真実の友達、真実の友達。 座ってリラックスして、楽しんで。 真実の友達。
Reel Friends in TOKYOにようこそ。
この番組は話題の新作、往年の名作、謎を聞き作から、ふっとびB級映画まで、あらゆるフィルムを倫理、宗教、歴史に引邦、多様な視点から切りまくる映画専門チャンネルです。
お相手は、パーソナリティのマコと
どうぞお帰って、緊張するよね。
オーマです。よろしくお願いいたします。
お願いします。
同窓会ですか?
同窓会なんですよ。近々ね、小学校の同窓会が開催される予定で、行ってくるんですけど。
結構ね、定期的にやってらっしゃるんですよね。
そうそうそう。漢字がマメな人なもんだからさ、4年に1回やるんですよ。
中学校の方はさ、だいたいマコちゃん連れてくからいいのよ。
小学校の方ってさ、中学校の時もそうだったんだけど、特定のグループ集団にさ、僕あんまり属するタイプじゃなかったさすらい人だったからさ。
小学校も例に漏れずそんな感じだったから、久しぶりにやって、いつ面だって言ってすぐに絡みに行けるやつが、誰もいないというか誰でもいいっていう感じなのよ。
困るよね。
まあまあそうだよね。難しいよね。
まっさらな状態で行くっていうのが不安になるっていう。
それはね、ありますよね。
なんだろうね、あれ。逆に同窓会とか大手を振るってというか、何の心配もなく行ける人たちって、逆に精神的に何かエラーがある人なんじゃないかなって思ってて。
そこまで言う?
そこまで言いたくなっちゃうぐらいすごいと思うんですよ。
何だろうな、承認欲求とかではなくて、承認されてるという確信があるわけじゃないですか。
自分は絶対に。
別にどれだけのスパンがあこうが、その場に行けば自分は受け入れられるんだという、そういう確信がないといけないわけじゃないですか、そんなテンションで。
まあそうよね。
それってすごいことだよねっていう。
確かにそうだよね。
すごいことだと思うよ、本当に。なんだろうね、それって。
よっぽど信頼を受けるほど固い友情があったのか、何なのかよくわかんないんですけど。
わかんないけど。
すげえなって思いますね。
確かにね。
どんなに仲良くてもさ、だって全然会ってないわけでしょ。
だって言うてさ、そのままエスカレーターで中学校行った連中はさ、この間もあったねぐらいでなるけどさ、今回の参加者見る限りあんまりいないよね、中学校の参加者が。
そうするとさ、バスケ部のキャプテンと絡むかぐらいしかないよね。
はいはいはい、彼ね。
彼、僕今狙ってます。
彼もなかなか、なんだろうね、尖ったパーソナリティーの人でしたね。
尖った生き方してますけどね。
生き方が尖ってるんですか?
いや、だってすごいよ彼。なんだっけな、大学入るまでは、あいつ電車マジ、ガチ電車好きだから、JRかどっかに勤めるとか言って。
で、就活失敗してJR行けなくなったって言ったら、俺ドイツ行ってくるわって言ってドイツ行って。
あ、ドイツ行ってたわ、そういえば。そこまでは知ってるわ。
で、ドイツのバー店技術を磨いて、今、俺の中の最新情報だと日本のドイツビールを出すバーみたいなのに勤めてるっていうのが俺の中の最新情報なんだけど。
はあ、そうなんだ。なんかこう、愉快な人だよね。
うん。愉快な人なんだけどさ、本人至って非常に真面目なやつなんだよね。
そうなんだよ。だからね、つかめないんだよね、いい意味で。別に変なあれじゃなくて、すごい実直な感じがするじゃない?
そうそう、めちゃめちゃ真面目。
真面目で、そのパーソナリティがゆえに、バスケの技術もやっぱ頭一つ抜けてたじゃないですか。
抜けてたね。
すごい、なんかやっぱ積み重ね方が違うんじゃないのか。練習とか見ててもやっぱり全然手を抜かないというか。
ストイックだった。
すごいストイックだったから、いやすげえなと思ってたら、メールするとメールの時だけテンションが2桁ぐらい高いんですよね。
わからん。
なんなんだろう、なんでそのメールの文面だけ異常にテンション高いのか、俺は全くつかめなくて。
初めは騙されてたと思って、なんか絶対違う人とメールしてるんだと思って。
わかるわかる。中学校の時からなんだけど、あのさ、なんか気まじめが服を着てるようなやつ、あんまり俺らのこのバカ騒ぎのテンションにあんまり付き合わないやつだったじゃん。
それがギャルのごとくさ、絵文字使ってくんだよ。
そうなんだよ。絵文字顔文字なんでもござれで、文面にギャハハとか入ってくるのね。だからなんかもう、俺なんか人とメールをしてるのか、コロコロコミックの字の文を音読してるのかわからなくなってくるわけよ。
しかもその、なんかさ、妙に気まじめなのかわかんないけどさ、今日ランチ食べてきたみたいなのがあったとすると、必ずそのランチの絵文字を挟んでからの次の文章が入ってくるからさ。まじギャルだろよ。
そうなんだよね。なんかすごく面白いやつだったなと思うんで。本当に俺全然合ってないなというふうに思いますんで、よろしく伝えておいてください。
またバスケしたいね。
そうですね。
なんかしばらくやってないからね。
ぜひよろしくお願いしますとお伝え、描いたいところですね。
そうね。そしたらまた帰国史上のやつもまた含めてね。
やりたいと思います。
やりますよ、俺は。
ということでですね、でっち上げという、これが今も言ったんですけど、事実に基づいた物語ですよということで、2003年であってるんですか。
福岡市教師によるいじめ事件というのを検索していただけると、たぶんご存じない方も内容がわかるかなということですね。
そうね、新庁舎から本が出てるらしいので、それが今回映画化したっていう感じらしいですね。
そうですね、でっち上げ福岡殺人教師事件の真相という本ですね。
一応ここで押さえておかないと話が展開しづらいので、概要だけ説明しておくと、
2003年に福岡市の私立小学校の男性教諭が、アメリカ人の祖先、先祖を持つとされる児童に対して、
人種差別的な発言など、および暴力行為など種々のいじめを行っていたとして、教師が処分されたものの、そのいじめの事実が裁判によってですね、覆されたという、そんな事件です。
この事件がどうして大きな話になったかっていうと、そもそもそれが週刊文春さんの記事によって、全国規模での報道へと展開されていったということがまずあって。
なおかつそれが全て裁判でほぼほぼ9割くぶ否定されたことによって、超大規模報道、可熱報道によって批判された冤罪事件みたいな形で知られていると。
ただ、ここも怖いところが、ニュース報道っていうのはセンセーショナルな情報の方がより強く展開されるものですから、彼自身の実態っていうものが、こんな恐ろしいことをした教師がいるんですっていう報道ばかり強調されて、その後のことに関してはあまり大きく報道されてないっていうことがあるのかなと。
そういったところでですね、このノンフィクション作品の本が出版されたというふうな流れがあるそうで、
ウィキペディアにまとめてくださっていると見ると、家庭訪問の時にその児童の祖父がアメリカ人であると聞いたその教師が、児童の血が穢れているなどの人種差別発言を行った。
また帰り自宅が遅いとミッキーマウス両耳を掴んで持ち上げる、ピノキを鼻をつまんで振り回すなどの刑罰の中から児童に選ばせて選んだものを実行するなどの逮罰が行われ耳を切るなどの怪我をした。
お前は生きとる価値がなかけんしねえなどと発言したなどなど、それによって児童はPTSDと診断されたというふうな内容が出てきたよということですね、それが週刊文春で殺人教師という見出しとともに実名報道されたんですね。
なんならその後も顔写真も載せられたということで、もうまるまる全ての情報というものが、そういったセンセーショナルな記事として展開されましたよと。
その後ですね、おそらく加熱報道の影響もあってか、原告側には500人規模の超大弁護団が結成されることになり、教師に対して、あるいは教友と福岡市、市の公立学校ですから福岡市に対しての訴訟があったわけだ。
その民事訴訟によって、もろもろと確認がされていく中で、原告側にあたる児童両親の主張が虚偽であるというものがいくつも判明していくというふうなことになったよということなんですけれども、これはでもすごい実験ですね。
いや、恐ろしいよね。
そう、恐ろしいんですよ。これは。だって、なんだろうね。一番怖いのは、これが通っちゃうと、自分というか誰に何があっても不思議じゃないよねの世界になっちゃうよね。
そうなんだよ。結局さ、これ結構その痴漢冤罪とかなり近いような性質を帯びてると思って、訴えられた側が悪魔の証明をしなきゃいけないっていう、そういう構図になってしまうっていうのが恐ろしいところだと思うんだよね。
なかったことの証明ほど難しいものはないですから、あり得る可能性、あった可能性がなかったということをすべて証明しないといけないっていうのは事実上不可能ですから、非常に難しいですよね。原告側の主張のほころびを見つけてそこを突く以外に方法はないので、これは怖かったなということなんですけれどもね。
そうね。
じゃあまあちょっと今回もね、それぞれに一応何かしらこう角度をつけてですね、掘り下げていこうかなというふうに思いますけれども、その前にまずはいくつかジャブをね、出ていこうかなと思いますが、何かありました?
いやー一個ね、やっぱりちょっと述べとかないといけないのがね、柴崎こう可愛すぎ問題っていうのがあって。
好きなんだ。
好き。ストレートに好き。
好きなんだ。
好き。
いやこの間なんかね、この間もちょっとこの作品結構僕らの間では、いや面白かったよねって話はたびたび出てきたんで、都度都度、まあ他のエピソードの時にもたまに言ってましたが、
大間が柴崎こうやたらとなんかどうこう言ってるから、あれこいつひょっとして好きなんかなって思ってたんだけど。
あるよねこういうね、あのちょっと同級生の話やたら出してくる友達みたいな。あれこいつひょっとしてあいつのこと好きなんかなみたいな。好きなんだやっぱり。
お前もMさんのこと好きなの?みたいな。
Mさんやめろよ。Mさんやめろよお前。なんでそこでMなんだよ。アルファベットいくつもあんだろ他に。なんでMなんだよ。
でもパッと出てきたのがさ、やっぱ、MKだったからさ。
やかましいわ。
で?
