1. 哲学以前の違和感
  2. 第5880回 日常の中の哲学
第5880回 日常の中の哲学
2026-07-13 1:10:17

第5880回 日常の中の哲学

この番組では、最初に日常の話から入ることもありますが、そこから話題が次々と移り変わっていきます日常のささいな出来事をきっかけに、人間の認識、意識、存在、そして意味づけの仕組みを観察する思考実況ポッドキャストです。

哲学や心理学を教える番組でも、人生の答えや救いを与える番組でもありません。

「何を知っているのか」

「それは本当にそうなのか」

「確信はどこから生まれるのか」

人はなぜ何かを信じるのか。

なぜ物語を作り、意味を見出し、自分や世界を理解しようとするのか。

私たちが見ている世界、自分という存在、記憶、感情、快感、思い込み、そして後から作られる物語を静かに掘り下げます。

信じることで成り立っていた世界から離れたとき、人は何を見るのか。

意味や物語が最初から存在するのではなく、人間がそれらを作り出していることに気づいた後の世界を観察します。

人生に意味はあるのか、どう生きるべきなのかという答えを探すのではありません。

意味や目的が揺らいだあと、それでも人間はどのように日常を維持し、考え、動き続けるのかを記録します。

結論よりも、考えている途中の揺れ。

完成された思想よりも、変化していく認識の記録。

自己啓発ではなく、答えを急がず問い続ける。

虚無を終点ではなく前提として、人間という存在の仕組みを見つめる哲学的独白番組です。

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感想

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00:04
これから、倉木さんのラジオ収録始まります!
5時間ぐらい寄ってました。
これだけ忍耐力と根気があるのであれば、
何か仕事がもしできてたら、
耐性したが、やりがいもっとできたのになと思うと、
せめてネットビジネスぐらいでもできてればなと思って、
ポッドキャストなんか一線にもなりませんし、別にいいんですけど、
ちょっと悔しいなって思うようになったので、
いつもそうやって長時間何かをしているとそういう気分になりますね。
また、なんか変な能力発揮してしまったようと思うんですよ。
いろんな悩みがありますね。
結局その、だから哲学的なこと、あるいは理解できないこととか、
まあ、ちょっと自分の特性もそうだし、
まあ、メモするってしたんだけど、
家族のこととか、この10年間の
壮絶だった体験のこともメモするとなったら大変なんだけど、
まあ、それなんかもメモしていればよかったな、
じゃあこれもメモしていればよかったなとなってしまうんですよね。
一度は何かやりだすと、
ああ、これやるんならこれやらなきゃってなっちゃうんですよ。
一度何か始めると基準がずれて、それならこれもやらないと、
何か一つでもやめると、ではこれもやるのおかしいだろうってなっちゃうんですよね。
03:01
まあ、整合性を保とうとするわけですね。
やるなら、どうせやるなら徹底すべきという方向に基準がずれるんですよ。
だからポッドキャストにおいても、この話するならじゃあこの話しないのおかしくない?ってなっちゃうんです。
だから最初の目的から離れる可能性はありますよね。
でも整合性維持のために高度が増殖していくんですね。
何かをやめると再評価してしまうんですよ。本来は不要だったのではないか。
だから今までは気づかないでいたのがよかったんですよ。
自分の場合、合理的かどうかより続けていることをそのまま続ける方がいいんですよね。
多少途中で不合理に見えたとしても。
でも不合理さ、不十分さが見えてしまうんですよ。
体系全体の再整合をしてしまうんですね。
だから何か一つパズルのピースが取れて、全体の構造を再び設計する人が出てくるんですね。
だから一つ始めたら全部やるべき、一つやめたら他も整理すべきとなっちゃうんですよ。
あと何か始めるとですね、もっと早くにやってればってなるんですね。
だから時間を再解釈してしまうんですよね。
今までは空白だったのか、本来は使えるべき時間だったってなるわけですよ。
だから現在を基準にして過去の採点をするわけですね。
一回テストの採点してたのが直後に、何年後か後にもう一回採点するとテストの点数変わるわけですよ。
でもテストの点数と違って人生って絶対的な正解なんてないから、自分がただ評価してるだけなんですよね。
採点しても意味がないんだけれども、でもそうやって物語を常に過去とか未来とかも含めて書きながら生きてるんですよね。
そうやって人生を理解しないと生きれないんでしょうかね。
というかそういう脳の仕組みなんでしょうね。
いろんな出来事がバラバラにあるんじゃなくて、そういう風に再構成する。
だから夢なんかもそうやって統合してるものなんですよね。
バラバラの記憶をまとめてる作業をしてるわけですよね。
で、その時にあの時こうするべきだった、あの時は失敗したっていう感情が生まれてしまうわけですよね。
06:05
で、そういう人生に点数をつけるのって、あるいは失敗だったとか成功だったとかっていうのって、絶対基準ってものが自分にある場合、正確な評価ですよね。
それがない場合、人生ってものを説明するための装置なんですよね、多分。
