逮捕の場面の描写とイエスの神性
ヨハネの福音書十八章一節から十一節をお読みします。
これらのことを話してから、イエスは弟子たちと共に、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。
そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。
一方、イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。
イエスが弟子たちと度々そこに集まっておられたからである。
それでユダは一帯の兵士と祭司長たちやパリサイビドたちから贈られた下役たちを連れ、
明かりと松明と武器を持ってそこにやってきた。
イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、
進み出て、誰を探しているのかと彼らに言われた。
彼らはナザレ人イエスをと答えた。
イエスは彼らに、私がそれだと言われた。
イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。
イエスが彼らに、私がそれだと言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。
イエスがもう一度、誰を探しているのかと問われると、彼らはナザレ人イエスをと言った。
イエスは答えられた。
私がそれだと言ったではないか。
私を探しているのなら、この人たちを探せなさい。
これは、あなたがくださった者たちのうち、私は一人も失わなかったとイエスが言われた言葉が成就するためであった。
シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の下辺に斬りかかり、右の耳を斬り落とした。
その下辺の名はマルコスであった。
イエスはペテロに言われた。
剣を鞘に収めなさい。
父が私にくださった酒漬を飲まずにいられるだろうか。
以上です。
今日はこのところから、司令の中で守られると題して御言葉からお話いたします。
みなさんおはようございます。
今日、7月最初の礼拝ですね。
今朝方、激しく雨が降っておりまして、どうなるかと思いました。
今は晴れて、ちょっと蒸し暑いですけども、温度の何かあれば、必要があれば言っていただければ買えます。
今日のところは、18章で場面ががらりと変わっております。
冒頭一節がそのことを表していますね。
イエスはこれらのことを話してから、弟子たちと共にヒデロンの谷の向こうに出て行かれた。
そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。
イエス様が13章から、いわゆる国別説教のように語られて、
そしてその後、祈られた。どっかの部屋の中だったんじゃないかと。
そして、そこから出て行きました。
場面転換して、ここでいよいよイエス様が逮捕され、十字架に至る受難の物語が始まります。
この場面の展開を理解するために、今日一番最初は、少しここで起こっている出来事や登場人物などをお話しします。
神芝居の名師の方もいらっしゃいますけれども、そこまで行きませんが、なんとなく場面を想像しながら聞いていただければと思います。
第一番目。その中で私たち学べることもありますので、一番目。
神として受難さえも支配するイエスというところも見ていきます。
十八章六節でこのような場面が描かれていますので、ちょっと読んでみましょうか。
イエスが彼らに私がそれだと言われた時、彼らは後ずさりし、地に倒れた。
今日のところで地名が出ています。ケデロンの谷の向こう側。おそらくこれがケデロン谷ではないかと言われています。
国別説教を終えてイエス様は部屋を出て、弟子たちを連れてケデロンの谷の向こう側に行った。
この谷底、何があるかというと、現地の言葉でワディという、浮きにだけ川になるところです。
枯れ川です。イエス様がこの過越の祭りの頃は水がなかったのではないか。
そこの谷の向こう側で、ここの園に行ったというんですね。
おそらくその園は月世真似の園だと言われています。
この場所で何度もイエス様は弟子たちと会って、そして教えていた。
だからユダもおそらくイエスがここに来るであろうということを予想して、逮捕する一行を連れて向かってきたわけですね。
時はイエス様が逮捕される、十字架にかかる金曜日の日本時間でいうと明け方です。
おそらく金曜の午前2時とか3時ごろ、月は満月に近かったので、月明かりはありましたけども暗かったのでですね。
一行は松明を持って、日常ですけど夜、大河ドラマなんてありますけどね。
よく夜に松明を持って陣取っているなんて場面が出てきますけど、そういうまさに松明を持って、
そしてあるいは手に陶器の中に明かりを入れたランタン、そういうものを持ってですね。
