母娘の対話の始まり
ちょうど9時になったら、スタートです。
みなさん、こんばんは。
こんばんは。
位置的に合ってるね。
ちょうど9時になったから、始めます。
では、まず、こんばんは。
いきまーす。
1ヶ月以上間が空いてしまいました。
いや、サボってたわけじゃなく、それなりに忙しくしてました。
例えば、オンラインでの体験会をしようとか、
それから、らせん流のナビゲーター養成の第一期を始めようと、
それもオンライン併用のでいくので、いろいろとその準備をしたりとか、
らせん流自分会計の8つのらしん番というのがあるんですけどね、
それをより分かりやすく、身体に落とし込めるようにする文章を考えたりとか、
それなりにゆるゆるとやって、1ヶ月過ぎてしまいました。
当然、途中、オリンピックも見ておりましたが、
今日はね、1人ではなく、ここもう1人います。
らせん流の探求をしていく、初めのうちは被験者というか、モニターだったんですけど、
途中からどんどんどんどん、自分からいろんなことを見つけてくれて、
私としては頼りになる相棒みたいになって、今来ております。
私の娘であり、らせん流探求の相棒という形で、たまにフェイスブックを紹介させていただいております。
はい、中村様と言います。こんばんは。
こんばんは。よろしくお願いします。
私、小松見冬ってやっているのは、私の旧姓で、
結婚する前から小松見冬で仕事していたので、
それでやっています。
なので、小松と中村ではありますが、一応母娘です。よろしくお願いします。
身体の動きと感覚
で、今日のテーマはですね、こんな感じです。
こんな体育があったら受けたいなあ、ということなんですけれども、
果たしてここで毎度のことながら、音は大丈夫かという確認をします。
さてと、あ、5人も見てくださってる。音大丈夫ですかね。
音聞こえてる?あ、止まってしまった?
えーと、止まってしまった。聞こえてますかね、今。
止まってる?みんな?
じゃんじゃん。こっちは問題なくいけてるんだけれどな。
何かあったらコメントください。やってみます。
うーん、ゆみさんのところ。あ、大丈夫です。来た来た。ありがとうございます。
えーと、意外とトラブルあるもんです。
で、これで、これでやるんですけど、よろしいでしょうか。
で、今日これが、血に足がつくセルフケア法ということと、
どう関係あるのかということなんですけど、話の中から、
皆さんがヒントにして、あ、こういうこととつながるんだな、
ということを拾っていただければな、というふうに思います。
で、今日はお話しするので、ワークは基本なしでいきます。
えー、よろしいでしょうか。
ということで、特別編、よろしくお願いします。
お願いしまーす。
なんか照れますけどね。
早く出るってね。
えーとね、さっきね、ちょっと軽くリハーサルしたら、
まあ、しゃべるしゃべるしゃべる。
なんでね、1時間では、1時間で住めればすごいかな、みたいに思ってたんですけど、
まあ、コンパクトに、皆さん眠くなる前に終えるようにしようと思っておりますが、
よろしくお願いします。
さあ、それでですね、この、なんでこういう体育をやり、
こんな体育があったら受けたいなあ、というね、こういうタイトルで、
まあ、2人で話す、娘にインタビューという形でやりたい、というふうに思った、
そのきっかけなんですけど、実は娘が一応、保健体育の教員ということも将来の職業の一つとして考え、
選択として考えていて、えーと、6月だったかな、
教育実習に行ったんですね、保健体育の先生として。
それでその時の、えーと、教育実習の終わった後に、レポートを出した時に、
そのレポートをちょっと見せてもらったんですけど、こんな一文があったんですね。
あれ、ここでこう行くと。
本来、私たちの体は気持や、動いていて心が安らぐ、といった、あれ、こう行こうか、
感覚とともにあり、心と切り離せるものではない。
また、その心と体が共鳴し合うからこそ、動く喜びを感じられ、
今、この瞬間に生きている喜びを確かめられるものだと思うというね、
こういう一文がありましてですね、ちょっとね、頭になかなか入りにくいかもしれないんですけど、