だから、昨日一日で60点だったって、つまり悪かったっていう確定をするわけじゃなくて、準備不足だったなとか、だから今こうなってしまってるなっていうストーリーを補強する材料になってるんですよね。
もしこれが絶対だった場合、昨日失敗だったな、それは正解に近づく過程なものになるんですよね。
どこまで正解に近づいたかの記録になるだけなんでしょうね。
判断は早くなりますよね。でも、こうやっていいことがあるからこそ問題なんですよ。絶対なんてものがないと気づいたときに。
あとは、絶対的な基準があると、過去を振り返ったときにもそうだし、未来について考えるときもそうだし、自由度は減りますよね。
捉え方の幅が減ってしまいますよね。
それを判断が早くなるか、いいとするかどうかは人それぞれだけだ。
そんなことで、日常の話はやっぱり大事なものとして最初に話すのか。
でもメモも取らないし、日常の話なんてあんまり大事じゃないような気がしてきて、最後に話すのかとか。
あとは番組分けたほうがいいじゃないかっていう悩みもあったし。
あと今日は朝から頭が爆発にしそうになってきて、次から次に悩みが出てきて、色々気づくんですね。
しかもそれをポッドキャストで話そうと思うんだけど、思い出しては忘れて、こうやって話すときにまた忘れて、思い出そうとしてるんですよ。
あまり考えすぎないで突き進んでったほうがいいのかもしれないけど、決してそれが正解だとは思わないですね。
あと完璧すぎな人に対してバランス取るのが正解だよみたいな勝手な決めつけ方。
あと努力家に対して無理せんでいきましょうみたいな勝手な、そういうのって勝手な正解を出してるだけですよね。
09:10
しかもその人なりの。あるいは共同幻想かもしれないし。
でも人生そんな単純じゃないですよね。
でも一つのアドバイスとしては成り立つのか。
でもそれは受け取り手がじゃあそうすればいいのかってなっちゃダメなんですよね。
そういう方法もあるかなぐらいのスタンスがいいんですよね。
ではあさったことですが、親と話してですね。
結局ひよこ豆食べるのやめたから。
2パターンしかないからこれから言わないからねって言ったらですね。
何と勘違いしてるのか量を言わないとわからないとか。
その後もですねなかなか枠通じないんですよ。
あとですね。ひよこ豆はやめたし、青大豆はちょっと糖質がおいしい。
黒大豆がですね、前なぜかあったのになかったんですよ。
一回親から探したときはなかったんですよ。
次あったんですよ。今回またなかったんですよ。
明らかに調べ方の問題だろうと。
もう一回調べるって言うんですよ。
でもこれ進路についてはそうなんだけど、全く同じ調べ方してるのに調べたつもりになってるんですよ。
だからそれはよしってくれって言ったらですね。
昨日いろいろ調べたけどねって言うんですよ。
いやだそれはおかしいぞと。
今日も全く同じ調べ方してたらいけないって話してるのに、昨日どういう調べ方したかなんて全く関係ないですよね。
で、しかもですよ。分かってないくせに分かったって言って、次の話に進めようとするんですよ。
分かりますかね。
逆にですよ。昨日いろいろ調べたって言ってるってことは、もういろいろ調べ尽くしてるからもう調べてもしょうないってことなんですよ。
だから今日調べてねって、しかもいろんな調べ方で調べてねってのに対して、もう調べても多分出ないよって話すべきところですよ。
そういう風にはなんなかったんですね。残念ながら。
そういえばさっきの話。パターンの話してるときはですね。
まあまあ今までうちの親が100回以上失敗してるから分かるんだけど、でもダブルス組んでたやつが勝手に人のせいにして、なんか自分が同じことをしてるような気がして。
そんなこと、でもそんなこといちいち気にしてたらダメなんですよね。
12:17
正しいかどうかは、どちらが正しいかどうかは分からない。でも強く気につけてしまっている。
でも本当にそうなのかは分からない。自分に悪いとこもあるかもしれない。
人は能力あるパターンとして、まだ答えが出ないからでも結論を出してしまう。絶対こうだと思ってしまう。
で、人のせいにしてしまう。相手が間違いだと言ってしまう。
まあこれは悪いパターンなんですよね。でもうちの場合はですね、正解は分からないけどだからといって親許していては同じ失敗を繰り返されるし、
特に自分なんか悔しい思い何回もしてるし、泣き寝るしてきたんですね今まで。
うちの親の無責任さに非常に悔しい思いしてきたわけですよ。
正解が分からないからといって放っておいては現実に影響が続くわけですよね。また同じことが起きるわけですよ。
でも自分が正しいとは言えないという思いが2パーセントくらいあるわけですよ。不確かさがあるわけです。
で、普通ならば妥協点として繰り返されたくない。これは嫌だというのは言う。率直に言う。
でも絶対に相手が悪いとは確定できない。これが悪いパターンだと思うんですね。
で、まあこれ曖昧なことだからこそ、相手が100悪いかもしくは自分が100悪いかと決めつけるしかないんですね。
だって少しでも自分に非があるのであれば、何を言っていいかわからない。
というかそもそも、だからそういう曖昧なことにはならないんですよね。
結局こういう話し合いの場合、全く原因がわからないか、うちの親が100悪いかのどちらかなんですよ。
もちろん自分が100悪いという可能性はあるけど、まあそれはないでしょうね。
なぜかというとうちの親が100回以上同じ失敗を繰り返しているから。
で、我が家の場合はですね、親が何百回も致命的な失敗をしてきているわけです。
