だね、なんかwikipediaに署名が載ってるね。
ああ、そうですか。
そうそうそうそう。下のほうのね、真ん中よりちょっと下ぐらいに拷問された際に、11月の6日のやつなのか?分かんないけど、
グイード・フォークスって書いてる署名が、本当に多分ね、力入りなくて、
もうヘロヘロやん。
ボロボロの状態で多分、サインさせられた時のあれなんだろうね。
まあまあ、強要されてるんでしょうね、多分ね、相当な拷問の末にね。
ちなみによく言う、ヘイガーイズのガイはガイ・フォークスから来てるらしいですね。
へー。
面白いですね。
あ、そうなんだ。
そうそうそう。
じゃああれの正しい答えは、俺ガイ・フォークスじゃねえからっていう、そういうことなんだね。
ガイっていうのがだからこう、まあ嘲笑的な意味でね、変なやつとか変な男を指して笑う言葉として使われていたのが、
単純な男に対して、男種に対してヘイガイっていうようになって、
今ではもうむしろ男や女のくくりなく、なんかたむろってる連中というか、
人間のまとまりに対してヘイガイズっていうようになったという感じですね。
はー。
はい。
とりあえず、そのガイ・フォークスっていう人間がいたよと。
イギリスにおいては一応そのよく知られた人物であり、反抗というかレジスタント的なね、意味合いの愛好になっていて、
今回出てくるこのVという男は、何かというとその、11月のですね、ガイ・フォークスデイの話をし、
かつガイ・フォークスの面をかぶってですね、さまざまな契約を図り続けるという感じなので、
この作品を見る前にまずガイ・フォークスって誰っていうのをある程度知った上で見たほうが、
たぶんスムーズに楽しめるんじゃないのかなっていう気はしましたね。
僕、今の今まで最初のガイ・フォークスの流れ、何の意味で挟まれてるのか全然理解できてなかった。
あれはだからね、そういうことなんですよ。
すごいどうでもいい、なんかもうちょっとジャブ的なところ挟んでいい?
いいよいいよ、もう早速ですか。
ガイ・フォークスってさ、もしかしたら赤丸ほっぺの元祖なんじゃね?
赤丸ほっぺ?
あの萌えキャラとかにこの辺にさ。
丸いの描かれてるやつ?
そうそうそうそう。ガイ・フォークスのお面もさ、赤丸ほっぺついてんじゃん。
ついてるけどさ。
ちょっとこれは萌えっぽいと意識してるのかな。
部位がやってることも非常に宗教的な側面があるんじゃないのかなっていう気がするよね。
そもそもファシズム政権自体も宗教的なアプローチっていうのは絶対あるんですよ。
例えば全体で一つのように束ねないといけないから、
国民っていう一つの枠組みっていうのがめちゃくちゃ便利なわけじゃないですか。
そしたら私はその国民であるっていうことをしっかりと意識しないといけないわけで、
そのために物語がめちゃくちゃ役に立つよねってお話だと思うんだよね。
2005年の作品というふうに言いましたけれども、
2001年にはアメリカの同時で初テロがあったわけですから、
アメリカにおいては対テロ防止法ができたわけじゃないですか。
これは監視対象っていうものを大幅に増加するっていう法律なので、
テロを警戒するためにっていう理由はあるんだけれども、
国民たちのプライバシーっていうものが一気に国家の手によって阻害された出来事でもあると。
イギリス、ロンドンでも2005年には爆発事故が起きてるらしいんですけれども、
テロに対してより監視を強めるっていう国際的な意見の高まりなんかもあって、
監視カメラを増やすとか、そういう対応をする国っていくつもあったけど、
イギリスなんかも監視カメラが多い国としてめちゃくちゃ有名なんですけれども、
ただね、国民の安全を守るためとか、それぞれの一人一人の安全を守るためっていう大義名分はあるけど、
その大義名分のために国民そのものの自由を奪っていいのかっていうところは、
非常に意見が分かれるところというか、人権的なところを考えたらそれはダメだよねになるんだけれども、
やっぱりそういう節ってありますよねっていうところがあるんですね。
つまりは何が言いたいかっていうと、
宗教的なところで何を信じているのかとか、何を重視するのかっていうところの物語を一つに絞り込むことで、
ファシズムの政権っていうものは国民の意識を統一してより強い力を生み出すっていう、
そういう構図がそこにあるんだけれども、そのためには当然それぞれに同じことをしてほしいから、
その過程の中で様々な自由を削ぎ落としていくんだよね。
