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2023-01-12 1:13:51

第百二十回:Tak.さんと「アウトプットとインプット」について

00:00
はい、うちはセキュアスト第120回ということで、今回もゲストにたくさんお迎えしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
えーと、簡単なライフハックニュースなんですけども、スクラップボックスドリンクアップというリアルイベントが3年ぶりに久々に開催されるということで、
1月の31日に渋谷で行われるみたいです。残念ながら遠すぎて僕は多分行けないと思うんですが、
多分開発者の人の話を聞けたりとか、ユーザーのLT、Lightning Talkでお手のかな?
あってると思います。
僕中崎LTってことを使わなかったから、すみません。ユーザーの使い方とかのプレゼンテーションが聞けるというイベントだと思いますので、
興味があればどうぞというのと、あと個人的にヒットなんですけど、Evernote 10.10の51、バージョン51ってすごいな。
最近出まして、とうとうバックリンク機能が追加されました。
このバックリンク機能の説明はこの会話では不要だと思うんですけど、あるページにリンクを貼っているときに、
リンク先のページが、あのページからリンクが貼られているよというのを表示する機能で、
ブログでいうとトラックバックに近いような感じですね。
片方からリンクを貼るだけで、一応情報的繋がりとして相互リンクになるということで、
Evernote 以外の大抵のリンクがあるノートアプリでは標準装備されていたのですが、
ワークフローにすらありますけども、とうとうEvernote 本家、大元のEvernote で実装されたということで、
ようやくネットワーク型の使い方がこれでできるようになったかなと思います。
本当にノートリンク機能が追加されてから、多分10年ぐらい経ってると思うんですけど、
ようやくやってきました。
というわけで、今回いきなりテーマなんですけども、
アウトプットとインプットについて、内緒、アウトプットとインプットという表現についてというテーマで、
話してみたいんですが、発端というか、ちょっとしたきっかけが、
トンネルチャンネルでアウトプットという表現から、別の表現をできないだろうか、みたいな投稿を僕がして、
いろいろそれについてコメントとか記事を見たんですけども、
これは結構難しい問題だなと常々思うんですよ。
アウトプットってすごい使いやすいんですよね。
知的生産界隈で、情報を仕入れるんじゃなくて、自分から情報を出しましょうみたいなときにアウトプットしましょうみたいな、
03:00
アウトプット大切ですよとか、僕の活動におけるアウトプットとはこれですよねっていうふうに使っちゃうんですけど、
そのあいに使えるがゆえに、内実が結構定まっていないというか、曖昧というか、包括的すぎて、
中身がどうかをあまり変えることなく使われていると。
特に気になるのが、事故啓発セミナーとかのアウトプットをしようというようなメッセージ。
で、外に出すっていうことをしたら、アウトプットなわけじゃないですか。言葉で言えば。
で、例えば知的生産っていう行為は外に出したら、すなわちアウトプットかって言うとやっぱり違うわけですよね。
違う、違います。
まだ頭を働かせなければいけませんし、何か新しいこと出ないと知的生産とは言い難いと。
だからこの知的生産で言われている行為、知的な処理の行為と、アウトプットというものの、
広く使われる言葉の行為の乖離が僕はずっと気になっていたと。
で、それに違う言葉を使えないかなということで、表現っていう日本語に言い換えて、
エクスプレッションかな。エクスプレッション。
エクスプレッション、エクスプレスっていう言い方を一つ提案として考えたんですけど、
問題はエクスプレスっていうと、日本語だとね、特急とか急行みたいな、
そういうようなニュアンスしかないので、使うとしたらエクスプレッションみたいな言い方になって、これはちょっと長いと。
で、もう一個は、ちょっと力が入りすぎているというか、エクスプレッションって言うと、
ちょっと嫌い入ったこと、互換があるよねというような話もいただいて、
まあ、それも確かにそうやなと思うんで、この言葉が適切かはちょっとわからないんですけど、
なんか別の言い方が欲しいなと。
で、インプットという言い方をやめたいわけではないんですよね。
さっき言ったように、何かが入ってくることに対して出すことを包括的に指すのはやっぱりアウトプットでいいと思うんですけど、
知的生産をしようという文脈でアウトプットしようって言ってるだけではやっぱりちょっとそこの落差があるんで、
ここを何か埋めたいなと、一つ思っているのと、
あとアウトプットに対する言葉ってインプットじゃないですか。
これもね問題が多いに問題があると思うんです。
インプットと似てる言葉がインストールなんですけど、
何か外界の情報を見聞きしたら、もうそれでインプットにはなっちゃうんですよね。
例えば本を読むっていうのでも、
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例えば本の集中力がないときに目が文字の上をなぞるような感じ、読めてないときっていうのがあるじゃないですか。
でも一応インプットですよね。
文字を目にして自分の脳に取り入れてるという意味ではインプットですけど、
でも解釈もできてないし意味も取れてなかったとしたら、それは読書の目的を達成でないわけで、
これもやっぱりインプットって言葉の広さが問題なんですよね。
そうですね。
エクスプレッションだとするならば、その対語は何かというとインプレッションかなと思うんですよ。
インプレッションっていうと印象とか。
この言葉がいいなと思うのは、印象は印象でしかないじゃないですか。
つまりそこからもう一歩処理が必要ですね、そのプロセスが。
その暫定感というか、まだ材料にできていませんよ感がインプレッションにはあると思うんですけど、
インプットの場合でもデータ蓄えちゃいましたみたいな感覚がありますよね。
そのプロセスの必要性の有無をこの言葉は喚起しないで、
やっぱりインプットも問題があるなと。
この2つの大雑把さと、そこにもう一段階プロセスが必要だよっていうことを喚起する言葉があったらいいなと思って、
一応問題提起にしたわけですけど、
何かこう、たくさんアイディア持ちですかね、アウトプットに代わり得る言葉っていうのは。
いやーこれね難しいなと思って、
ずっといつもこの内浅キャストでもアウトプットっていう言葉が出てくるたびに、
いやまあ本当この言葉使いたくないんですけどねとか断りながら使ってきたんですよね。
2人ともなんかそうなったんですけど。
やっぱりアウトプットとインプットって、
いざ代わりになる言葉って考えると難しいんですけど、
ただこのインプットとアウトプットって、要するにシステム論的な考え方であって、
インプット、例えばデータをインプットして何らかの処理をして結果をアウトプットするっていう概念だと思うんで、
やっぱりちょっとそれとそぐわないところがあるなっていう、
