僕の中では。
シンプルになんか面白い歌だなみたいな風に感じてる人が多いんだろうなっていう。
僕も藤井和泉が全く有名じゃないときから結構ウォッチしてて。
演奏してるときから。
藤井和泉レビューして、車で見かけてたりして、
そのとき聞いてた友達は、何この歌変な声みたいな感じだと。
変えられちゃうみたいな。
でも、あるとき藤井和泉めっちゃいいよねっていらして、その人。
5年くらい経ってから。
どこかで何か変わっての。
でもその人のあり方はもう完全にバレンシアかみたいなTシャツ着てて。
インスタとかも20万円のレシートをあげるみたいな人なんですよ。
すごいな。
そんな方が藤井和泉いいよねって言うわけですよ。
何がいいんだろうみたいな。
長年のファンである輝きまんからするとね。
何がいいんだろうみたいな感じになるわけですよ。
藤井和泉を。
それはたぶん周りがいいと言ってるからいいって言ってるだけで。
メッセージ性とか汲み取ってなさそうみたいな。
たぶんそういう人が多いなって。
ありそう。
ありそうですよね。
藤井和泉のことが好きな自分が好きっていうセグメントな気がしますそれは。
アイドルセグメントだね。
アイドルセグメントそうそう。
藤井和泉にハマってる私とか、
藤井和泉にハマってる私とか好きな私っていうところは、
だんだんそういう自分にイメージ、セルフイメージを持っていったりすると、
藤井和泉の世界観に共感してますとか、
なんかすごい私にとってほんと癒しとか、
みたいな感じに、だんだん自分自身に対するイメージが膨らんでいくような気がしたんだけども、
それはなんかもうあの、
雰囲気、
そう、なんて言うんだろうな、
でがらし?
なんかでがらしを味わってるみたいなところで、
っていう層もいるかもなーってちょっと思いました。
そのご友人がどうこうとかではなくて、
なんかセグメントとしてそういう層がいるかもなーって。
ですね。
そういう層を入れないで取り組まないと、
あそこまではでも流行らないです。
そういう意味では、
なんかこう、
現代の宗教家みたいにも見えるんですよね。
宗教だと思いますね。
そう思う。
伝えてるメッセージもそうだし、
それをちゃんと感じれてる人と、
なんとなく教会に連れて行かれて、
ただ3日聴いてる小学生みたいな人と、
それを聴いてる中で、
なんとなくその教会が伝えようとしてることを、
なんとなくちょっとずつ感じていけるみたいな。
っていう意味では、
ワンネスを世間にちょっとずつ広めてるんだろうなっていう気もしてるんですよね。
確かに。
なんかあと、
曲もそうなんですけど、
彼のそのキャラクターとか、
発言とかも結構ユニークじゃないですか。
なんかあの感じは、
私は結構なんか集合無意識が求めている、
なんかシンボルな感じがしていて、
それこそちょうどさっき私の中でピタッて繋がったんだけど、
この録音する前に、
最近のバイブスどんな感じですかって、
輝きマンに聞いた時に、
もうそのまんまって言ってたじゃないですか。
あー言ってた。確かに。
で、藤井和はどれほどそのまんまなのかは、
本人すらもわからないかもしれないけれども、
見た印象的には、
そのままですっていう感じのイメージ。
ハッシュタグが彼につくならそういうイメージがあって、
あの感じを結構集合無意識が求めているような印象はあるんですよ。
あれだけリラックスして、等身大でラフで、
なんかもう触れてるだけでゆるむみたいな、
私も私のままでいいんだみたいな、
そういう感じでなんか感じてるっていうのもある気がする。
確かに。ありがた込みですね。
ありがた込み。
ライブ行ってすごいそれ感じましたね。
2回行ったんだけど、なんか、
ライブとかだともちろん席によってはこんなちっちゃくて、
姿はとらえきれいよとかはあるけど、
なんか曲も曲でその非言語的なエネルギーを感じるけど、
ライブとかは私結構やっぱ受け取りますね。
なんか在り方、なんか、
愛の中にいるって感じがやっぱりする。
でもそれはワンネスですね。
ワンネス。
彼のとらえてる解像度でのワンネスをライブに見に来ている人が、
全員がそういうふうに理解はしていないだろうけれども、
やっぱりこう、ライブ中のどこかのタイミングとか、
なんかシチュエーションとかではちょっとそういうのに近づいていったりとか、
なんかやっぱ触れるみたいな、