だから注意をしなきゃいけないんですね。
普通は別の可能性を探るところだけど、それをし始めたら、まあ、親に突き入れられてしまうんですよ。
で、これは不安を止めるための固定ではないんですね。
で、それだけ強く言ったとしてもですよ。
15:00
まあ、お互い悪いんだ。
あの、こちらこちらで。
まあそういうふうに理解、そういう理解の仕方したんだねっていう。
ただの解釈の問題にされたりするんですよ。
逆に説明の仕方。
まあ正しいけど、でも自分はこんなふうに受け取っただけですよって言い訳されるんですよ。
まあそういえば昨日、それでメモをしててですね。
ちゃんと映ってるか心配だし、朝まで心配でした。
で、気づいたことも何度かあって。
で、何度も一からまた見直してってことをやってましたね。
それで結局5時間かかるんですよ。
でですね、まあ細かい話ですけど。
以前のメモでもよかったんではないかとか。
あとは、じゃあ以前やってたメモは結局それは直せなくて、それはどうするんだとか。
そのやり方も今悩んでて。
あと前のメモ無駄になってしまったし。
自分は相当コン詰めてメモするときとかもしっかりやるんですね。
だからこそ無駄になってた。
あとは、まあ他のこともメモしていれば。
よかった、そもそもブログでよかった。
ブログを書いてたらこんなことになってない。
ってなるし。
あと、まあでもこうやってメモしてて新たに考えれていいと思ったんですね。
でも今回のことに関してはなぜ、今回のことに関してはそう思わないんですよ。
だから何で以前そういう風に考えたのかってまた分かんなくなって。
では次。何病で入院すると決めてからですね。
進路全く親を調べてないんですよ。
それでいいと思ってるのか、一生入院でさせる気なのかと思って腹立ってくるんですよね。
もう親としての責任なさすぎるなと思うんですよ。
まあ約束守ってないのもそうだし、いろんな意味で。
でもですね、もう入院を決めてるから。
そして欲が出てきたらまずいから他のものを探してとは言いづらいんですよね。
でもどうせ夜、前みたいに進路調べないしやることなくてどうせぼーっとしてるんだろうなと思ったら腹立ってくるんですよ。
では次。これは空想なんですけど、親戚がエヴァンゲリオン見てるっておじさんがいてて。
あの時は何て返してればよかったのかなとか。親戚がいるところで自分から話しかけなかったなとか。
やっぱり自分から話しかけてる合図なんですよね。仲良くしたいっていうのは。
まあでももう少しあっちから話しかけてきてもよかったのかなとか。どうでもいいこと考えてます。
18:06
あと自分がですね、風呂があった後、中学生の時、上はタオルかけてたけどと、いとこがそれが嫌だったのか、ひそひそ話してて。
本当に性格悪いやつだなって考えてました。
あとこの夫婦がいつもうちらがいるところでイチャイチャしてて。
あれは仲良いアピールなのか、普段はどうなのかとか考えてました。
あと親友に何々ちゃんってちゃん付けしてたけど、あれは嫌じゃなかったのか。
あれはいつからそう呼び始めたのか。他の人は呼んでなかったけど、なぜ自分はそう呼び始めたのかっていうなぜか考察が始まって。
あと昨日はそうやって、5時間やってて。1時からなんとか寝るために、昨日は全くスマホいじらないで。
そうするとでも寝れなくて、空想がかかとるんですよ。
ここで話そうと思ったんですけど、全然覚えてないですね。
いつも空想の話も意味あるのかなと考えながら話してはいるんですよ。
ただこれも一つの特性なんで。
前回も変化について話してきました。
変化するとは何かなんてことは、あるいは何をもって変化と呼ぶかっていうのは考える必要はなくて、
結果的に生活が維持できてもいいんですね。崩壊しなければいいんですよ。
でもですね、スポーツ選手がスランプのときって、フォームを一から考えるようにですね、
まあまあそうするように、無意識的にやってきた変化というものについて考える必要があるんですよ。
今まで無意識に変化、なるべく変化しないようにはしてるけど、
人能に変化してる部分もあったけど、
まあ時にはちょっと考えすぎて、変化を考えないでできない状態に入るときがあるんですね。
まあ普通と違ってですよ。
これをやる意味が何だろうということで悩むというよりも、
完全にどうしてもなくなっている状態、
まあ錯乱状態のとこまで言わないまでも、パニック状態になっていることってあるんですよ。
混乱状態ですね。
ルーティンがカオス状態ってあるんですよ。
何を持って変化と呼ぶのか。
今までやってきたことを否定するわけでもいかないし、
21:00
今までやってきたことを否定することになるから、続けるのは単なるプライドとかこだわりでしかないし、
まあここなんか捨てていいんじゃないかとも思うんですけど、
まあそのほうが自由だし。
しかしですね、過去にやってきたことを否定する代償ってあると思うんですよ。
単なる気持ちの問題じゃないと思うんですね。
過去の自分を否定するともう軸が弱くなってしまうんですよ。
これからじゃあどういう軸で生きていけばいいかわからなくなるんですね。
いろいろ過去失敗して得た経験もいろいろ増えるじゃないですか。
それが全部吹っ飛んでしまうことで同じ問題を繰り返すことになるんですよ。
まあいろいろ細かいことで人間って無意識のうちに学んで失敗して学んでって繰り返してるんですよね。
こういう場合じゃあ他のものに移るという変化した方がいいのか、