人間の特に知的作業においてやってることとそぐわないことがあるなっていうのと、
あとこれはなかなか言いにくいことでもありますけど、
やっぱり僕はアウトプットともならないインプットには意味がない的な言説が非常に好きではなくて、
マイルドな言葉を使うと非常にあまり好きではないですね。
それがすごく貧しくしてるなという。
09:01
もう一つはアウトプットとインプットってそんなにはっきり分けられるのかなっていうのもある。
それこそスペノーで倉下さんがノートというのはどういうものかっていうのを書かれてたと思うんですけど、
まさにあれってインプットとアウトプットが根前一体となってるじゃないですか、そこで言われるノート。
やっぱりそこを一つ取ってみてもやっぱり特に知的作業、
知的作業っていう言い方自体もカッコをつけたいんですけど、
こういう活動においてインプットとアウトプットってそんなにはっきり分けられる概念じゃないなっていうところもあって。
確かに。
っていうところでずっとモヤモヤしながら、ただ便利だからたまに使っちゃってたっていう。
視点をすごい引いたときに、ここは日本、ここはアメリカみたいな言い方するときにインプットとアウトプットっていうモデルは便利なんですけど、
ズームして寄っていくとそんなに境界線ははっきりしてないぞっていう話になってきて、解像度の問題なんですね結局。
そうなんですよ。
だから概論を述べるときのインプットとアウトプットはまあいいんですけど、もっと具体的な実践レベルで言うと解像度が荒すぎて話がフォーカスしにくいし、
例えば表現欲求を自分たちは持ってるとは僕も思いますしたくさんも思うと思うんですけど、アウトプット欲求があるかっていうとそれはなんか違いますよね。
そうですね。違いますよね。アウトプット欲求じゃないかな。
表現欲求とアウトプット欲求が違うとしたら、やっぱりそこは違うというか。
もちろん一番大きいのがアウトプットで、その中に表現が含まれると考えるべきなんでしょうけども。
これまず英語にしなくてもいいということなのかもしれないですね。
まあね、まあそうですよね。
表現とか発信っていうことで、発信って英語で言うと、パブリッシングは大きすぎるかな。
いわゆるよく日本語で言うところの発信っていうのはなんでしょうね、英語だとね。
でもそういう表現とか発信とかっていう日本語を使っておけば、ズレは少ないですよね、きっと。
そうですね。ディスパッチじゃないよな。なんでしょうね。
あと、やっぱりインプットとアウトプットって言い方……いや、アウトプットって言うと、
必然的に性質の反対のものとしてインプットないしアウトプットが定義、要請されてしまう。
12:04
だから二項対立に絶対になってしまう、そのインとアウトっていう表現されるものが。
だから、さっきのエクスプレスとインプレスもそうですけど、その二項対立からとは呼ばない呼び方のほうがいいのかもしれないですね。
うん。そうですね。
あとなんとなくカタカナ言葉でアウトプットって言うと、ぼやけちゃうんですけど、
あれって結局入出力じゃないですか。
出力する。俺は出力するぜっていうのがすごい変じゃないですか。
でもそのぐらい変なこと言ってる感じがする。
今日も出力したみたいな。
だから自分を一つのシステムの中継点として、入力の線と出力の線に見立てている。
ある種の自分を機械的に見ているというか、システム的に見たときにその表現ができる。
やっぱりこのインプットアウトプットのモデルはフィードバックが欠落しているんですよね。
流れが一方向なので。
さっきタクさんが言われたように、本を読むという行為の中にもインプットとアウトプットの細かいインテリエーションがずっと回っているようなところがあって。
まず文字を読むっていうようなインプットですけど、その文字を解釈するのはもうアウトプットの段階に入っちゃってるんですね。
そうなんですよ。
その解釈が合っているのかを次の文を読みながら、上手いこと理解を正しい方向に持っていくっていう絶え間ないインプットとアウトプットがぐるぐる回って、全体の読むという構図が成立してて。
そこも見逃されがちというか、やっぱり本を読むっていうのも文字を頭から最後まで読めば読んだと言えてしまうっていうのがインプットモデルの考え方なので。
だからやっぱりこのカタカタ語に頼っている…ちゃうな。何かを考えるときにこの言葉使いをしてはいけないかな。だから。
だからまあしてもいいんですけど、結局アウトプットさえすれば、じゃあなんか出力すればいいんだっていう考え方になってしまうと、要は単に出してるだけみたいなことが大量に生産される。
そうですね。それが現在のインターネットに使えるものなんです。
だから何でしょうね。インプットとアウトプットの間にある同じレベルの用語ならプロセス。処理をして、インプットして、プロセスして、アウトプットするっていうその…プロセス。
プロセスって言葉は自分も非常に使いますけど。
逆にプロセスは使うけど、処理ってあんまり言いますよね。なんかプロセスって言いますよね。
言いますね。処理っていう意味と家庭っていう意味と同行語で使うってことね。
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だから、何だろうなー。出力じゃないんですよね。単に出力しているんじゃない。
でもやっぱり今蔵下さんが言ってたように、フィードバックっていう、フィードバックの感覚がないんですよね。
だから耳に「あ」って聞こえてきたから口で「あ」って言ってるのもインプットとアウトプットですけど、これは何の情報処理もしてないわけ。
でも、インプットとアウトプットしてるよねっていうことですから。
だから今の極端ですけど、例えばGoogleって出てきた情報をコピページで記事に書くのもインプットとアウトプットなわけですよ。
そういうことになっちゃうんですよ。
それは違う話だからね。
そこは情報処理がされてないか、情報処理の程度が浅いというべきか。
じゃあインプットしたものに何かしらの付加価値をつけて出力すればいいんじゃないの?ってなるんですけど、
それもちょっとそうなのかなっていう感じがしていて。
これは個人的な感じ方ですけど、例えば本を読んで自分の中でそれについてもやもやいろいろ考えるわけじゃないですか。
考えたものがうまく消化できると、自分の肉になっていくみたいな感覚があったのちに、
そのごく一部を何か人に伝達したいと思って、アウトプットするわけですよね。
その中の一部が。
それはインプットした何かの成分ももちろん入っているけれども、それ以前に自分の中にあったものとか、
要するにその、例えばある本、その時直接的にインプットしたものと違う、それ以前のインプットとか、経験とかの
要素がその根源一体となって形成されているその自分というものがあり、その自分が何かを伝えたいと思って、
じゃあこの漢字をどう伝えようかって考えてアウトプットされるみたいな感じが。
だからあんまり直接的にインプットと結びついてないんじゃないかっていう感じがするんですよね。
もちろん直接的に、読んだ本が素晴らしかったこれを紹介したいっていう意味で、比較的直接結びついてるものはもちろんあるでしょうけど。
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どうしても僕にはアウトプットに結びつかないインプットには意味がないっていう。
