の映像そのものがどれだけの価値があるかというところがまだ共通理解されていない時代ですので、
アーカイブをするという、そういう価値観がないんですよね。
だから第一作と最終話以外の2話からこっちはですね、全部他の作品撮影するために上書きされちゃったんですよ。
知ってきたところじゃなくて、もう上書きだそうなんだ。
だからもう分かってやってると。
放送終わったから。
じゃあもう、光塚が買い取って誰が持ってるか分かんないとか。
じゃないです。
そういうんじゃなくて、もう一緒っていう流れですね。
なんぼなんだよな。
そういう時代なんよ。まだフィルムそのものの価値みたいな話じゃないんですよ。
むしろ新しい作品撮るのに新しくフィルム買うのちょっと高価だからっていうので、
すでに撮影した作品のフィルムを上書きしてしまうみたいなことが全然あった時代らしいですね。
1話と最終話はまだ残ってるようなので、映像アーカイブとして楽しむことはできるらしいんですけれども、
その最終話でトラさんが一攫千金を読むみたいなハブをですね、捕まえに行って噛まれて死ぬっていうエンディングなんですよ。
これに対してですね、視聴者がブチギレたらしいですね。
でしょうね。
すごいのはだから、なんでトラを殺したんだっていうクレーム電話がテレビ局にたくさんかかっていたと。
すでにこの男は辛いシリーズでよく言われる、さっき僕も言いましたけれども、自分たちも家族の一員であるかのようにっていう風な構図が、
実はもうテレビ作品の時点でできてたわけなんですよね。
なんでトラを殺すんだっていう、そこに対する怒りみたいなものがクレームとしてかかってくる中で、
監督の山田洋次監督はこれは映画として作っていけると踏んで、ちょっと交渉をして映画制作に移っていったと。
まだだから、銀幕のスターとテレビ俳優だったりテレビ作品、テレビ作品と映画っていうところはまだ交わらないような時代ですよ。
まあ本当に明確にね、映画は一流、テレビは二流みたいなさ、そういう価値観ってやっぱあるじゃない。
それってバックトゥーザフューチャーの時にも言ったよね。
その講座は日本にもあったわけで、そういった中でテレビ番組でやったものを映画化して映画の中でもっかいそれを作っていくっていうのは、
今もうさ、多分そういうジレンマがそもそも働かないよね。
まあそうだね。ダメなものはダメ。
ダメなものはダメでしょっていう。そういう議論が生まれることすらないという。議論のせいにこっちじゃないっていうさ。
世の中に結構もうなっちゃってるから、だからこそそこらへんが結構ね、
昔はそうだったんだみたいな感じになっちゃうっていうのはありますよね。
だって結局はそのヤクザとかっていうのはさ、昔はその御前様じゃないけどもさ、
地域社会の朝廷役だったりとか、それこそ江戸時代ぐらいのレベルの話になっちゃうけどさ、
それはヤクザという家業でちゃんと社会が入っていることでもちゃんと社会が回るようなシステムになってたのか、
だんだんちょっとはみ出していく部分が大きくなって、今ではヤクザというと大変な人たちになってるけども、
時代とともに地場というものが変わっていくっていうのは大西はあるんだろうね。
ヤクザにも本当にいろいろあると思いますけれども、本当に虎みたいなね、殺しだ強盗だみたいなところではなくて、
汚いもので売りさばいてしょうもない小銭を稼いで生きていくしかない人たち、
そういう地域社会の枠の中に入りきれないものとしてのヤクザみたいなのも当たり前にいたんだよねっていう。
それをなんとなく解除させてくれるような映画になってるかなって思いますよね。
アフランはちょっと俺、いまいちあの時代の背景がよくわかってないんだけど、
あの時代って敵屋とああいう浪人みたいな人っていうのはまたちょっと別なの?
