ローゼンフェルドと「期待」の導入
おはようございます。ライフハック時代の精神分析第1324回をお送りします。
3月2日、月曜日、7時49分です。
あっと3月になりましたね。
昨日やたら暖かかった気がするんですけど、今日寒いですね。
ぼちぼちやっていこうと思うんですけど、
昨日唐突にですね、全然何のミュージックラフもなくなんで、
さっぱりわからなかった内容だったと思うんですけど、
YouTuber、YouTube聞いていらっしゃる方には。
ローゼンフェルドの話を唐突に差し込んでみて、
やっぱり、紹介するの見ないよねと思ったわけですが、
いいねも全然つかないですしね。
このテーマは、非常に今私の中でホットなんですね。
店員覚え書きを読んでるからなんですよ、きっと。
店員覚え書きって薄い本なんですが、
ローゼンフェルドの話をもっとあそこに沿すといよいよ混乱して、
あの話やっぱ難しいですからね。難しくないんだということを、
昨日久しぶりに読み直してみて、
別に難しくないんだこれっていうのをですね、
感じ取った感じがするんですけども、
でもやっぱあれを最初に読むと面食らうんだよなっていう、
面食らうというか僕はちょっとこう、強いショックを受けて、
ここに私の、それこそ、だからあのローゼンフェルドを
昨日差し込んだのはアトピーの一環のつもりなんだけど、
それは伝わらないよねと思ったんですけど、
アトピーなんですよね。私のアトピーとは、あれに限りなく近い。
でもそれを説明するのは、なかなか大変難しいなということに気がつきまして、
もっと分かりやすいところで言うと、
実はああいうことはそこ賢でめちゃくちゃ起きているんだけど、
えーと、なんて言うんですかね、あんなに劇的には起きないから、
やっぱそこが最新分析ルームの凝縮されたポイントなんですよね。
起きてるんですよ、あれは間違いなく。
恋愛とかではあれはもうむしろ、
ありきたりのやつで、なんか言うじゃないですか、
夫婦喧嘩、犬も食わないみたいな。
それとはちょっと違う気もする。
でもやっぱそれだってその一環なんですよね。
そういう意味では、本当にこう、日常茶飯事ですよ。
そこら中にあることなんですね。
で、松木さんさすがに、なんというか、
松木邦博さんの定員覚書の臨床では、臨床ミネットとかって書くんですけど、
彼はすごい良い感じなんですけど、
まあ、普通あんなに良い感じには見えない。
だって夫婦喧嘩、犬も食わないやつですから。
あんなに良い感じには見えない。
遠距離恋愛のこじれみたいなのが一番ありきたりなのかな。
とにかく大変ありふれた話でもあるんですよ。
ただそれを病理に近い状態の話として、
しかも精神分析ルームという非常に特殊な条件を
徹底的に揃えて、そこで起こすと、
ローゼンフェルドさんが書いてるような、
その劇的な、だからエナクメントとかって言うんでしょうね。
まあ、ナラティブっていう人もいるし、
エナクメントっていう人もいるんだけど、
やっぱりビヨンが正しいなっていうか、
ビヨンってすごい後から抽象化してるだけあって、
抽象化してるからやっぱり、
あの人はやっぱり数学の素養を、
あそこに徹底的に適応するから、
ああいうことができるんでしょうけど、
ビヨンはラテラルコミュニケーションって言うんですよね。
なるほどなって思うんですね。
ラテラルコミュニケーション。
ノンバーバルコミュニケーションの、
なんて言うんですかね、水平版って言うんですか。
水平ですよね、ラテラルってのはね。
だから、まあ、
松木さんは鳥の群れとか複雑系みたいな話ですよね。
魚の群れは、
コミュニケーションどうやって取ってるのか問題って
昔あったわけですけど、
お隣さんの挙動だけ見とくと、
群れが同じ方向に動けるみたいな話ですよね。
ああいうのをこう、なんていうのかな、
前に私見たことがあるんですよ。
その複雑系の展示会場みたいなので、
デジタルで鳥が、鳥ではないんだけど、
デジタルのものがですね、
一定の法則、離れすぎると戻ってきて、
くっつぎすぎると少し離れるみたいな、
そうすると一定の距離をやるじゃないですか。
かなり単純な、わずかな、
つまり鳥とか魚でもできるレベルの合図だけで、
例えば障害物をみんなで避けるときにはどうするのか
みたいなのをプログラミングしておくと、
すごい鳥の群れっぽく動くんですよ。
それがこう、3Dデジタルで見せてくれるやつでした。
3Dアニメーションみたいにフワーっていって、
蝶々の群れとか何でもできるわけですよ。
それはできますよね。
そういうのを見て、
なるほどっていう感じがしたんですけど、
あれだっていうわけですよね。
あれだってことはつまり、
言葉はいらないってことなんですよね。
そういう人間ならではの、
人間ですからやっぱり魚の群れとは違いますから、
もう少し原始的なとはいえ、
子供っぽいとはいえ、言語も使えて、
そういう中でラテラルコミュニケーションをやると、
どういうふうに振る舞うのかと、
いった話をしているわけですよね。
それが定義だという話をしているわけですよ。
伝わりにくいと思うんですけど、
そこではつまり、言葉のやり取りで、
表面に現れている、
難しいですね。
表面に現れていることだけを捉えると、
誤解を招くような何かが進行中なわけですよね。
進行中なんですよ。
ローゼンフェルドの陰性治療反応というのにしても、
一つの解釈に違いはないと思うんですけど、
この陰性治療反応という言い方をしてしまうと、
正しく治療されているのに対して、
患者さんがそれに対する抵抗やら何やらで、
陰性の反応を示して中断してしまいました。
残念なことですって感じになっちゃうじゃないですか。
そういう解釈はできなくはないんでしょうけれども、
それだとそこにはまるで患者さんしかいないみたいじゃないですか。