えーと、ずっと、なんだかんだっていつも、体のこととか動きのこととか、
日常会話が8割ぐらいかな、そんな話が、彼氏のことなんかほぼなくって、
体のことばっかり話してる変な親子なんですけども、
そういう中で、この文章を見せてもらった時に、
お、すごいなと、ちょっと参ったなって感じだったんですね。
こんなことを考えてたのか、これを、どういうとこからこういうことを思いついたのかなとか、
そんなことを聞いてみたら、なんか面白いかなと思ったんですね。
そのもう一つあって、螺旋流のワークショップにお見えになる方、参加者の方には、
やっぱり体育が苦手だったとか、運動が嫌いだった、体育が嫌い、動くのが嫌い、体育が嫌いっていう方が多くて、
それが大人になっても続いていて、コンプレックスのようになって、
もうなんかこの螺旋流だと、どうやら通常のある動きができるできないということじゃないところを、
なんかやってるみたいだってことでお見えになって、
この螺旋流のワークショップなり、オンライン見てくださる方はご存知だと思いますけども、
気持ちいい、自分が気持ちいいように動けばいいんだよっていう、それを感じる体を取り戻してねっていうことをやってるわけですよね。
それだったらできるっていうことで、動く気持ちよさっていうことを取り戻していただいて、動くことが楽しくなっていくって方が結構いらっしゃるんですね。
もともと動くの好きって方もいらっしゃるんですけども、そういう方もまた見方を変えていくわけですけど、
そういう中にこの娘が書いた一文っていうのは、非常に何か私には刺さるものがありまして、
それについて聞いてみようかなって思ったわけです。
話があちゃこちゃ言っちゃうかもしれませんけど、付き合いください。
オリンピック終わりましたね。でも明後日、もうすぐオリンピックも始まるわけですけども、
スポーツの楽しさ
うちは一家でスポーツ大好きですから、本当に盛り上がって見ていました。
どうですかね、何が良かった?
一番は久しぶりに大きい声を出して、うぉーみたいな、思いっきり発散したのが、久しぶりだったなっていう風に思って。
外で大きな声出せないし、うぉーっていうのは、相手の体とか動きに反応する。
何か直接体対体で何か動かされる。
一緒にうぉーって動く。
動くよね、あれは何なんだろうね。
本当に体って面白いよね。動きって反応しちゃうというか共鳴するというか。
ゴリラもそういうのあるらしいね。
ゴリラも遊びの中で電車ごっことかそういうのがあって、
お互いの動きを楽しみ合って共鳴するみたいなのがあるらしい。
かなり本能的な部分を感じた。
理屈じゃね、わかんないよね。
思わず動いてるみたいなね。
で、どんな特に印象に残ったシーンとか。
興奮したとは違うかもしれないけど、
男子マラソンのキプチョゲは、
あの映像と空気感とそのまんまにホワッと思い出すというか。
そういう感覚になったのは久しぶりだなって人の動きを見て。
興奮とはちょっと違うかもしれないけど、
私も一瞬彼が抜け出していって、
横からの映像になったときに彼の単独の、
すっごい息が深くなったんだよね、瞬間。
それで私も自分で動きをしていて、
いい動きができたときって自然に呼吸が深くなるって、
それが一つのいい動きができてるっていう見やすさがあって、
その瞬間に、
本当にスーパーの動きをしてるんだなって。
体全部使い切って、連動し切って、
どこにも滞りがなくて、
そういう風に感じて、やっぱり最高のシーンって言ったらあれだなって。
で、その後、
その後、
その後、
そういう風に感じて、やっぱり最高のシーンって言ったらあれだなって。
で、あと私はすごく印象に残ってるのは、
あなたが、
今スケボーのことがすごい話題になってるじゃないですか、
新しい種目で若い子たちが、
新しいスポーツの価値観を見せてくれてるってことでね、話題になってるんですけど、
スケボーのテレビで解説していたセジル・イッキョウさん、
ゴンゼメだとか、ピッタピタに笑ってるとかね、
名言をいっぱい吐いた彼なんですけど、高く評価された彼のことを、
佐野は4年くらい前から注目してたよね。
なんで?
なんかテレビ番組か何かわからない、忘れちゃったけど、
相場ちゃんだった?