ごめんなさい、またちょっとそれを出しますけど。
好きじゃないってか理解ができないんですよね。なんでそんなことを言うのか理解できないんですよ。
そうなんですよね。
例えばですけど、畑があるとするじゃないですか。
畑に種を植えるとか、畑に水をまくっていうのをインプットとは言わないですよね。
言わないですね。
畑で実った野菜を収穫するのをアウトプットとは言わないですよね。
言わない言わないです。
でも表現ってそういうことですよね。表現活動って基本的にそういうことですね。畑の活動ですよね。
いや今収穫っていい言葉だなって思って。
収穫ってハーブ?何やろ、収穫。
収穫は…。
ハーフェスとか。動詞やったら?クロップとか言うのかな。
クロップ?そうですね、クロップ。クロップする、ですよね。
ギャザーっていう言い方をするんだよな。リープ。リープは仮取るという意味か。
クロップぐらいが使いやすいですけど、そんな感じですよね。
そうですね。だから収穫っていうか、育ってできるじゃないですか、作物が。
それを収穫するじゃないですか。さらにそれを出荷するじゃないですか。
出荷するアウトプットみたいな。
そこですね。
だから、付加価値つけるモデルっていうのは、大根があるんやったら大根を塩漬けにして出せばいいっていう話であって、
その大根をどう育てるかの話にはなってない。
インプット、アウトプットモデルは、育てるの観点が欠落しているというか、多分わざと隠蔽されているというか。
誰もその人の個人的な営みを捨てられるわけですよね。
情報を入れたら発信できますって話にしたいんですよ、きっと。
そういうモデルにおいては。
でもそれが一番簡単で、努力もいらないし、個人のセンスもいらないわけですけど。
そういうことで話が簡単になりますか。でもやっぱり実際はそうはなってない。
だから、もともとシステム屋さん、プログラマーとかが日常的な、普段参照している関係で、
インプットとアウトプットっていうのはごくナチュラルに理解できるんですけど、
そうじゃない人がインプットとアウトプットって言ってる場合って、
何かその隠蔽があるんですよ、きっと。そこが僕は多分引っかかってるんですね、きっと。
そんな簡単にはいかんぞっていう。
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だからそんな簡単にはいかんぞってことが分かってる人が使うインプットとアウトプットには多分そんなに、
なんかもやもやしないんですよ、きっと。
なるほど、はい。
だからそこの難しさ、工程の複雑さを踏まえた言葉使い、
概念モデルを組み立てられたら、もう少し知的精神で、それから誤解が減るのかなという感じかな。
なるほど。
だからやっぱり、Expressも多分一緒なんですね。概念を置き換えてなくて、
言葉を置き換えただけなので、多分あんまり良くなくて。
だって収穫は、さっき言った二交代率を呼ばないですよね、多分。
はいはいはい。
だからなんかそういう方がいいですね、きっと。
うん。
そうですよねー、シューって。
あーでも僕はさっきの、出荷?シップする出荷っていうのが一番今までの中でしっくりきましたね。
アウトプットで相当することが。
だからアウトプットが非常に漠然として、最初から最後までを全体を包括してますけど、
出荷はアウトプットの一番最後の部分だけを名指ししてる感じがして。
えー、出荷英語。
出荷、シッピング。
シッピングですよね。
なるほどね、なるほど。
うーん、そっか。
だからそうですね、世に出すために形を整える段階があると。
でもそれ以前に、だからいわゆる考えるというところがあって、考えるとしか言いようがないですけど。
で、アウトプットはそこが全てフラットに見えてしまうから何かニュアンスがそのままないんで、
さっきのその濃厚モデル。
種まきから育成で収穫して収穫っていう風に、よりプロセスを細かく見た方がなんか実態に近いですね、きっと。
そうだと思いますね。
あとその時間、時差がある感覚も重要ですね。
あー、はいはいはい、そうですね。
なんかインプット即アウトプットみたいなのが、その育成モデルでは破棄されるので。
あと思い通りにできない感も多分似てて。
その、スイカを育てようという目論みは成功するけど、
どんな形のどんなモデルのスイカまではコントロールできないという意味で、
地的成果物の生成に似てますよね。
似てますね。
要するに、出荷する分はもちろん大事。
うん、間違いない。
出荷されればそれがお金になって、
人々が食べてくれておいしいって言ってくれるみたいなことはもちろん大事なんですけど、
出荷されないハイサイト、形の悪いやつとか、よくできなかったやつとかってのもあるし、
それ以前に、例えば、
単に作物というだけじゃなく、農業をやるときにいろんなノウハウみたいなものが蓄積するわけじゃないですか。
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それは直接外に出ていかないけれども、
例えば、肥料をこういうタイミングでこういうふうにやったら、いいらしいことがわかったとか、
こういう水のやり方で土壌を作ってみたいなノウハウというものが、
そのプロセスを繰り返しているうちにできあがっていって、
それは出荷されないし作物でもないけれども、
それはやっぱり農業という活動の中において重要な要素ですよね。
それは自分の中でたまっていくわけじゃないですか。
うん、たしかに。
そういうところもなんとなく知的作業と似ているような気がしますよね。
そうですね。もしかしたら僕らのイメージの知的作業は結構古いものなのかもしれないですけど、
言ってもこれはそんなに大幅に変わるものじゃないかなと思いますけどね。
それこそね、じゃあAIというものをやるのかっていうと、また全く話は変わってくる。
変わってきますね、もちろん。
ですが。
でも今のプロセスのどの部分をAIは代替するんだろう。
なんとなくみんな出荷の部分を代替するイメージを持っているけれども、
どうなんだろうとかちょっと考えますけどね。
畑の育成についてはAIはどうでもないですよね、基本的には。
どこに畑を作ればいいとか、その種にはこの肥料がいいよっていうことは言ってくれるかもしれないですけど、
大根を土の中で育てるところまではしてくれない。
してくれないと思いますけど。
僕が使った感じで言うと、適切な質問をすれば非常に適切な答えが返ってくるけども、
しかも疑似的、こっちが質問を工夫すればクリエイションのようなこともしてくれるけど、
でも何かがない。自発性がない。
つまり大根は勝手に育つんですね。
人間で言うと無意識の情報処理が行われてるんですよ。
問題を考えようと思わなくても考えてしまう何かがあって、そこが彼らにはない。
あとその適切な質問をする能力はどこでどう育てられるのかっていう話です。
人間がチャットを何回も使うことによって、結局自分の畑を育てる。AIを使うという能力の畑を育てていくわけで。
だからそのことそのものを。
27:01
そのAIをどう使えばいいのかももちろん、最終的にはAIが、つまり
AIをどう使えばいいのかの知識がウェブにあふれかえったら、それもまた彼らは学習するでしょうけども。
