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2022-10-31 21:40

創業の原点は中国・大連/カメラの普及とともに成長/デジカメの普及とともに危機に直面 ~ナニワ商会の代表取締役 ・塩山知之氏

今回のゲストは、大阪を中心に西日本で広くカメラ店を展開するナニワ商会の代表取締役 ・塩山知之氏。
同社の創業は昭和22年。中国・大連での写真の普及を目の当たりにした初代社長がスタートした。その後、写真フィルムの卸に特化したことで業績を拡大。
しかしながら、1990年代末からのデジカメの普及で、急激な売上減少に直面する。

【聞き手】安本寿久(産経新聞大阪本社・編集委員)

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00:01
【岡田】今日のゲストは、なにわ紹介の代表取締役社長、塩山智幸さんです。塩山さん、よろしくお願いします。
【塩山】よろしくお願いします。
【岡田】今日、初めてお目にかかるんですが、見るからに若いなというイメージなんですが。まず、なにわ紹介、知らない方は大阪にいらっしゃらないと思いますので、会社よりも社長のパーソナルなことを伺おうと思います。
社長になられた経緯とか、なにわ紹介に入られた入社の道筋みたいなものから教えていただけますか。
【塩山】分かりました。大学卒業しまして、カメラメーカーに勤めさせていただきました。最初、韓国マーケット担当して、その後、アメリカに駐在させていただきまして。
20代後半で、アメリカは非常に刺激的でして、ニューヨークだったんですけど、仕事をほとんどせず遊んでばっかり。
【岡田】そんなことないでしょうけど。
【塩山】楽しく過ごさせていただいたんですけど、1999年に2000年問題というのがありまして、今、私が働かせていただいているなにわ紹介も、2000年に向けて、システム、機関システムを全部やりかえるみたいな話になってまして。
あれの担当をすると、社内が全部わかる業務の洗い出しをして、BPR、業務改善をするということで。それに父親から帰ってきたらどうかと言われまして、アメリカから大阪に帰ってきて、入社させていただいたと。
【岡田】なるほど。お父さんが先代の社長さんなわけですか。
【塩山】私、3代目ですので、祖父がスタートして、父親が2代目で引き継いで、今、私がやらせていただいているんですが。
【岡田】入社の時は、今年はいくつですか。
【塩山】26歳。
【岡田】まだ30歳に届く前ですから、若いという感じで帰ってこられたわけですね。
【塩山】そうですね。元気いっぱいでございます。
【岡田】外から見ていた、会社なにわ紹介は、どういうイメージを持ちでした。
【塩山】そうですね。あまり父も会社の話をすることがないというか、ほとんど家に帰ってこなかった。
やっぱり昭和の経営者、忙しくて、昼も夜も仕事だったと思いますので、ほとんど会う機会がなかったので、そんな会社のイメージはなかったです。
【岡田】僕は参院の出なんですが、そこでもテレビコマーシャルでなにわ紹介のことは見たり聞いたりはしていたんですね。
ですから、元気な会社だなというイメージをずっと持っていたんですが、それあたりのイメージはどうですか。
【塩山】そうですね。それこそ、祖父がテレビCMとか、コテコテの大阪の小売業というようなイメージは持っておりました。
【岡田】ついでながらですが、おじいちゃんに関するイメージはどういうイメージを持ちですか。お父さんは昭和の経営者ということなんですが。
【塩山】直接株って仕事をしたことがほとんどないです。その仕事、ビジネスマンとしての評価というのは周りの人から間接的に聞く程度でして、
03:06
いろんな話を聞いていると、やっぱりゼロからあそこまで大きい会社を発明したということで、すごい詳細のある人だというふうには思っていました。
プライベートでは、祖父の家にボンクレ小学集まってということで、そこでおじいちゃんとして接していたんですけど、
後から聞くと祖父も孫たちに寄ってきてもらって、おじいちゃん、おじいちゃんって言ってほしかったらしいんですけど、
僕ら子供から見てもすごい目つきで、ちょっと怖いイメージだったので、少し寄りつきがたいというのがイメージでした。
【岡田】コマーシャルの中で、絵ですかね、イラストで背景するんですが、ちょっと哲学者っぽい感じのされる要望だったように記憶しているんですが、やはりその辺もあってちょっと寄りつきがたいということですか。
そうですね。ただ、仕事、私が入社してからも何回か商談等でご視聴させていただくときがあったんですけど、そういうときはやっぱり人を魅了する力っていうのが非常にあるというか、
