2021-04-28 05:03

ザ・ドリフターズVSコント55号(2)暴れる2人 時代が近づく

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お笑い界の頂点に君臨したザ・ドリフターズですが、実は苦しい時代もありました。ドリフの前に立ちはだかったのは「コント55号」。〝視聴率100%男〟の欽ちゃんの快進撃を前に、いかりや長介さんも勝負を諦めていたといいます。テレビ黄金時代、ゴールデンタイムで熾烈な視聴率戦争を繰り広げた昭和のライバル物語です。

平成16年2月に産経新聞に掲載された記事を基に再構成しました。

 

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ドリフ対コント55号
ライバル物語 ドリフ対コント55号
ナビゲーターは私、内田健介でお届けします。
アイドル並みに増える追っかけ
コント55号の躍進のきっかけは昭和42年。
当時、若手コメディアンの東流門といわれた東京・有楽町の日劇への進出に端を発する。
萩本錦一と坂上二郎の出会いは昭和30年代後半の浅草フランス座で共演して芸をぶつけ合った時期もあった。
二人は41年コンビを結成。東京・浅草の浅草小地区園芸場で経験を積んだ。
日劇ではヒット作となった坊主屋をひっさげて幅が約37メートルもある舞台を目いっぱい使って暴れまわった。
坊主屋はツッコミ役の萩本を司令塔にしたアドリブ主体の何が起こるかわからないハプニング性に加えて体をぶつけ合ったり飛び蹴りを食らわせたりとプロレスばりの大きな動きで爆笑を誘い評判を上げていった。
同年にはテレビに進出。しかしせっかく掴んだチャンスで二人は試練を迎える。
番組の収録会場の舞台にはマイク一本で左右の幅2メートルにテープが貼られその枠を超えて出てはいけないと指示を受けた二人は与えられた条件でコントを演じた。
だが持ち味を消されて盛り上がらないままに終わった。
コント55号のブレーク
挫折感を味わった二人に出演以来は再度やってきた。
テレビに出られなくなってもいい。舞台のお客さんを笑わせよう。
そう考えた二人は今度はテープを無視して動き回った。
この決断が逆に走行する。
番組ディレクターから悪かったのは僕の方。マイクをたくさん用意して動きやすくするからもう一回出てほしいと声をかけられたのだ。
時代が二人に近づいた瞬間だった。
日劇に出演中のコント55号の舞台で帽子屋を見て大笑いしたディレクターがいた。
当時富士テレビに勤めていた時田久彦。
この人たちならいける。
コント55号の躍動感あふれる芸に引きつけられ、お昼のゴールデンショーに二人の起用を提案する。
番組開始当時、二人はまだ一部のファンにしか知られていなかったが、回を重ねるごとにOLや学生、生徒の追っかけが増え、
二人はまるでアイドルタレントのようだった。
こうした事態を各テレビ局が黙って見ているわけはなかった。
同年7月からは他に4本のレギュラー番組がスタート。
その中にはコンビの人気を決定的にしたカラー放送の公開収録番組。
コント55号の世界は笑うも含まれていた。
ザ・ドリフターズも43年1月にはレギュラーで初のゴールデンタイムに進出。
突撃ドリフターズがスタートする。
しかしコント55号の勢いは誰にも止められず、TBSのこの時間枠を独占していくことになる。
お相手は内田健介がお送りしました。
日本狩猎店でご検索を。
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