行動型に守ることによって維持できるのかどうなのかってわからない微妙なところではあるんですよね。
これは正解があることなんですよ。
たぶん、もしかしたらないかもしれないけど正解があるからこそ見つけたいわけですよね。
だから正解はあるかもしれないしないかもしれないし、
わからないからとりあえず仮の方向で動くという非常に…
それは頭がいいのか悪いのかはっきり言っては全くわからないけどそういうことをするしかないですよね。
でも自分は非常に馬鹿らしいなと思ったんですよ。ゴールがほぼないし、
あととしても全くどの方向かわからないのに船を漕ぎ続けるって、おるかだなと思ってたんですよ。
で、ちょっとした生活の変化、気分が違うとかそういうことに対しては大きな方向転換をした方がいいのか、
それにともかたくなに今のいつも通りにやった方がいいのか、どう行動すればいいのかわからないわけですね。
あとは変化せたり終えないときに、変化しますよね。
24:02
やっぱりさっき言ったように基準が揺らいでしまうんですよ。
あと変化した方がいいかもしれないことが出てきてしまったり、その変化に賜ってですね。
変化する流れが出てきたりするわけです。別に変化しちゃってもいいんじゃないのってなってしまうわけですよ。
だからそれでも変化せたり終えないときがあるというこの世界の不都合さ、皮肉さですよね。困りますね。
例えば状況が変わったとか、同じやり方だともうとてもとても5回6回と問題が続いている。
過去の方法が通用しないとか。
でも変化する必要があるときほどどこまで変えるべきかわからない。
だからブレてる感じがする。
単に状況に合わせて変化する。
ちょうどよく調整できればいいんですけど。
でもその都度の判断になるから不安定に感じる。
でもそうやって悩みながら生きていくのが人生なんだと思うんだけど、
崩壊を招く可能性があるわけですよ。
悩んでいるときは相当悩むし、後から振り返って笑い話には一切ならないし、
よくここまで生きてこれたなぐらいに思うし。
試行錯誤してもうまくいった景気がないから極限状態の感覚になるんですよ。
普通であれば小さく試すとか、反応を見て少し戻す、少し進めるってやっていくんだと思うんですけど。
もう変更イコール不可逆な大事件なんですよ。
一回の判断が全体の崩壊を招くんですよ。
だからどこまでなら戻せるかなとか、どこまで変えると致命傷かななんて、
そんな流暢なこと言ってられるほど余裕ないんですね。
次ですが、季節の変わり目っていうのはこれ難しいんですね。
短期的な揺らぎがなかなか難しくて、
そのまま変化していくこともあれば収束していくこともあるわけですよね。
体調なんかもそうじゃないですか。
揺らぎがあってもまた戻るものですよね。
ただその戻るタイミングがわからないんで、
例えば体調一週間悪いとなれば、そんな無理することもできないわけですよね。
27:05
あとちょっとポッドキャスのことで変化を起こしたいなとか、
時間帯を何かのずらしたいなとか、
興味の比率が変わるとか、
これは自然に起きる改善ですよね。
自分の感覚的には複数変更するのはいけないんです、同時に。
一つ変更して、一年ぐらい経ってもう一つ変更。
気持ち的な問題なのか、慣れるのに複数あるといけないのか、
同時に変更させちゃいけないんですね。
あと生活リズムが置き換わるとか、行動パターンが変わるとか、
そういうのはもうルーティーンの再設計が必要なんですよ。
これだから自分が考えて、1ヶ月以上考えて、慣れるのに1ヶ月かかるんですね。
3ヶ月ぐらいかかりますね。
あと自分の考えの優先順位が変わる、つまり価値基準の変化がある。
これは気持ちを整理するのに長時間時間かかるでしょうね。
そういうことはでも稀ですね。
なるべく変化しないようにしてきたし、
でも興味の方向性が根本から変わることってあるし、
例えば乃木坂一時期応援しなくなったとか、
ポッドキャスト始めた時期もあったし、ネットビジネス始めた時期もあったし、
そうすると優先順位が変わってしまうんですね。
自分としてはあまり大きな揺らぎなので、あってはいけないなと思いますね。
じゃあ次に変化しないことで変化する問題はどうするのか。
言い換えると無視すべき変化と対応すべき変化ってあるんですよね。
季節変動などは無視すると逆に崩れるし、
でもさっき言ったようにある程度収束する可能性があるから、
放っておいた方がいい。今年もそうですね。
隣の部屋の窓は一回開けて、去年と違ってしばらく閉めておいたら、
しばらく涼しかったんで一回開けようかなと思ったこともあったけど、
様子見てたらそれで問題なかったりするんですよ。
どうしようもない時に変化するっていうのがリスクが少ないんですよね。
自分は微調整するっていうのができないんですよね。
例えば夏服から少し暖かい服に着替えるとかできないんですよね。
30:01
だから隣の窓の件もそうだけど、微調整したところでっていう感じなんですよ。
微調整しだすと少しの変化に対応しなきゃいけないのに影響を受けるんですよ。
静止の揺れにもつながるし、微調整の変化しても大抵うまくいかないんで、
何の意味があるんだとなってしまうんですね。
普通は勉強するという場合、集中の仕方はその日と違っても、
それを相手をしないというのも大事だし、
ある程度の何時に起きるとか寝るとか、何時に勉強するとか、
そういう習慣化は必要だろうし。
でも人間は飽きたりするし、いろいろ変化もしますから、
勉強の順番を変えたり、時間帯を変えたり、道具を変えたり、方法を変えたり、