ニコッてするタイミングとかですね、その表情ですごい人を惹きつけて、やっぱりその辺は大したもんだなというのは今印象で残っています。
【岡田】昭和22年にカメラということを祖父、創業者の方は着眼されたんですが、今社長の立場から見られて、昭和22年の世相とそこに目をつけた着眼力みたいなものをどう評価されますか。
【佐藤】私も詳しく分かってないんですけど、祖父はたぶん小学校しか出てなくてですね、その弁学に出身だという経歴はないと思うんですね。
で、普通に作人の産難だったんで、農家を通うこともできずに大連に。
【岡田】中国ですね。
【佐藤】それで商売見つけてやろうということで渡ったというふうに聞いてるんですが、公園で撮影事業者が撮影事業をしてるのを見て、この商売儲かるなと思って、写真カメラの商売をスタートしたというふうに聞いてまして。
そういう意味では非常に、その後ずっと写真業界に伸びましたんで、着眼点は良かったんじゃないかなと思ってます。
【岡田】なるほど。それは戦後のことになるわけですか。
【佐藤】それは戦前。
【岡田】戦前。じゃあ大連で最初にカメラ関係の仕事をされてて、戦後になって大阪で昭和22年から本格的にということですね。
【佐藤】そういうことです。
【岡田】当時の写真っていうのは、当然ながらモノクロでしょうけども、結構ハイカラな技術でちょっと高級感のあるようなものだったと思うんですが、そこに目を付けられたのは戦前の目があったということなんでしょうね。
それこそフィルムもない時代だと思うんですよ。甲板の時代だったと思うんで、それはものすごい高級品で、普通の人なんか全然買えない商品だったと思うんですね。
06:07
だけどこれが成長すると思ったんだと思いますね。
【佐藤】なるほど。後々この話ずっと聞いていきたいんですが、非常にカメラの技術革新がこの70年ぐらいに進んで、当時のものと今とは全く異様種のような感じぐらい変わってきてるわけですね。
そこをずっと乗り越えてきたという意味では何でしょうか、すごい会社だなと僕は思うんですが、スタートラインがその甲板写真からというのも写真の原点ですわね。甲板写真、わかりやすく言うと坂本龍馬なんかが撮った時にね。
そういう技術とそれほど変わってないところからスタートしてるわけですから、非常に着眼点としてはよかった。それと同時にダイレンというところに行かれたのがよかったかもしれないですね。国内でね、じっとしてるよりも海外に行っていろんなものを見る機会があったということだと思いますのでね。
会社はそれで昭和22年に創業なんですが、26年に株式会社になって、株式会社は何が紹介ですね。そのあと29年から写真の総合卸し会社に転身していくわけですが、このあたりの早々期のことを今どのように評価、振り返られますか。
先ほどおっしゃられた技術革新で超高級品だった商品がどんどん大衆化していく。その過程で写真フィルムが爆発的に増えていく。非常に儲かる商品でして、どんどん皆さんが消費していくわけですよね。
それを売るのにいろんな窓口で、観光地からスーパーからもちろんカメラや写真屋からいろんなところで売れるんで、そういう意味では卸業に徹してフィルムを売るっていうのに集中したっていうのは非常にいい選択だったんじゃないかなというふうに思います。
全国の写真文化を下支えするというところに徹しられたということでしょうね。その頃の苦労話で何か聞かれたことはありますか。例えばまだ戦後の威風が強い時ですんで、原材料集めるところから大変かなという気もするんですが。
もう70年以上前のことですからね。その頃の苦労があったから今の会社があるということだと思いますが、その頃はお父さんはお手伝いされてたかどうかっていうのは聞かれたことはありますか。
父親は大学卒業してしばらくしてからの入社なんで、まだでしょうね。50年くらい前からじゃないですかね。80だから。
09:07
先々代は大連に勉強に行かれた。先代と原社長さんは大学に行って、あるいはよその企業で修行を続けたというところで。視野を広げることはずっと続けられてきたような気がしますね。外の空気をね。
後半はですね、私どもも新聞社の人間ですので、フィルムカメラは非常にお世話になったということで。今はフィルムよりもデジタルになってますのでフィルムを見ないんですが、フィルムに支えられた時代は長かったことは間違いないので、その時代とそれから会社の発展について伺いたいと思いますので、後半もよろしくお願いします。
はい、今日のゲストはですね、何話紹介の代表取締役社長、塩山智幸さんです。前半に何話紹介の創業期のことを主に伺いました。後半はですね、フィルムカメラの時代になってからということで伺いたいと思うんですが、僕たち新聞社もフィルム写真、かなり長いこと使わせてもらいました。
