おはようございます。ライフハック時代の精神分析第1324回をお送りします。
3月2日、月曜日、7時49分です。
あっと3月になりましたね。
昨日やたら暖かかった気がするんですけど、今日寒いですね。
ぼちぼちやっていこうと思うんですけど、
昨日唐突にですね、全然何のミュージックラフもなくなんで、
さっぱりわからなかった内容だったと思うんですけど、
YouTuber、YouTube聞いていらっしゃる方には。
ローゼンフェルドの話を唐突に差し込んでみて、
やっぱり、紹介するの見ないよねと思ったわけですが、
いいねも全然つかないですしね。
このテーマは、非常に今私の中でホットなんですね。
店員覚え書きを読んでるからなんですよ、きっと。
店員覚え書きって薄い本なんですが、
ローゼンフェルドの話をもっとあそこに沿すといよいよ混乱して、
あの話やっぱ難しいですからね。難しくないんだということを、
昨日久しぶりに読み直してみて、
別に難しくないんだこれっていうのをですね、
感じ取った感じがするんですけども、
でもやっぱあれを最初に読むと面食らうんだよなっていう、
面食らうというか僕はちょっとこう、強いショックを受けて、
ここに私の、それこそ、だからあのローゼンフェルドを
昨日差し込んだのはアトピーの一環のつもりなんだけど、
それは伝わらないよねと思ったんですけど、
アトピーなんですよね。私のアトピーとは、あれに限りなく近い。
でもそれを説明するのは、なかなか大変難しいなということに気がつきまして、
もっと分かりやすいところで言うと、
実はああいうことはそこ賢でめちゃくちゃ起きているんだけど、
えーと、なんて言うんですかね、あんなに劇的には起きないから、
やっぱそこが最新分析ルームの凝縮されたポイントなんですよね。
起きてるんですよ、あれは間違いなく。
恋愛とかではあれはもうむしろ、
ありきたりのやつで、なんか言うじゃないですか、
夫婦喧嘩、犬も食わないみたいな。
それとはちょっと違う気もする。
でもやっぱそれだってその一環なんですよね。
そういう意味では、本当にこう、日常茶飯事ですよ。
そこら中にあることなんですね。
で、松木さんさすがに、なんというか、
松木邦博さんの定員覚書の臨床では、臨床ミネットとかって書くんですけど、
彼はすごい良い感じなんですけど、
まあ、普通あんなに良い感じには見えない。
だって夫婦喧嘩、犬も食わないやつですから。
あんなに良い感じには見えない。
遠距離恋愛のこじれみたいなのが一番ありきたりなのかな。
とにかく大変ありふれた話でもあるんですよ。
ただそれを病理に近い状態の話として、
しかも精神分析ルームという非常に特殊な条件を
徹底的に揃えて、そこで起こすと、
ローゼンフェルドさんが書いてるような、
その劇的な、だからエナクメントとかって言うんでしょうね。
まあ、ナラティブっていう人もいるし、
エナクメントっていう人もいるんだけど、
やっぱりビヨンが正しいなっていうか、
ビヨンってすごい後から抽象化してるだけあって、
抽象化してるからやっぱり、
あの人はやっぱり数学の素養を、
あそこに徹底的に適応するから、
ああいうことができるんでしょうけど、
ビヨンはラテラルコミュニケーションって言うんですよね。
なるほどなって思うんですね。
ラテラルコミュニケーション。
ノンバーバルコミュニケーションの、
なんて言うんですかね、水平版って言うんですか。
水平ですよね、ラテラルってのはね。
だから、まあ、
松木さんは鳥の群れとか複雑系みたいな話ですよね。
魚の群れは、
コミュニケーションどうやって取ってるのか問題って
昔あったわけですけど、
お隣さんの挙動だけ見とくと、
群れが同じ方向に動けるみたいな話ですよね。
ああいうのをこう、なんていうのかな、
前に私見たことがあるんですよ。
その複雑系の展示会場みたいなので、
デジタルで鳥が、鳥ではないんだけど、
デジタルのものがですね、
一定の法則、離れすぎると戻ってきて、
くっつぎすぎると少し離れるみたいな、
そうすると一定の距離をやるじゃないですか。
かなり単純な、わずかな、
つまり鳥とか魚でもできるレベルの合図だけで、
例えば障害物をみんなで避けるときにはどうするのか
みたいなのをプログラミングしておくと、
すごい鳥の群れっぽく動くんですよ。
それがこう、3Dデジタルで見せてくれるやつでした。
3Dアニメーションみたいにフワーっていって、
蝶々の群れとか何でもできるわけですよ。
それはできますよね。
そういうのを見て、
なるほどっていう感じがしたんですけど、
あれだっていうわけですよね。
あれだってことはつまり、
言葉はいらないってことなんですよね。
そういう人間ならではの、
人間ですからやっぱり魚の群れとは違いますから、
もう少し原始的なとはいえ、
子供っぽいとはいえ、言語も使えて、