相場ちゃんの、
テレビ番組で、
スケボーのオリンピック正式種目っていうのが決まった時に、
彼、セジルさんはトップスケーターだったのに、
オリンピックに出るか迷ってるっていう、
もし選ばれたとしても出るか迷ってるみたいなことを言ってて、
話しててね。
その理由っていうのが、
彼はスケボーの技を仲間と一緒に磨きあって、
おーすげー!みたいな。
かっこいい映像を撮って、
っていう、それは純粋に楽しくて、
だから、純粋に楽しんでるものを、
オリンピックの競技っていう、メダルを取るために競い合うとかいう場で、
やりたいことを望んでないっていう話をしていて、
自分自身も競技とスポーツの楽しさっていうところで葛藤を抱えてた時期でもあったから、
まず自分がそのことで、
トップスケーターでもトップアスリートでもこういうこと考えてる人がいるんだっていうので、
自分の葛藤もいいのかもって思ったのと、
あと、彼が言ってる世界がもっと広がれば、
それが正解とかじゃなくて、
それでもいいんだっていう世界が広がったら、
なんか、いいなっていう。
そう思って、
純粋にそのスポーツを楽しんで、
そのやってる自分を楽しんでる彼を純粋に応援したかった。
まさに今みんなが今回のスケボーとかサーフィンとか見て感じたのはそこの部分だよね。
多くの人がスポーツの原点が見えてきたみたいにして、
今スケボーが話題になってるっていうのはそこの部分で、
きっと多くの人が潜在的にスポーツの結果試乗主義みたいな、勝利試乗主義みたいなところに、
やっぱり窮屈さを感じてたり疑問を感じてたり、
疲れちゃったり、やってる人は疲れちゃったり、見てる人もなんだろう、
なんかそうかなみたいなのが、どうか潜在的にずっとあったことなんだろうなって思うよね。
本当にここから変わっていく、ひょっとしたら汽車紙になるかもしれないな。
つまりあなたが当時から疑問を持ってたってところが、
これがさっきの教育実習の時のレポートの話にもつながっていくのかな。
多分。
身体と心のつながり
これどういう経験から、体は気持ちいいや、動いていて心が安らぐといった感覚とともに、私たちの体は。
だから心と体が共鳴し合うからこそ、動く喜びを感じられ、今この瞬間に生きている喜びを確かめられるんだと思う。
これはどんな経験から生まれた感覚だったりするのかなっていう。
ちょっと聞いてみてもよろしいでしょうか。
本当にこの場面っていうことでは、もちろんなくて、
小学校、中学校、高校っていう風に陸上競技をやってきて、
高校1年生くらいまでは都大会で入賞するとか、中学でいったら全国大会に出場するとか、
そういう目に見える結果っていうものを目指して陸上競技をやっていて、
東京都の強化指定選手に選ばれたりしている中で周りからすごいって言われたり、
都大会で入賞したらすごいって言われたりして、
自分が出した結果で自分自身の存在を評価されることが嬉しくて、
それがモチベーションで高1くらいまでは陸上をやっていて、
でも高校生の時くらいからは都大会に出場することすらできない時期もあったし、
自分が望んでいるものと結果があまりにも対極にありすぎて、
それですごいとも言われなくなるし、
本当に自分の存在価値っていうものが全然わからなくなっちゃって。
人前で走ることも怖くなったし、走ることも嫌いになったし、
それで陸上を辞めようかなとか色々考えて、
じゃあこんなに辞めようかなって何度も思うなら、
ちょっと走りたくなるまで休んでみようと思って、
試験期間中だったかな、ちょうど部活も休みだったからちょうどよく1週間くらい休んでたら、
ちょうど休み始めて1週間くらい経って、
中からうわぁ走りたいみたいな、めっちゃ晴れてた日だったから、
うわぁ走りたい走りたいってなって、とにかく走りたくて、
家にいた兄を連れて近くの公園に行くよって走りに行って、
一緒に走って、それが本当に気持ちよくて、
楽しい気持ちって言葉しか出てこないくらい、
その時に陸上部も、それは高1の冬から春くらいのそれで、
自分の入っている陸上部は高3の夏くらいまではやるし、
とりあえず最後まで陸上部で活動したいみたいな気持ちもあって、
でも結果を目指してやることには限界があったから、
この今感じた、今日感じた気持ちよさを絶対失いたくないって、
なんなら失うところじゃなくて、どんどんどんどんここを磨いて磨いて、
磨いていきたいっていう気持ちになって練習をしたんです。
ランニングの喜び
で、リリアドのランニングバイブルっていう本を読みながら、
ひたすら体の声を聞いて、
800メートルやってたからね。
800メートルやってたので、ひたすら体の声と対話しながら、
どう動いたら気持ちいいかな、気持ちいいかなっていうのを繰り返してて、
で、こんな冬ぐらいに家の近くの河原、野川を走った時に、
走っていくうちにどんどんどんどん走っててニヤニヤが止まらなくなっちゃって。