いや好きなんよ。
これってもう。
僕がね一番最初にこう柴崎こうに惚れたね作品がメゾンドヒミコなんですよ。
はあ、前も言ってたねメゾンドヒミコって。
これ、定期的に見るね大好き映画の一つなんですけど、織田斬梁とこの役で、このね柴崎こうのちょっとねふくれっ面が僕好きすぎて。
ああ、なんか出てくるポスターがなんかそんな感じですね。
ああそうね。これはね本当にいつか使いたい作品の一つですね。
そうなんですね。
あの、制度一斉障害を持った人たちの老人ホームの話。
うんうんうんうんうん。
で、そこに柴崎こうが、いつの間にか働くことになって。
うん。
で、そこで織田斬梁も制度一斉障害を抱えた人なんだけど。
初めて柴崎こうに恋愛感情を抱くんだけど、みたいな。
プラスアルファでその制度一斉障害を持った高齢者っていう方が、家族にも行ってないみたいな人も結構いて。
なるほどね。
手術済みの人も、手術済みでない人もいろいろいてっていう話なんだけど、これ好きなんすよ。
これの柴崎こうが可愛すぎんだよ。
全然ね、その多分これ何年の作品?2005年って書いてある。
2005年だね。
はいはいはい。多分俺トップオブ邦画に興味なかった時期なんで。
マジか。
マジで見てないですね、これ。でも聞き覚えがあるから一応有名な作品ですかね。
そこそこ有名だと思いますね。
はい、いずれ見てみようかね。そういう自分が今までかすりもしなかった作品を見るきっかけになるのが、この番組のいいところだと僕は思ってます。
いいところですよ。
はい。ちょっといい機会にできたらなと思いますが。
そうね。あとマイコハーンのね、柴崎こうも可愛いのよ。
マイコハーンに出てたっけ?
あの、その主人公を追っかける、主人公が好きなんだけれども、主人公に見向きもされない、かわいそうな女の子役。
で最終的にマイコになるんだけどみたいな。
もうその時の柴崎こうも可愛いの。
はいはいはい。
マイコハーンの中身を全然覚えてないからわかんない。
そんな詳細に覚えるような映画じゃないから。
アンサンのラーメンが出てくるやつだっけ?
アンサンのラーメンと。
アンサンのラーメンでね。
そうそうそうそう。
一元三ってやつだよね、確か。
そういうどうでもいい情報しか残ってねえな。
まあでも、それで間違いない映画だと思いますね。
そっかそっか、マイコハーン。
俺でもね、柴崎こうさんで一番記憶に残ってるというか、逆に初めて柴崎こうという女優を認識したのかな?
あの、空から降る一億の星みたいなやつじゃなかったっけ?
ドラマ。
映画では覚えがないな、なんだろう。
そんなタイトルだった気がするんですけど。
空から降る一億の星、あ、柴崎こうって書いてあるね。
なんかあの、アカシア様がキムタクをナイフで刺すドラマだった気がするんですけど。
そんなスクラッターなの?やべえドラマ。
全然覚えてないけど、これに確か柴崎こうさん出てたんですよね。
富士のドラマらしいね。
あ、そうですね、月句ですね。
はいはいはい。
で、
ふかつえりも出てるね。
はいはいはい。
本当その時代をときめく方々が出てますね。
はいはいはい。
大墨賢也出てるじゃないですか。
本当だ。
時代をときめいてるわけじゃよくわかんないですけど。
これに出てた時の柴崎こうさんが、
うん。
なんかこうなんていうの?
なんていうの?
好きなの?
お前も好きなの?
やめろよそのドラマ。
そのドラマをやめろ。
いや、この時すごいなんて
パワフルな顔した人なんだろうと思ったんですよ。
そうね。
いやすごいね、今の方がなんかよほどなんていうの、
今回の作品に出てる柴崎こうも、
それこそなんていうのかな、
怖いんですけど、
うんうん。
この時期はもっと目ギラついてて、
そうね。
結構傷顔だったなっていう。
で、実際あの本作でもなんかこうちょっと、
精神的に不安定な役所だったと思うので、
なんかすごい危うさを感じる、
綺麗な人だなと思って見たのが、
柴崎こうさんを初めて認知した時だったので。
それですごく得心がいった。
なんでちょっと柴崎こう好きか。
おー。
俺結構なんかその危うさを感じる綺麗顔の人、
俺好きなのかもしんない。
あーなるほどね。
中学校のあれでちょっとなんか、
思い当たる節があるかもしんないけど。
今日ちょっとそういう感じなんですかね。
なんかちょっと思い出を振り返っちゃうね。
そうね。
そう考えると結構そういう、
なんていうのかな、
危うさのある役所が多かったのかもしれないですね、彼女は。
そうねー。
嫌われ待つ子の一生とかさ。
世界の中心で愛を叫ぶとか。
え、セカチュウそうなの?
主人公の現在の恋人役じゃなかったっけ。
はー。
ただ俺ドロロは許してねーよ。
ドロロ見てない。
ドロロは許してないよ俺。
あれは別に柴崎こうには別に罪はないけど。
罪はないけど、
ドロロが女だってことを最後までバラしちゃダメでしょ。
それがわかんないから面白いやつでもあるんだからさ。
しかも成人女性がやるだよっていう。
パッて。
前から見せろって思ってね。
いろいろ違うんだよなっていうね。
そうね、それはわかる。
ちょっと思ってしまいましたけれども。
まあまあそんなわけでね、
この本作でも結構な存在感を示していてね。
よかったなというふうに思っております。
かなりよかったですね。
ちょっと話戻さないといけないね、これはね。
あー、面白い。
あとジャブなんだろうな。
あと一個。
某週刊報道誌なんですけど、昔からずっと同じようなことやってんだなって思いました。
そうですね。
名前は何も言わないけども、某週刊報道誌は。
裏を取らずに記事を書くっていうのはお家芸なんだなって。
後からついてくるみたいなところあるかもしれないですね。
これについてはですね、その週刊誌の記者さんが反論じゃないけれどもお気持ち表明記事を出していて。
へー。
その本作見てみた結果、週刊誌の記者の役を亀梨さんがやってるんですね。
うんうんうん、カップスマイレード。
はい、その亀梨さんの服装と演技があまりにもコテコテすぎて、こんな記者はいないよっていう。
もうなんかチャラ、サングラス、チャラついたシャツみたいな。
で、煽って煽って取材対象の人が取り乱して大声上げたら、
え、いい録音撮れました?みたいなことを言って去っていくとか。
そういう、いや少なくとも取材に行くときは必ず背広を着ていくし、そんな聞き方はしないみたいなね。
で、ただその人が言ってることにも一理あるなって思ったのは、
いわゆるフィクションとなる作品の中での週刊誌の記者のイメージって、昔からずっとブレずにこれだよねっていう。
そう、だいたいなんかこう世の中なめくさっていて、首突っ込みまくった挙句、その2時間ドラマではだいたい影から落ちて死ぬみたいな。
そういう、そういう描かれ方をされがちだなと。
で、まあそうよねっていうのはちょっと思うんですよね。だからまあ、なんていうのかな。
やりすぎ感は確かにあった。っていうのはまあその通りだなというふうには思いましたけどね。
まあね、でもまあそういうイメージがつくほど、なんかまあマスコミっていうのがまあそういうふうなイメージになってるんだろうなっていうところが一つと、
なんかこの映画を見て反論できるのはそこだけなのねっていう。お前何も反省はしてないんだなっていうところは、やっぱお前そういうとこだぞって。
これ実際の事件で記事を書いた方も今回のその出来事についてのコメントとか残したりしてると思うんですけど、コメントは残してないのかなどうだったかな。
それもですねwikipediaのまとめに載っていますし、原作を書いた方もその人については触れてる福田さんでしたっけ。
福田ますみさんっていう方が書いていて、観光してたのが、名前は出てないのかな、わかんないや。
福田さんが知ってますけれども。
まあとにかくですね、その後、実際に記事に載せたことのほとんどが裁判の結果否定されたわけですから、
これについてはやっぱりね報道の責任みたいな、責任論みたいなところにやっぱり展開していかなければならないと思うし、
やっぱりこういうことがずっと続いてきて、何なら未だにそこが変わってないからこそ、
やっぱりこうメディアの中でも特に雑誌記者っていうのが、
未だに非常にキッチュでロワーク的な存在であるように描かれても、
誰も文句言わないっていうふうな状況にあるんじゃないのっていうのはやっぱりありますよね。
まあそれはなんかお仕事にプライドを持ってやってらっしゃる方々もいっぱいいると思うんだけれども、
やっぱりそのイメージっていうのをどうやって変えていくかっていうのはやっぱり今後のね、
報道の、報道姿勢っていうものがどういうふうに民衆に移るのかっていうところですから、
っていうのはちょっと感じましたね。
そうだね。
ここら辺全てね、非常にフィクション味がある、というかステレオタイプすぎる描写は多かったかなと思いますけど、
それらを統合して見ていった時に、でもこれ本当に起きた出来事がモデルになってるんだなって思うと、
フィクションであってくれということを願ってしまうような作品だったなという。
全く思って。
そんな感じでしたけれども。じゃあまあいつも通りですね、どちらからか。
最近僕からお話ししてるんで、大間からでも全然いいんですけど。
はい、いいっすよ。
いいっすよってなんでどっち、あなたからやってくれていいですよなんですか。
いえいえ僕からいきますよ。
いやでもね、最近収録前にもお話したんですけど、僕調子悪くて最近。
なんかこうちゃんと寝てるはずなのにずっと眠いんですよ。
それは花粉のせいですよ。
今日もね、すっごいね、心配でこの時間を迎えるまでに、絶対今日も眠くなってダメになるんだろうなと思って。
なんなら昼寝とかしといた方がいいんじゃないかと思ったけども、当然仕事してるから昼寝もできず。
やっとどうしようと思って、収録前に30分だけ仮眠したんですけど、やっぱり眠いんですよ今。
だからね、これ先にオウマがやったら、その時点で俺もう眠くなっちゃって。
多分また自分で話してる時に眠気がかってさ、またこのよくわからないこと言い出す現象あるじゃないですか。
全く関係ない女性の話をし始めたんですけどね。
シャッターアイランドのあの恐怖が蘇るわけですよ。
聞き返してるとね、え?何の話?え?っていう。怖っていう。
怖いよね。
怖いよね。
それでも何事もなかったかのようにちゃんと話を戻す君が一番怖いのよ。
すっごい怖いのよあれ。いやでもだから、俺もその話をした記憶がないから。
すごいよ。全く関係ない話をしてるのに、あたかも今までのが前提としてみたいな感じで。
繋げる能力とそれを何か人にね、あたかも信じさせるようなこの詐欺みたいな能力があなたは本当に素晴らしいと思う。
本当にそれだけはもう再発を抑えたいんで、先に。
じゃあちょっと頑張って起きててもらって。
またちょっと僕が元気になってきたら、ちゃんと高校でね、お話ししますんで。ちょっと今日もまた先行でいいですか。