そういう中でラテラルコミュニケーションをやると、
どういうふうに振る舞うのかと、
いった話をしているわけですよね。
それが定義だという話をしているわけですよ。
伝わりにくいと思うんですけど、
そこではつまり、言葉のやり取りで、
表面に現れている、
難しいですね。
表面に現れていることだけを捉えると、
誤解を招くような何かが進行中なわけですよね。
進行中なんですよ。
ローゼンフェルドの陰性治療反応というのにしても、
一つの解釈に違いはないと思うんですけど、
この陰性治療反応という言い方をしてしまうと、
正しく治療されているのに対して、
患者さんがそれに対する抵抗やら何やらで、
陰性の反応を示して中断してしまいました。
残念なことですって感じになっちゃうじゃないですか。
そういう解釈はできなくはないんでしょうけれども、
それだとそこにはまるで患者さんしかいないみたいじゃないですか。
そして、相手をしているローゼンフェルド博士だと思うんですけども、
別に精神分析じゃなくたって、
そんなことは普通に起きるし、
あえて精神分析である理由ってその場合何なんだっていう感じになっちゃうわけですよ。
解釈してるからそれが起きるのかならともかくとして、
別に解釈とかしなくても多分そういうことは起きるし、
なんなら別に精神分析しなくたって、
そういうことは起きるわけですよね。
いやお前あんなに期待させといてなんだみたいな。
ここにやっぱり悲しみというものが
滲み始めなければ、
しばらくは大変だと思うんですよね。
つまり期待したほどの人じゃない。
で、この人すらそうだとすると、
この世に私が期待したほどのものはない。
で、こういうふうな、
これがつまり考える、
考えられつつあるってことだと思うんですけれども、
それは単に妥協か絶望か諦めかみたいに言われるかもしれないけど、
そうではないと僕は思う。
そうではないというか、
一時はそうなるしかないと思うんですけれども、
さらにその後があると思うんですね。
例えば、
これは定員覚書だろうとなんだろうと、
他の松木さんの本にも出てくる話ですけど必ず、
どうはいえ来ているんですよね、分析に。
松木さんのところには少なくとも。
つまり、陰性治療反応です。中断しました。ではないんですよね。
来てるわけですよ。
で、大概こう書いてあるんですよね。
こんなに苦しい分析に来させている私に対する
怒りが感じられるみたいな。
いや、松木先生は来させてないんじゃないかと思うんだけど、
患者さんの観点、クライアントさんの観点からは、
ずっとそうなんですよね。
ここに来るしかないからここに来てるけど、
ここに来てるのに、はかばかしく何もいいことが起きてないし、
ただ苦しいだけだし、
でも私はここに、
なんかここしかないような気がするからここに来てます。
これが分析の効果ってやつだと思うのと、
そうは言っても、たとえ気が利いてようと利いてもないと、
解釈というものを必要としているわけだし、
そして何よりもこのシナリオは、
やっぱり期待をさせられるっていうことを、
ある意味最後まで見届けると言いますか、
期待しましたっていうのはまだ終わってないじゃないですか。
期待を煽られました。
本読んでいただけば分かりますけど、
松木くんいろさんが期待を煽るってことってないと思うんだけど、
クライアントさんは少なくともある程度見たと。
私なんかはビジネッシュ作家だから、
期待煽りますからね、はっきり言って。
いやもうタスクシュートいけますみたいな。
いけると思ってるけど私も。
だけども、たとえば期待した人が考えることって、
ここにあるスーパーマンになれる5000のタスクがあるけど、
これが1日で終わることを期待するぐらいの勢いじゃないですか。
それはちょっと言い過ぎかもしれないけど、
掃除でそのレベルに近い。
私が言ってるのは要するに、朝歯が見かけますとか、
夜お風呂に入れますとか、
ふざけんなって感じになるわけですよ。
でも私はここが大事だと思うんですけど、
期待したほどのものはないんですよ。
それはつまり何を言ってるかというと、
理想の親はいなかったって話に一気に近づいてると思うんですね。
多分そういうことがそこでは行われているんだろうなって感じがするんですよ。
これは実際の親がいいとか悪いとかとは別の話をしてる気がするんですよ。
ここで言われている親というのは、
つまり子供というのは親を頼るもんだと。
たとえそこに親がいなくても頼るもんだと、
そういうふうに設計されてきているんだと。
つまり期待ですよね。
期待している自覚が全くないときほど、
人はいっぱい期待してるものじゃないですか。
だから私の本にお金を1500円なりを払っていただく場合には、
ほとんどの人はここに正しい情報があるっていうふうに、
正しい情報を買ってるつもりでいるんですよ。