多少の改善はするってやっていくんでしょうけど、
自分はそういう小さな変化さえできないですね。
次ですが、絶対っていうもの。
例えば神とか言われるけど、日常でも絶対って言葉は使いますよね。
33:01
これをもし北極星に例えると、
船乗り家ですよ。北極星を見て目的地に進むために参考にする。
でも北極星そのものは目指してるわけじゃない。
けれども進むべき方向を示す材料には知ってる。
っていう説明のされても自分は全く同意できないですね。
実際そういう例えってあるんですけど、絶対はですね、絶対を目標にするのであれば、
北極星に行けなくても近づくことができるっていう、つまり宇宙に行こうとするみたいなもんですよね。
絶対的地点に、もし行く、そういうゴールではない、方向指標にはなる。
いや全くそうは思わないですね。
ヘリック2でしか思わないと思うんですよ。
出口イコール絶対なのであれば、そこをゴールにしてるわけですから。
やっぱりそこを目指すわけですよね。
でも北極星にはいけないのもわかってる。
でも近づこうとして宇宙に旅立つようなものなんですよ。
でも絶対をゴールにしてしまうってことは実際日常であると思うんですよ。
本当に相対的なものじゃなくて本当に絶対的なものがあると思うってことは、
何の干渉も受けない、これが本当のゴールだ、絶対的な正しさだみたいなものを置くわけですから生活の中に。
だからもちろん方向を示すもの、あるいは完全にそれがゴールだと2種類あるっていう考え方もわかるんですけど、
実際2種類のタンプあるのもわかってるんですけど、
方向指標型イコールですよ。
完全に絶対にはたどり着けないけれども、そっちの方向に向かいましょうっていうことだと思うんですよ。
でも確かに方向指標を示すだけで北がわかればいいわけですよね。
だいたいどっちに進めばいいかわかるだけ。
でも絶対を信じてる人、少しでも近づきたいっていう欲は出ますよね。
例えば宗教に入っていて、教祖の言うことをそのまま多少、
36:02
その教えの通りに多少生活の方向性というか生活を多少変えて、
教祖が言うことをそのままはできないんですけど、多少そんな感じに生きればいいんじゃないのっていうことですよね。
だから結論として信じるってことは到達絶対の意識なんだと思うんですよ。
でも方向指標のタイプの絶対を信じる人は、
具体例ですけど、人を傷つけたくないと信じる。
誠実でありたいと信じる。
多少そうであればいいと。完全でなくても。
という考え、これってそもそも絶対を信じてないですよね。
41:38
では次です。
AはBでないと主張しておいて、いろいろ議論して深く話し合って、
もう一度そもそも聞いたら、AはBでないっていう人いるんですよ。
どうなってるんだと思いませんか、そういうことってありますよね。
ちなみにうちの親はそうなんですけど、テレビ見てもそういうことありますね。
42:02
最初はAはBでないと主張して、AとBの違いはあれこれ説明して、
後でまた聞くとAはBであると言い出す。
多分定義がずれてしまってるんでしょうね。
主張してる側がですよ。
本人も気づかず。
Bの人も気づかず、定義が変わってて、2人とも気づかない間に
この議論がそもそも土台ごと崩れていくっていうケースが結構あるんですよ。
2人ともそんな感じだったらお互い幸せだと思うけど、
それを見てる傍観者の自分としては辛いですよ。
あとこれはあるかもしれないのが、なかなか筋が通らなくなってAはBであると言い出して、
これは負けを認めてるようなもんだし。
でもうちの親の場合は負けを認められることに気づかないから、
やっぱりAはBであると言い出して、
でもじゃあさっきと言ってることが矛盾してるってことに何とも思ってないってことがあるんですよ。
あと観点の切り替えで話してしまってる。
AイコールBでないっていうことと別の観点でAイコールBであるっていう。
観点スイッチが無自覚に起きてるっていう状態。
これ人に説明するときこうであって困りますよね。
あと区別するのがそもそも嫌になって、AはBであるかもしれないみたいに曖昧化してしまう。
では次。
哲学的なことを話してるけど、哲学に興味ある人に聞いてもらってもあまり意味ないのかなとか思ったりもするんですよ。
先入観で聞かれてしまうし。
他にも何か違うかもしれない。実際はどうかわかんないけど、こんなふうに物事って感じないときってあるようなと思いますね。
案外哲学以外の興味ある人に聞いてもらった方が伝わるみたいなこととか。
こういうことってあると思うんですよね。
でもマーケティングでそういうことって戦略として全然あると思いますね。
そのまんま単純に興味ある人これ好きなんだからこういう人をターゲットにするっていうんじゃなくて、案外ちょっと別の視点で考えてみたほうがうまくいくことってあると思うんですよ。
でですね、自分は今哲学っていうことを番組説にも入れなかったし、別に哲学の番組でもないし、何か違うような気はするけど、
45:02
でも結局今回の話もそうだけど哲学だろうと思ってしまったりもするんですよ。
でも哲学の枠で聞いてしまわれると、別に浅い話はしてるとは思ってないけど聞く人によってはちょっと浅い話だと思うかもしれない。
そんな学術的でないし、何か不十分に感じるかもしれない。哲学にしては不十分だと思うかもしれない。
そもそも哲学を聞く人ってこれはどういう思想系の話かとは振り分けるわけですよね。
