世田谷パブリックシアターの芸術監督の白井晃さん演出で、イギリスの奇才フィリップリドリー作品の舞台「Radiant Vermin」にめちゃくちゃ打ち震えて考えさせられました
ストーリーは、以下のような内容から始まります
"若い夫婦オリーとジルが、自分たちの「家」の話を始める。1年半前、彼らはまだ小さいボロ屋に住んでいて、ジルは妊娠中だった。そんなある日、ミス・ディーと名乗る家の仲介者から「夢の家を差し上げます」という手紙が舞い込む。
疑いながらも見に行くと、浮浪者がうろつく荒れ野原に立つ古びた大きな家。ミス・ディーは、ふたりなら素晴らしい家にリフォームできると言って契約書を差し出す。生まれてくる赤ちゃんのために理想のマイホームが欲しい──ふたりは契約書にサインする。
引っ越した次の日。ふたりは偶然、夢の家の残酷な秘密を知る。たちまちその秘密の虜になったふたりは次々と不思議な“光”とともに家を豪華にリフォームし、荒れ野原をリッチなお洒落タウンへと変貌させていくのだが……。その光とはいったい……?"
(舞台『Radiant Vermin』のホームページのストーリー紹介より)
ここから私は思いました
1.譲れないことが、倫理を超える
2.犠牲の上にしか、豊かさはありえないのか
3.本当のVermin(バーミン:害虫)は、誰か?
1.譲れないことが、倫理を超える
とにかく清原さんと井之脇さんの、1人何役も次々にこなしていくマシンガントークの激しい応酬には度肝を抜かれました。恐るべき俳優パッションにまずは、激烈感動しました
そんな中でとても考えさせられたのは、人間の欲望もありますが、その中でも譲れないこと、例えば自分の子供の未来など
その強さというのが、時には、とても恐ろしい怪物として、超えてはいけない倫理を超えることになる可能性を秘めているということでした
欲望であれば、もしかしたら、みんな我慢してるんだから、何とかしなさいよ、で済むかもしれないけれども、誰にでも譲れない価値観があって、それがゆるがされる時に、倫理を超えないことができるのか
それが強烈な問いとして、私の胸に突き刺さりました
哲学者ハンナ・アーレントさんは、「悪は特別な人間によって行われるとは限らない」と指摘しました。
言い換えると、それは、何が誰にとっての正義なのか、ということ、それは一概には決して言えないということを思い知らされた気がしました
2.犠牲の上にしか、豊かさはありえないのか
この物語の鍵の一つとして、豊かさを実現するために、何を犠牲にしているのか、ということを、忘れてはいけない、ということを、思い知らされました
思想家のヴァルター・ベンヤミンさんは、「文化の記録であると同時に、野蛮の記録でないものは一つもない」
と言われています
つまり、どんな豊かさにも、何らかの犠牲は必ずそこにはあるということを忘れてはいけないのだと思いました
以前お話しした「ゴリラ裁判」という書籍の中に「人間は正義を独占している」という言葉を思い出しました
弱肉強食・食物連鎖が自然の摂理だからという中にも、その中に自分がいるということは決して忘れてはいけない
そんなことを考えさせられました
3.本当のVermin(バーミン:害虫)は、誰か?
だとすると、本当の意味での、この世の中におけるヴァーミン(害虫)は誰なのか?何なのか?ということも、とても考えさせられました
誰かや何かにとってのヴァーミン(害虫)も、その立場から見れば、全く逆に見えてくる
もしかしたら、Vermin(バーミン:害虫)と思っている誰かや何かにこそ、Radiant(レディエント=光る)を当ててみること
それこそ、この舞台のメッセージだったのかもしれないなあと思いました
本当は、誰がVermin(バーミン:害虫)なのか?本当は自分も誰かのVermin(バーミン:害虫)なのではないのか?
一言で言えば
本当は誰がVermin(害虫)なのかノベーション
そんな話をしています
参考:舞台『Radiant Vermin』by Philip Ridley 翻訳 小宮山智津子 演出 白井晃 出演 清原果耶 井之脇海 池津祥子 企画制作 世田谷パブリックシアター https://setagaya-pt.jp/stage/31083/
感想
まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!