そのときはもう自覚がないんですよ。
あれば果たして1500円で正しい情報、
藤井壮太になれる正しい情報とかが1500円で手に入るものかっていう、
しかも誰でも手に入るっていうのは原理的に変じゃないかっていうのは、
考えればすぐ答えは出るんですけど、
考えはしてないわけですよね。
圧倒的に期待が切実な状態にあるときは、
そういうことが起きるわけです。
これはつまりやっぱりそこにないおっぱいがあるわけですよ。
ないおっぱいがあるというのはつまり、
そういうふうに生まれてきたっていうことを言ってるのであって、
親がどうであるとかこうであるっていうことは、
いわばその次に来る問題なんですよね。
何だと思うんですよ。
実際にはこうだと。
実際とはこんなもんだっていうことに失望すると。
この失望はほぼ絶望なレベルで失望すると。
一方が違うと1年間何の期待にも応えてもらえないまま
ここに通い続けたみたいな話が割と平気で出てくると。
私はそれには耐えられそうにないから3ヶ月っていうことにしてあるんですけど、
とりあえず1年経っても何も期待したものはやってこない。
でも私はここに通い続けてるし、
この人はここにいるっていうこの話が、
最後はどういうところに決着するのか。
期待ってのは結局期待が破られました。
その後どうなるのかっていう。
ここでやめてしまうとやっぱりそういう言葉は良くないと思うんですけど、
でもここで終わってしまったらやっぱり中止なんですよね。
そうではなくて最後までいくと何が起きるのかというとですね、
これはもうメタファーの世界ですけど、
子供か親にっていう話であれば悲しみっていうのは何て言うんですかね。
それもまた抽象論かもしれないけど、
だって例えばですけど、
例えば私だってもうそういう年になってきますけれども、
母親っていうものを、期待した母親っていうものが、
どう考えても私が期待したっていう意味だったら、
例えばどう考えても違うだろうって話からするとですね、
私はこうYouTubeで散々言いましたけど、
これからも話しますけど、
父親は大石倉之助であるべきだったって言っても、
どう考えてもあの父親は大石倉之助ではないし、
やっぱりこう期待外れってことになるわけですよね。
ただですね、いなくなった時どう考えるかってのは、
つまりそれが見届けるってことなんですけど、
生きてる限りはまだ可能性は分かりませんからね。
実は大石倉之助でしたみたいな。ないけど。ないと思うけど。
まあでも生きてるわけだから分かんないわけじゃないですか。
でもお墓になってしまったらもう答えは出てますよね。
ある意味ね。見届けることはできますよね。
その時に分かんないですけどね、これだってね。
でもまあお墓がありましたと。いません。
でも私はそういうものを死亡しましたっていうのかな。
求めました。やっぱりできることとしたら、
つまりそれは子供というものが親を愛するものだっていう、
そういう設計がこの世にあるんだとすれば、
あるのは悲しみだってことになる。
つまり悲しみというのは愛だってことだと思うんですよ。
で、このことが最終的には、
自己愛じゃないってことを意味してる気がするんですよね。
まして自己愛構造体とかではないって感じがするんですよ。
結局悲哀がそこにあるってことはですね、
実母がどうであったかによらず、
愛するというベクトルはあったってことを意味してる気がするんですね。
ここに期待という、
もっと表層的に言うならばそういうことが起こるだろうなと。
本買うときに、だから私はつくづく思うんですよ。
やっぱりこれが愛であるならば、
情報を1500円で買ったということではないだろうと。
それだけだったとすると、
金額的には妥当かもしれないけど、
大変奇想的なものを感じるわけですね。
もはや表層的ですらない感じがする。
だから期待をし期待されますみたいな話がシナリオだとすると、
その最終決着点にもやっぱり
2者いなければならないなって感じなんですよね。
そこにはもうお墓しかないのかもしれないけど、
でもお墓があるのと最初から何もなかったというのは全く違うんですよね。
お墓はあるんですよ。やっぱり。
お墓があるなんつったってそこに生きている人はいないじゃんっていないんですけど、
でもお墓はあるんですよね。
そこにつまり対象とベクトルはあるということを物語っている気がするんですよ。
それを、そうなったらもうお墓になりかけるってことも人はしますけど、
でもそうなったらもうラテラルコミュニケーションじゃないですか。
僕は結構ですね、意味は私は一応寺の子なんで意味は知ってるんですけど、
でもあそこで意味不明なおにゃにゃにゃにゃってやってるのはあれはですね、
やっぱりあーでなきゃいけないなって思うんですよね。
あれ現代語訳にするっていうのはたまにあるんですよ。なぜかね。