でもやっぱり根源的な何かを知りたいという気持ちを彼らは持ってないわけで。
そこじゃないですか。根源っていうところ。大体できないもの。
何かを知りたい。これって何だろうって思う気持ちが、たぶん畑の一番の…。
違うな。それが畑を畑たらしめてるかな。
そこの好奇心とか疑問があるから人間って考えるんじゃないですかね、きっと。
そうするとやっぱり哲学が重要になる。
ある広い意味での哲学が重要じゃないですか、きっと。
自分の疑問を大切にして育て、角度を変えて考えていける力があって、
そこで例えば、手で土耕すよりもくわ使った方がいいよねっていうレベルでAIって便利だよねとは言えると思うんですけど。
でもそこまでじゃないですかね。結局ソートラインだって、疑問をこっちに投げかけてくれて考えるのは僕らなわけじゃないですか。
だからそこまでじゃないですか。つまりAIの独特の聞き方によって僕らがそれを補助線にして新しい着想を得るというところまでいくでしょうけど。
だってAIにそうする動機づけがないじゃないですか。
世界を知りたいという動機づけが彼らにはないわけで。
だからやっぱり知りたいとかなぜなんだろうっていうところが、僕らのアウトプット欲につながっているでしょうし、
インプットアウトプットモデルはその欲が見えてこない。
インプットしたらコマンド一つでアウトプットされる的な概念になってしまうけど、
そうではないんじゃないかなと。結局僕らの欲と結構強く関わってる。
だから、積制させたくない人を無理やりさせることって絶対できないんですよ。
表現したい欲っていうのも、やっぱり相手がいて、それがどう受け取られるかが気になってるからじゃないですかね。
うん。それは大きな要素です。
だから大声で相手に伝えたらどんなリアクションが返ってくるかは気にならないっていう人は、表現欲はないと思うんですよね。
だから、この自分の考えはどう受け取られるかってことを知りたいという好奇心がここで働いてるんじゃないですかね、きっと。
そうか。でもただアウトプットって言ったときには、どんな欲に基づいてアウトプットされてるのかが見えてこないから気持ち悪いってとこあるかもしれない。
ありますね。しかも、さっきも言ってそのアウトプットの結果も気にしないじゃないですか、そのシステムは。出したら終わりじゃないですか。
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そこがやっぱりちょっと違う。そうすると人間がやったとしても、没頭的な発信にどんどん近づいていってしまうんじゃないかなと。
知らない、自分が知らなかったタレントの名前を検索したときに一番上に出てきてついクリックしてしまうところに書いてあるような、なんとかさんは結婚していないようですみたいな。
そうですね。だからそういうところを、インプットとアウトプットを使ってみるんですけど、情報発信とか知的生産に関わる行為をそういう単純な線形でつなぐような、
脳があって、その線が前後に伸びてて、片方がインプットで、もう片方がアウトプットですっていうことの、そういうモデルで知的生産的な行為を理解してしまうと、そっちの没頭的な発信につながってしまう。
しかもそのような情報発信で、いわゆる設けようとなったら、これは炎上化クリックミスを誘うしかないわけですから。
そこを追求していけば必ずそうなりますよね。
そういうモデルでもいいというなら別にいいですけど、どう考えてもそういうビジネスモデルって破綻しかけてるんで。
もし自分の書き物に価値をもたらしたいと考えているのであれば、その畑耕すモデルをちゃんと認識したほうが合理的であると思うんですけど。
僕ちょっとよく知らないんですけど、アウトプットしないと意味がないっていうのは、たぶん訓練としてそう言われてたんじゃないかと思うんですよね。
本を読んで、例えば自分の言葉でそれをまとめてしてみましょう。
そういうことによって自分の力を高めていきましょうっていう文脈で言われてたんじゃないかと想像するんですよね。
それならなんかわかるというか。
そうですね。ある種のトレーニング・訓練っていう枠組みの中では確かにそう。
でもそれでもちょっと扇動しすぎな感じはありますけど。
でも確かに本を読んで、面白かったで終わらせるんじゃなくて、どう面白かったかを自分の言葉で表したほうが理解の解像度も上がりますし、その人の表現力も上がっていくんで。
選べるにあったらやるほうを選んだほうがいいと思いますが。
でもそういう行為を推進するときのレトリックとして、「○○は価値がない」という言い方をしてる時点で、何か大きなミステイクがあると思うんですけど。
33:03
だって一番の問題は、価値って誰が決めるのかっていう話を全く茶話題外視してるわけですから。
PVが低いブログ記事は価値がないとかいうのも見ましたけど。
見ました。
例えばPVが3とか5とかでも、すごい良いコメントをついて自分はすごい満足するみたいな記事もあるわけで。
経済価値はないかもしれないけど、価値ってそんなもんじゃないだろうとかでいくらでも反応ができるわけですが。
価値がないことをやらない方がいいという現代的な、モダンな考え方っていう。
無駄なことはしないみたいな、無駄なことが先に自分にはわかっているという傲慢さみたいなのがあって。
そういう文脈で誰かを林立てても、知的生産的には良いことは多分何もなくて。
だって今まで生み出されてなかったことを生み出すってことは、価値を測るものさじがないものを作るということなので。
ということは、それを生み出せなくなるわけですよ。価値がないものを作るという感じでは、世の中に新しいものを生み出せないわけですから、これ知的生産が成立しないわけで。
根本的に向いてないですね、その考え方は。
そうですね。
現代的な人をエンハンスする煽り文句が、もうすでにある種の価値観に染まりすぎちゃっていて、人を誤った方向に誘導しかねないっていう懸念がある。
そんなに強い言葉を使われなくても、人が興味を覚えたら、それを行動に出るんじゃないかと個人的には思いますけども。
思いますよね。
そうですよね。
もちろんノウハウ文化のものとして、どれくらい読者を引っ張るのか、ないしはアジテートするのかっていう差事加減っていうのはいつも考えますけども。
でも思うのは、そこまで強い言葉は必要じゃないし、強い言葉をかけないと引っ張られない人は、2ヶ月も持たないっていうか。
なるほど。
強い言葉の魔力が消えた瞬間に、違うと思ってしまうということがあるので。
やっぱり本人の、さっき言ったように、良くイコール知的好奇心を火をつけるものがあれば、あとはその内念機関的に勝手に進んでいくということを期待する。
つまりある意味で読者を信頼するということができれば、それで十分じゃないかなという感じですね。
どこまでアジテートするかって迷いますよね。
36:02
迷いますっていうか、難しいなと思いますけどね。
2010年ぐらいのビジネス賞を読み慣れてきた人、僕も含めてなんですけど、ちょっと強いアジテートに慣れすぎちゃってるところがあるので。
あんまり強く言わないと、弱々しく感じられますけども。
それはちょっと味付けの濃い中華料理みたいな感じで、たくさんインプットすると完全に舌がアップアップしてくるんで。