だから国民側は自分が自由を差し出すことによって安全を得られるっていうことを重要視するのか、
あるいは安全なんかより自由が大事なんだって言って、それを拒むかどっちかをそれぞれに選択していくんだけれども、
全体主義国家が完全に成立していたらそういうこともできないよねと。
でも今なんでできないかって言ったら、それはどこかのタイミングで自由っていうものを政府に預けたからだよねともいえる。
だからその辺、結局本作におけるアダム・サトラ側っていうものが、
ただの首のすげ替えだからね。
そうそうそうそう。強いものにつきしたがってるだけだよねっていう。
だからVになりきったつもりで、崩れていく政府っていうものをみんなで見守る。
それって結局、ただ単純にVに洗脳されましたっていうふうに言っちゃってもいいような影響のされ方だから。
でもそうじゃなくて、みんながあの時にお目を外し始めたっていうのは非常に重要なんじゃないかなと思っていて、結局Vは最後まで自分が正義だとは思ってないわけですよ。
自分がやってることは復讐だから、前時代のものだから、新時代には持っていかないとか言い出したり。
あくまで彼は自分自身がやりきれなかった思いっていうものを、自分を傷つけた者たちに請求するというか返済するというか、しっかりぶつけていくっていうことをいくらにやっていってるわけじゃない。
だからあくまで彼は正義じゃないし、自分でもそれがわかっているわけですよ。
だとしたら最後にVがやりたかったことは、自分の後援になってほしいんじゃなくて、あくまで一国民としてお前たちにちゃんと責任を持って発信をしてほしいんだっていうことを言いたかったんじゃないかな。
だから本作っていうのは、完全懲悪っぽいわかりやすいアクションも入ってはいるんだけど、テーマとしてはそんな表層を撫でてるわけではなくて、
僕らが本当に自由であるっていうのはつまりどういうことなのかなっていうのを考える機会にしてくれてるんじゃないのかなっていう気はしました。
だから自由か自由でないかっていうお話は、痛快なアクションの中ではあまり焦点化されないんだけれども、
考えてみると本当の自由って意外と難しいよねっていう。
結局何かを求められるし、求められることで安心するしもあるし、伝えたいことが伝わらないもあるしとか。
諸々考えると、いや、だったらもう人任せに染められて何かを信じるんじゃなくて、自分の目で見たものは自分で信じて自分の言葉にしなさいよ、あんたらと。
お面被ってる場合じゃないでしょみたいなメッセージを僕はちょっと感じましたよというお話でした。
なるほど。
はい、以上です。
やべえ。
ダダ被った。
本当に?
マジ。
本当に?
ちょっと切り口は違うけど、ほぼほぼね、オチが一緒になっちゃってやべえって思ってる。
マジか。
まあいいや、とりあえずちょっと僕の切り口から似たようなところの話に、ちょっと重複になる部分が多いんだけれども、
僕はこの映画を見て、多分この映画をどういうふうなメッセージをしたいのかっていうところで言うと、
匿名の英雄を私たちはどこまで許してしまうかっていうところがテーマになってるのかなと思ったよね。
まず大前提として確認したいのがこの部員の動機なんですけれども、
独裁政権に対する怒りって見えるんだけれども、もうちょっと丁寧に見ると全然違っていて、
彼は鉄頭鉄尾、市民を救おうみたいな感じで思って動き出してはないんですよね。
国家を良くするための設計図を持って動いてるわけでもないと。
すべては一番最初の原動力っていうところは、かつて自分から奪われたものに対する復讐だと。
収容所で人体実験を受けて、人間としての尊厳を奪われたと。
だからそれっていうものを復讐するっていうところが結果的に国家転覆なのであって、
原動力的には彼がこの国がダメだから再生しようっていうところではないっていうところが
一番最初の気づいた点というか。
だから反国家という立場はあくまで結果論で、
彼は国家と戦っているように見えるけど、内面では最後まで制度に対する被害者の構図っていうところが
全然ずっと変わってないよと。
Vは思想化じゃないっていうところも指摘したくて、
思想化だったら壊した後にどういうふうな国家を作り上げていくべきなのかっていうところを語っていくんだけども、
Vには結局それがないと。
被害者の延長線上にいるだけの存在になっていて、
でもいろんなところの引用、劇中でこの思想的なセリフは結構言ってるんですけども、