その代わりさ、ちゃんと後半起きようとする努力はしてよ。
快適に寝ようとする努力をさ、ここのカメラ越しに見ながらさ、僕が喋ってる時のさ、あの虚しさよ。
もうそんなつもりはない。
頑張ってさ、こう肘をつくにはどこの位置がいいかなとかさ、寝てる顔を見られないようにするにはマイクでどう隠せばいいかなみたいなさ、そんな位置をずっと探してるわけさ。
こいつまた聞いてねえなと思いながらさ、僕が一人喋ってさ、もうあの虚しさはないのよ。
いやいやいや、もうちょっとね、本当に前回は特に酷かったんで。
酷かったね。
今日はそこまでではないんですけど、ちょっと語りがおろそかにならないように先にやらせていただきますね。
はい、わかりましたけど。
というわけでですね、僕からお話しますけど、これはですね、なんて言えばいいんだろうな、とりあえず僕の説ですね。
はい。
はい。映画でちあげ、印象を伴わない情報伝達皆無説でございます。
おお。
はい。というね、どういうことかっていうと、僕はね、その情報伝達の根幹というものを信じられなくなってしまったという僕の感想ですね。
はいはいはい。
皆さんニュースとか見るじゃないですか。大体皆さんニュース何で見てるか知りませんけど、僕は朝テレビつけるんですよ。
僕がテレビを見るのは朝の準備してる間だけですね。朝はNHKつけてニュースを垂れ流しておいて、それを耳で聞いてっていうふうな形なんですけど、
そのニュースを聞いてる時に僕らが何を受け取ってるのかなっていうことに疑問を持ってしまったんですよね。
僕ら当然情報を得るためにニュースを聞いてるつもりなんですけど、でも結局僕らが受け取ってるのって印象なんじゃないのかなという。
例えば政治家の不祥事が云々かんぬんとか、あるいは今それこそ戦争もね、今勃発しておりますけれども、イラン、イスラエル、そしてアメリカっていうところでね。
諸々そういうものを聞いているときに、何が起きてどういう背景でみたいなお話を聞いているんだけれども、事実上僕らが受け取ってるので、その情報に対する自分の反応を受け取ってるんじゃないのかなっていう。
うわまたかとか、やっぱりこうだよねとか、あるいは信用ならねえなとか、ざまあみるとかわかんないですけど、結局表に立ってくるのってそこなんじゃないのかな。
事実だけを純粋に受け取っているぞっていうふうな状況って人間にはできないよねっていうのを、本作を見てみたことによってしみじみ思ってしまったんですね。
本作なんですけど、一応原作がノンフィクション作家の福田増美さんという方が作った、でっち上げ福岡殺人教師事件の真相というものが、第6回新庁ドキュメント賞みたいなのを受賞してらっしゃるという、一応高く評価された作品なんですよね。
はい。で、さっきもお話しした通りですね、実名が顔写真も伴って報道されてしまった方で、定職処分にも実際なったよと。ただ民事裁判の中でひっくり返ってですね、処分も取り消されたっていう、そういった形なんですけど。
で、なんでこんなことが起きちゃうのかっていうものの背景に眠ってるのも、結局僕らがメディアから受け取っているのが印象に過ぎないからなんじゃないのかなっていう。印象を伴わない純粋な事実の伝達っていうものがこの世に存在しないのではないかということを、僕はちょっと今回これについて話していく中で提示できたらいいなというふうに思ってるんですね。
はい。2003年に起きた出来事ということですけど、これ報道の記憶ありますか?
全然ない。
俺ね、聞いてたらこれあった気がするんだよね。
うん。
で、僕は学習指導要領とかいうのをやるぐらい教育大好きマンなんで。
そうだね。
多少アンテナも張ってたのかわかんないけれども、自分はね、やっぱりこれ聞き覚えがある出来事だったんですよね。
ただ、冤罪事件としての記憶じゃないです。
とんでもない教師がいたという情報で持ってます。自分の記憶の中に。
だからやっぱりここが一番怖いところだなというふうに思っていて。
で、時代背景で言うと2003年ということですから、メディア環境がまず違うんだよね。
テレビだもんね。
そうなのよ。SNSが存在してないんですよね。
Twitterは2008年です、日本では。
YouTubeも2005年です。
しかも最初期のYouTubeなんて情報伝達なんてないもんね。
そうね。
で、考えると2003年時点においては、映像を伴った情報伝達っていうものの主戦場はテレビだし、あるいは情報の取得に関しては新聞と週刊誌っていう。
テレビ、新聞、週刊誌の3トップですよね。
そのトライアングルによって人間の情報伝達のほとんどが日本国内では賄われていたっていうふうな状況だったわけだ。
そんな中で決定的な仕事をしてしまったのが週刊文春の実名報道なんだよね。
で、全国メディアも結局これに追随する形でテレビでも大々的に取り上げられていくってなったときに、
今の我々が、例えばですよ、拡散スピードで言ったら今のほうが早いのかもしれないけれども、
少なからず顔の見えない相手といくらでもインターネットの掲示板とかで討論ができるとか、そういう状況じゃないですから。
純粋に僕らが受け取った情報を個人内であるいは狭いコミュニティ内で共有をすることしかできない中で、
全国規模のこのメディアでの報道っていうのがなされたときに、拡散される印象っていうのは、やっぱり偏るよねっていう。
こういう見方もあったのかがない世界で、もう事実として展開されるのであれば、これって本当に恐ろしくないかなっていうふうに思うわけよ。
センセーショナルな情報ほど拡散するし、訂正とか検証みたいなものほど広がらないよね。
それは何でかって言ったら、さっきも言ったけど、僕らは結局印象でもって情報を受け取っているから。
だから、そんなことあったのっていう印象は、より強烈だから残るんだけれども、検証とか訂正っていうのは、その元になった情報っていうものがまずそこにあって、
で、それの内容がどうですかっていう話だから、結局インパクトがないんだよね。2段階になってるから。
結局センセーショナルな事実っていうのは、もうそれで完結してるからドーンってこっちに入ってくるんだけれども、
これこれこういう報道がありましたが、いろいろやってみたらこの結果こうだったのでっていうふうな情報ってやっぱり基本的にはそんなに僕らの印象には残っていかない。
だからやっぱり印象こそが情報伝達の本当に要になっていて、
それがゆえにですね、メディアっていうのは特に強烈な印象を持つ情報っていうのを特に強烈な印象を与えるためにそういうフォーマットで出していくっていう、
それが結局いわゆる数字になって金になるっていうふうな構図があるから、そういうことが起きちゃうのかなというふうに思うわけなんですよ。
で、僕はですね、この作品について一番なんていうのかな、触れておきたいことがあって、この映画は一体何映画なのかっていう話なんですね。
これはノンフィクション映画とは呼べないなって思ったんですよ。
まあ事実としていろいろ裁判の内容とかは多少変えてるしね。
そう、だからこの映画はノンフィクション作品が原作になっている映画なんですけれども、
ドキュメンタリーではなく、脚本があって演出があって、監督の意向によってその話の経緯っていうものがいろいろと改変されているわけですから、
実際監督本人も実話に基づく映画とは安易に呼べないというふうな発言をしていて、それは全くその通りだよねっていう。
だから実話に基づくっていうよりは、なんて言えばいいんだろうね。
まあ基づいてはいるよね。基づいてはいるかもしれないけれども、実話に着想を得たぐらいにしておいた方がいいんじゃないのっていうふうに思うわけですよ。
まあそれこそ本当にピーター・ラビットと同じレベルで、庭の畑にウサギが来たからピーター・ラビット描いたぐらいの離れ方ぐらいだと認識しておいた方が絶対いいよね。
死ぬほどピンとこねえ例え話だろ。
今のね、カットしてほしいぐらいの気持ちになった今。
びっくりしちゃった今。
マクレガーさんの話とか出てくるのかなと思いましたけど、全然よくわからなかったですけど。
まあでもそういうことだよね。ウサギを見てピーター・ラビットを描いたぐらいってことですよね。
そうそうそうそう。
ウサギとピーター・ラビットは全然イコールじゃないけれども、元になる出来事があって、そこから作品が新たに描き起こされたぐらいのつもりでいたいよねってことだよね。
この間ですね、今僕の中でにわかにですね、邦画ブームが始まっていて、もうなんかちょっと今疲れてるんで、なんとなく眺めたいんですよ、映画を。
そういう時にやっぱり字幕追いかけるのって大変だから、自然と入ってくると見たいなと思って、空白っていう映画見たんですね。
古田新さんと松坂透理さんが出てる作品で、漁師の娘さんがですね、スーパーで万引きをして、それがバレて逃げてる最中にトラックで引かれて死んじゃうっていう。
で、そんな出来事からスーパーとか父親両方がですね、世間から批判されるっていう風な。
で、これは僕見た瞬間ピンときたんですね。川崎だかどっかで中学生の男子生徒だったと思いますけど、が本屋で万引きをしてバレて逃げてる最中に踏切を越えようとして電車に引かれて亡くなるっていう事故があって、
それがネットを中心に議論及び、ネットを中心じゃないな、世の中全体で議論及びですね、本屋さんへも直接的な批判が出て、お店を閉めざるを得ない状況になったっていう出来事があったと思うんですよね。
で、たぶんそれがベースになってるんだろうけれども、舞台も本屋じゃなくてスーパーに変わってるし、死んじゃった子の背景とか性別しかり、いろいろ全部変わっているんで、全くそのなんていうかな、あくまで本当に着想でしかないんでね。
で、そこにどういうドラマを展開させていくのかっていうのは全く別物になっているので、それでいうとデッチ上げってすごくね、どっちつかずな感じはするんだよね。なるべく実際に起きたこと通りに描いていきたいのか、それともそうじゃないのかっていうところの線引きが非常に曖昧な感じになってしまってるから。
だからこれもう実はベースで描きましたよって言ったら、たぶんいろいろ問題が出てくる。で、一方で、いや、純然たるオリジナルですよというにはなぞりすぎているので、だから僕はちょっとね、これに関してはどうかなとは正直思ってしまったんですよね。
一層だったらもう空白並みに大規模に改編をして、あくまでこの出来事に着想を得ましたぐらいの世界にしておくべきじゃないのかと。あるいはこれを原作として描いていく。より忠実に描いていくのであればやっぱり忠実に描いて、推測によって演出を達していかない方が良かったんじゃないのかなっていうのはちょっと思ってしまった節はあるんですよね。
で、例えばその作中で保護者の母親がこの狂言に至った動機っていうものが映画の中では描かれるんですよ。で、どうもその恵まれない家庭環境だったり、海外に対するコンプレックスであったりだとか、そういったものが匂わされているんだけれども、これ純然たるフィクションですよねっていう。