それとなくでもいい。でもやっぱり、その方法に対して自分、著者が、自信満々じゃなくてもいいですけど、ある程度の自信は持っとかないとダメだなというのもあります。
謙虚であればいいというものではないという。
謙虚っていうか、やっぱり自信の下げ意味ではないですよね。
この方法は他の人に通じるかどうかわかりませんけど的な前置きが長すぎると、読まれない。
読まれないというか、そこまでの説得力はまだなくなってしまうので。
だからそのノウハウの有効範囲をどのぐらいに設定するのかというのと、自信の問題は関わってくるんですが。
万人に誰でも使えますよと言い切ることはさすがに難しいですが、こういう状況にある人なら確実に役に立つよと私は思ってますぐらいの自信の持ち方であればバランスがいいのかなと。
うん。はいはいはい。
もう、なんすか、ジェネラルなノウハウっていうものの存在が危ぶまれてるという話をこの前、五力さんとしてたんですけど、
ただGTD以降に際立ったフレームワークって出てないよなっていう話をしたんですよ。
そういうタスク管理とか。
タスク管理とか。
そういうものっていうことですか。
はい。どんどん領域別的にニッチになってきてるんじゃないかなと。
GTDって誰でもできますっていう歌い文句をやったわけですけど、どう考えても会う人と会わない人があるよねっていうことがみんな実感としてわかってきていると。
中で、こういう領域のこういうことをしてる人とはこれが合うみたいな、さまざまに小さくなって、僕らの目からはもう見えないところでいろいろ存在している可能性があって。
だからノウハウの受け取られ方も、そんなに一般界を求めるものじゃなくて、もっと私に合ったものをっていうのが求める風潮になってきてるんじゃないかという話をしたんですけど。
はいはいはい。
だからそういうことを念頭において、僕らはノウハウ書を書けばいいんじゃないかなと。
39:01
僕、すっごい一回迷ったのが、何度もその表現を使ってると思うんですけど、この「やってみればわかります」っていう。
はいはい。
これは強すぎるんじゃないかと。
だから最後までそこにカラーマークつけて、ギリギリまで直すかどうしようか迷って、結局そのままにしたんですけど。
それはそのままでよかったと。
本の中のその部分まで読んできた人に対してあれば言ってもいいだろうなっていうふうに思っていたんですけど。
それでも、まあやってみてもわかんない人はいるだろうなって思うんですよね。
だけど多分、やってみてほしいなという。
そうですね、はい。わかりますわかります。
だからその結果として、「いややってみたけど俺はわかんなかったよ」って言われてしまったら、もうそれはごめんなさい。
ごめんなさいです。
やっぱり本を書く上で、ごめんなさいっていうところを引き受けないとダメだなっていうね。
ごめんなさいを絶対に言わないような本の書き方って、すーごいだるいんですよ。
保留がめっちゃつくような感じになってしまって。
結局、著者がダイレクトに言いたいことって何なのかってのが見えてこなくなってくるんで。
だからそこは、文章の責任の一環として、
「俺はこう思っている」というところをバシッと言ってしまって、そうじゃなかったらすいませんっていうぐらいの、
開き直りじゃないですけど、責任の引き受け方っていうのがあったほうがいいですね。
俺はこれを信じているってことですよね。自分は信じているっていうことですよね。
別に科学的な客観的な事実を記述してるわけじゃないですからね。
そうなんですよね。
だから個人的なノウハウ書までいくと閉じすぎですけど、
個人が考えるこれが良いと思うノウハウ書ぐらいの量記で書けばいいんじゃないかなと思う。
多分そのとき、そういうものを書くと、インプットとかアウトプットって言わないと思うんですよね。
ああ、はいはいはい。
もっと個別的な現象に、たぶん読書だと読書って言うと思うんですよ。
だからやっぱりそれは、包括的に何かを語るときにしか出てこないし、
使うべきでもないとは思うんですよね。
まあそういう表現があっても全然いいんですよ。
それもいいでしょ。必要なときは絶対あると思うんですけど。
でも、例えば「あなたのよくインプットしてるメディアは何ですか?」とか聞かれて、
「本とラジオと雑誌です」って答えた後に、それぞれどう読んでるのかっていう具体的な話に入れるんやったら、
42:04
そこで解像度が上がるわけですから。それは別にいいんですけど。
だからその上の領域でしか使わないほうがいい言葉ですね。
本を読むっていうのをそのままインプットって言ってしまうとやっぱりぼやけてしまうものがある気がしますね。
だからアウトプットって言うと、本当にツイッターに書くのもアウトプットですし、
一人言を言うのもアウトプットですし、ブログを書くのもアウトプットですから。
だからアウトプットしましょうって言ったときに、どのメディアに対してどんな戦略って言ったらいいんですけど、
どんな心持ちでやるのかって話も全部無視されてしまうわけで、その際っていうのが。
だからそこがやっぱりあれですね。
使うほうは楽やけど受け取ったほうが苦労するタイプの言葉遣いですよね。
あー、そうですね。
確かに、それを受け取ってとにかく何かアウトプットしなきゃっていう感じで、
こうしているように受け入れられるものを探検する。
探検しますね。
それを通して何を成したいのかは、こっちからは見えてこないし、
そもそも何も考えてないって考えるための問いをもらってないからなんでしょうけど。
でも、例明期の頃って確かにブログさえ書いていればってのはあったと思うんです。
そういう時期は確かにあったと思うんですよね。
でも、もうメディアがこれまでに氾濫してる上に、
ノウハウ情報の行き渡りの速さを考えたときに、
こういう行為をただ知ってたらいいっていうことはまず言えないわけですから、
アウトプット仕様的な言説は、
そういうことを言う人はちょっと距離を置いた方が、
個人的には心豊かに生きていけるんじゃないかなと思いますけど。
まあ、そうですよね。
エクスペッションっていう言い方もやめて、
むしろ日本語に言い換えて、さっきの収穫モデル的なもので捉えるのが前向きであるし、
実際的でもあるし。
結構、偏向モデルとか濃厚モデルに近いんですよね。
気候モデルとか。
この前、水の話、どっかで水の話しましたけど、
雨が降って、海に流れて蒸発していくものになって、
ぐるぐる循環していくようなものとか、
さっき言った畑で育つっていうものが、
人間の知的な、あるいは情報処理のモデルとしては多分適切で、
なんか、通信世界の、
社能型のインプットアウトプットっていうのでは、
だいぶ相互がありますね。
面白いなと思うのは、
45:00
例えば文章を書くっていうことを、
プログラミングっていうよりも、
コーディングの技術を当てはめて、
考えるってすごくなんか、
新鮮だったことがある。
今でもそれって有効だと思うんですけど、
情報通信関連の概念を当てはめると、
すごくいい部分と、そうじゃない部分があるような気がするんですよね。
確かに。
だからインプットアウトプット、要するに入出力っていう概念が、
多分当てはまる部分もあるだろうけれども、
それを当てはめちゃいけない部分もあって。
純情報処理の部分はそうですけど、
解釈の部分は情報処理ではなくて、
ある種のクリエーションですよね、絶対に。