完全に変な人だね。
もう本当になんかヨダレ出るんじゃないかぐらいニヤニヤしちゃって。
あの日だよ。
名古屋マラソン、ウィンメイズマラソンの日で、途中まで一緒に行ったんだけど、
私はマラソン気になるから帰るって言って、もうちょっと行くわって言って、
一人でトコトコ行っちゃった日だ。
どこまで行ったかわからないぐらい、20キロ以上大きく走ってるんだけど、
一歩つくごとに、一歩一歩進めるごとにどんどんどんどん気持ちよさとか、
じわーって広がっていって、体の中も自分のついてる場所も広がっていって、
なんかもう気持ちよくて、ニヤニヤしながらそのまま家帰って。
でもそういう状態が、もちろん身体の状態だけど、
でもそういう状態が、もちろん身体でいろんな変化、本当に変化してるから、
その状態が続いたわけじゃ全然なくて。
で、降参になって最後の大会になるかもしれない。
都大会の標準記録切らなかったら最後の大会になるっていう。
そういう大会の前日に近くの公園走ってたら、
大会前日とか一週間前から緊張しまくって、
くよくよくよくよくよして家族にくよくよくよくよ言って、
心震えてて普段から。
なんとなくしーんと取扱中みたいな雰囲気をかもし出してたよね。
それが普通だった。
前日公園で走った時に、
今ついてる地面、地球と本当に大きいこと言うと、
でもそれが実感だから言うと、
感覚だからね。
今立ってる地球と本当に宇宙かな?
パシッと、パシッとなんだけどすごく柔らかくなめらかにつながった感覚があって、
もう大丈夫だみたいな。
今まで感じてた不安とかを思い出すまでもなく、
大丈夫だみたいな感覚。
確かあの日、全てを楽しんでもいいですかみたいな。
楽しみますからみたいなことがあったよね。
全て楽しんでくれねみたいなこと言ったらしいね。
記憶にない時期があった。
それで特に緊張とかもあったわけじゃなく、
淡々と大会当日を迎えて、
当日のアップ中も気持ちいいとか感じるとかじゃなくて、
なんかよく分からないけどただ走ってるみたいな。
でも何もそこに不快感はなくて。
ただ走ってるのよ。
普通はきついよね。
アップね。
アップの時に。
それで不快感ないし滞りも体ないし、
特に何も考えて無心で走ってる。
そのレース本番も600メートルくらいまで、
転がるままに転がって走るみたいな。
びっくりしたよね、あれの時は。
そんな持ちタイムが全然違ってる。
なんか平気でついて行って、
抜いちゃったもんね。
抜いと上がって行けたもんみたいな感じで。
本当に楽しそうに進んで行ってたんだ。
忘れられないね。
転がって止まらないからただ転がってる。
そこが実は本当に目指したい走りというか、
本来の走りって転がるんだよね。
それで気持ちよくて止まらないのが本当の、
全部使い切って連動して使い切ると、
そういう走りになるんだよね。
プライマピ、プライマピ、プライマピ。
それを競技って中でね、
それで600mまでそんな感じ。
残りの200はやっぱり思考が入ってきて、
そこで、あ、なんか最後脱出切れよみたいな。
やっぱり思考が入ると、
思考が入るといろいろちょっとギクシャク起きてくるんだなっていうのは、
一番の、あれで思考が入らなかったら
どういうことが起きてたんだろうっていうのは
いまだにたまに思うかな。
170、600までそれができたっていうのはすごいことだよね。
思考か。
その後もちろんいろんな体調の変化とか、
いろんな状況あるから、
ずっとその気持ちが、それを獲得したからずっとできるとかじゃなくて、
相対法の考え方
もちろんいろんな波はあって、
でもやっぱりそれを一回、
あ、自分の体ってきっとつながってるっていうのを、
なんとなくでもそうなのかもって思えたのは、
いまでもうわーって苦しいわみたいなときも、
それは本当に間違いない、たぶん確かな何かであって、
受験、その子さんの夏に引退して受験入ったときも、
受験も苦しくて、あの方も容量悪いんで相当苦しくてね。
うわーってなったときも、
走れば心も体も整って、全部リセット、一回リセットできるっていう。
だからたぶん受験中も毎日走ってたし、
なんならその日一日勉強頑張ったご褒美みたいな感じで走ってて、
走ってる時間は、受験失敗して、
もし浪人になっても走りさえあれば大丈夫だもん。
自分には走りがあれば大丈夫だっていう感じ。
だからたぶん、
そういういろんなこと、いまも散歩でそういうこと感じることもあるし、
相対法をやってるときだけで本当に微妙に動いてるだけなのに、
それを感じるときもありました。
それっていうのは全部がつながって、
自分の中だけじゃなくて、もっと大きな世界ともつながってみたいな。
つながってっていうのを相対法で感じられることってたぶん少ないんだけど、
でもきっと、そういうものの下で、
そういう中で生活してて、生きてて、
その中で相対法って自分の体が気持ちよくつながっていく?