まあそうだね。どこの記事にも特に載ってなかったからね。
だってそもそも裁判で争われたことしかわからないわけですから。で、なぜこの親が狂言を行ったのかっていうその理由は裁判の争点じゃないので誰も知らないんですよ。
うん。 つまりその裁判で争われた教師によるいじめのその事実認定がされたか、要するにいじめがあったかなかったかっていうものしかわからないから、なんで虚偽の主要原というものがなされたのかなんていうことは誰も知らないんだけれども、映画ではそこに最もらしい一つの物語っていうものがそこで展開されていて、これは映画をエンタメとして成立させるために必要な脚色ではあると思うんだよね。
うん。 まあおかげで楽しかったよ。でもそれってある種事実に不必要な印象を与える行為でもあるよねっていう。
そうだね。 だとするとなんだけれども、だとするとこれって結局この映画がやっていることもまさしくこの殺人教師と呼ばれた教師の方がですね、週刊誌によってされたことと同じことをしちゃってないかって思っちゃうんですよ、僕は。
ああ、でっち上げのでっち上げが行われてると。 そうそうそう。こうなってくるとちょっと違うんじゃないのかなって思っちゃうんでね。で、一つ面白いのが、例えばですね、教師が児童のランドセルをゴミ箱に捨てたという行為があるんですよね。
ありましたね。 はい。これも作品の中ではね、冒頭で綾野剛がですね、「はいドーン!」つってランドセルをゴミ箱に思いっきり捨てて足でドーンドーンつって踏みまくるんですよ。ガチ怖なんですけど。
いや僕電車の中でビクってなったもん。 あれもすっごい怖さなんですけど。これもですね、これ非常に裁判の中でも実際の裁判でも争われた内容なんですけど、これすごく面白いんですよね。
これ何かっていうと、児童の持ち物をゴミ箱に捨てた行為についてですね。教諭の署長、ランドセルをゴミ箱の上に置いた。司教医の判断、ランドセルをゴミ箱の上に置いた。ないし中に入れた。
で、裁判所の判断として床に落ちていたランドセルを拾い、持ち主は取りに来るように呼びかけた上、ゴミ箱に捨てた。人事委員会の判断、ランドセルをゴミ箱に入れた。過去指導目的と。ここは事実なんですね。
児童のランドセルをゴミ箱の上に置くないしはゴミ箱に入れたっていう行為は認めているんだけれども、しかしこれは人事委員会はいじめではないと。教育指導目的であったと認定してるんです。
もちろんそれは指導としても行き過ぎてある、行き過ぎた行為であるっていうふうに述べてはいるんだけれども、教師によるいじめ事件の内容としてこれはカウントされなかったんですね。2003年当時。
ここ面白くないですかと僕は思うんですよ。これ2025年現在、もう26年だっけ今。26年現在の我々というか、あるいは教育現場しか理想かもしれないですけれども、
今現在の人権意識に照らし合わせると、おそらくこれは一発でいじめ案件として認定されてもおかしくないことなんですよ。
いじめというよりかは虐待ですね。 そうですね。つまりこれは指導の一環として認めていい行為ではおそらくないんだけれども、2003年時点では何ら不思議ではなかったということ。
だって実際そうですから、僕らはその時代を生きてきたわけですけれども、全然机を外に出されるとか、ありましたし。
高校の時、机蹴られて問題にしようと思ったけど一切問題にならなかったことがありましたね。
はい。やっぱりそういうことなんですよ。つまり、いわゆる印象、情報に対して何を感じるのかっていう印象も時代とともに変わっていくというね。
そこも非常に面白いなというふうに思うんですよね。情報だけは変わらないよね。
つまりランドセルを捨てたという行為は情報としては事実としてそこにあるんだけれども、そこに感じる印象っていうのはやっぱり時代とともにも変わっていくんだなっていうのを考えると、
どうなんだろうっていう、僕らは一体何を基準にして物事を捉えているんだろうっていうのがまたいよいよわからなくなっていく。
ここでですね、いつも通りですね、この僕の所感を一体何で捉えていけばいいんだろうという世界なんですが、ウォルター・リップマンさんっていう人を今回見つけましてですね。
ディズニーじゃねえのか。
ウォルター・リップマンです。
リップマン。リップマンってこういう、リップスだったね。
それはね、リップスだね。疑似環境っていう概念があるんですよ。
人間は現実の環境に反応してるんじゃなくて、その情報を受け取った時に頭の中に構築された疑似環境に対して反応しているという。
あー。
この人は、
風光的な話だよね。
風光さん、ミシェル。
ミシェル風光。ミシェル風光もだいたい同じようなこと言ってるね。
この人は1922年に疑似環境っていうのを指摘しているそうなんですけれども、
具体的な例として、第一次世界大戦中ある島にイギリス人とフランス人とドイツ人が共に暮らしているわけですよね。
一時大戦中ですよ。
一時大戦中?
ただ唯一の通信手段である船が60日に1回しか来ない。
から戦争が始まったことを6週間も知らずに友人として過ごすことができていたわけですね。
でも情報が一度入ったらもうそれは敵同士になるわけですから。
つまり現実世界を生きているんじゃなくて、あくまで情報を受け取って情報の中で世界を構築しているので、
自分が受け取った情報の中でしか人間は生きることができないわけですよ。
例えばその映画でっちゃげで起きたことっていうのを見ていくと、その殺人教師がいるっていうふうな報道がされたときに、
僕らはその本人ではなくて、その情報によって構築された頭の中でイメージしたその極悪非道な教師が子供を虐待しているんだという情報を疑似環境として捉えて、
物事にそこに印象を受けてしまうわけだ。
まして実名報道もされて顔写真も載ったってなると、その人が子供を虐待している様子っていうものを自分の頭の中で作り上げてしまって、
そこに印象っていうものを付加して物事の判断をしてしまう。
そもそも弁護団が500人以上も集まったっていうのも、ある種そのメディアが構築した疑似環境に反応してしまったからなんじゃないのかという。
だからそう考えると弁護団は正義によって動いてるわけですよ、個々人の。
でもその個々人の正義の根拠となっているものっていうのはあくまでメディアの助けによって作られた弁護団の頭の中にある疑似環境への反応でしかないというところが一番怖いところなんじゃないのかという話ですね。
もう一個面白いのが、これも人間の認知とか記憶研究の話で、フレデリックバートレットっていう人の幽霊の戦争実験っていうのがあるんですよ。
なんか聞いたことあるな。
これ結構有名らしくて、クッソ面白くて、俺原点に当たって読ませていただいたんですけど、超面白いですね。
なんだっけ、なんか聞いたことあるな。
バートレットがやったのは、イギリス人の被験者に対してネイティブアメリカンの民話を読ませるという。
で、それをですね、その後、15分後とか数日後、数週間後、数ヶ月後っていうふうに、期間を置いて繰り返し思い出して書かせるわけですね。
記述がどう変容していくのかっていうのを見ていくわけですよ。
これクソほど面白かったんで、ちょっと簡単に話しますと、2人のネイティブアメリカがなんか釣りかなんかしてるんですね。
もうすでに俺が今記憶に基づいて再生してるんで、すでに変容してる可能性があるんですけど、2人のネイティブアメリカが確か釣りかなんかしてカヌーで動いてるんですよ。
覚えたら向こうの方から時の声が聞こえてきて、なんか戦いでもあるんかなって思うんですね。
そしたら霧の向こうだかなんか忘れましたけども、5人ほどの戦士たちがカヌーに乗ってやってくると、時の声を上げながら。
そしたら彼らが戦争がこれからあるから、向こう岸で戦争があるから、ついてきてくれみたいなこと言うんですね。
で、2人のうち1人は帰らなきゃいけないから帰って、1人はその船に乗り込んで戦争に行くことにするんですよ。
で、カヌーは岸に着いて、で、そうして戦争が始まるわけだ。
で、戦ってる最中にその仲間のインディアンたちが、彼が矢で撃たれたぞって言うわけね。
彼ってその後ろについている。
乗り込んだやつね。
彼が矢で撃たれたぞって言って引き返そうってなるんだけど、そこで彼は気づくのね。
あ、これ幽霊なんだって。なぜなら体が一つも痛みがないのにも関わらず、矢で撃たれたって言われたから。
ちょっとこの辺がね、難解なんですよ。すでにね。
ちょっと分かんなくなっちゃった。
まあ僕も分かんなかったんだけど、要するに矢で撃たれたらしいんだけれども、何の痛みもないし。
そしてその矢で撃たれた感覚も一切ないにも関わらず、一緒にその自分を連れてきた5人が、
あ、彼が矢で撃たれたぞ急いで逃げろって言うから、あ、こいつら全員幽霊で。
で、今戦ってる相手も幽霊で、幽霊の矢が当たったから別に痛くも何ともないけれども、僕は今撃たれたことになってるんだなという。
つまり幽霊の戦争に自分が巻き込まれたんだなっていうことに、そこでハッと気づいたっていう記述なんですよ。
ああ、そういうことね。
でもここも非常に意味不明な感じなんで、だからこそ選ばれてる物語なんですけれども。
で、それでインディアンたちは彼をカヌーに乗せて、彼の村まで送り届けるんだよね。
で、彼は戻ってきて、どうすんだっけな、もうこの時点で僕の記憶もまた混濁していますが、
帰ってくるまでは平気だったんですけど、帰ってきて夜が明けたら、彼の口の中から黒い塊がドロリと出て、ドロリと出ない、黒い塊が出てきて、彼は絶命したっていう。
で、誰も彼の体を運ぶことができなかったみたいな、そんな感じの記述があるんですよ。
で、これつまり何が言いたいかというか、なんでこの物語選ばれたかっていうと、一切馴染みがない文化的な背景を持つ物語っていうのは、
おそらくはその文化文脈によって作られている超自然的な要素っていうのが含まれているので、ある種因果関係が読みにくいわけ。
で、こんな物語を何ら関わりのない文化圏に住む人たちに聞かせて、そしてそれを再生産させる期間を空けて、そうすると何が起きるのか。
これでどんどん変わっていくんですけど、その変わっていく様子が全部論文に載ってるんですね。
それが超面白くて、ここが変わりました、ここが変わりましたっていう。
思い出した。スキーマ理論のやつだ。
これそうなんですか。
そうだよね。スキーマ理論って言って、その解釈が。
そうそうそう。
基礎的な解釈によって形成されるってそうだよね。
そうですそうです。
後のハビーツスに繋がる概念です。
この人が言ってることっていうのがすごく面白くて、正確に思い出したと思ってるんですよ、みんな。
自分が情報を変えているという認識はない。だからゆくゆくは最終的にですね、だんだんと物語は書き換えられていって、最終的に口から出てきた黒いものは魂に置き換えられるし、