僕がですね、会社に入ったのが1981年なんですね。で、その時に最初に研修で勉強するのは、当然当時は白黒写真でしたんで、フィルムカメラで写真撮って、自分で現像して自分で焼き付けまでしろということで、サラゲンというね、サラで現像して定着液につけて、それを焼き付けて、伝送機というのに回して本社に送るということをさせてもらったんですね。
非常にその期間長かったんですね。で、後々から写真だということになりまして、今度は現像液が非常に劇薬なんで、それはもうプロのカメラマンだけがやろうということになって変わったんですが、そういう歴史がありますんで、僕、フィルム写真については非常に思い入れがあるんですね。
この辺り、塩山社長の、僕より15歳若いんですが、フィルム写真への思い入れといったものから伺いたいなと思うんですが。
思い入れですか。一個人としてはですね、やっぱりカメラ屋の息子ですので、父親も結構カメラを撮る方でしたので、ことあるごとに写真を撮ってもらって、その家の壁面に写真がガーッと飾ってあるみたいな、そういう家でしたし、当然全部現像して、紙焼きして、ポケットアルバムに入れて、っていうのがもう部屋にいっぱいあった。
ということで言いますと、非常に身近、普通の人よりもずっと身近な環境では育ってきます。
かなりモデルになったという感じですね。
そうですね。いっぱい写真は残っています。
なるほど。それはやはりカラー写真の方でしょうね。
そうですね。カラーですね。
カラー写真の時代。
70年代からが全部カラー写真で、私73年生まれですんで、ほぼカラー写真です。
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なるほど。その頃、会社としてもやはりカメラもたくさん売れる、あるいはフィルムもたくさん出るというような、かなり見方外の状況が続いていたんでしょうか。
そうですね。もう本当にものすごい好調に成長しまして、聞くところによると万博のあの辺りを。
1970年ですね。
そうですね。境にカラー写真が一気に広まって、まだ当時は写真屋さんですぐにプリントできるみたいな仕組みはなかったんですけど、
大きい工場に集約して、そこでプリントしてできるだけ早く受付店に戻すみたいな商売がすごい伸びてですね。
カメラフィルムでしっかりマネタリズムするビジネスから写真プリントっていうのが加わって、
これがまたすごい大きい市町になりましたんで。
最盛期で多分写真業界の半分がその写真プリントっていう構成でしたんで。
なるほどね。それぞれの家にカメラが普及して、今度はそれをいかにたくさん使ってもらうかという時代に入ったわけ。
そうですね。安くなっていったんでどんどん普及して、最後プリントで非常にしっかり稼げるという商売になったんだと思ってます。
なるほど。当時、写真屋さんに写真撮りに行くということで、僕なんかでも経験があるのは、例えば七五三里に撮るとか、
あるいはなんとか記念日に撮るとかというときに、ちょっと清掃してですね、子供ながら蝶ネクタイみたいなのをつけていったというような思い出がありますが、
その部分ではなりわ商会さんもかなり街の写真館をバックアップする役割は果たされていたということなんですね。
そうですね。
なるほど。その頃に街の写真屋さんですね、例えば技術的なアドバイスをするとか、スタジオ講師なさいとするとか、そういったアドバイス機能も何か紹介を果たしていたんでしょうか。
うちの法人営業部隊というのはどちらかというと撮影事業者というよりは写真屋さんですね。
カメラ屋さんとか写真屋さんでカメラを販売したり、写真プリントをして写真を販売するお店さん。
最盛期で3万点くらいの人があったんですけど、そちらがお得意先様のメインでして、撮影事業者様、写真館さんともお付き合いさせていただいたんですけど、
そちら次みたいな形で商売をさせていただいてました。
こういう時代というのは僕はずっと続くと思っていたんですが、やがてデジタルの時代がやってくるわけですね。
このやってきたデジタル時代というのは社長の立場からすると、どのあたりから感じて、将来これがフィルムカメラに変わっていくだろうなという予感みたいなものを持たれたのはどれくらいの時ですか。
最初にそれこそ世界のデジタル化ってWindows95、カメラの世界も確か95年にQV10というカシオのデジタルカメラが出まして、多分10万画素とかそういうレベルでほとんど無画像になっていない。
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あれはパソコンへの情報入力端末みたいな、そういう位置づけだったと思うんですね。