そうですね。そうなんですよね。
何かを解釈するっていうのは、その解釈を自分で生み出してるということなので、
その内部的に生成されるものを技術する必要があるときは、
そのモデルではない。
特に本を書くとかいう場合は、よりそれではない。
そうですよね。
歩いてて面白いものを見つけたから写真撮って、
ツイートはまだインプット・アフトモデルに近いかもしれないですが。
それでもちょっと。
行為が完結するまでの時間が長ければ長いほど、やっぱりそのモデルから離れていきますし。
本を読むっていうのもインプットモデルでは見えてこないですけど、
例えば直前に読んだ本によって、今読んでる本の受け方が変わるとかもありますし。
ありますあります。
あと同じ本も続けて読むと疲れてくるから内容が入ってこなくなるみたいな、
そのインプットの誰?みたいなのもありますけど。
インプットモデルってこの線がまっすぐ流れていくイメージなので、
そうなんですよね。
やっぱり違う気がしますね、それは。
例えばコンピューターで言えば、入力データが新しいかどうか古いかどうか。
そうですね、関係ないですね。
もしくは3度目だろうが5度目だろうが、同じデータを読み込めば多分入力としては同じですよね。
48:01
だけど、例えば本を読むというのはそうじゃないんですよね。
本を読んで、内に取り込むものが結局自分の経験とか、
他に読んでいる本とかによっても違うし、精神状態によっても違うだろうし。
そもそも、つんどくに意味があるっていうようなことが仮にあったときに、
それもどう捉えればいいのかわからないし。
たしかに。
だから直接的な入力とはちょっと違うんですよね、本を読むっていう。
そうですね。
本というか文章を読むという行為が。
たしかに。何かを見るとか、例えば山の景色を見るっていうのと本を読むっていうのは、
インプットとしては一緒でも、内立はだいぶ違いますよね。
違いますよね。
うーん。
この辺もだからそうやな。
例えば、音楽を聴き慣れてない人と音楽を聴き慣れてる人の音楽を聴くっていう声も多分違うじゃないですか。
違うと思います。
その辺も見えてこないですね、インプットでは。
そうですね。音楽を聴き慣れてない人が、きれいなメロディーだなとか聴いてるのと同じ音楽を、
ちょっと聴き慣れすぎちゃった人が、
なんかね、この使われるシンセはヤマハの音源だなみたいな気が出したりとか。
だから、何の話でしたっけ。
インプットとは一緒やけど内部的なシステムが違うから出力が違うって話になるでしょうけど、絶対にインプットが違いますよね。
インプットが違うんですよね。
例えばインプットするときも、分厚い本を最初から1ページ1ページめくって読もうとするか、
目次は作品を見てつまんで読もうかによって、同じ本でも多分違うインプットになるでしょうし、
どう読もうかということ自体が、そこに自分の意思が入っているし、ある意味では、
それ自体が、なんというか、想像的な行為だったりとか、本をどう読むかというのも。
そうすると、ますますインプットとアウトプットの区別は曖昧になってくると。
そうですね。インプットとアウトプットは、人間が思維的に線引きして、
これはインプット、これはアウトプットって読んでるだけのもので、
線引きというのは物理世界に源泉として存在しているわけではないから、
混じり合って当然ということを理解した上で、使っている文には問題ないですが、
そこの解像度を上げないために使われているとしたら厄介ですね。
51:04
でも、わざわざこんなことを言っているのは、おそらくそういう理解、
つまり荒い解像度のままで話を進んでて、発信されてる自分が大量に身につくから、
わざわざこういうことを言ってるわけですけど。
そうですよね。
あとそれがいいんだって言われて、必死にそれをやっている人もいると思う、
いたりしそうな気がするんですけど。
うーん、という感じですね。
そうじゃなくてもいいのになっていう。
そうじゃない方がいいとすれば僕は言える気がするんですよね。
まあ、言いたいと思います。
言い過ぎな感じがします。
なぜならば、インプット・アウトプットモデルで情報発信をしていると、
その人の畑がずっと育たない、つまり土が痩せ細っていく気がするんですよね。
だから、そのトータルに言って良くないことじゃないかなと思うんですけど。
という気がします。
しますよね。
もちろんね、人がどう生きるかって勝手ですから、
生徒までは言いませんけど、
例えばそのインプット・アウトプットモデルで大量に記事を書いて、
月付きのアフィリエイトが小遣いになったとしても、
おそらく5年続けたときに、
お金以外に何も残ってないかというのはあると思うんですよね。
振り返ったときに。
それは結構むなしい気がするんですけどね。
それを長年続けるって結構きついと思いますよね。
たしかに。ある程度の利益があったらともかく、
1ヶ月1000円とか2000円だったら、たぶんもう続けられないですよね、きっと。
1000円、2000円稼ぐのにもっといい方法がありますからね。
だからあんまり言うと営業ボカになるから、
大それでは言いませんけども。
例えばブログとか、こうやってポッドキャストでもいいですけど、
いわゆる情報発信を個人がしていこうっていう話のときに、
単純なインプット・アウトプット先継モデルじゃない考え方を持ちましょうと、
本当はこういうお題にして言いたい。
しかもそのほうがたぶん、僕好み、ないしはたくさん好みのコンテンツが、
おそらくそっちのほうが出てきやすいだろうっていう欲もあるんですけど。
まあそれはそうなりますね。
その人が滲み入れるコンテンツのほうが読んでて面白いですし、
極論で言うとお金払っても読もうと思えるものって、
基本的にそういうものしかないと思うんですけどね。
そうなんですよね。そっちでお金を払いたい。
当然なら。
そうなんですよね。
54:00
それが現代のパブリッシングの大いなる課題というかね。
梅沙男が夢見た将来ってのは、おそらくそういうタイプの発信が増えていく。
ある意味究極の自己満足でしかないような、
自分メディアがたくさん生まれる未来を彼はたぶん想像してると思うんですけど。
今の逆に誰が書いても同じようなものが溢れ替えるようなものは、
どうなのかな。
半分は現実主義者だったから、そういうことも考えてたかもしれないですけど。
でも知的生産という言葉で、
彼がアジテイトしようとしてたものは、おそらく個人的なアウトプットでしょうね。きっと。
そうでしょうね。
個人的なアウトプット。まだアウトプットって言ってしまいましたから。
でもこういうときには便利なんだよな。
文章じゃなくてもいいから。
そうですね。
発信でも表現でも別に文章じゃなくてもいいか。
個人的な表現。でも表現って言うとなんか大げさなんですね。
不思議やな。
アウトプットっていうのに語感がないから使いやすいのか。
そうかもしれないですね。
表現って言うと、肩に力が入ってる感が確かにあって。
日本で言うようなアウトプットっていう言葉の使い方って、
例えば英語圏で知ってるのかなって思ったときに、
あんまり見たことないような気もするんですけど、ちょっとそれは言い切れないですけど。
そうですね。
僕らがカタカナで使ってるアウトプットは、出力って意味じゃないです。