そして撃たれたのに死んでないという不条理な状況は、撃たれた瞬間に絶命するという物語に変わるんですよ。
つまりその文化圏において馴染みがないものっていうのは、その文化圏において馴染みのある描写へとどんどん書き換わっていく。
そして最終的に撃たれて死んだものの魂が彼のふるさとに向かって飛んでいったっていう物語に変わるんです。
インディアンの超自然的な現象っていうのが西洋文化圏における、何て言うんでしょうね、
美しい物語へと変わっていくわけですよね。これを記憶の再構成っていうふうに呼んでいるという。
人間の記憶っていうのはそのままをビデオカメラのように記憶するんじゃなくて、
すでに存在している知識の体系、これをスキーマというふうに呼ぶわけですけれども、それによって再構成されていく。
記憶するっていうのは事実を保存するんじゃなくて、事実をその文化圏における知識形態によって作り上げた物語によって変換していくことなんじゃないかと。
これに照らし合わせると、ある意味ではその児童が語った事実ですね。
児童は実際には存在しなかったことを母親に言ってるわけですよ。
でも母親の中でそれは物語になったわけですよね。
そしてその母親が語った事実ですね。
それが週刊誌の記者の中ではまた別の物語になるわけですよ。
そしてその物語は出版され、その出版された情報っていうものはまたそれを聞いた様々な人たちの中で一つの物語になっていくという。
だからいくたびもいくたびもそれが再生産されていく、しかも違う人によって再生産されていくことで、印象っていうものはより露悪的なものへとエスカレートしていったんじゃないのかというふうに思うわけですね。
そう考えると非常にですね、悪いところを煮詰めて煮詰めて出来上がってしまった状況っていうのが、このデッチアゲ事件の真相だったんじゃないのかということなんですね。
もう一個だけ、今度ね、これも面白くて、ロフタスの虚偽記憶実験っていうのがあります。
それは完全に聞いたことないな。
これでロフタスさん、アメリカの認知心理学者エリザベス・ロフタスさんという方がいらっしゃるそうで、1970年に衝突実験っていうのをされてるそうなんですね。
で、被験者に交通事故の映像を見せる。そして車がぶつかった時どのくらいの速度でしたかっていうふうに聞くグループ。
ぶつかった、つまりヒットですね。
車がヒットした時どのくらいの速度でしたかって聞くグループと、車が撃突した時どのくらいの速度でしたかって聞くグループ。
要するにスマッシュですね。スマッシュ。ヒットじゃなくてスマッシュって聞いたところ。
映像は全く同じなんだけれども、変えたのは質問の中の動詞をヒットとスマッシュに分けたんですよ。
そうするとスマッシュっていう言葉を使ったグループはヒットって言ったグループよりも平均的に優位に高い速度を回答するんですね。
同じ車がぶつかる映像で、でもヒットって言った場合は時速何マイルぐらいです。でもスマッシュの場合は時速何マイルぐらいです。
その何マイルがめちゃくちゃ変わってくる。よりその動詞に影響されて、より速い速度だと答えるという。
で、これどころじゃなくて、しかもそれをですね、1週間後に割れたガラスを見ましたかっていうふうに聞くそうなんですよ。
事故の映像の中で割れたガラスが見えましたかっていうふうに聞くんですね。
そうするとスマッシュグループの方がはいって答える割合が優位に高かったんですよ。
ただし実際の映像でガラスは割れてないんですよ。
だからたった一部を言い換えるだけで記憶そのものが書き換えられているんですね。人間の中で。
で、もう一個がそのロフタスが行ったショッピングモールの迷子実験っていうのがあるんですよ。
すごい面白いよね、この実験。
さっきのもそうなんだけど、つまりは全く存在しない。
さっきのは実際に見た記憶、見た映像の記憶がどう改変されるのかっていう実験だったんだけど、
次はもう全く存在しない出来事の記憶って植え付けられるかどうかっていうのを試した実験なんですけど、
被験者に子供の頃ショッピングモールで迷子になったことがあるっていう偽の情報を家族の証言と一緒に提示するんです。
そうすると被験者の約25%が実際には起きてない出来事を思い出して詳細な情景を語り始めるんです。
ああ、フォルスメモリーか。
そうです、虚偽記憶ですね。
これを結局、これって全く同じ構図が実際にアメリカでマクマーティン保育園裁判っていうので行われているわけですよね。
これもすごい面白い事件で、1984年から90年まで行われたアメリカの保育園の性的虐待疑惑に関する刑事裁判なんですけど、
これがすごい世界観なんですよね。
はじめは保育園利用者の母親が子供の肛門が腫れてることからどうしたのみたいな感じになって、
ひょっとして保育園の保育士、これマクマーティンっていう園長先生の息子さんがそこで働いてたんですけれども、
その保育士がひょっとしてうちの息子の肛門にいたずらしたんじゃないのかしらみたいな感じで告発されてくるんですよ。
で、児童への聞き取りとかが行われていくんですけれども、その中で有益な証言がたくさん集まってくるわけですね。
これはってなるんだけれども、児童への聞き取りが進めば進むほど証言の内容がすごいことになってくるんですよ。
保育園の地下には秘密のトンネルがあって、そのトンネルを抜けていくと悪魔崇拝の儀式の祭壇がある。
そしてそこから窓のない飛行機に乗せられた。あるいは動物の血を飲まされた。
そしてペニスの中にペニスを入れられたみたいな。ありえないわけですから。
ありえないんですけど、ありえないんだけど何やらそのようなことを証言しなきゃいけないかのような、
ある種ピグマリオン効果の悪い面が出ている可能性もあるし、
なおかつさっきも言ったいわゆるショッピングモールの迷子実験のように、
周りからこういう証言をしなきゃいけない空気感の中で偽装記憶っていうものが子どもたちに植え付けられていった結果、
口頭無形な供述っていうのがどんどん増えていってしまって収集がつかなくなってしまう。
これ結果として一応不寄属にはなったんだけれども、
保育園は一時閉園に追い込まれることにもなったし、
これもある種デッチ上げ事件とすごい重なる部分があるんだよね。
まあ今回の教示実験もあったもんね。
だから言ってる間にだんだん本当に自分に起きたことなんじゃないのかというふうな出来事が自分の頭の中に作り上げられていってしまうし、
それが結局児童もしかり母親もしかりで、
共にお互いが言ったことを再生産していく中で、
だんだんとそれが本物の記憶かのように頭の中で映像としてどんどん結びついていってしまうっていうふうな、
そういう悪循環も起きてたんじゃないのかなっていうふうなこともなんとなくここら辺から見えてくるんじゃないのか。
そう考えると彼らが行ったのは虚偽の証言であったのかもしれないんだけれども、
彼らの中ではいつの間にか嘘からそれが本当になっていた真実になってしまっていたんじゃないのかという、
だからこそ本人たちにも全く区別がついていない可能性があるっていうところが一番怖いわけです。
そこに悪意があって全くの嘘であることを自覚しながら言っているのであれば、
まだ救いがあるんだけれども、
彼らの中では本当に真実になっていたのであれば、これほど恐ろしいことはないぜっていうことなんですよね。
そういうことを考えていくと、結局この世の中で何を信じていいのかっていうのってすごく難しいなっていう。
僕らは認証抜きにして情報を取り上げることができないし、
必ず誰かから話を聞くっていう方法でしか情報を得られないじゃないですか。
自分の目で見たもの聞いたものだけでこの情報社会を生きていくことはできないわけで、
必ず何者かによって再生産されたものを受け取る。
これってもう完全にあのあれですよね。
その芥川龍之介のラショウモン的な。
ラショウモンじゃないな。
ヤブの中ですね。
読んだことないですね。
はい。じゃあ映画ラショウモンを見てください。
1950年の黒沢明のラショウモンです。
昔見た記憶はあるけど。
あれラショウモンって言いながらプロットのほとんどがヤブの中なんですね。
あれ芥川作品を掛け合わせてできている作品なんですけども、
あれだからこのベースとなるプロットはほぼヤブの中なんですが、
今現在も真相はヤブの中みたいなふうに言う言葉で使われるぐらいに、
芥川のヤブの中っていう作品は非常に結構際立って特徴的な作品で、
とある事件をいろんな人の証言で綴るんですけど、
全ての証言が食い違ってるんですよ。
で結局本当に何が起きたか誰もわからないわけ。読み手にも。
下手したら芥川本人にもわかってないぐらいの。
本当に起きたことは全くわからないんだけども、
それぞれがそれぞれの目から見たおそらく真実あるいは虚偽を述べていて、
結局のところ本当のものっていうのは何も見えないんだよねっていう。
同じ出来事について複数の人が何かを証言した時に、
結局どこに真実があるのかっていうのを僕ら印象抜きにして考えることはできなくて、
結局印象によって決めるしかないんだよね。
裁判員裁判も結局のところ一番真に迫ってるっていう印象を受ける主張は何なのかを考えるしかないっていう。
そう考えると、このデッチ上げっていう作品が鋭く見せてきたものっていうのは、
この世で信じれるものなんて自分含めて何一つないんだなという。
メディアはひどいっていうのは簡単なんだけれども、
メディアだけが全てじゃないなという。
結局そのメディアが応じたものを自分たちに都合よく受け取る人間もいるし、
好きで踊らされる人もいるしね。
騙されないぞと思って印象抜きにして情報を受け取ろうとしても、
結局そもそもその情報自体が誰かの印象によってバイアスがかかった情報である可能性があるわけだから、
僕らの世界の中で真実はいつも一つって言ったって、その真実が一体何なのかっていうのを知ってる人が誰もいなかったら、
真実ってないよねっていう。
出来事は起きてる。出来事は起きてるんだけども、その出来事を誰がどう見てどう解釈したかによって、
結局いくらでも物語は変わってしまうから、そう考えると本当に世の中怖いなっていう、もう本当にだからね、結論がないです僕の中では。
でも確かにそれって十分あり得て、僕もこの事件の内容をね、ちょっとまだ著書までは読めてないんだけれども、
いろいろ漁っていった結果、映画の中では完全な無罪で本当に何もやってなかったよっていう描かれ方をしてるけども、
どうやら実際の事件はそうじゃなかったんちゃうっていう、今で見たらそれはアウトだよねっていうとこだけど、
当時だったらちょいちょいアウトなことはちょこちょこやってんよね。だからそれが大なり小なりあったっていうところもあって、
なんかその時代だったりとか、その社会背景によってこの印象が変わってくるっていうのは、それこそニーチェの時代からずっと言われてることで、