だからこの人は一体何を言ってるのか分からないという話になるかもしれない。
しかも自分の場合は結論というものを出さないようにしてるんですね。出せないというよりも出さないようにしてるんですよ。
哲学好きの人は確かに考えることが好きだから答えの出ないものだと思ってるかもしれないけど、それにしてもどっちつかずに思われるかもしれないですよね。
でも何かの思想を信じてる人って固定化するんですよ。この人の哲学のこういう解釈が正しいとか。
学者なんて絶対そうでしょうね。だけど自分はそういうふうに着地はしない。
身分類な状態ですよね。それを心地悪く聞こえる人もいるだろうし。
では次。自分を掘り下げてると新たに気づくことがあるんですよね。
これは記憶を思い出してるのか、新たに何か物語を作ってしまってるのか。
あるいは脳がその場で何か再構成をしてるのか。
まあトラウマなんかの話で言うと、同じ記憶でも形が変わるっていうのもあるし、この10年間を振り返ってみて形が変わるっていうのもあるし。
あと別の角度で掘り下げるほど見えてくるとか、新しい意味が生まれるとか。
あとよく言われるのは脳って記憶を保存して再生してるんではなくて、これもなんか本当に不思議な話だけど保存してそれを再構成してるんだと。
だからうちらが持っているような記憶っていうのはデータを入れといてそれを取り出してるみたいなのとは全く違うみたいなんですよ。
よく言いますよね脳は記憶を美化させたり変化させてしまうって。
いやそれどころの騒ぎじゃないですよね。再構成してしまってるんですよ。
うちらはもうありのまま見たものをそのまま取り出してると思うけど、でもだとしたら1秒前の記憶でさえこういうことなんですよね。
48:11
あとその時によって過去の評価の仕方も変わるのかな。
でも評価してるつもりはないですよね。だとしたら単なるその時の評価しかなくなるから。あまりそれは意味なく感じるし。
さっきの写真に例えると記憶っていうのは写真じゃなくて書き直される絵なわけですよね。
で、掘り下げるっていうのは絵を書き直す回数が増えるわけですよ。
そのために新しい線が見えるようになる。
間違いなくこういうことです。
っていうだけじゃ伝わらないと思うんですが。
掘り下げるって記憶を取り出してるような作業で、その時に色々解釈はしてるんだけどって気づきがあって。
今話してたもんだけど解釈しちゃってるんですね。本当は解釈したくないんだけど。
何か気づくためには解釈してたら終わりなんですね。
でも何か点から降ってきたように色々気づくんで不思議なんですよね。
では次。AにはBタイプとCタイプがいるっていう人がいて、でもそもそもBはAとは全く違うと聞くと最終的にそうであると言い出すっていう人いるんですよね。
AにはBタイプとCタイプがいるって言って、そもそもBはAと全然違うのではって言ったらそうではあるって言い出す。
BはAではないと言い出す。
直前まではBはAの中のタイプの人って言ってたのに定義が崩壊してるんですね。
だからABCの境界が固定化されてないんですよそういう場合って。
人間ってやっぱり会話する時にある程度曖昧さって大事だけど、曖昧さと定義が曖昧だったり話の流れに合わせて定義が変わってしまうっていうのはまた別なんですよね。
でもそのAの中にBがいるっていうのとBはAと違うのではっていうのでは切り替わってしまってるっていう自覚はないんだろうね。
だからその人の中では観点がもしかしたら切り替わってるのかもしれない。
でもそれを言語化できてないんですよね。
51:02
あとさっき言ったように最初の主張と議論中の主張と最後の主張がその場対応で変わってしまうっていう人もいて、それは整合性を優先してる。
でもちょっと性格自体どうしても疑ってしまいますね。
だって相手にしてみたら矛盾したことを言われてるようなもんだし。
その場の都合に合わせてると言ったほうがいいかもしれないですよね。
あとABCというラベルを概念ではなくて雰囲気で使ってるっていう人。
例えばですよ、これ例えばだけど犬には小型犬と大型犬がいる。
でも話聞いてたらどうしてもこの人の理解の仕方変だよ。
小型犬って犬と全然違う動物だと思ってないの?って聞いたらそうだねと言い出す。
違う動物だねと言い出す。
いやいや言ってることおかしいだろうってなりますよね。犬の定義が変わってしまってるんですよ。
では次。やっぱり哲学の枠で聞かれると浅い話だとは思ってないけど聞く必要によっては思い込みでそうなる。
しかもですね自分は結論を出さないんですよ。
ということでしたね。
自分は意味づけをしないし物語化しないし現象をそのまま置くみたいな感じ。
だから哲学というよりも観察なんですよね。構造観察。
哲学してる人は答えを求めていますよね。答えはないとは思ってても。
自分は掘り下げてるってこうやってここで語ってるのだとしたら解釈してることになる。
物語を書いてることになる。これは困ったと思ったんですよ。
過去の再解釈というよりは再構成。
でも今振り返ってみたんですけど過去のトラマを思い出してるときはですね。
いややっぱりでもこれも再構成ですね。
まあ点と点が結びついてしまうなんていうときもありますね。
まあでもそもそもそのまま事実を思い出すことができなくて。
再構成というのはつまりですねその時の感情とかで上乗せされるというか。
今の価値観だったり気分だったり今の文脈だったりを使って組み直すようなものですよね。
54:00
パズルを新たに。パズルのピース自体はまあ大体同じようなものなんだけど。