カタカナのアウトプットって意味ですからね、もはや。
たとえばそのブログの文章なら普通にライティングっていう言い方をしてるような気がするんですよね。
ライティングはそうやな。
ライティングはいいけど、例えば執筆って言うとすげー重くなりますね。
そのライティングのニュアンスはやっぱり、文章とか書き物みたいなニュアンスか。
書き物か。僕は書くですね。だからその場合は熟語にしないほうがいいかな。重みが減るかな。
表現というよりは言い表すが近い。僕の中では。
表すぐらいでいい。
表現という言い方は僕はわりに好きでよく使っちゃうんですけど。
個人の表現って言っても別にいいか。個人的アウトプット、個人的表現。
個人的表現でもいいかな。
アウトプットっていうカタガナからこのまま定着したのは、それまでの日本にそういう活動を操縦する言葉がなかったってことだよね。
なるほど。
表現って言ったら芸術家のするものであって、おそらくその語感としては。
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個人の日常的な営みとしてその表現っていうのを言ったときにアウトプットっていうのがぴったりはまったっていう感じがしますね。
だから別のアウトプットはどうでもいいんですけど。
おそらくその言葉の後ろに隠れているモデルを改めて考えるというのが今回の大きなテーマでしたかね。
あと全然関係ない話なんですけど。
今困ってまして、困ってるというかアイディアを持ってきてまして。
メモをどう扱うかっていう問題をね、ちょっと考えてるんですよ。
走り書きメモっていうのが僕のメモには多いんですね。
走り書きメモっていうのはその一行だけのセンテンスっていうものを指すんですけど。
情報カードっていうのはタイトルと本文を持つものじゃないですか。
で、一行だけのものをセンテンスと仮にLINEと呼んだとして、で次がカードやとして。
LINEカードとしたときにそのカードの次にあるものは何だろうなっていうのを考えてたんですよ。
構成要素として、まず行が行内所はその本文だけがあって、次にタイトルと本文だけがあって、次何やろうっていう。
で、そこを例えばドキュメントに行ってしまうと、だいぶデカになるんですよ。
その中間が。
その中間がなんか何やろうなーと思ったんですけど、
少なくともアナログのメタファーではその中間体っていうのはカードボックスになってしまって、なんかちょっと違うんですよね。
カードボックスのさらに一段手前に、スタックっていうかカードの束っていう単位がありそうだ気はしますよね。
カードボックスは多分保管してある。
その文章にするときにそこから使いそうなカード抜き出して束にして、まとまりを作っておくっていうそのカードの束みたいなのがなんかその手前に。
手前っていうか文章の一段階前になんか。
ありますよね、そこでね。
メタファー的にはありそうな気はしますけど。
カードの束。
確か、ポイックではペイルって呼んでたかな。名前忘れたな。
カードの束を呼ぶ言葉が確かあったはず。
ポイックって考えてみたらすごいんですよね。
いまだにいても全然すごいと思いますね。
あそこまで精緻にあの時代に考えたってすごいと思いますよ。
カードっていう物理バイターを非常にうまく使ってるんですよね、今考えたとき。
ボックスに並べたときに上にインデックスの端っこが見えるから、カードの種類があったかっていうのも、すごいしょぼいアイデアなんですけど、非常に実用的というか。
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まさにカードが持つ物理的な表現力を余すところなく使ってるなという感じですね。
部分的にはデジタルでできないことをやってるんですよね。
このままのデジタルの置き換えってのはあんまり意味がなくて、カードならではの方法論という感じですね。
クラスター、以前もう一個のドキュメントをスクラップボックスに。
自分で検索しました。
そういえば最近あれ見てなかったけど。
どこにあったんでしたっけね。
一応URLをチャットに書きましたが。
タスクフォースの編成でカードを抜き出して。
タスクフォースっていうのはいい表現ですね。
軍事用語ですけど。
前にタスクという言葉が日本にこのような意味で使われているのはどのくらいなのかなという話をしてて、
一つは軍事用語で、もう一個が最小段位で実行するのをタスクと呼ぶんですけど、
おそらくその後者じゃないかなと思ってたんですが。
軍事用語のタスクは「任務」って訳されてる。
でも「任務」と「ミッション」と区別がつきにくい感じがして。
そうですね。タスクフォースの日本語訳は「任務部隊」。
なるほど。
タスクフォース的なものをデジタルでどう作るのか。
作るのかっていうかどう見せるのかやな、きっと。
自分にどう見せるのか?
ページ的なデザイン、UIっていうものが、
さっき言ったラインとカードはビューがあるんですよ。
でもカードより一個上で、ドキュメントより下の適切なビューをデザインされてるの見たことがないんですよね。
アウトラインじゃないですか?
アウトラインなのかな?
アウトラインも近いとは思うんですけど。
アウトラインだと多分流れを感じすぎちゃうかもしれない。
リニア性が強くなっちゃうかもしれないですね。
1:03:04
そうか。
よくあるカードの束を画面に描画してみせるっていうのも、
重なったカードを。
単にそれはなんか、
視認性があんまり良くないだけで。
まさにそのご指摘のとおりなんですけどね。
画面を共有しよう。
画面を共有して。
テキストボックスの1ページなんですけど。
すごいかっこいい。
一番下に、いわゆるその最初に言ったラインっていうか、端描きメモがあって。
これクリックできるんですけど、クリックすると、
なんか、テンポラリーなカードが表示されるんですね。
それはクリックした内容が転記されてるんですね。
別の付箋をクリックすると、その内容が追記される。
1回クリックした付箋をもう1回クリックすると消える。
だから、自分の端描きメモから、
使いそうなものを1回別の領域に移動することがまずできる。
ここ、タイトル欄で、
編集できるんで、タイトルを入れるんですけど、
タイトルを入れると、ここにカードができるんですね。
後ろに。
ここにカードを立てることとして、シフトエンターすると確定して、
ここにカードを完成すると。
ここまではできてるんですけど、この付箋をこうやってて、
これ、一応、暫定のカードセットなんですね。
カードが束になってるのとかがあるんですね。
一応、こう、ダブルクリックできる。
ダブルクリックすると、カードの中、束になってるカードが縦に出てくるんですよ。
これなのかな?って、これではないような気がするなというのが今の感じなんですよ。
なんかそうじゃないよなーって。
ここからここまではね、僕が今まで考えたUIの中で一番素晴らしいものができたんですけど、
そのカードを付箋にどうしたらいいのかが、
メタファーが見つからない状況で、ちょっと今、相談したんですけど。
これ、あのー、すごい素朴な基本として、
ここにカードのメタファーっていうのが必要…なんですかね。
カードの段階っていうのはやっぱり、必要。
必要なんですね。これ考えたすぐにできたんですけど、