なんかそういう感じの印象はあるかも。
ビバッサナー瞑想で感じた感覚と近いんですよね、
富士風の曲は。
ビバッサナー瞑想の後半で、
自分もすべてが溶けてて、
全部一緒になって、
愛でも満ち溢れる瞬間があるんですけど、
その感じなんですよね。
同じ体験をしてても、それを全く感じずに、
その瞑想、修行を去っていく人もいますし、
漫画マネジメントができるようになりました。
自分の怒りがわかるようになった、
そんな西洋人の人がいたりとか。
12日間いる?それ感じるのに。
12日間でそこの気づきで止まる?みたいな。
悩んでたのかもしれないですよ、でもそれで。
マジで悩んでた可能性もある。
そういう人は結構、王を買ったりもするんで。
その中で、愛に溶けるという体験を、
一方の輝き間をしていたわけですね。
そういう感じなのかな、富士風に関して。
同じ曲、同じ存在を感じてても、
その人の解釈とか捉え方で、
全然違うものになった。
音楽自体の感じ方が、
結構人によって、さまざまな感じもしますし。
思い返してみると、
今浮かんだ富士風のいくつかの曲は、
聞いてると確かに溶けるような感じがするなって思いましたね。
溶けるとか、
雨で洗われた感じとか、例えば。
うん。
なんかね、軽くなってく、みたいな感じかな。
曲によりますけど。
なんかね。
あ、どうぞ。
なんかそうね、
そのワンネスみたいな感覚を、
メロディーと歌詞で表現してるのがやっぱすごいなと毎回思う。
聴いてるだけで、
あの瞑想の感じちょっと、
確かに抽象度高い。
私一番最初そういえば、富士風とのご縁の始まりは、
あれですね、シータヒーリングっていうのがあるんですけど、
あれはチャネルリングかな、
それこそハイヤーセルフだったりとか、目に見えない領域に、
チャネルリングしてメッセージを教えてくれるみたいな。
そのシータヒーラーの人が、
富士風の音楽って結構ハイヤーセルフとかのメッセージなんだよ、
それこそナンナンとかが出てた時期だと思うんですけど、
そういう感じの紹介のされ方で、そういえば私入り口入りました。
最初からそっちの入り口だったんですね。
最初からそっちの入り口でした。
そうだそうだ。
ナンナン聞いて、それからいくつかの曲を聞いていく中で、
はい、スポティファイとかの、
今年聞いたアーティストランキングの上位にどんどん富士風が入っていくみたいな。
そういう風に聞くようになりましたね。
聞いちゃうよね。
なんかね、絶妙にオシャレじゃないですか。
曲もね。
歌詞の言葉的なものと楽曲のピット感もそうだなってさ、聞きながら思ったんだけど、
なんかセンスの良さっていうのかな。
それがすごく、今時というか、時代的だなって。
うん。
なんかそれ、今感じたな。
いや、ほんとそうで。
彼って曲のテクニック的なところでも、かなり高度なことしてるんですよね。
クロートの人が見ても、そこでその高度進行を使うみたいな、
方程式にずれてますけどみたいなことをやってたり、
結構、現代の音楽業界的にも、すごい新しいことをしてるんですよ、彼。
それもすごいなって思って。
そういうことをしながらも、ワンネス感も伝えてるっていう。
やっぱりいろんな要素が組み合わさっている。
だからこそ、こんなに伝えられてるのかなって感じもありますよね。
ほんとに現代の宗教家ですね。
うん。ほんとに現代の。そうなんですよ。
うん。
なんか今ふと思ったのが、
どのぐらいの人が富士風の風感じれてるかのところなんですけれど、
私のフィーリングだと、なんか若い世代になればなるほど、
言ったら、ハイヤーセルフとのギャップが比較的少ないとか、
なんか人間に転生してくる前の記憶を割と保持していたりとか、
なんか純粋にもう地球初めて来て、
地球エンジョイみたいな、っていう軽やかな魂が多い印象があるんですけれども、
そういう、ほんとに小学生とか、そのぐらいの魂の皆さんは、
富士風をどう感じてるのかなっていうのはめっちゃ気になる。
どうなんだろうね。
なんか、輝きマンキッズとかは聞きます?富士風。
輝きマンキッズはね、車の中とかで流してるから、
キラリとかよく歌ってましたね。息子が口ずさみながら。
でもここまでの深い気づきはまだないでしょう。
じゃあ、違った形でのフィールをしてるわけですね。
そうね、普通に。
音楽として。
音楽として楽しんでる。
そうね。
嫌な?