長陳行列ではありませんけども、イエス様を逮捕するために多くの人が来た。
どんな人が来たかというと、サンヘドリン、ユダヤ人の議員たちですが、主に神殿、祭司庁とかって書いてありますけど、神殿に仕える人たち。
そして下役ってありますけれども、それは神殿警察です。
旧約聖書を見ると、いわゆる祭司たちの中には、儀式を取り行う人たちだけではなくて神殿の敬語にあたる人もいたので、
イエス様を神殿で捕らえたこともありましたけども、神殿警察がやってきた。
そしてローマの兵隊たちも来たようです。
ローマの兵隊、一体の兵士って書いてありますけども、要はこのサンヘドリンや祭司庁たちはローマ軍をも動員できるほどの力があった。
おそらくこの一体は300人から600人の部隊だったそうです。
でもそれ全員じゃなくて、その中から一部がやってきた。
なぜこれだけ多くの人が来たかというと、この時は過越の祭りです。
そうすると民族意識が高揚して、しかもメシアと信じられたイエスという男をローマなりが逮捕しに来るということで、
昨日もあるところでの葬儀の国葬の場面とかあったじゃないですか。中東の方であったでしょ。
あるいはどっかの国で250周年とかやってるじゃないですか。
そういう中でローマの圧勢の中にいたイスラエルの人たちの国に対する愛国心が増して、
ましてや救い主なる男が逮捕されるってなると、暴動が起こりかねなかったわけですね。
そしてそういうこともあってローマは兵隊を出したわけです。
当然、民を鎮圧するために武装していたわけですね。
剣や盾なども。そういう人たちが300人と言わずとも、もしかしたら100人ぐらい。
夜中に松明を灯して、わずか13人のイエス様の一個を捕まえに来たという場面ですね。
しかしイエス様は、その自分を逮捕しに来る人たちを見てもひるみませんでした。
ひるまないどころか、かえって自分の時が来たことを知って、
私の時が来たってよく言ってますけども、自分から進み出ていったわけです。
そしてわざわざ誰を探しているのか、彼らに問いました。
その時にイエス様は、私がそれだと言った。
その時に、この人々は後ずさりして地に倒れた。
なぜか、おそらくイエス様の私がそれだという言葉は今まで話してきましたが、
ギリシャ語のエゴエイミーという言葉。覚えてます?
モーセがヤブの中で神に告げられたご自身を表す言葉、私はあってあるものだという言葉ですから、
ユデア人からしたら、神ご自身が自らを表した言葉でした。
ですから、諸説あるんですけれども、ある学者に言わせれば、
その神ご自身が自分を表すエゴエイミーという言葉を聞いて、
イエス様を逮捕しにやってきた人々、特に神殿警察の中には、
イエス様の言葉にも感動したものもありましたから、
その言葉の意味を知って後ずさりしたんじゃないか。
そして地に倒れたんじゃないかと言われてもいます。
ここのところからですね、この逮捕されるという受難劇を通しても、
イエス様が誠の神であるということが証されているんですね。
そのことをぜひ知っておいてください。
良い羊飼いとしてのイエスと弟子への愛
そしてもう一つ大事な言葉があるんです。
この逮捕に来た人々が後ずさりして地に倒れたというのはですね、
こういう意味があります。
この受難物語においてイエス様は逮捕される被害者ではないんですよ。
受け身じゃないんだ。
イエス様はご自分がその受難物語を支配しておられる誠の神であるということを表しています。
後ずさりしているわけですから逃げられたわけですよね。
逃げずにでも自らを差し出していった。
そしてその時にですね、
イエス様が語った御言葉が成就したわけです。
ヨハネの10章18節でイエス様はご自分の受難についてこう言ってるんですね。
誰も私からいのちを取りません。
私が自分からいのちを捨てるのです。
後半だけ読んでみましょうか。
私にはそれを捨てる権威があり、再び得る権威があります。
この言葉が示しているように受難劇の主役であり、場を支配しているのはイエス様である。神様である。
そして皆さんどうでしょうね。
私はこの出来事を見た時に、このヨハネの16章33節のイエス様の言葉を思い出しました。
このように言っていますね。16章33節を読んでみましょう。
世にあっては苦難があります。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました。
この受難物語、逮捕される場面においても、イエス様が誠の神であり、救い主であり、被害者ではなくて、この場を支配しておられたということが明かされている。
そのことを覚えておきましょう。
2番目。ここから私たちの信仰と関係あることになるかもしれません。
2番目。いのち懸けで弟子を守る良い羊飼いとしてイエス様が描かれています。
イエスは答えられた。私がそれだと言ったではないか。
私を探しているのなら、この人たちは去らせなさい。