だから虎は、ここもちょっとあれだけどね、僕がこの後喋ることにも関わるかもしれないけど、
要は虎は究極のはみ出し者なわけですよね。
つまりその土地土地のどこかのヤクザの家にお世話になることすらできないわけですよ。
だからその土地土地のお兄さんお姉さんにご厄介なりないからですね。
つまりその行った先でその島を持ってる人たちのお世話になって、
で、何か買いをするのであればその売るためのものを渡してもらって、
で、それをさばいて、情納して、自分がその余った小銭で食っていくっていう。
そういう生き方しかできない人。
そのどこかについて、つまりどこかのコミュニティに属すということが、
その表社会でも裏社会ですらもできていないという。
はい。
で、ここでちょっとキャラクターをもう少し深掘りしていくと、トラジロンはどの陣営にも属していないわけですよ。
それって結構、本作においては常に二項対立が存在していて、例えば親がいない桜、残された肉親は兄弟のトラだけなんですけど、
そのトラも20年いなかったわけですから、完全に身寄りがいない、お嬢おばしかいないっていうふうな状況。
今日の桜と非常に家柄のいい見合い相手っていうのは、これ完全な対立構図になってるわけですよ。
そして下町での生活、葛飾柴又の生活と桜が働いているオフィスビル、これも完全な対立構図になってますよね。
そして職工として働く広志、そして大学教授の父、これも完全に二つの対立軸になってる。
何もかも対立軸になってるんで基本的に、常に対比されている、それらが。
ただトラはじゃあどこに入ってるかって言って、どこにも入ってないわけですよ。
おそらく。
オフィスビルにもいないし、柴又にも溶け込めてはないんですよ、彼は。
そこからも外れた人間ですから。
だからもう全ての対立構図の中に一切属していない。
でも彼は属していないからこそ、外側にいるからこそ、構図の外側にいるからこそ、誰に対しても失礼な口を聞くことができるわけですよ。
だから物をすることはない。だってそもそもそこには何の意味しもないわけですから。
好き放題言うことができる。でもそんな彼だからこそ言える言葉がたくさんあるんですよね。
ここでこの第1作において出てきた名言をいくつか見ていきましょうよ。
もうさっきね、大間が言ってくれたんですけども、「お前と俺とは別な人間なんだぞ?」
早い話がだ。俺が芋食ってお前の尻からプッとヘが出るか。
これですよ。
この後に何て言ってるかですよね。
どうだざまみろ、人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよって言ってるわけですよ。
ここがすごく面白いのは、その理屈で動く人間っていうのをもう少し解釈していけば、
ある種、進歩して秩序が重んじられる社会において、理屈でこそ人間は動くとされるわけですよ。
こうして、こうやったらこうなる。結局、あらゆる仕事っていうものがどんどん効率化していく中で、
結局全てがプロトコルで動いていくような感じになるわけだよね。
こうする、こうする、こうする、そうするとこうなる。でも人間の情ってそうじゃないでしょって。
Aと言う人間とBと言う人間が同じプロセスを踏んだとて、結局同じ気持ち同じ行動になるかって言うとそんなことは絶対ないわけで。
だから彼が言ってるこのイモクってお前の尻からプッとヘが出るかっていう例え話はさておき、
彼が言ってるそのお前と俺とは別な人間なんだ。だからこうお前の気持ちをお前が察しろとかね。
あるいはお前がそうなるからって俺がそうなるわけじゃないだろうっていうそんな当たり前のことを結局彼は、
彼なりの言語でぶつけてきてくれるわけですよ。
同型がある理屈っていういわゆる新しい世の中における一つの権威なわけですよね。
秩序っていうもの。秩序や理屈っていう権威に対してそれを落として、むしろ人間が生きるっていうこと、
人間の心情っていうその不可解なものっていうものにこそ価値があるっていうことを言ってるセリフなわけですよ。
完全なカウンターなんですよね、この当時の社会の流れに対する。
で、もう一個ね、これもちょっとわけわかんないんですけど、これも広瀬に対してですけどね。
おいこら青年ね、お前大学で出てなきゃ嫁はもらえへんってのか、ああそうかい、てめえはそういう主義かっていう。
これもね、自分で桜は学歴のある相手に突かせるみたいなことを言っておきながら、
広瀬がそれを言うと、お前はそういう主義かみたいなことを言うわけですよ。
けれども、彼自身同型ですから、自己矛盾なんて一切恐れないわけですよね。
恐れずに、でも結局世の中はそういう流れになっていってるわけじゃないですか。
家柄のよろしいところに行くのが幸せであるだとか、そしてただし身寄りが少ないんだから、そういったところに嫁に行って、ぶんぬんかんぬんみたいな。
でもそういう理屈じゃないよねって、世の中がどんどん理屈や秩序によって構成されていくようになると、
結局置き去りにされるのは人の情なんだよね。
って考えると、この言葉の中にも彼自身がこの世の中の流れに対する一つのカウンターを提示してきているっていうことが読み取ることができるんじゃないのかというふうに感じるわけです。
だから理屈だったり秩序、新しい価値観、新しい身分秩序としての学歴、そういったものが完全に正しいのかどうなんだいっていうのをトラは自分の言語で見てる人たちにも突きつけてきてるわけなんだよね。