うーん、なんか、
いや、マジなんなんって感じなんですけれど、
なんかね、なんでそれがちょっと気になってるのかな、みたいなところでいくと、
これだけ伝わるとか届くっていうことは、
人々の何かの金銭に触れてたりとか、
場合によっては何かに反応してるからだと思ってるんですけど、
何に反応してるんだろうなーとか、
何の金銭に触れてるんだろうなーっていうのを思って、
なんかその金銭に触れるとか反応するっていうものが、
若い世代、地球に新しく来ている魂たちとかは、
なんとなく感じ方が違ってそうな、ちょっと私の思い込みかもですけど、
あって、反応するとか金銭に触れるじゃない感覚なのかなーって。
もしかしたら、だってそうだよねって、
何の違和感とか疑問すら持ってないくて、
触れてるとかもあるのかなーって、
ちょっとそんなところで、なんか気になりました。
逆に面白みがないかもしれないですね。
そうかも。
最初からある感覚だから。
そうかも、そうかも。
しかも富士風のファン層って結構年配多いですよね。
年配多いです。
上の世代多い。
僕はやっぱ、年取ってから仏教ハマるみたいな、
そういう質感なのかなーって。
しかも、もしかしたらね、
職場の若い子とか、
息子、娘とかも聞いてるから、
一緒に聞いてたらドハマりしちゃったみたいなパターンありそう。
なんか話してて思ったのは、
僕の場合は、ビバッサナー行って、仏教の真髄になんとか触れて、
ワンネス感じたっていうプロセスですけど、
そのしんどいプロセスを経ずとも、
フランクに仏教の真髄をなんとなく感じさせてもらえてるのが、
富士風なのかなって。
それに触れてるから、
何かを手放すとか、
ちゃんとしなくてもいいんだって感覚とか、
そういったものを世界観で表現してる。
仏教っぽい質感の世界観を聞いてみるだけで体験させてもらえるっていうのがある。
そういった意味だと、やっぱり現代の宗教家ですね。
お坊さんの説法で、結構エンターテイメント性のある説法とかもともとあったと思うんですけど、
京都とかに確かそういうのあったと思うんですけど、
それのさらにエンターテイメントというか、
すごく歌もエンタメだと思うので、
広がるのがすごい早いし、
繰り返し聞くことによって、
まさにさっきの輝きマンが言ってたみたいに、
追体験できたりとかも、
無意識にすり込まれていくから、
すごく日本にマッチしてる気がするな、やっぱ。
この集合無意識の壮大なアップデートをしている宗教家。
確かに。
それですね。
必要な存在ですよね。
必要な存在ですね。
多分僕が芸人になった理由もそこにあるんですよね、結局。
お、来た。ついにまだこのラジオで語られていなかった。
あれ、語ってなかったでしょ。
深くは語ってないですよ。
クークリエイターについてはまだそこまで語られてない。
要は藤井家でも僕の中ではクークリエイターなんですよ。
質感をクリエイトして世界に届けてるっていうことなんですよね。
でもクーっていう感覚をクリエイトするって結構矛盾する。
言葉だと実装だと矛盾するんですけど。
確かに確かにクーはクリエイトできない。
できないけどそれをしてしまうのが音楽でありエンタメでありっていう印象があるんですよね。
うんうんうん、確かに。
輝きまんとかは、あ、ごめんなさい、詐欺いちゃった。どうぞどうぞ。
輝きまんも音楽ではない形で同じようなことをネタでしてみたいっていう感じですね。
おーめっちゃいいですね。
やってることは結局それなんですよ。
人類の意識のアップデートをしたいっていう。
うんうんうん。
あの、私がさっきちょっとこう、はさみかけたのは、輝きまんはネタが滑った時に自分がクー感じちゃってるんですよね。
確かに。
そういうクリエイションもあるね、クーの。
ねえ、これは感じてはいるけれども、ワンネスでは、場のワンネスではちょっとないですもんね。
場のワンネスではない。
一人でワンネスになっちゃってるだけ。
一人であれはね、ちょっと違うクーなんだよな。
うん。
陰陽でいうとこのなんか、逆サイドというかなんだろうな。
うーん。
でもね、クー体験なんですよね。
いなくなるんですよね、すべてが。