ここから読んでみましょう。3番目。
これは、あなたが下さった者たちのうち、私は一人も失わなかったと、イエスが言われた言葉が成就するためであった。
誰を探しているのか。謎れ人イエスです。
この台風に来た者たちがいたときに、イエス様は私だと言ったじゃないかと2回も言って、
私は捕らえてもいいけれども、この弟子たちは去らせようといのちじたわけです。
これは非常に私たちにとって救いの言葉です。
こういうことを言っていいか分かりませんけどね。
自分の責任を部下になすりつける、そういう上司がいるなんていう話とかね、小説とか物語があるかもしれませんね。
上司と部下ではありませんけども、イエス様と弟子たちの関係をちょっとそれに名とらえて考えたときにですね、
このイエス様は弟子たちを囮にして、弟子たちを囮にして弟子が捕まっている間に一目散に逃げるような、そういう卑怯者ではないわけですよね。
そうじゃなくてイエス様は弟子たちを囮にして逃げるどころか、自分のいのちを差し出して弟子たちを守ったわけです。
イエス様は10章で雇い人と良い羊飼いのことを比べて、ご自分のことを良い羊飼いに例えてこのように言われましたよね。
ちょっと長いですけど今日読むと多いです。読んでみましょうか。
私は良い牧者です。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると置き去りにして逃げてしまいます。それで狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
まさにイエス様はこの雇い人のように羊を置いて逃げるものではなくて、良い羊飼いとしてこの羊を守ってくださる。そのことがこの大宝劇にも見てとれるわけですね。彼らを晒せなさい。
そればかりかイエス様はいのちを懸けて私たちを守ってくださるということもわかるんですね。
イエス様はペトロに告げました。
剣を鞘に収めなさい。父が私にくださった酒漬を飲まずにいられるだろうか。
おそらく単刀のようなものをペトロは抜き出して、そして大祭司の下辺の右の耳を切り落とした。
その時にイエス様がこう言われたわけです。
父が私にくださった酒漬を飲まずにいられるだろうか。
ペトロは自分のいのちを守ろうとして、あるいはイエス様を守ろうとして、敵の耳を切り落としましたね。
しかしイエス様はペトロの弟子たちを助けようとして、自分のいのちを差し出した。
それどころか、この自分を逮捕しに来る人たちのためにも十字架にかかろうとしていたわけです。
このイエス様のペトロや逮捕する人たちと違った態度ですね。
自分が自らのいのちを差し出して、そして弟子たちを逃がす。
そこにイエス様の姿が見て取れるわけです。
もちろんそのいのちを投げ出して弟子たちを救い、敵たちの罪をまがなったんですけれども、
いのちを投げ出したのは私たちのためでもありました。
イエス様は先ほどのところ抜いてあったんですが、
ヨハネ10章11節を全部読むとこう書いてありますね。読んでみましょう。
私は良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
良い牧者としていのちを捨てる。文字通りいのちがけで羊たちを守る。いのちがけで私たちを守ってください。
そういういのちの恩人、そのようなお方がイエス様であるということをこの機会に思い出しましょう。
そして実はこのイエス様が弟子たちを守るということは、実は祈りの中でイエス様が言っておられるんですね。
今日の箇所にもイエスの言葉が実現するためにそれが起こったと書いてありますけれども、
イエス様は先週まで見た祈りの中でこう言って祈っておられるんですね。
彼らと共にいた時、父なる神様にこう祈っていました。
彼ら弟子たちと共にいた時、私はあなたが下さったあなたの御名によって彼らを守りました。
私が彼らを保ったので彼らのうち誰も滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。
それは聖書が成就するためでした。
このようにイエス様は良い羊飼いとしていのちを投げ出して弟子たちを私たちを守ってくださいました。
ただイエス様も素晴らしいんですけれども、イエス様だけではなくて私たちを守るもう一つの保障として父なる神様の御名があるということです。
皆さんの家のドアロックはどうなっているか分かりませんが、最近防犯対策で家の玄関のドアロックが二重になっているところがあるじゃないですか。
二重のロックというのは防御が固いように、このいのちがけのイエス様と同時に力強い父なる神様の御名というこの二つの保障によって私たちが守られている。
それほど私たちに対する神の守りは確実だということをこの機会に思い出していただければと思います。
そしていのちがけで私たちを守ってくださったイエス様の最も大きなしるし、その最も大きなしるしは何かといえば、それは十字架の贖いでしたね。