毎回そんなつながりを感じられるわけじゃ全然なくて、
でもそういうところで生きてる。
気持ちよく動けば動くほど、気持ちよさも応援してくれる?
気持ちよさも応援してくれるよね、ああいう表現で。
それを確かめられる。ほんのちょっとの時間だけどね、相対法って。
あ、ちなみに相対法というのはですね、
野戦流のワークショップでもやっている体のケア法なんですけども、
全ての不調の、心身の不調の原因は体の骨格の歪みにあるということで、
その骨格の歪みを正せばその表面に現れている不調は消えていくという考えで、
その歪みの取り方というのは気持ちいい方に気持ちいいだけ動けばいいというね、
本当に今までの苦手な方を頑張るとか苦手な方をいっぱいとかそういったのと真逆の考え方。
それは本来人間の体というのは自然界の一部で、自然界の生き物というのは本来の構造に沿って動けば
貝というご褒美をもらえるというシステムがある。
つまり野戦流でやっている根幹にある考えというのは相対法から教わっているわけなんですよね。
そうすると気持ちいい方に気持ちいいだけ動けばそれは本来の動きに戻る、
本来の構造に戻るという非常にシンプルな発想なんだけど、
ここを今の多くの体育なりスポーツなりが忘れちゃっているところというか、
ちょっと違う方向に行っちゃっているところじゃないかな、みたいに思っているところです。
それを相対法ね、日々やっている、ほぼ日々やっているよね。
何ならこういう今でもムニムニ打てて、気持ちいいところないかな、みたいな。
息するように相対法、すごいね。
そうか、つまり気持ち良さが応援すると、一回気持ち良さに入ると、
それがまた今度帰ってきて、それでさらにいい状態になっていくということがある。
そういうことができるのがやっぱり私たちの体。
うん、そういうものなのかもね。
最初に娘に必ず言っておいてねって言われて、言い忘れたのが、
私たちの体って日々変化しているので、今この瞬間の感覚の話をしていて、
明日になったら違うことを言っているかもしれないんでって言われたので、
そんなに大きなね、180度変わるってことはないけれど、
どのぐらい私たちの体って、刻一刻変わっている。
それで、かいっていう感覚も日々変わっていくし、
その種類も変わっていくし、深さも変わっていくし、
そういうものなので、そうじてね、こういう気持ち良さを得られたら、
これは延々不滅のものだとか、そういうものじゃなくて、
気持ち良い動きの探求
必ず得られるものじゃない。本当にそういう、いろんな波の中で。
起きているっていうことではある。
今日ダメだ、お手上げみたいな日あるよね。
今日諦めた、仕事しよう。
今日は何もしない、みたいな。
チーンって感じの日もあるけど、でもチーンが続いていると、
おお、みたいなね、これは過去最高の気持ち良さだ、みたいな日が来たりとかね。
でもそれが一瞬であったりしてね、まあまあ変わるよね。
変わる変わる変わる変わる。
けど、その気持ち良い方に動けば、そういうところに行けるっていう、
このシンプルな、なんていうのかな。
法則っていうのかな。
これは、そうよ、あなたがすごい良いこと言ってくれたことだけじゃない。
このご自愛、螺旋銃で言っているこのご自愛、自分の命ってすごいね、
っていうことと、それからこの気持ち良い方に動けばいいんだってことを、
彼女は10代の時に気が付いたわけなんだけど、
これを10代の時に気が付いたってことは、
一億円の宝くじが当たるより嬉しい、って言ってくれたよね。
それは最高の、私は親の役目終わり、みたいに思ったぐらいに嬉しかったんだけど、
多分こういうことを、自分の気持ち良い方に動けばいいんだ、
多分こういうことをみんなにしてほしいよね。
この基準というか、発想?