そのほうがいいって考え方もあるんだけど、日本語訳か。もともと漢文ですからね。
あれはインド語を漢文に直しただけなんで意味不明なんですけど、
どっちにしても当て字ばっかりだし漢字のほうは。
それはどうでもいいんですけど。
つまりあの訳分かんなさというのは、やっぱり赤ちゃん言葉がそうであるようにですね。
あそこで訳分かったことを言っていたところで、
やっぱりそれこそ表層的なものになっちゃうという感じがしますよね。
とってもあの場面ではですね、いろんなことが起きるものなんですよ。
私はオハカってすっごい馴染みがあるんで。父の職業柄ね。
オハカばっかりどこ行ってもオハカだみたいなそういう世界なんで。
不思議ではないんで。不思議に言うとオカルトになっちゃうんで不思議なことは何も起きないんですけど。
でもいろんなことが起きますね。オハカとオハカ参りというのはですね。
子供の頃になんでこういろんなことが墓では起きるんだっていうふうによく思ったもんです。
だから全然行きたいと思わなくなっちゃうんですけどね。
なんていうのかな。ああいう非日常的なことばっかりやってるとですね。
非常に日常に戻ってくるのに手間暇かかりすぎるんだというのが私は実務的だったんで。
どうしてもそういうふうに思うんですよね。
結局うちの一族って、ほら母親をうちの母ですけど坊主にとつがせるぐらいだから宗教にかぶれてるわけですよ。
一族そろって。そうするとまあそれにしてもオハカ参りみたいなことばっかりやってるわけですよ。
何かって言うと行事行事行事なわけですよね。
実生産的なことを何もしていないんで。
いつも何やってるかっていうとオハカ参りとか法事とか行って帰ってきてはみんな黒い服を着てなんか世間話をしながら
その世間話もあそこの坊さんがどうしたとかこうしたとかいう世間話をしながら
こたつに入って東北ですからみかん食べてるわけですよ。
ほんとあれはね。
なんかもうほんとダメだわみたいに私は本当に肌が軽くなるのも最もだと思ってダメだわって思ってたんですよね。
すっごいかわいはやむさんの本とか読むと真逆のこと書いてあるじゃないですか。
こういうのが必要なんだって書いてあるわけですけど私は全然そう思わなかったんですよね。
こんなことばっかりやってたらほんとダメだわっていう感じが戻ってこれないんですよね。
なかなか戻る場所もあんまりはっきりとないし。
私はそういうときにすぐなんか脳骨堂のエクセル表とかをやたら作りたがってたわけですよね。
わかります?この漢字。
わかりにくいですよね。
でもねこういうふうにしてないととてもじゃないけどやってられんみたいなのがあったわけですよ。
本当に私は重力に逆らう傾向が強くてよくなかったんですよね。
そういうとこに一人で重力に逆らってばっかりいるからなんとかな無駄に圧力を生んでたんですよ。
ライフワークばっかりそういうところでやると表面的には
いやそれ便利だねとか頭いいねとかって言われるんだけどだいたい適応も食べてるんですよ。
適応煽ってるわけですよね。
これもまた期待を煽るのとよく似てるんですけどね。
そういうことをやっていたんで私なんかは。
それは病気にもなるしはかどらないわけですよね。
みんながみかん、こたつでみかん食べてるのになんか無理やりそこで中間テストのための微積の勉強とかをして
見よがしにやっていたわけですよね。
だいたいいいことは起きない。
良くないことばかり起きるわけですね。
うちの母はそういう私をすごく後押ししたがってたんだけど
そういうそういうのない人なんでどっちかというとやっぱり
こたつでみかんの人なんでお墓から帰ってきてね。
だから非常に分裂的になっちゃうわけですよね。
そういうところでね。
ということも最近思い出しまして。
あれも全部あからさまにシナリオの上に載ってたなっていうのも
シナリオの上に載ってるんですよね。
そこに主体性は何もない。
私はやっていたそのエクセルで脳骨動の管理みたいなのもそうです。
主体性はないですね。
すっげー主体的にやってるつもりでいるんだけども
完全にシナリオの上に乗っかってる行動なんですよね。
いかにこの種のシナリオが猛威を振るってるというか
あの強く強い存在であるかというか
強いってのはおかしいな。
何か因に用に人を役割というものを
上手に配置してしまうものかという
それが悪いことのように言ってますけど
良いも悪いもこれはやっぱない気がします。
そうやって生きていかなければならない部分も
私たちは人間というのはたくさんあるんで
動物でもあるんで
我々は人間ならではのラテラルコミュニケーションというものが
すごい大事なんですよね。
群れなんですよ。
鳥みたいに原始的じゃないから
あんなに整然とした群れではないけれども
やっぱり群れなんですよね。
で、群れるってことに対して