車で言うと部品は同じなんだけど新たに別のものを組み立てるみたいなことですよね。
だからまあこういう風にも捉えるしこういうことだとも捉えるし。
物語を書くっていうのはやっぱり固定化なんでしょうね。
やっぱりあの時の自分がいたからこうなれた。
やっぱり過去の後悔をしてるのは物語なのかな。
でも後悔自体は別に悪いと思わないけど。
後悔自体は悪いわけじゃないんだけど。
あの時ああしてればよかったこうしてればよかったは物語なんでしょうね。
たられば書き始めるのは。
今の理解とかまたこうやって掘り下げていくと別の過去の出来事に気づきがあって。
だからさっき言った点と点が合わさるみたいな。
で合成して新しい記憶が生成されるようなもんですよね。
なんかそれってどうなのかなと思うけど。
記憶を変えちゃってるから。
あまり美化しすぎたりあまり悪く捉えるのはあれだけど、そもそも記憶ってものはそうだから。
思い出すってことはそうだから。
しょうないんですよね。
でもさっきの自分すら固定データではないみたいですね。
1秒前の記憶も再構成される。
だから1秒前でさえ写真を見てるのとは違うわけですよね。
だから自分がいつも言ってる食事中。
だから0.5秒前の記憶を見てああ美味しかったなとか思うけども。
その時の今の状態によって再生成してしまってるってことなんですかね。
じゃあ次。実際やってみてうまくいかなかったら微調整程度ならいいんですよね。
で実際は1からやり直して、昨日もメモを1から書き直してたんですよ。朝から大変でした。
夜中から大変でしたね。
大抵のものそうだと思うんですよ。
普通は部分修正で済むんだろうけど、自分の場合何か試行錯誤するとか変化をして気づいてやっぱり。
そこでもちろんこだわって今まで通りやるってこともできるし、極端なタイプだと言われればそれまでなんだけど。
57:05
自分としては微調整なんですよ。微調整なんだけどその微調整をするイコールメモを1から書き直すとか。
そうするしかないわけですよね。これ自分の問題じゃないと思うんだよな。
まあでも一部を変えると全体がずれるから、再度やり直さなきゃいけない。1からやり直さなきゃいけない。
っていうこれは自分の問題なのかもしれないし。
でもメモ、他の人はどうするかわかんないけど、今回今まで1ヶ月かそれ以上やってきたのを1からやり直し。
でも1日で書き終わったし、微調整と言えば微調整だし、1ヶ月やってきたことを1からやり直してると言えばやり直してるし。
微調整なら微調整なんですよ多分。この微調整がものすごくしんどく感じるんですね。
よくこんなことを他の人やるなと思うんですよ。微調整とはいえこれ微調整程度のもんじゃないだろうと思うんですよ。
では次。学者でない人が経験則で発見しらに何か語っても意味がないと思うんですね。
今でも私は思います。
経験則ってあんまり意味ないと思っちゃうんだよな。
でも実際に観察した生のものの方が純度が高いのもわかるんですよね。
実際経験した方が確かだと思うこともわかるんですよ。
これは意見が分かれるでしょうけど。
なんか学者たちから軽く見られてるような感じがするんですよ。そんなこと研究ではもうわかってるし。
なんか自分で発見したように言ってるけど、そんなの得の等にも研究されてることだし、論文で発表されてることだしって言われそうな気がして。
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気にしすぎるかもしれないけど。
ただ自分はそもそも科学はあまり信用しないんでね。
あと自分は会話が曖昧なのと概念の境界が固定されていない人とか定義が曖昧な人は同じように感じるんだけど。
曖昧なものと曖昧なものを比較してるから違いがよくわからないんだけど。
でも会話の曖昧さっていうのはやっぱり潤滑油ですよね。これも間違いないですよね。潤滑油とよく言われますよね。
絵の定義が変わったりで人に迷惑かけるうちの親みたいな人は一見別の家で別じゃないような気もするけど。
では次。哲学やる人って答えはないと知りながら答えを求めてるのかと思ったんですよね。
形式としては論理的に整合性を持たせて答えを要求するものですよね。
でも哲学って答えを出すものではないんですよ。考えることが哲学ですからね。
永遠に問い続けるものだっていうのもわかってると思うんですよ。
だから形式としては答えを要求するけど答えは出ないことも知ってる。
よくそれで正気でいられるなと思うけど。自分がそのこと言えないですけどね。
だって答えが出ないのはわかっているんだから答えを求めてるわけですよね。
では次。さっきの話ですけど、自分がトラウマをフラッシュバックさせるっていうのは過去が再生されるのであればですよ。
逆に過去のものとして絵を受け入れられる。
でも再生されるからこそ今の出来事として感じられる。
あとさっきの記憶のことと意識というのは観察者でしかないということを組み合わせて考えるとですね。
人間がこうやって見たり聞いたりしているものって保存したものを再構成してそれを見ているに過ぎないんですよね。
言ってみれば今を見ているわけじゃなくて記憶を見ているし、しかも再生された記憶を見ているに過ぎないんですよ。
だから人によって見たものを聞いたもの、他の人と違うものを見ているわけですよね。
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だって自分の記憶を見ているだけだから。その時の気分とかで上乗せされたものを見ているだけですからね。