発想っていうのかな。
発想。
発想の感じかね。
というのがあると思う。
どう思う?
さっきも一歩足すごとに見上げちゃうって言ったけど、
その他に走る以外なんかある?
走る以外ね。
動くことで幸せ。
走る以外か。
走る、歩く以外。
走る、歩く以外?
走る、歩く以外か。
ある?
別に。
体験の重要性
そこがね。
走る。
連続性を伴ったこの走る時に感じる気持ち良さ?
連続性を伴ったものだと、なかなか走る以外はパッと浮かばない、あるか走る以外は浮かばないんだけど、
例えば、料理してる時にめっちゃ重い鍋持って、
この時に、重いなって。
これ普通に何も考えず持ったら腰バキやるぞって思う。
で、その時に、
体がひめを上げないように持ってみようみたいな。
持ってみようみたいな。
ちょっと鍋に体、重心近づけて、
フッて、フッて言う。
多分タイミングだと思うんだけどフッて言う。
で、知ってる人は知ってるかもしれないけど、
頭上骨?
頭上骨でフッて上げて、
そうしたら何も持ってなかったかのように、
ポンって上がるみたいな。
そういう時は、よしって。
よしって思って、
その瞬間は、なんだろうな、
幸せっていうより面白い、楽しいっていう。
そういうのもあるかもしれないけどね。
そういう発見ってあるね。
してやったりみたいな。
やった。
アティシャネルの今の話で思うと、
髪の毛洗う時にさ、
それこそ全身練度を考えて、
今言った頭上骨。
頭上骨って、続けてご覧になってくださってる方は、
ご存知だと思いますけど、
小指のここの、手首のシワシワの上にある、
骨なんですけども、
マメ状の骨って書くんですけども、
全身練度スイッチっていう風に呼んでる、
螺旋流では呼んでる骨なんですね。
それを使って、シャンプーする時にやると、
非常にこの動き自体が気持ちよくて、
いつまでもシャンプーしてるみたいなことはある。
いつまでもシャンプーしてる。
いや、陶器の油なくなっちゃうよみたいなことはあるんだけど、
本当に練度とか気持ちよさ探しとかして動くと、
日常のいろんな動きが、
親っていうことがあるよね。
でもきっと、どのスポーツでも、
対極拳?
対極拳ね。
大学の授業で、今スポーツ系の学科通ってるから、
大学の授業で対極拳やった時は、
形からやるんじゃなくて、
形は多分気持ちよく動けるようにできてるものなんだけど、
形を真似しようとするとなかなかそれが合わなくて、
噛み合わなくて。
気持ち良いように動いてみようと思ったら、
それ止まるところがなく、
止まるところがなく?
ちょっと2、3回しか体感したあれじゃないから、
はっきりとは言えないけど、
それを探してると気がついたら形になってるみたいな。
で、例えば足を出すっていう、
次に足を出すっていう方があったとしたら、
気持ち良いっていう感覚を探ってたら、
あら、気がついたら足が出てたみたいな。
あ、面白い面白いみたいな。
あれは連続性かも、結構。
それは経験あるわ、私も。
全然、何年もやってるって人と、
私初めて行った時に、
あれって、
師範の動きについていけるじゃんっていうか。
ちょっと微細なところは違うんだけど、
流れて動けるよねみたいな。
肩から入らない。
さっき言ってたじゃん、
800メートルの時に、
力を出し切るっていうと、
ダメだけど、
あの時は出てたって。
そう、
言ったっけ?