私たちがこの十字架を見るときにイエス様がいのちを投げ出して私たちを救い、罪からあがない、守ってくださったということを知ることができるわけです。
試練の中でのイエスの覚悟と祈り
弟子たちにとって目の前で慕っていたイエス様が逮捕される。
そして自分たちも兵隊や警察に捕まえられるかもしれないという最大の危機が迫っていました。
しかしその中でまさに人生の荒波に揉まれるような中でもイエス様がいのちがけで自らを犠牲にして弟子たちを守ってくださったわけですね。
私たちもそのようなイエス様と力強い神様の御名によってどのような人生の荒波の中でも守られている、そのことを思って思い出していけば幸いかと思います。
3番目、ではもう少し具体的に私たちの試練のその出と考えてみましょう。
もう一度18章の11節を繰り返して読んでいますね。
レトロにいった言葉です。
剣を鞘に納めなさい。 父が私にくださった酒漬を飲まずにいられるだろうか。
この父が私にくださった酒漬を飲まずにいられるだろうか、という言葉。
ここにはイエス様の覚悟が見て取れます。
イエス様の覚悟。
イエス様はケデロンの谷の向こう側で逮捕されましたが、実はその前にイエス様はケデロンの谷の向こう側、ゲッセマネで何をされていたでしょうか。
お祈りされておられましたね。
実はこの言葉はゲッセマネの祈りの言葉を映し出しているんじゃないかという確証もいます。
イエス様はその時にこのように祈られました。
マルコ14章36節有名な言葉ですね。
ちょっと読めるかと読んでみましょう。
あばしよ、あなたは何でもお出来になります。
どうかこの酒漬を私から取り去ってください。
しかし私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。
まさにね、取り去ってください。
でも私の望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますようにと祈って立ち上がり、覚悟が与えられてですね、
ここでは父が私にくださった酒漬を飲まずにいられるだろうか。
いよいよいのちの危機が迫った時にその覚悟の言葉を述べたわけです。
そうやって父なる神様の御心にイエス様は従ったわけですね。
どうでしょう、皆さんは今自分がどこにおられるでしょうかね。
ケデロンの谷の向こう側のゲッセマルの園におられるでしょうかね。
もしそうなら、この試練の中で祈ったイエス様の姿をもう一度思い起こしてはどうでしょう。
もし私たちがそのケデロンの谷の向こう側、試練の園の中にいる時にですね、
祈られたイエス様を思い出すならば、実は私たちもその園の中で祈り、
父なる神様、そしてイエス様に心細いで助けてください、導いてくださいと、祈る祈りへと導かれるのではないでしょうか。
この時のイエス様の祈る御姿についてと思われることをですね、
新約聖書のヘブル人の手紙がこのように描写しているんですね。
ヘブル書5章7節、ちょっと読めるかで読んでみましょう。
難しいかもしれませんが、意味を考えながら読んでみましょう。
キリストは肉体を持って生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、
大きな叫び声と涙を持って祈りと願いを捧げ、その経験のゆえに聞き入れられました。
この私たちはですね、羊飼いなるイエス様にいのちを懸けて守られています。
それだけではなくてですね、私たちはこのイエス様の姿を仰ぎ見る時に、
祈りのうちにですね、神様に助けられ、
試練の中にあっても歩んでいけるのではないでしょうか。
そんなことを思いながら歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
私たちの救い主なるイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。
あなたは何と勇敢な方でしょうか。
いのちの危機が迫る中、弟子たちを守り、自らをお捧げくださいました。
それは私たちの罪を贖うためであり、また今も生きて、
私たちを試みの中で守ってくださる、そのためであったことを感謝いたします。
どうぞ私たちが自らゲツセマネのその中にいる時に、
イエス様のように心からあなたに祈りを捧げ、
また心を注ぎ出して祈る中で、
あなたの新たなる助けや救いを知ることができますようにどうか導いてください。
イエス様の限りないご加護があることを感謝いたします。
どうか今日から始まる1週間、そのイエス様の守り、またイエス様の祈りを思いながら
日々歩んでいくことができますようにどうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど、いい言葉に応えて祈る、黙祷する時間を持ちましょう。