では次。
さっき言ったように微調整がしんどいんですけど、だからこそそれなら鼻から徹底的に考えて、後から機動静止しないようにしようとしちゃうんですね。
例えば自分は発達障害で、普通と違ってAという特性があるのはBだから。
と言っておきながら、Bはみんなに頭がある、こういう会話ってないですかね。
これも同じように境界が揺れ動いてしまったんですよ。
Bの範囲が勝手に広げられて。
例えばですよ、さっきの自分の記憶の話は結局保存されて再生成される。
これだとさっき言ったように人類みんなそうじゃないですか。
で、その話に移っちゃいますけど、一般の人は記憶の最高性を受けるけど、今起きている感覚までは来ないですよね。
ぼやけた再生成なんですよ。
でも自分の場合は時間の境界が消えるんですね。なぜかというと、過去の断片が今の視点で完全に再生成される。
だから夢を見ている時にこれが現実だと思いながら見てますよね。これが夢だと思わないじゃないですか。
映画を見ているような感覚ではないですよね。
映画を見る時ってある意味夢より現実よりで、ある意味フィクションだと分かっているんで、夢っていうのは夢だと分かりながら見てないですよね。
映画はフィクションだと分かってみますよね。
だからといってこれは単なる作り物だというだけで映画を見ないですよね。
で、メタ認知ってありますよね。
聞かないですかね。
自分は映画を見ていることを認知している。
でも夢はそれを認知できていないわけですよね。
夢は夢だと分かっていないわけですよね。
でも映画を見る時は作り物と知りながらも作り物としては見ていないわけですよね。
メタ認知はできているんだけど、
感情は動くし、汗は出てくるし、体は震えてくるし、
それは感覚の問題なんですよね。
二重の処理が起きているわけです。
でも夢ってはっきりとした映像ではないですよね、映画に比べて。
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リアリティが両手でもない映画と比べてない感じ。
さっきの話から言うとリアリティがありそうだけど。
現実だと分かっていないけど、見ているものはもうちょっとぼんやりした感じ。
違いがあるとすれば映画は脳が作っているわけではない映像ですよね。
だから映像自体がクリアであれば、画質が良ければいいだろうし。
夢ってのは脳が内部で生成する映像。
だから解像度が低いものが多い。
正確に言うと高いものもあるけど。
あとは記憶の仕方なんですよね。
解像度が高くても意識はないから、
ぼんやりした記憶なんでしょうね。
例えば何かに追われているとか、
自分の場合は学校で教師に殴られそうだという時はっきりしているんですよ。
でもそんなことを考えたら思ったんですけど、はっきり見えているという思い込みかもしれないですね。
でもしかし現実もこう見えているという思い込みなのかもしれないです。
だって夢を見たという時って、起きた時に思い出しますよね。
これは多分全ての夢はそうなんじゃないかな。
起きた時に記憶が再構成されて、
ぼんやりした夢でもはっきりして感じる。
こうやって話していると、うちらが見ているものって全てが幻覚に見えてきますよね。
幻想でしかなく見えてきますよね。
目の前に物とか物理空間に物は実際あるんだけど、
それを見ているのは、人間が見ているのは記憶でしかないとすれば、
しかも人によって見ているものが違う。
そこの違いって小さいか大きいかどうでもいいと思うんですよ。
だってそのまま見えているわけじゃないから。
人によっては全然他の人と違う見え方をしているかもしれないし、
でも答えなんか出ないわけですよね。答えを合わせながらできないわけですよ。
あと実際に脳が開く時には、脳は保管しているんですよね。
人の顔なんかも、こういう顔だっていうのを記憶しているから見ているわけです。
だから第一印象でほとんど見ているわけですよ。
あと夢と現実は保管が強いか弱いかっていう違いがあるみたいですね。
つまり保管が強いだけ、現実。
となれば、夢と違って現実はしっかり見えているのは、
保管が強いからっていうだけでしかなくて、
なのであれば、はっきり見えていると錯覚しているだけですよね。
ただ厄介なのが、夢を見ている時って感情があるわけですよね。
だからトイレに行きたいっていう夢を見る時は、やたらと焦るし、
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自分でコントロールできないし、
トラウマの夢を見たら、
自分にとって夢なんてトラウマを見ているに過ぎないんですよ。
それなんかも、不快でしかないし。
では次。物理空間に物があるか。
あるけども、夢で物を見ていると感じるのも。
脳が最先端にどう見ている、という点では同じで、
でもうちらがわかっているのって、科学的に、
光が反射してきて目に入っている、ここまでしかわからないですよ。
だからうちらが持っているような物の形のあり方ではないというか、
それ自体がうちらが考えているんですけどね。
あと、実際どうなっているかなんて考えたところで、
その実際というのも人間の認識でしかないわけですよね。
あと光情報を受け取るといっても、いろいろ保管しているので、
外部の物体そのものではないわけですよね。
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