シェイクスピアだったりとかの引用してみたりとか、
許容のある言葉みたいなのが彼を覆っているんだけれども、
でも実はその復讐者っていうものの上に被っている仮面がその引用と結構被っていて、
彼自身が本当にしたいっていうところはただの復讐なんだけれども、
それを許容という仮面をかぶって覆い隠しているっていうところも一つの仮面。
最もらしい思想だったりとか最もらしい論議みたいなのを言うことによって、
結局復讐やんっていうところを覆い隠す仮面になってるんじゃないかなと。
EVとの関係性なんですけれども、
普通のこれにありがちな物語とかだったら、
ヒロインとの出会いっていうのは主人公を変えるきっかけになって、
復讐やめようよとか、人を愛することを思い出したから復讐はやめて、
どちらこちら逃避行したりとか、一緒に国家と戦おうぜみたいなストーリーになっていくっていうのが
よくあるパターンなんだけれども、結局このEVとの関係っていうのが、
Vの行動を最終的には1ミリも変えずに遂行されていくと。
ちょっと迷うシチーンっていうのは最後の方で結構あるんだけれども、
行動自体は何一つ変わっていないと。
EVの存在っていうのが、Vを復讐者から人間に戻すんじゃなくて、
彼自身の物語を完成させるための第二次装置として使ってるっていうのに過ぎないと。
だから彼は最後の最後の面を絶対に脱がないし、正体も明かさないと。
ロマンチックには見えるけれども、これって結局責任回避だよねっていう、
EVに押し付けてるだけだよねっていうところが見えてくると。
責任回避っていうのはちょっと厳しい言い方になるかもしれないけれども、
正体を明かさないっていうことは、やっぱり責任を持たないっていうことだし、
仮面を外さないっていうことは、個人としての自分っていうのを引き受けないから。
だからEVに対する告白めいたセリフですら、
仮面を絶対に外さずに、ある意味洗脳したEVを誘導するためのロジックとして扱っていると。
確かにEVが変わったっていうのは事実なんだけれども、
Vの行動原理自体は変わっていない。
だから恋愛だとか何とかっていうことは言ってるんだけれども、
決して対等な立場で言ってるわけじゃないよねと。
しかもさっきまこちゃんも言ってたように、収容所に入れて恐怖を軽減させて、
ある意味覚醒みたいなことをさせていくんだけども、
これ結局支配の一層面であって、対等には見てないと。
で、その苦痛、受けた苦痛、自分が受けた苦痛っていうのを再現することによって、
そのEVとの関係性を再構築するっていうような関係になっている。
で、最後の方にちょっとなるんだけども、
この匿名の英雄っていうのが意味があるのかっていうところなんですけれども、
非常に匿名の英雄ってめちゃめちゃ危険な状況でもあって、
まずその検証できないこと、批判できないこと、
あと誰も責任取らないよねっていうこの3つの側面があると思うんですけども、
よくあるこのネット文化でもよくある話なんですけれども、
仮面の中でこの象徴的なシーンで言うと、
増殖してたくさんのV4、ベンデッタVが葛藤するっていうシーンなんですけど、
映画的にはすごく鳥肌立てでワーってなるシーンなんだけれども、
でもあの瞬間Vという存在が一人の人間であるところから、
批判不可能な象徴として変質するようになったと。
全員が同じ仮面をかぶった瞬間、誰がVなのかわからないから、
誰の意思で行動してるかっていうその行動の主体が消えるし、
誰の責任で動いてるかっていうその責任の所在が消えるっていうことが
行われる。これっていうのがよくある新和化の一つ、
あるいは思考停止とも言えて、理念の共有みたいなことをVは結構よく言ってるんだけれども、
それがまさにこの映画が仕掛けてる和化なんじゃないかなと。
この理念の共有に見えるけれども、実体は評価が不可能になってるよね。
特命性を理念共有するんじゃなくて、理念を検証不能にして
言っているっていうことが行われてるんじゃないかなと。
だからすごく実は、まこちゃんもさっき言ってたように、希望のシーンに見せかけて、
実は不穏なシーンなんじゃないかっていうところがありました。
最終的なんですけれども、Vがやったことを一言で言うと、
暴力で生まれた国家に対して暴力で応答したっていうことだけ。
新しい政治体制みたいなのが示されないし、関係性っていうのも生まれない。
残ったのは、破壊されたっていうことが許可されたっていう状況だけ。
