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戦後史開封昭和100年あのとき私は⑦
第7回、五訓でわかる昭和26年、令和七年は昭和元年から数えて百年目、つまり昭和百年にあたります。
百年にわたる我が国の歩みを一年ずつ切り取って振り返ります。
昭和26年の出来事
第7回目の舞台は昭和26年、昭和26年の出来事や世相を12歳の子供の目線でお届けします。
終戦のときはまだ6歳で、みんながものすごく泣いていた記憶ばかりが残っているけど、そのすぐ後にやってきたマッカーサー減水という名前は強烈な印象だったのかすごく覚えている。
連合国軍最高司令官としてパイプを加えて飛行機から降りてきた写真を新聞で見たときには、いかにも僕が考えていたマッカーサーという風邸だった。
その人が突然日本からいなくなった。父はクビになったと言っていたけど、どうやら本当らしい。
両親とも最初は偉そうだなんて言っていたのに、今はなんだか同情的だ。
マッカーサーが帰国したときには、沿道に20万人も詰めかけて日の丸の旗を振ったらしく、その人たちも同じような気持ちだったのかもしれない。
今年は正月にNHKラジオで紅白歌合戦という放送があり、家族で聞いた。
歌手が男女で紅白に分かれて歌うという内容で、白組が長崎のカネの藤山一郎さん、赤組はシスコのチャイナタウンの渡辺浜子さんが代表。
僕は男子だから白組を応援したけど、特に戦後に尉門崎で捕虜生活を送って苦労したという藤山さんが好きだ。
結局白組が優勝した。
ラジオと言えば5月からラジオ体操が始まった。正確に言えば復活らしいが腕を前から上に上げてという新しい体操になったようだ。
母は放送が始まる朝6時15分になると起こしに来るけど正直つらい。
同じラジオでも夕方6時の英語会話は毎日聞いていた。
少女王子の狸林の曲に合わせてカムカムおじさんこと平川忠一先生が英語を喋り出すとワクワクした。
平川先生は2月で交代してしまったけど、年末からは東京で初めての民放ラジオラジオ東京で新しい番組を始めるらしい。
新しいラジオ局が誕生するのも楽しみだ。僕は将来英語が使えるようになってアメリカに行ってみたい。
だってちょっと前までは敵国と言っていたのに今はみんながアメリカはすごいと言っているからだ。
戦争中は通信兵をやっていた父もアメリカさんにかなうはずがなかったが口癖になっている。
だからやっぱりどんな国なのかこの目で直接見てみたい。
8月には戦後初の航空会社日本航空も設立された。まだ国内だけの飛行だけど将来はアメリカにも行けるようになってほしい。
今年は黒澤明監督のラショウモンが国際的な映画賞を取ったり、木下圭介監督の総天然色映画カルメン故郷に帰るが公開されたりして映画が話題になることが多かった。
お前にはどちらも難しいと言って父は身に連れて行ってくれなかったけどカルメンはフィルムに色がついていてすごく綺麗だったと親戚のお兄さんが言っていた。
空の青さがすごく印象的だったそうだ。ようやく戦争が終わったな。
夜中に父と母が話していた。戦争はずっと前に終わったはずなのに。それが9月のサンフランシスコ講和条約というもので来年から日本は本当の意味で独立国になるらしい。
もちろん僕はよかったと思うが日本中が喜んでいるのかと思うとそんな雰囲気でもなかった。
アメリカ軍は今後も日本にいるから日本は独立国じゃない。だからいつでも戦争に巻き込まれる。
学校の先生はそう言ったけれど僕にはよくわからなかった。その晩マッカーサーが僕に英語を教えている夢を見た。マッカーサーの表情はよく見えなかった。
昭和26年。その時日本は終戦から6年。サンフランシスコ講和条約が結ばれた昭和26年生まれの人は2024年に73歳になります。
正月3日にラジオ放送された紅白歌合戦で幕を開けたこの年は4月に連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥が突如解任され終戦直後とは変わって多くの日本人が別れをしみました。
戦後の文化と変化
前年の昭和25年に日本公開された黒澤明監督のラショーマンがベネチア映画祭でグランプリを受賞。木下圭介監督のカラー映画カルメン故郷に帰る。
大津康二郎監督の爆襲など今に残る名作も生まれました。戦後史開封。昭和100年。あの時私は。最後までお聞きいただきありがとうございました。次回第8回は昭和48年をお届けします。案内役は私ナレーターの平野こまりでした。