おー、すべてがいなくなる。
いなくなる。クーだってなるんですよ。
あー。
そう、だからワンネスが全部感受であるとすると、それの真逆を体験する感じです、クー。
確かに確かに、何にもないから感じですらもいないみたいな。
でもその感覚とワンネスの感覚は、両極にあるんですけど。
両極でありながらも、めっちゃ近いんですよね、質感も。
うんうんうん。
陰陽の白と黒の、交わる感じです、僕の中では。ワンネスの感覚は。
何もない感じっていうのは。
確かに、あの、感じるっていう感覚とか知覚があるっていうことは、感じてないっていう方も知ってないとできないから。
あー、ごめんなさいごめんなさい。
何もそういう意味で、そこが相対として共存しているような気がしますね。
うんうん、確かに。真逆の感覚があるからこそ感じてる。
うん。その真逆の感覚をそもそも超越していったら、もう感じる感じないっていう概念すらなくなっていくと思うので。
うんうん。
感じてることすらわからん。というか、近くから抜けるだろうから。
ゆえに、ワンネスみたいなこう、感じてるみたいなものがあるんだとしたら、その感じている分だけ、マジで何にもなくなる空みたいなものも同じだけ。
普通聞くと私はもう、あの、重牛図の映画も一気にすごい勘でくるんですよ。
8番目ぐらいのあの、私結構あれ、なんか私の中ですっごい印象深く残ってて、誰もいなくなるっていう映画結構斬新だなーって。
あー、はいはいはい、ありますね。
はい、なんか牛、あの重牛図興味ある人は重牛図ってググっていただくと出てくるし、
あの、ちょっとわかりやすい重牛図みたいな本もあるので見てもらいたいんですけど、最初は超ダイジェストでいくと、
あの、牛を捕まえてみたいな感じで、牛を一生懸命こう、パワープレイで捕まえて、こう引きずって村に帰って行ったりとかしたら、
あー、牛も手に入ってめっちゃいい人生やなーみたいなことを感じたら、すっかり牛のことも忘れて、ここまではなんとなく想像つくけれど、
最終的に自分もいなくなるみたいな、ちょっと空になるみたいな。
はいはいはい。
えーって感じで、私結構好きなんですよね。
もういなくなっちゃってるっていうのが、好きででもなんか、うんうん、そういうイメージも湧きながらちょっとこう想像しました。
うん。
質感近いっすね、確かに。
なんかね、満たされてるというか、相対的に捉えるものがなくなる?
それこそ牛を捕まえたい、捕まえられないみたいな相対から、もうすでにあるみたいな。
あーそう、あるですね。
あるっていう感覚になると、あるっていうことを意識的に感じないと、もうあるっていう感覚自体が抜けていく?
だから、ある意味消えていくって感じですよね。
はいはい。
あるはずなのにないみたいな。
うんうんうん。
うん。
あー、まさにまさに。
うん。
いやでもその感覚、ね、心地いいですよね。
心地いいですね。
うん。
なんか、私の感覚だとこの、あーいや、ワン、ワンですね。
なんかワンですわー、あのー、ちょっとこれなんで笑っちゃったのかも含めて話すと、
空っぽになっていく感覚とかはわかる。
わかるというか、体感してるから、知覚できている。
こう、瞑想しているときとかに、なんかスーってこう、なんか流れ去っていく感じとか。
うん。
うん、なんかある。
し、こう、大いなるものとつながっていくとかはあるけれど、
さっきフフッて笑ったのは、なんかいろんな命とつながってる感とかは、
ちょっとこう、なんだろう、視覚レベルまでまだわかんないかもなーっていう風にちょっと思いました。
うーん。
それは、藤風のライブみたいな感じで、あのー臨場感を持ってその場に行った場合は、
あーなんかここにいる人たちとみんなワンネスみたいな感じには多分なってるんですけど、
なんかね、うん、視覚的にそういうものがあったらわかるが、
なくてもワンネスを感じる方とかもいるじゃないですか。
はいはい。
見えないものも含めて。
その域まではちょっと、私もわかってないかも?
もしかしてやってるかもだけど、気づいてない感じがした。
藤風はなんとなく、それをちょっと捉えてそうな気もしました。
うん、捉えてそう。