うん、出てたね。
ちょっとリハイした時に、
自分は、
大会になると、
なかなか今まで力を出せなくて、
周りから見たら、
力余って終わってるとか言われて、
でも、
気持ち的に、
何かブレーキがかかってて、
自分が、
自分が、
自分が、
自分が、
何かブレーキがかかってて、
ブレーキかかってるよ、出してって言われても自分は出なかった。
それが。
で、
すごい転がるように、
天地と、
に、
なんだろうな、
天地と、
繋がったっていうか、
天地の流れとともに、
そう、行ってた時っていうのは、
別に、
自分の力をすべて出そうって思ったわけじゃないし、
その、
出そうって思ったわけじゃないのに、
気持ちも、体も、
気持ちと体って多分同じ?
同じっていうか、
それこそなんかに共鳴し合ってる、常に。
だから、
それは全部パシッと、
いい位置にはまって、
これ多分体が、これいけるって判断して、
勝手に、全然ここじゃなくて、
頭じゃなくて判断して、
してたから、
力を出したんじゃなくて、勝手に力が出た。
力を出してるっていう感じも、別に特にない。
あの頃ね、面白いこと言ってたよね。
全力を出し切れって言われて、
気持ち良さを追い求めてると、全力の限界がないみたいな。
全力を出し切るって何?
そうそう、全力を出し切るって何?
全力を出し切るって何だろうって、
全力を出そうって思うと全力が出なくて、
気持ちを探ってると、
全力出てた、自分のその時使える力は出てたかもしれないみたいな。
そういう感じですかね。
自分が思ってた全力が、
頭で思ってた全力がどんどん先に伸ばしされるみたいなこと言ってたよね。
全力を出すって思って、
全力を出した時って全力出てないと思ってて、自分は。
全力を出すって思ってる時点で、
自分で、自分の持ってる、
自分の体が持ってる力っていうのは制限されてると思ってる。
っていうのをすごく感じてて、
それを感じてたから、
全力出し切るって、全力出してないよって思って。
なるほど、なるほど。
そこも無駄って言ったらあれだな。
自分は求めない努力はやめようって思う。
やめたいって思った。
面白いね、その全力。
全力を出し切るっていうのは一つの美学みたいになってるところがあるけど、
そこはじゃなかったってことだよね。
野口体操の野口さんが、
全力っていうのは、
自然界の重力と自分の重力が合わさった時に、
勝手に出る力であって、
待って、くしゃみが危ない。
出る力であって、
筋力、いわゆる筋力。
自分の筋力。
自分の体だけで出してると思ってる力っていうのは全力じゃないって。
それはすごく納得して、
そことも重なるかなって。
まさにそれなのかなって。
天地とつながるとか言うとちょっと怪しいっけみたいに思うかもしれないけど、
実はその万有引力なり重力をバッチリ使えるポジションに自分がいるみたいな。
そういうことなんだよね。
それはすごく無理のない。
くしゃみしていいよ。
本当にそれが一番自然な形ということなんだろうな。
天地とつながるって言いにくい言葉だし、怪しまれるのもわかってるからあんまり言わないけど、
そういうふうに自然界から力をもらってるようなものなんだろうなっていうのは、
否定のしようがないことなのかなって。
それは一番大きな力だからね、私たちが地球上で動くときにね。
さあもう45分経っちゃいましたよ。
最後にね、どんな体育をやったら受けたいかって話だったんです、実は。
じゃあこの今、宇宙体育の先生も視野に入れてる、
あるいは体育の先生って形じゃなく、何か動きのことなり体のことなり伝えるっていうことを視野に入れてるようだから、
どんなことを子どもたちなりにシェアしたい?
子どもたちなりにね、本当に一番シンプルに、
え、君たちの体、君たちの体?自分たちの体?