写真業界の人はフィルムカメラの方が全然画質もいいですし、流行らないだろうと。
おもちゃみたいに持っていたかもしれないですね。
ずっと持っていて、でも結果的には99年にフィルムがピークを迎えて、そこから年率10%20%で落ちていく。
マイナス10、20。
そういう意味で言うとやっぱりデジタルの技術革新っていうのが非常に早くてですね。
アグラを描いていたらあっという間にフィルムカメラ以上に利便性あるいは品質が良くなった。
ということで業界中がパニックに落ちたと。そんな状況でした。
99年という時代は社長はカメラメーカーに入社されたんですか。あるいは大学生の時代ですか、まだ。
私が大学卒業してカメラメーカーさんに務めさせていただいて、帰ったのが99年でして。
私が帰るやいないやですね、会社がものすごい業績悪化して、もうジェットコースターの上から下に落ちるときに入社してしまったというような状況です。
まあそういう時代だからこそお父さんは手元に帰したかったということもあるかもしれないですね。
そうかもしれないですね。
その時のお気持ち、心境というのはどんなものでした。
当然会社に入ると皆さんのパニックというか、荒波が来ようとしている業界ですよね。
それは感じた、これ大変なんだなと思ったんですけど、当時私も若かったんですが、2,3年してちょっと決算書とか見る機会もあってですね。
それを見た時は正直びっくりした。やっぱり業界も我々の会社も業績が悪くなっていって、これはもうやっていけないなというのが正直な気持ちでした。
その時はゆくゆくはお父さんの後を継ぐという意識はあったと思いますので、経営者の目から見てやっていけないのはかなりシビアなことですね。
そうですね。
社員だったら辞めて違う転職すればいいわけですけど、社員の生活の責任を持っているわけですから、やっていけないなというのはかなりの危機感でしょうね。
その時に何か希望と言いますか、でも頑張ろうと思ったようなきっかけとか、あるいはヒントみたいなものがあったでしょうか。
まあとにかく本当銀行さんにも詰められて、資金集めにも奔走してたんですけど、何ですかね、まあ責任感なんですよね。
18:05
若かって気力体力もあったと思うんですけど、もう何とかしてやろうというし、何とかなるだろうと思って毎日経営計画書みたいなのを書いてですね、一生懸命。
でも26歳、27歳で、それは。
もうちょっと、30、その時はもう30前半でしたね。
その精神力を支えた、例えば若い頃にスポーツをやってたとかそういうことはあるんですか。
いやこれね、なんでなんでしょうね。やっぱり若くて気力体力が充実してたんだと思います。
その時にその写真愛とかカメラ愛とかいうものはあったんでしょうか。
いや、それよりはその、創業家の商売を何としてもこう続けさせないといけないという思いの方が強くて。
まあおじいちゃんのその苦労も知られてるわけですし、大連からヒントを得てということまで考えると、自分の代ではという気持ちには当然なるわけですね。
そうですね。
先代、先々代からその経営者としてこれが大事だよとか言われたこととか、あるいは核みたいなもんですね。そういったものがあるでしょうか。
あの、まあ残された言葉っていうのはいくつかあって、がめつく商売に取り組めとかですね、身の程を知れとか、いろいろな核があるんですけど。
まあそれよりも先ほど話しましたあの祖父先々代についてはですね、やっぱりひとったらしというか、人を魅了する力がものすごいあってですね。
まあ直接こう訓導を受けたわけではないんですけど、すごいなと、今でもとても追いつけないなというのは感じてますし。
父親も、なんですかね、人を分け隔てなく接して、で、吸収するものはするし、自分の考えもしっかり表現するしということで。
それは社員、外医も含めてですね。
だから、まあ二人ともスタイル違うんですけど、やっぱり人との接し方であったり、こう人脈の広げ方みたいなのが今の私よりもずっと上手で。
そこが私もこれからもっと極めていかないといけないところだなというのは感じてます。
なるほどね。
まあそういう姿を見せてくれて、自分も近づきたいという気持ちにさせてくれたという意味では、非常に良い教育を受けられたかもしれないですね。
そうですね。
なるほど。
まあこういった家業として起業されている時には、そこが非常に強みになっているなと、僕はいろんな社長に来ていただいて話を聞いていると感じるんですが、今回もそれを非常に強く感じました。
はい。
時間が来ました。ありがとうございました。
ありがとうございました。
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