ニーチェが何に言ったかっていうと、そのなんだっけな、善悪の悲願とか道徳の系譜とかその辺の本で、
世の中のことって解釈でしかありえないんだから、イデアなんてありえないよねみたいなことを、
近代哲学の中で言ってて、そこの系譜でずっと下りてった後にそのピエール・ブリードっていう人がディステンクションっていう本で、
ハビツスっていう面を出していて、人間が育ってった中の社会、それは家庭であったりとか、その本人から見た社会っていうところで、
自分の意見っていうものを形成していって、そのハビツスの中で意見を作り上げていくというのが、このブリードで言われたかんだけど、
僕これがよくわかんなかった時にどう解釈したかっていうと、学校の七不思議なんよね。
どこの学校にもあるけど、ちょっとずつ内容違うじゃん。でも大筋は一緒みたいな。
なんかトイレの花子さんだの、太郎さんだのさ、花子さんは3メートルの身長があるとかさ、いや実はミニマムで1センチしかないとかさ、
あとジェットババアだの、ターボババアだの、100キロババアだのさ、あのジェットジジイもいるしさ。
小学生の間で苦伝されてった都市伝説って、結局どれもがその本人にとっては真実として話していってるけれども、
どれもが全然違うみたいな状況で話されているし、結局その本人の解釈でしかないよねっていう話になっちゃうから、
でもそれって間違いでもないから、じゃあ何を信じるのって自分がどう考えるかっていうところを考えるしかないんじゃないっていう、
そこに落ち着くしかないよねっていうことになるのかなって思った。
だからね、結局できることって何かっていうと、自分が受け取ってる情報は印象なんだなっていうことを自覚する以外に何もないなっていうのが僕の中での結論なんですよね。
だから受け取ったものをそのまま丸飲みして、それがもう完全な事実であるって考えるんじゃなくて、
受け取ったものは結局印象込みのものであり、なおかつそれを自分の印象でもって判断しているんだなという、
そこをまず自覚することで多分発信者に回るときの心がけが変わってくると思うんだよね。
結局この出来事っていうのがババーンっていうふうにでっかく育ってしまったのは、
全員が正義の側に回ったつもりで印象をどんどん付加していった結果、話がでかくなりすぎてしまったんじゃないのかっていうところだと思うので、
そう考えるとやっぱりそうだな、朝ニュース見たときにまず自分が受け取ったものが印象だよねっていう、
そこをまず忘れないこと。で、その上でじゃあそれを再生産するよってなったときに、
当然必ず自分の解釈は乗っかってしまうんだけれども、それを必要以上に増幅させないっていう努力はできるだろうと。
それをまずはね、やっていかなきゃいけないのかなっていうふうに思いましたよという、そんなお話でございます。
あーもう寝始めようとしてるよ、そいつは。早いな。もう仕事終わったって聞いて、今もうマコちゃんのやる気ゲージが80%ぐらいから2%ぐらいまで落ちましたね。
あーもうマイクで顔が隠してる。
お願いします。
もう聞く気ないからもう壁打ちしますけど。
映画でっち上げ。子供は存在しなかった説です。
おー怖っ。怖っ。
でしょ?
ホラーだね。
怖い話なんだよこれ。ホラーなんですよ実は。
で、マコちゃんと同じで、加害っていうところを同じくちょっと見てたんだけども、加害って本当に相手を向いてると思うかっていう疑問をちょっと投げかけたくって、
例えば怒鳴るとか殴るとか嘘をつくとかっていろんなやり方があると思うんだけども、そういうわかりやすい暴力っていうところが加害だとしたら、
世の中ずいぶんシンプルになるはずなんだけれども実はそんなことはなくって、
もっとずっと見えにくい形で人は人を傷つけることができるよねっていう。
で、この映画を見ていてずっとちょっと引っかかっていたのはそこで、
この映画誰も子供を見ることをやめてしまった映画なんだなっていうところをすごくずっと思い描いてたんだね。
で、ちょっとこれがどういうことなのかっていうことをちょっと話していくんですけれども、
ちょっと自分の体験談って、詳しくはちょっと山山小話第1話、いじめはなくならないのかっていうところをもう一度ちょっと聞いてもらいたいなと思うんですけれども、
僕の小学校時代の話っていうところが、今回の映画とちょうど逆方向の話になっているので、
ちょっと対比させるのにちょうどいいなと思って、一緒にちょっと話させていただこうかなと思います。
で、まず映画の内容から語っていくと、この映画に登場する大人たち整理してみると、一つ共通点があって、
親が、誰しもがね、何かを守っているんですよ。
で、親が何を守っているか。被害者の親という立場。
で、学校は組織の信用、メディアは分かりやすい善悪、教師は自己防衛っていうそれぞれのものを守っていると。
で、全員それを守るために何かと戦っている。
でも、最終的に誰も子どもの方を向かなかったっていう結末になってるんですね。
で、子どもっていうのはこの映画の中心に存在しているはずなんですけども、どこかの方に外に押しやられてしまって、
子どもの名前で議論されているのに、子ども自身がどこにもいないっていうような構造になってきた。
で、これがね、えらい不思議なんだけれども、先ほどちらっと話で出てきたミシェル・フーコーさんっていう20世紀を代表する思想家の一人なんですけれども、
彼がね、この権力についてこういうことを言っていて、権力は暴力よりも規律として働くっていうようなことを言ってるんですね。
だから、直接を殴るんじゃなくて、物語とか制度の中に人を位置づけることということで、人を縛るんだよっていうこと。
例えば刑務所とか病院とか学校とか、人は役割に配属されることでその役割を生きるようになる。
これがさっき言ってもらったようなスキマだったりとか、後のハビテュス、ブリディのハビテュスみたいなところについても、この映画で起きていることはまさにそれなんですよね。
役割理論みたいなところと非常にかぶるんですけども、子どもが虐待された存在っていう位置に置かれた。
物語がそこで完成されて、そこに現実がどんどん当てはめられていくっていうのは、さっき真子ちゃんが言ってくれたようなことだったんだけれども、
でもそれって本来的には逆であるはずだよね。
普通、現実があってそこに物語が生まれていくんだけれども、この映画では物語が先にあって、その現実っていうのが物語に合わせて組み替えられていくっていうのが、
先ほどちょうど真子ちゃんが言ってくれたやつ。
ちょっと僕も同じような所感があったんだけど、告発した親っていうのは多分最初から嘘をついてたわけじゃないし、だけども、物語が動き出すとそれを止めることができなくなっちゃうと。
組織もメディアも地域の空気とか、その辺の自称正義マンの張り紙だったりとかっていうのも全部その後、一定の作られた物語の方に始められるっていうのが、このデッチ上げっていうところの一番の本当の怖さだったんじゃないかなと。
で、これ悪意ある一人の嘘っていうものじゃなくて、その善意を持った人たちが物語に取り込まれていくことで、その過程で子供っていうのがだんだん存在感を失っていって、ただの証拠の一つとして変わっていくと。
だから、それが何なのかなっていうところをちょっと考えてほしくて。ここで一個ちょっと自分の話をしていくんですけども、僕が小5、小6の時に体験してる話なんですけども、僕小5、小6の時、出席日数がおそらく10日前後ぐらいなんですね、2年間で。
で、なんでそういうふうになったのかっていう、正確に言うと小6は10日前後は確実。小5に関しては半年ぐらいはなんか耐えてたんだよな、確か。
で、そこでね、なんでそういうふうになったかっていうと、今回の事件と真逆の方向性で僕は教師によるいじめを受けていたと辞任してるんですね。
で、ちょっと細かいことを挙げるとちょっと切り難いんですけども、例えば僕の担任の授業で国語とか数学算数とか、あるいは図工とかの授業で、当時、例えば僕算数とかは非常に苦手だし、国語も漢字が本当に書けないですね、今でもそうなんだけど。
だけど、だからテストが悪いんですよ。たぶんクラスで1番か2番ぐらいに悪かったと思うんですけども、そうすると僕の回答がなぜこんなにもできないのかっていう授業構成の授業が始まって、1コマ。
で、次に算数で僕の算数とこの間のテストが、なんでこんな間違いをするのかとかっていうのが1コマ。で、図工だとこの構図が悪いとか、なんとかの構図が悪いっていうようなことが1コマみたいな感じで、僕の悪い例を元にした授業がされていたと。
で、プラスアルファで言うと、喧嘩をすれば、僕は当時からね、体は大きかったもんで、相手がどんな状況で何をして僕が激行したとしても、全部僕が悪いものになって、クラス会で、はい、オーマが今回喧嘩を起こしました。オーマ、クラスの全員に謝ってください。みたいな感じで、反省の便を僕だけ述べさせられたようなことがあったりとか。
あるいは、それに関して反論していくと、ヒステリックにギャーギャーギャーギャー怒鳴られて、お前は嫌しい存在だ、みたいなことを言われたっていうような記憶があるんですね。
この話をね、今回ちょっと改めて思い出したときに、その先生は悪人だったのかっていうのをちょっと改めて考えたんですよ。
で、正直ね、分かんないなってなったの。
で、あの先生が例えば僕を傷つけようとして計画的に行動していたかというと、多分そうじゃないと思うよね。
まあでも傷ついたのは事実だし、今でもちょっと感情的になる女性が本当に僕非常に苦手で、全然ちょっと言葉が出てこなくなるぐらいヒステリックになる女性と会話とかコミュニケーションが全然本当に取れないんですけども。
で、まあそういう傷が残ってるっていうのも事実ではあるんですけども、じゃあ何が起きてったかっていうのをというと、多分あの先生は僕という存在を見てなかったんじゃないかなと。
で、見ていたのは何かっていうと、クラスの秩序であったりとか、自身がクラスを統率できる統率力であったりとか、あるいは問題を起こさない管理ができているかどうかっていう事故の評価だったりとか、
あるいは授業がどれだほどできるかっていう評価。で、心理学に役割同一かっていう概念があるんですけども、人は役割を持つとその役割を守るために現実を歪めることがあるよっていう概念なんだけども、あの先生はおそらく優秀な教師っていう役割を持っていて、その物語を守りたかったと。
で、そこに合わない要素である僕という存在があった時に。
おだしょー なるほどね。
なんか多分理想とするクラス像みたいなのがあって、そこに多分僕はそぐわなかったんだろうなとは思うんです。
当時から見ると、一般的なパズルピースを組み上げていこうと思ったら、なんか一個だけテトリス入ってきたみたいな感じだった。
落ち着きだぞみたいな感じだった。