私たちの体。
私たちの体?すごくない?みたいな。
でも、すごくない?っていうのから、
いや、面白くない?とか不思議みたいな、なんだろうな。
そういう純粋な感動を伝えたいんじゃなくて、一緒に共有したくて。
シェアっていう。
共有したくて、
多分、子どもは必要で動くものじゃないから、絶対にそれは。
楽しくないと動かないし、興味示さないし、残らない。彼らの中には。
っていう中で、一緒に自分も新しい発見っていうのをいちいち楽しんで、
すごいね、すごいね、こんなのもあるの?体って。
そういうのを一緒に毎回新鮮な気持ちで楽しめる。
そういう人でありたいなっていうのは思って。
体は気持ちよく動けるように作られてるんだよ、なんて言ったところで体感しないとわからない。
自分も毎日体感してるわけじゃないけど、何度か体感したっていう経験があることで、
きっとそれは彼らも自分も子どもたちも自分も生きていく上で、
きっと何かつまづいて上ってなったときに、
何か頭のこの辺にそんな体験もあったなみたいなのが残ってると理屈じゃなくて、
理屈を変えさず生きるかみたいな。
自分も毎日全然気持ちよさ感じねーやみたいなのもあるけど、
身体的経験の重要性
でもなんだかんだ這いつくばってるのはきっとそういう経験がどっかにあるからだから、やっぱり。
頭は忘れても体は覚えてるっていうのもあるかもしれない。
さっきから語ってるのって結構何年も前の、5年くらい前の話だけど、鮮明にここに真に残ってるわけだから。
でもその気持ちよく動けるように作られてるっていう体験を楽しさの中で体感するっていう、
そういう体育だったりスポーツ指導のカリキュラムがまだここにはなかなか思いつかないっていうのが今の悩みで。
相対法をゆっくりやってくださいって。さっき言った相対法をゆっくりやってくださいって。
子供はアーって暴れたいわけ。
だからそれをどういう風に楽しさの中でこっちが理論を言わずに彼らの中には残らない人もいると思う。もちろん。
それはもうしょうがない。しょうがないっていうかそういうもんだと思うしかない。
できる限り多くの子の中にそういうのが残る、そんなことを一緒にしたいなっていうのを。
それが体育っていう今の教科の中の一つの形ではなくても、あればまた本当は一番そこをやりたいところでもあるんだろうけど、いろんな制約がまあまあいっぱいある。
けど、なんかやってみたいよねって。それこそさ、一生ものじゃない?その時のそういう経験って。
その一生ものになる内容とやっぱりならない内容ってあると思ってて。
体育の経験がね。もちろんスポーツの文化を知る上で、例えばバスケのこういうフォーメーションがあってとかこういう技があってみたいなのをその場でスポーツの文化を知るものとしてやるのは確かに面白いことかもしれないんだけど、
そこだけに区切って区切って技を区切って区切ってやるのをただただ淡々とやってたら、一生ものとは言えないかなとは思う。
今一生ものって言ったのは自分の一回でも気持ちいいって繋がったその気持ちよさみたいなものを持ってたら、その体で経験したものっていうのは多分体の記憶っていうのは大きいもんね。
そうなんだろうね。きっとね。やっぱ正直頭で考えたものはもうスポスポ抜けてる。
スポスポ抜けてるから。
それは言ってるもん。私なんてもっと派手に抜けてますから。
抜けてるけどやっぱ残るものって自分の軸になるもの。
体験したことは忘れないよね。
で、さらにそこの体験にこれ面白いなとか体面白いなとかそういうものが加わっていけば多分もっともっと残る濃度は濃くなる。
楽しさの中での学び
だからそれはね、ずっと探求だと思うけどね。
今日ここで何か結論が出る話でもなく、だけどきっと見てくださった方も何か思い当たるところとか、こんなアイデアどう?みたいなのも、もしあったらどんどんコメントなり感想で寄せください。
今日何かつらつらと話してまいりましたが、こんな回もあっていいんじゃないかなっていうふうに思って、こっちは楽しくやっちゃいました。
いかがでしたでしょうか。
喧嘩しないで済みましたね。
一番そこが課題でしたんですけど、何かもう素朴な疑問なり感想なりお寄せいただければ非常に励みになります。
またこんなことね、機会あったら娘の機嫌がいい時に誘ってやってみたいなと思っています。
どうも本当にこんばんはありがとうございました。夏後半まだ暑い日残ってますけども、くれぐれもたっぷりの無事愛とともに夏の名残をお楽しみください。
どうも本当にありがとうございました。
また次回はいつやるかちょっとわかんないけど1ヶ月ぐらい先になるかなと思いますけど。
4年に1回です。
4年に1回は。
やりたいと思いますのでご案内いたします。
どうも本日はありがとうございました。
ありがとうございました。
バイバイ。