そしてそれってまさしくこの変化しゆく世の中の中で、何か違和感を感じていた人たちの言葉を完全に代弁しているようなものだと思うんですよ。
だって69年に世の中がどんどん新しい方へ新しい方へと進んでいく中で、そのスピードについていけない、ついていきたい、あるいはついていきたくないのかもしれないっていう戸惑いを感じていた人たちは確かにいたはずだよね。
で、その昔の自分と今の自分が地続きであることを確かめるっていうことがすごく大事らしくて、
自分が今の事故っていうのが非常に揺らぐときに過去を思い出して、
で、ああ、あの時はこうだったなっていう輪郭を確かめていくっていう。
だから懐かしいっていうのは単なる後ろ向きな感情だけじゃなくて、懐かしむことで今がどうなってるかっていうような形作るっていうような役割があると。
あとは、これはもう記憶というものの整理質だけども、
嫌な出来事にくっついていた感情の方が、要は良いことよりも早く忘れていくと。
嫌なことっていうのはもう本当に衝撃的なことじゃない限り、トラウマとして残るものじゃない限り、
大体良いことっていうところが感情は残っていくらしいのね。
それはなんか、自分の幸福を守るためにそうなんだろうなと思うんだけれども、
そうすると、あともう一個。
人が肯定的に思い出す時期っていうのは、共通点があるっていうふうに心理学的に言われていて、
先ほどから何回も言ってるように、自分に何か役割があって誰かとつながっていたっていうのと、
先並み通しがある程度立っていた時期っていうところが懐かしみの対象になるらしいです。
で、やっぱりこのトラさんの話にもつながっていくんだけども、
トラさんにもつながりはあるんだけど、
渋谷マータに帰れば迎えてくれる家族と言っていいのかわかんないけれども、
お姉ちゃんおばちゃんがいて、桜がいると。
でも帰って行った時には役割がないと。
し、彼の生活は見通しがないから安定もしてないと。
だから先ほど言ったような懐かしさの働きかけと記憶と、
あと肯定的に思い出す時期っていううちの二つが欠けているわけさ。
だからその懐かしんでる時代そのものじゃなくて、
その時代にいた自分自身がどうであったかっていうところが、
懐かしみの昔は良かったの正体なんじゃないかなと。
同じ話ちょっと繰り返しちゃうからもうここら辺でちょっと聞いちゃうんだけど、
映画の中の男のつらい世では温かい柴又っていうところが、
義林城みたいなところがすごく描かれているんだけれども、
そこの中で自分が生活していたとかっていうところを、
そこを想起させるっていうところが、
この男はつらい世から通される、
その昔は良かったのを風説に繋がっているんじゃないかと。
なんていうんだろうな。
でもこれって結構モロハの刃みたいなところがあって、
そういう人たちばっかりなんですよね。
いざ世の中に出た時に、何も通用しないなってなった時に、
誰も支えてもらえない自分がそこにいるという、
恐ろしいエンディングを迎える可能性があるということを、
あんまり考慮してないってことがあるのかなって気がするんだよね。
オウマは今の世の中で自分でちゃんと生きていけてるじゃない?
だから今そこが住みよいって思えてて、それで叱るべきだと思うんだけども、
今の世の中で自立して生きていけるかどうかがまだ分かっていない状況の中で、
それを雷散することの怖さっていうものは俺はあると思ってる。
そういう人って樽を知らないのよね。
今の自分の中で何を楽しみとして、何を是として生きるかっていうところの、
天井がない高望みをしている人が非常に多くて、
僕今の現状の、今もらってる金と、今もやってる趣味と、
今もやってる仕事で、割と満足してるから、
あとは穏やかに少しずつ過ごせればいいやっていうぐらいだけどさ。
多少の目標はあるよ。自分の仕事でこういうことをやっていきたいなとかっていうところはあるけれども、
上を見れば上がいっぱいいるし、下を見れば下がいっぱいいるしさ。
多分自分の能力の限界値みたいなのも高が知れてるから。
すると自分だけでする仕事っていうのはあんまりないなっていうのは、
要は分かってるわけさ。
ただそれをコミュニティを自分が運営していけるような人物かというとそうではないから、
じゃあ自分が満足するところで生きるしかないよねっていう、
そういう半ば諦めみたいなところもある。
でもだからそれでいいんじゃないっていう。
だからそう感じられる人たちはそれでいいし、
結局それでちゃんと自分で力を持ってるからいいんだけれども、
要するにつまずいたときにリスタートできるかっていう。
結局下町文化の中で見ればわかるけれども、
誰もが失敗しても別に普通になんとなくそのコミュニティで生きてはいけるっていうさ。
虎なんでまさにそうじゃないですか。
そこだから総監視社会かもしれないけれども、
それゆえにみんなが結局なんだかんだで目かけてくれてる安心感みたいな、
そういったものがそこには生きているのかもしれないね。
だからそれに対してすごく生きづらいよねっていうふうに思う人がいても当たり前だし、
これにはこれの温かみがあるよねっていうふうになる人たちもそれぞれいるんでしょうけれども。
ただやっぱり大事なのは男はつらいは完全なフィクションであって、
全く現実味を帯びた話ではないっていうところもすごくいいのかなって僕は思ってるんですよ。