一つは複数のものをまとめるっていう効果と、あとね、マージンを広くするという効果がありまして。
マージン。
余白。つまり感覚的にね、付箋状態よりもカード状態の方が追記を促すんですね。
1:06:06
あー、それはわかりますね。
だから、付箋的なものよりも、実はメタノートを踏襲してまして、
つまりここがメモで、ここなんかが気になったものをここにノートしてあげると。
で、さらに並んだものをメタノートしてあげる。
つまり、注目度の高いものをどんどん上に上げていくというシステムにしたかったんですよ。
なるほど。なるほど。
だから、下の方とかは別にほとんど見なくていいと。
最高の上の方だけちょっとちらちらっと見て、さらに重要なものをこっちに並べていってって、
した時に、カードの次で、束で重ねたとして、なんか変わっているのかなっていう疑問がありまして、
変わってない気がして、だからメディアを変えなあかんはずなのに、束ネタ、
だからこれは結局デジタルを、無理やりアナログでデジタルしてるからこの無理がやってくるんだけど。
だから、タイトルと本文を持つものの一つ大きいものって、
例えば本文が長くなっているものなのか、それとももっと階層化されたもの、
つまりアウトラインでいうと一個インデントがさらに増えるようなものなのか、
情報的にどういうものがいいのかな。
で、僕の今の知的生産カードの中で、そこに当たるものがなかったんですよね。
この次って記事なんですよ、僕の中では。
それはなんか違う気がしてなあっていうところをちょっと考えてたんです。
アメリカ的なカードの、日本でいう兄弟付きカードじゃなくて、
アメリカの5×3、5インチ×3インチのカードの使い方でいうと、
よくカードを集めて束にした次の段階でリーガルパッドが出てくる。
このリーガルパッドもまたレターサイズのでっかいやつと、
もっと小さいやつがあります。
AKでいうと英語サイズぐらいの小さいサイズがあって、
小さいサイズのリーガルパッドがなんとなくあそこにワンパラグラフ書くっていうイメージらしいんです。
僕もあんまりよくそうは知らなかったんですけど。
1パラグラフっていうことは要するに一つのまとまりというか、
メサオ的に言うマメロン文的な単位。
英語で言うパラグラフですよね。
パラグラフライティングの1パートというね。
パラグラフライティングという意味での日本的な段落じゃないパラグラフ。
そのカードのまとまりごとに、パラグラフに相当する1枚のリーガルパッドを使った
アイロンアラを書いていって、今度またそれを順番に並べて、
1:09:01
最終的にタイプで打つ。
そんな綺麗な順番に行くのかどうかはちょっとわからないですけど。
カードじゃないもう一つ上の段階のメタファーっていうと、
ページを思い出したのが。
ページとかシートってことですね。
そうそう、シートっぽい感じ。
だけど原稿じゃないっていう。
そうですね。原稿じゃない何かちょっと大きいものっていうものを探したんですね。
ほか、ページか。
ちょっと今ひらむきました。はい、ありがとうございます。
いけそうやな。
すごいですねこれ。
いやとりあえずね、この……
なんかいつのまにか全然違うつもりになってるんですけど。
全部違うものになってる。
結局ね、いろんなドキュメントとかスケジュールとかっていうのを
テキストボックスで管理してすごくうまくいったんですけど、
いつまで経ってもこの走り書きメモがどうしようもないんですよ。
どうしても扱えないっていうところで、
一つ思いついたこの方法で、やっぱりこの……
結局アウトライナーとかでもずっと思ったんですけど、
横に領域があって、一時的にドラッグして動かして、
そこに貯めておくみたいなのをしたいなと思ったんですけどね。
それができるようになったと。
アウトライナーでやってもよかったんですけど、
ちょっと付箋的に試してやって。
しかもこの付箋からカードへ、カードからさっき言うと、
ページとかシートへっていうふうにメディアを書いていく。
変わってないですけど、見た目が変わっていく。
それは余白を大きくしていくってことになると思うんですよ。
見た目の余白の大きさがね、結構重要やなっていうのを、
ちょっと今感じてるとこですね。
なるほど、なるほど。
だとすると、余白を表現するものとしての、
結構ここでカードのメタファーを使ってるとすれば、
そのシートとかページのメタファーってアリのような気がしますね。
うん、そうですね。
だからそう、カードのメディアを変えるべきだったんだね。
カードの数を変えるんだよね。
そこは分かりましたわ。
それを次は作ってみよう。
多分その3段階でいけるはずだよね。
付箋とカードとページで、あとはもう次はドキュメント。
ないしはアーティクルでいけると思うんですけど。
うーん、なるほど。
どうだろうな、どうなんだろうな、これ。
いや、分かんないですけど、これは結局、
プログラミング界隈でいうと、
こういうふうに流度の違うオブジェクトをページに並べるってことは、
基本的にないわけなんですね。
こんな管理しにくいことはないわけ。
でもそれは、人間の知的処理にはもしかしたら違うんじゃないかなっていうふうに
ちょっと考えて、今わざとあえてやってるところですね。
実験、実験をしてるわけで。
うん。
やっぱりそのメディアを移り変えることで、
人間の知性、情報処理が走り出すところがあるはずなので、きっと。
それは間違いなくありますね。
そこをちょっと意識した、そのノートツールみたいなのができたらいいなと思ったところですね。
この色付きのタブみたいなやつってのは、これはタイトルのもう一段?
1:12:05
これは、このカード束についてる見出しみたいな。
束の見出し?
うん。だからインデックスしてみたいなもんです。そのまんまです。
そこをクリックすると中身が見えるという感じになってます。
やっぱね、クリックしないと中身が見えない段階で、
やっぱりちょっと違うというか、もう一個上のものになっちゃってるんですね。
だからそこをずっと変えたかったんですけど、
これも面白いんですけどね。
割と面白いんですけど、やっぱり使ってると中身が見えないなっていうのをずっと考えてたんで、
そこを変えていけたらなというところですね。
こうやって消しとくかな。
全部消えたら消えるんですね。
なるほど。
こういう触る感じとか、同じものを2つ作れるとかっていうのがデジタルの良さなので。
これ、他のカードに同じラインを使うこともできるんですか?
一応使った後は消えないんで、ずっと残ってます。
ただ、今、例えば付箋の色を薄くするとか、
1回使いましたよっていうのを何か可視化しようかなっていうアイディアはありますけど、
これはずっと残っている感じです。
なるほど。
というわけで、
何の話だっけ、
インポットとアウトプットの俺的言い換えっていうアイディアがあれば、
#打ち合わせキャストひらがなで打ち合わせアルファビットキャストまでいただければクラッシュタグはチェックしたいと思います。
たくさん何かご連絡等々ございますでしょうか。
特にありません。
今回はこれまでにしたいと思います。
お疲れ様でした。
以上です
(字幕視聴ありがとうございました)
01:13:51

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