だからこそ、多分そこまで問題じゃないと僕は思ってたけれども、当時の先生からすると秩序を見え出すような存在に見えるはずだし。
僕はじゃあ、まこーちゃんも知ってるように、そんなに枠にはまるような人間でもないっていうのは、僕も自覚は十分してると思ってるけど。
おだしょー そこはその通りだとは思うよ。
多分、一言で言うと変なやつではあるっていうのは自認してるから、だからおそらくその先生の物語の中に僕が不要だったりとか邪魔だったんだろうなと。
だから問題児として位置づけて、問題児を諌める優秀教師っていうストーリーにするために彼女は奮闘してたんじゃないかなっていうことは思うよね。
だから映画とは逆方向のデッチ上げになってるんだけれども、映画ではこの親が教師を告発したんだけれども、
僕の話では教師が子供を問題児に仕立てていって、結局はちょっと僕が不登校になったりとかする。
でも当時の小学校っていうところでは、大きな問題にはさせてもらえず、クラスを変えてくれ、担任を変えてくれっていうのを5、6年生が引き継ぎだったんですよ。
そうだね、俺らの時代はそうだったよね。
1、2、3、4、5、6で同じ先生が引き継ぎする形だったんだけど、5年生の時にそういうことで不登校になったから、6年生の時に改めて登校したいっていう意思はあった。
だからこそ、せめて担任を変えてくれとか、せめてクラスを変えてくれ、そしたら多分あの人と関わらなくなるからいけると思うっていうような訴えをしたんだけども、それも敵わずに結局6年生もあまりいけなかったよね。
結局何があるかっていうと、方向は結局構造は結構同じなところがあって、物語が先にやってそこに現実が当てはまるっていうこの構造は全部一緒なのかなと。
で、問題なのがその当てはめられた側の子どもっていうのは、その物語から自分を守る術をまだ持たないんですよ。
今だったら、あの時こうしたときはなんかあのババアやり込められたなとか、とっちめられたなっていうのもいくらでも思い描ける。それで俺ツエーして遊びたいなとか、いくらでもあるんですけれども、当時はわからなかった。
癒やしという言葉の意味すらわからなかったから、何も反抗できなかったし、ある意味先生が作った問題児という役割を僕は遂行してしまってたんだよね。
どうしていいかわかんないから、それを怒りという形でいろんなものにぶつけたりとか、もちろん先生をぶつけてたし。
でもそれって反抗したっていう形になって、結局僕が不登校になって発言力を持たなくなると、それは僕が問題児だったってことを認めることにもなっていくと。
だから結局この非対称性みたいなのが我が家の本質なんだろうなと。
でもとりあえず今日ね、いろいろちょっと言ってしまったんだけれども、あの先生の怒りという話をちょっと中心にしたいわけではないし、怒りがないかと言われたらそうでもないんだけれども、
ぶっちゃけトラウマの一個だよねってことは認識してるけども、あの人を僕の人生にこれ以上関わらせたくないっていうのが本音なので。
そこで止まっててもしょうがないなっていうところなんだけども、でもこの構造っていうところは一つちょっと見ておいたほうがいいんじゃないかなと。
ある状況に置かれた人間がとりやすい行動としてその構造っていうのが起きただけで、あの先生がモンスターだったとか、あるいはその映画の中の親がモンスターっていうわけではなさそうなんだろうなっていうところが思った。
ここで一番最初のところに戻っていくんだけども、加害っていうのが結局相手を傷つけることではなくて、相手側を見ることをやめることなんではないかなと。
いうことをこの映画を見て思ったのね。
心理学的に言うとその自己愛的防衛っていう概念があるんだけれども、自分の中に不安とか無力感とか羞恥心っていうのを目をそらすために他者を道具化することがあるっていうものがあって、
例えばその被害者を作ることで自分の正しさを証明するとか、問題児を作ることで何ちゃら討殺力を証明するみたいな、同じような構造になっていて。
結局他者っていうのが自分の物語を補強するための材料にすると。
映画の親も僕の担任も、もしかしたら意識の深いところで自分の不安感だったりとか無力感だったりとか焦りみたいなところを埋めていくために他者を必要としてたのかなと。
私は他者だっていうことの物語を維持するためにそれをやっていたんじゃないかと。
これを言うと被害者をかばうのかみたいな声がきそうなんですけれども、でも逆にこの構造をちゃんとわかってないと、被害っていうもの自体がこの世から絶対なくなることはないよね。
あなたも知らんうちに加害してたっていうことが絶対に起こり得るよねっていうことで、あの人が悪い人だったとかっていうことで終わってしまうと、その悪い人を取り除けば問題は解決するのかっていったらそうじゃなくて。
その構造が社会に残る限り、絶対別の誰かが同じことをやる。
だからもしかしたら子供が本来だったら中心にこの映画でも僕の例でも絶対に来なきゃいけなかった。
でもそれが結局僕の例でもその映画でも子供が中心に絶対触れられなかったのね。
僕すごい印象的なシーンがあって、この教師ですら子供を中心に据えなくなる瞬間があるんですよ。
途中までこの映画の中の教師、でもそれでもあいつがちゃんと教員として指導をしなきゃいけないんだみたいなことを、シーンがあるんですね。
その後に弁護士さんに諌められて、でもこれって裁判ですからそこは飲み込んでくださいみたいなことを言われて、その後子供のことについて言及しなくなるんですね。
それが僕の中でものすごく印象的で、主人公が自分の判断で自分の自己防衛という物語に突き進め始めた瞬間だったんだなっていうようなことを思って。
ここから何が見えてくるのかっていうところで、今教育というのを見ていくとさ。
今ちょっと飛んでわからなかった。今陰境って飛んでたから、何を見ていったときに。
あのなんだ、教育現場っていうところを見ていったときに、僕らより前の世代ってさ、完全に教師の権力の方が強かったらしいじゃん。
もうその牧刀、牧刀か?
シナイ。
シナイか。
牧刀は死ぬね。頭かじまらない。岩流島みたいな。
岩流島になっちゃうから、シナイ持ってる体育教師みたいなのがこういてさ。
もう何かにつけたシナイで頭はたかれたみたいなことがいっぱいあったけども、逆に問題が起こったら先生に謝りに行くシステムだったじゃない。
だけど今はかなり親が強くなって、何か問題があろうとしたら、学校側が謝りに行くみたいなのが割と多くなっていって、
なんかこれってでも振り子が逆に振れただけで、本質は変わってないんだろうなっていうところ。
物語という言葉を借りるのであれば、昔は教師の権威っていう物語が支配してたけども、今は加害者の親っていう物語が力を持っていると。
でも結局これどちらにおいても子どもが主体になってないよねっていう。
昔は子どもは従うべき存在っていうふうになったけども、今は守られるべき存在として位置づけられていると。
でも結局子どもをある一定の役割っていうところに閉じ込めているっていうところがあって。
ここで一番問題になるのが何なのかなと思うと、昨今のSNSですね。
この被害者の親という物語の中に子どもが閉じ込められた結果、今現代において何が起こってるかっていうと、
学校内部で声を上げることができなくなってしまったっていうことが現実に起こっていて。
じゃあどうするかっていうと、外部で晒すほうが効果的になっちゃったっていう。
昨今のもうここ1年2年どころじゃない話になっていて、つい最近でも結構同じような事件が起こりましたけれども。
自分が受けたいじめであったりとか、あるいは加害をした事実っていうのが、結局ツイッターとかインスタみたいなところに投稿したほうが早く届くと。
つい最近起こった事件でも、その学校では揉み消されて、警察に行ったけども警察では学校の事件だからということで関与できなかった。
だけどSNSであっという間に拡散された瞬間、いきなり教育委員会と警察の上の人たちが慌てふためいて会見を始めるっていうような事態になっていて。
だからある意味SNSで拡散するっていうのが武器の一種になっちゃってるなと。
だから今の学校の権威制度っていうところの信頼がすごく揺らいでる証拠だと思うよね。
だから結局その正しい批判、世論という力を使って学校を動かすしか、学校と親っていうもの、児童っていうものが対話する機会を持てなくなってしまってるんじゃないかなと。
だから子供を本当に守るためにちゃんと親も学校も動けてるのっていうと、今の現状なんかすごくそこらへんが中心にできてないよねっていうところもちょっとこの映画を見て少し考えたよね。
で、教師っていう職業を考えた時に、もちろん30人ぐらいを同時に見て、全然違う背景の人間がいっぱいいて、発達の段階も違うっていうところを同時に関係を作りながら見ていく。
しかも評価、今回のその映画でもあったように、他の教師の目っていうのが色々ありながら、成功すれば普通の評価、でも失敗すればなんかもう世の中から断罪されるぐらいの勢いで何かヤイのヤイの言われるみたいな状況が今あるとすると、
結局教師は教師自身のことを守るための物語を紡ぐしかないし、親は自分が被害者であるとか自分の我が子が被害者であるっていう物語を紡ぐしかないとすると、これって結局すごく不健全だし、
あることであまり子供にとって良い結果を得られてないんじゃないかと。
何言ったかよく分かんなくなってきちゃったから、結論としてね、何か子供がいなかったんじゃないかっていうところに戻っていくんだけれども、結局この映画でも何があったのかっていうと、途中、
何だっけ、ひとしだっけ、ふとし、何だっけ、たかしだっけ。
なんかそんな感じのやつ。
そんな感じの、まあ少年Aとしましょう。
少年Aね、はい。
途中から誰も少年Aを守るための話を全然しなくなったよねっていうのがこの映画の本質だったんじゃないかなというところなんです。今いろいろ言ったけれども。
で、この事件が起きたとかこの映画の中心っていうのは学校というところであって、学校っていうのはあくまでも子供を中心に据えて事業を起こしているっていう場所なので、そこから子供がいないように議論しちゃいかんよねっていう。
結局、親も親の立場、学校も学校の立場。
この子のために何が一番不可欠なのかっていう議論に至ってなかったっていうのが一番この映画で怖かった話なんではないかなというオチでございます。
はい。まあでもそうですね、本当に、要は子供の健全な育成っていうのが家庭と学校の協力によって成り立っていくっていうのがおそらく教育機関、公的な教育機関である義務教育の小中学校の基本だとは思うんですよ。
ただ、結局この出来事の真相が一体どこにあったのかっていうことを明らかにすることっていうのは、裁判でもって賠償金の請求を通すか通さないかっていうところではないはずですよね、目的は。
そうなんだよね。