独裁を織らせた革命とも見えるんだけれども、その後の世界っていうのが一切描かれていない。
議会が破壊されて、官司中が仮面をかぶって、最終的に仮面をちょっと外して終わりと。
次の日の朝、誰が何をするのかっていうところは一切描かれない。
だから逆にこれを意図して描かなかったんじゃないかなと思うね。
もし描いてしまったら、Vがただの危険人物になってしまうし、
その翌朝っていうところを描くと、もうそこには絶対カオスしか残らないわけですよ。
誰が統治するんだとかっていうところが、革命の後って絶対何が起こるかって内紛が起こっていく。
そうなっていったらVの行動っていうのは肯定できなくなってしまう。
だからこの絵がここで終わったんじゃないかなと。
カルタシスをしっかり守っていくためにも、あえてその先を見せないっていうところになっている。
結局この絵が何なんだっていうところなんですけれども、
革命の肯定でも暴力の正当化っていうところでもなくて、
その正義を名乗るっていう暴力がどれほど簡単に英雄化されてしまうかっていう、
この不都合な現実っていうのを、いろんな形で示した映画なのではないかと。
だからある意味観客もこれに巻き込まれていて、
そのVがかっこいい、すげーってなった瞬間、Vの仮面を観客も被ってる構造になる。
だからそのVの理念を共有したと思われた存在になるっていうのが、
この映画のトリックというかミソなんじゃないかなと。
だからそれに観客が受け入れてしまうということに気づいてほしい。
だからそれが実は新たな思想の共有の始まりであって、
やっぱりその自由を求める仲間、要するにその自由という思想を共有するために集まった仲間の中でも、
全く命を自由にできていないという、そういうアイロニーがそこにあるので、
やっぱり自由っていう言葉はなんだろうな、内実が伴っていないのに使ってはならないなと。
自由って押し売りし始めたったらやっぱりそれは自由でもなんでもなくなってしまうものなので、
その辺りをやっぱり見つめ直したほうがいいんじゃないのかなっていうのを僕はやっぱりVの自由を目覚め拷問で思ったよっていう。
そうね。その辺の話がさ、結構これニーチェの思想をすごく語ってるんじゃないかなって。
これもドイツがニーチェをすごく引用して悪い方に使ってたんだけれども、
ニーチェっていうのは超人であったほうがいいよねっていうようなことを言ってるんだけども、
超人っていうのが何かっていうと、世の中っていうのは相対的なものでしかないと。
現象があって、そこに解釈がある。解釈っていうのは千差万別、人それぞれいろんなものがあるわけだから、
それまで哲学的に語られてたイデア的な、絶対的な真理っていうものはあり得るはずがないじゃないかみたいなことを言って。
そこで、それっていうのは各あれかしと考えられる思想を持つ超人っていう人がいるんだったらすごいよね。
まあでも、そうじゃなくても別にそれはそれだよねっていうのがニーチェの質問の一つなんだけども、
それをナチス・ドイツが悪いように引用して、ニーチェって結構短文で語ることが非常に多いから、
非常に良くも悪くも引用されるんだけど、そこでナチスが言ってたのは超人であるっていうのは、
我々アリア人であるというようなことで団結させていったんだけれども、
この映画の中でもやっぱりこの自由っていうのと解釈っていうのが、
絶対的なものではなくそれぞれの解釈であるべきだよねっていうところが、
一番多分訴えたいメッセージなんではないかなと。
だからその自由であるっていうのが、誰からと比べてとか、
一般論的にはこれが自由っていうわけじゃなくて、あなたの中の自由って何ですか。
じゃあそれがそうあるのであればあなたは自由なんじゃないですかっていうところに落とし込められるんじゃないかなって思いました。
やっぱり政治思想をぶつけ合うっていう行為は、
己の心情をぶつけ合うことになるわけですから、要はそれって宗教戦争なんですよ。
だからあなたの考える真実、あなたの考える自由、あるいはあなたの考える安全、安心、
それが結局形が違うから殴り合いに発展してっちゃうんだなっていうのを僕はすごく感じたので。
だからちゃんとお互いの神様の自己紹介をするわけですよ。
私の宗教の神様は自由なんですよと。
この自由っていうのはこういう中身なんですよと。
いう話を展開していったときに、相手も自由を重視していたとしても、
その神の形が違えばやっぱりぶつかり合いになっていくので、