だからその過程で結局、物語の補強をするために映像を公開するだとか、諸々やっていったときにそれが本当にこの子のためになっているのかどうかみたいな、そういう視点は誰も持てていないよねっていう、何だろうな、虚しさが常にありますよね。
そうなんだよね。
事実認定は必要だけど。
この映画でもさ、結局この子の柴崎子を演じる母親が、もしかしたらかなり教育ママ的なところの抑圧が強すぎて、子供がそういう言い訳をせざるを得なかった状況があったんじゃないかっていうのもあったし、
で、実際の事件でも、もしかしたらそのマコチさんが言っていたような状況になってたのかもしれないんだけれども、最初はなんかちょっと虚偽かもしれないっていう形で精神科の病棟に入院、入隊を繰り返してたっていう状況があったらしいんだけれども、
これちょっと読んでいくと、結構後半はガチ目になんかその辺トラウマになってたんじゃないかなっていう感じの治療がされてたらしくて、だんだんとその自己同一性みたいなのがちょっと少年の中で保てなくなっちゃったんじゃないかなっていう入隊の仕方をしてたみたいな記述があったのね。
そうすると、結局誰を守るための裁判だったんだろうっていうのがすごく虚しくなったっていうのが、このWikipediaだったりとかのやつを見てて。
そうね。だからやっぱり、話がおひれついていろんな人がそこに乗っかってくることで、本質的なものがだんだん失われていってしまうっていう、目的、手段が目的化していってしまうっていうところがあるのかなっていう気はするよね。
だから、この子の育成のために、この子が健全な生活を送るために事実を確認して、悪いことは悪いと、このことを正さないといけないという、そういう目的のための裁判のはずなんだけれども、いつの間にか裁判で勝つこと、つまりは賠償金を得ることだと、そういったところにこそ意味合いがどんどん強くなってしまうっていうのは非常に皮肉だし。
で、その結果結局その一番重要なその子が透明化されていくっていうのもすごく残念だよねっていう、すごい感じますね。はい。いやー、骨太なドラマでしたよ。
いろいろ考えさせられますね、これは本当に。
これはもう皆さん必ず見てくださいと。見た上でね、あなたならどうですかっていう、どう思いますかっていう。これはもう本当に、そう、なんか悪い悪くないの世界で見るんじゃなくて。
どうしてこんなことが起きるのかっていうのをそれなりに自分たちなりに考えていくという、監督の解釈に左右されずに考えてみるみたいなところが重要なのかなと。
結局だからもう全然2003年の出来事ですから、このクダンの親御さんもおそらく当時のこの児童Aに関してもおそらくは普通に存命でしょうし、どこかでどういかしてまた速攻の裁判の後も暮らしているわけですよ。
っていうふうに考えるとね、一体何が起きてそんなことが起きてしまったのか。何が引き金になってこのような事態になったのかっていうのをやっぱり考察してね、初めてね、なんかこうこの事件に意味が生まれるんじゃないのかなという気はしますね。
もう2時間経っちゃうんでね、もうそろそろ締めましょうかね。何か言い残したことがあれば。
そうね、今回ちょっと真面目なうちいいですか。いつも言ってることではあるんですけども、子供に関して親と思ったら189を押しましょう。
趣味について語る知事がポケットに沼を。このポッドキャストでは、ミンパースナリティーと呼べられ、あれいる趣味にハマってしまう。つまりブルコツスランプマオゲスタニーメディアナスポーツからマイナーな食品に至るまでゆっくり語り続けます。
一早く。
でございます。
そうです。そうです。一早くです。大事です。本当に。
困ったらね、困ったらというか、ちょっと親っていうだけでもいいからねっていうことですよね。
そうです。
でも本当に年取れば取るほどね、ここは国の宝だねって思いますね。
本当に。
いや本当だよ。
その後どういう人生を送っていくかっていうのが、おそらくは子供の頃には本当に詰まっているしね。
彼らがやっぱり豊かに生きていくと、自分らしく日々希望を持って取り組んでいく社会生活っていうのが、日本という国を作ってるわけですから。
本当に基盤を作るね、小中学校みたいな義務教育段階での子供たちが、やっぱり伸び伸びと明るく笑顔で暮らしてくれなきゃ困るわけですよ。
だからそのためにはやっぱりね、先生一人でどうこうなってできるわけないから、学校家庭地域というね、この鉄のトライアングルで育てていかないといけないわけなんですけど。
どっかでなんか不健全な状況に陥った時にですね、それを修正できるようにしないといけないなという気がしますね。
そうね、本当に第三者、ちゃんと学校に置くべきだし、地域にも置くべきだし、その親の方でもそこにアクセスできるようにするっていうのが本当に大事なんだろうなと思いますよ、本当に。
なんかね、やっぱりこういうのを見れば見るほどやっぱりね、小学校でも教科担任制やったほうがいいんじゃないの?って思いますよ。
いや僕はね、ずっとそう思うよ。
結局もうね、親の対象にね。
だってタスクが多すぎるよ。
あのね、どう頑張ったって一人の先生が何十人を常にこう見て、見るっていうのはただ目に収めるんじゃなくて、その精神状況だったりとか発達段階だったりっていうのも全部複合的に見て、その一人一人に合わせたですね、個別最適な支援っていうものを常に展開するっていうのは相当難しいですよ。
で、しかもやっぱり必ずね、人間ですから見落としは生まれるわけですよね。
で、そうなった時にクラスの中で全く焦点に当たってない子がいた時に、その子不憫ですよ、本当に。
やっぱりこういろんな人が見ていく中で、どこかで救い上げてくれる人がいてくれるっていうのは非常に救いになるだろうし、だとしたらやっぱりとにかく教室に出入りする人が多ければ多いほうがいいわけですよ。
そこが増えたら多分こんな事件も起きないじゃないですかっていう気はするんですよね。
そうなんだよね。
どうもやっぱり日本はこの小学校、特に小学校ですね、担任が全部追うよっていう、そういう価値観というか、授業観というか、学級観というか、そういったものがあるんで、そこが何か崩せないっていうのはすごくもったいないな気はしますね。
もっといろんな人で見ていきましょうね。
そうなんだよね。
うん。
ね。
よくないと思うんだよな、本当に。
そう。
だからお前自身に起きたね。
雑な感想しか出てこない。
お前自身に起きたこともやっぱり、出入りする人が多ければ全然違う展開になっていたであろうことは容易に想像がつくしね。
やっぱりそういうところなんじゃないかっていう。
結局当時副校長になってた1,2年生のときの担任、2,3年生のときの、3,4年生のときの担任に、
本当に僕が今時間あるかつって言って、今もう俺は困り果てているということをあぽなしでとつって、3時間くらいその先生と話した記憶はあるんだけれども、
でも結局何も変えられなかったんだよね、その副校長の先生ですら。
はいはいはい。
だから、ある意味その学校の配置されている人員たちに権限がないっていうのもすごくなって、今思い返せば考えられるんだよね。
そうだね。またやっぱり特殊な組織ですからね。ほぼほぼ横並びっていう世界だからね。
難しいんだろうな。いやー、なんかね、ちょっと本当に感じるものがありましたね。
ありましたね。ちょっとあと少年へと僕の背景が若干被るっていうところもある。
そうだね。
僕は虐待を受けて育ってはないんですけど、
あれでしょう。
のびのびと、ある一点においてね。
はい。
祖先にみたいな。
祖先にみたいな。
いやー、ありましたね。
でもあれですからね、祖先にの下りはどうもちょっと実際は本当なのかよくわからないっていう世界になってますよね。
僕の場合は事実です。
事実なんでね。
そこはもうちょっと。
若干の虚偽は含まれてますけど。
でも事実は事実ですよ。
外国人の祖先を持つっていうところは全然虚偽ではないです。
虚偽ではないですか。
若干の偽りはありますけど。
まあいいじゃないですか。いい個性が手に入ってよかったね。
いい個性。よかったよかった。
僕を不思議ちゃんたらしめるネタがね、また一つ増えてしまったっていうのはね。
はい。気になりますね。
じゃあちょっと、次回どうしようかね。
リクエストなんか来てんの?
えっとね、来てなくはないけどって感じかな。
そうなんだ。
特にやりたいものとかあったら全然。
本当?そしたらメゾンとヒミコやんね。
メゾンとヒミコやんの?
俺まだ全然そんなに興味湧いてないからいいよ。
それはどっちのいいよ。
やらなくていいよ。
やらなくていいよ、まだ先生。
なんかちょっとまだ盛り上がってないね、そこまで。
盛り上がってないか。
もっとなんか盛り上がりたいな。
え、でもせっかくホウが来たし、もっこホウが。あれは?ミドナイトスワン?
ああ、言ってたね。
あれ、衝撃だった。
あんままだ来てないね。
あんままだ来てないんだよね。
でも全然何もなかったらそれでいいかなって気がしますね。
メゾンとヒミコよりは。
来てる?
見てみようかなって気にはないです、ミドナイトスワン。
あとちょっと最新作ですぐ見れるやつで言うと、This is AI。
ああ、ありますね。
ネットフリーな。
なるほど。
え、そういうテーマで行くってこと?
いや、たまたま上げてったらそうなったっていうだけ。
そこたまたまで並ぶっすね。
あれもいいね、きっとうまくいく。
ああ、そうね。きっとうまくいくもいいね。
ちょっと教室ながりでさ。
そうだね、それがいいかもしれないね。きっとうまくいくでいこうか。
きっとうまくいくにしようか。
ランチョルダースでいきましょう。
じゃあ次回はおそらくきっとうまくいくをやるであろうという感じでいきたいと思いますが。
よろしいですかね。
はい、というわけでね。
じゃあ締めますよ。
はい、踊ろうぜ。
まだ来週も迎えてないのよ。
来週か。
リスナーの皆さん見てからね。名曲ぞろい。
僕もすっかり気分がインドだった。
はい、ということでね。お聞きいただきましたが、リールフレンズイントーキョー。
今回は、なんだっけ、なかなか長かったんでね。
ノンフィクション映画っていうね。
デッチ上げ、真実はいつも一つなんだけどもということでお送りさせていただきました。
番組では投稿フォームを通じて寄せられた感想やリクエストを、
実際に番組のテーマや構成に反映しながら制作しております。
面白かった、ここは引っかかったなど、短い言葉でも結構です。
あわせて、Xでハッシュタグリールパローをつけたポストも受け取っています。
いただいた声は番組内で紹介させてもらうこともありますので、ぜひあなたの声をお届けしてください。
公式エクサカウントはリールフレンズイントーキョーで、検索どしどしフォローしてください。
リールフレンズイントーキョーはラップル、ポッドキャストをはじめとする主要なポッドキャストアプリで配信中です。
本日のお相手は誠。
大間でした。
それじゃ、またね。
またねー。