丁寧にその中身を対話していかないといけないんだろうなっていうのはすごく思ったんで。
やっぱりそのためには自分の目で見ないといけないわけですよ、他の人からね。
だからやっぱりマスクの下の顔が一体誰なのかっていうのは、
Vのマスクの顔の下はやっぱりそれぞれの顔があってほしいんですよ。
上から塗り固めたね、みんな同じ顔をしたや同じ意見を言うような、
そういうスタンプ人間になってはならんなというふうに正直思いましたね。
だからその最後のイビーのセリフっていうのが、
反面教師的なこのセリフだったのではないかなっていうのをすごく感じたんだよね。
そのVは誰だっていうのをケイジが聞いた後に、
私の父であり母であり兄弟でありみんななんだみたいなことを言ってるけれども、
実はそれってVっていう思想を受け継いだその自由を主張するっていう、
そういう感動的なセリフっていうわけではなくて、
逆にそれを言うことによって、
Vになっているっていう不自由さをちゃんと感じれてるかいっていう、
そういう意味にも多分取れるのかもしれないなと思った。
そうね、いろんな取り方ができるなとは思いますね。
もちろんね、文字通り見ていけば、自由のために戦うという行為は、
誰しもが持つ権利であり義務であるみたいな感じに読むこともできますしね。
彼はアイコンとして死んでいたね。
ガイ・フォックスの仮面の男のVは、
もう自由にために戦って死んでいったんだけれども。
ただ、その側面に焦点は来てね、
彼が何度も言ったようにマスクの下にあるのは顔でも骨でも肉でもなく理念であると、
言ったように、その自由を求めるという理念。
それこそがVなのだとしたら、みんながVだよねっていうふうな、
そういうかっこいいセリフなんですけれども。
でもまあね、その仮面の下に隠れているその個性というか、
ここの思いっていうものを大事にしていきたいなと思った次第であります。
地味に来るわけですよね。
いかにして政府は個人の自由を狩り取っていくのかみたいな。
割と身近な話な気はしますよね、本当にね。
まあそうだね。
小規模な国家っていうところじゃなくても、
クラス単位であったりとか、学校単位とか会社単位とか、
そういうところでも結局は大多数の人間が幸せになるためにっていうところで言うと、
同じ構造っていうのは絶対的に友達グループでもあり得るだろうし。
秩序のためにはある程度自由を制限する必要があるのは当然なので、
でもそれを結局どこで声を上げるのか、
これ以上は譲らないぞっていうラインは一体どこにあるのかっていうのを見極めていくことっていうのが
やっぱり非常に難しいんだよね。
そこのブレーキが効かないとあっという間に
行き着くとこまで行き着いていくっていうのが人類史の中で何度も見られてきているわけですし。
もう大体そういうときには強い言葉だったり、あるいは宗教的な何かをみんなで信じようっていうふうな力が
働く傾向はあるんじゃないかなというふうに思いますんでね。
ぜひちょっとそのあたりも考えていく必要があるんじゃないかなというふうに思って見ていました。
というわけで、今日はこんなところなんですけれども、何か次回は
でっち上げやるでっち上げ。
でっち上げやろうか。
ちょうど何を信じるかみたいな話になるんじゃないかなという。何を信じるかつながりで。
でっち上げよ。
じゃあでっち上げで、次回は邦画を久々にやっていきますので、
邦画ファンのみなさんも楽しみにお待ちください。
もうよだれ垂らして待ってる。
ほんとだよ。よだれでピッチャピチャになってる。この辺ピッチャピチャになってる。
胸痩せみたいになってる。ピッチャピチャになってる。
リスナーピッチャピチャになってる。
まあそんなわけで。
じゃあ終わりますよ。
というわけで、今回はですね、リスナーリクエスト政治系アクション映画
V for Vendetta 仮面の下はどんな顔?でお送りいたしました。
番組や投稿フォームを通じて寄せられた感想やリクエストを
実際に番組のテーマや構成に反映しながら制作しております。
面白かった、ここは引っかかったなど、短い言葉でも結構です。
あわせて、Xでハッシュタグリルパルをつけたポストも受け取っております。
頂い声は番組内で紹介させてもらうこともありますので、
ぜひあなたの声をお届けください。
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本日のお相手は誠。