そして、相手をしているローゼンフェルド博士だと思うんですけども、
別に精神分析じゃなくたって、
そんなことは普通に起きるし、
あえて精神分析である理由ってその場合何なんだっていう感じになっちゃうわけですよ。
解釈してるからそれが起きるのかならともかくとして、
別に解釈とかしなくても多分そういうことは起きるし、
なんなら別に精神分析しなくたって、
そういうことは起きるわけですよね。
ラテラルコミュニケーションと群れの行動
で、これはどうして起きるんだろうと考えてみたときにですね、
理想化と脱価値化って言葉があるんですけど、
そもそも理想化って何だろうって考えたときにですね、
私は期待ってもんだと思うんですよね。
そしてこの期待というのはやっぱり期待させる何かがそこに必須じゃないですか。
つまりここにやっぱり天意というふうに見るほうがいいと思うんですよ。
陰性治療反応ではなくて、
それもそういう言い方をしてもダメだってことはないのだと思うんですけれども、
その人が別に万能空想してるからとか、
病理構造体持ってるからとかじゃなくて、
病理構造体の構造って何だっていうのが3ヶ月チャレンジではしばしば議論になって、
だいたいこれ構造なんだろうか、
果たして構造って言えるんだろうか、
わざわざPSポジションとDポジションの間に何かそういう構造ありますみたいな話に、
本当にできるようなほど構造的だろうかみたいなことを考えていくと、
結構沼るわけなんですが、
私はそれにずっと考えていて沼っていたんですけど、
複雑な構造みたいなのを考え出すことはできるんですが、
複雑すぎてよくわかんなくなってくるわけですよね。
少なくとも咄嗟には全然使えるものではないわけですよ。
やっぱりワンワンセッションはその場にいて、
咄嗟にそれについて思いを巡らすみたいなことができないような構造とか複雑な構造、
そういうことが精神分析家にはできちゃってるみたいな幻想抱きがちなんですよね。
PSとDでさえそんなにシンプルじゃないような気がするのに、
ここでは誰がいいおっぱいになってて、
どういうところが悪いおっぱいなんだろうみたいなことを考えているうちに、
相手の話を聞き漏らすみたいなことが起きるわけじゃないですか。
そんな複雑なことをやっていると。
そんな複雑なことはとてもやってられないし、
何かがおかしい感じがする。
そんなことを考えるよりもですね、
それは非常に安易なんですけど、
ロデンフェルドさんをはじめ、
古典的なあるいは中期のクライン派の人たちが、
中期とか言わないんだけど、
すごい頑張ってくれたから、
多分こういうことがわかってきて、
ビオンが一気に革命的にまとめた部分が、
結実しているはずなんで、
そこを後から読んでですね、
何かこう、わかったような気になるのは良くないんですが、
でもそういうことをやっていかないと、
先人の大変さをしみじみしているだけだと、
先へ進めませんから、
やっぱりちょっと先へ進もうと思うわけですね。
一者心理って言ってしまえば、
そういうことになりますし、
要はその、
なんていうんですかね、
期待をさせるということと、
期待をするということに、
どっちが良いとか悪いはやっぱりないと思うんですね。
期待しすぎだとかって言うんだけど、
そんなことは、
私ビジネス書とか書いてるから、
タスクシュートでもいいんですけどね、
タスクシュートのセミナーとか、
しばしばやっぱりこの問題にちゃんと引っかかるんですよ。
で、そりゃ、
なんていうのかな、
そんな時に相手の自己愛構造対話とか考えないじゃないですか。
どう考えても、
そういう話になりがちですよ、確かにね。
例えばタスクシュート、
劇的に、
なんでもいいんですけどね、
なんか考えましょう。
劇的に仕事と家庭を、
生活を改善する、
タスクシュート超時間方法とか、
考えたとするじゃないですか。
別におかしくないですよね。
ビジネス書には普通にあるタイトルじゃないですか。
で、これを読んだ人は激怒したとか、
ないわけじゃないですよ。
本当に激行して、
こんなに期待をさせておいて、
1500円も払わせやがって、
とかって言われるとするじゃないですか。
で、
出版社と、
私という本を書いたことはないけど、
このタイトルではないですけど、
出版側からすると、
いや、1500円でそこまで期待されてもね、
って思いますよね、やっぱりね。
期待する方が悪いとは言わないけど、
そりゃ期待しすぎでしょ、みたいな、
理想化なんですよね、これをね。
これを理想化して、
これを理想化と名付けてるんですよ、きっと。
そりゃ期待すると言われれば、
1500円とはいえ、
お金なんだからするけど、
1500円でそんな仕事と生活が
完全に理想的になるとか
言うことがないだろ、そりゃっていう。
一歩間違うとなんかもう、
佐々木さんの本読んだ後に
フジイソータのようになれませんとか言われても、
そんなのなれないでしょっていう。
なれるぐらいだったら、
俺本書いてないしっていうね。
フジイソータになって、
自分が将棋でも指してますよっていう風に
考えられるかどうかみたいな話を
してるわけですよね、高校ではね。
でもですね、
そんなに煽ったタイトル付けておいて、
期待すんだっていうのもどうかって話になるじゃないですか。
つまりこれは、
まあ、
ナラティブなわけですよ。
主張している主張は、
いやもう金返せみたいな主張と、
いやいや、ビジネス書ですから、みたいな。
このやり取りそれ自体は、
その理想化とか、
脱価値化とか、
陰性治療反応とか言う必要は
どこにもないんだけど、
ここには期待を猛烈に抱いてしまう、
何か抱かせるような心理状態を
作り出してしまう、
何かがあって、
その何かの上に乗っかって、
いわば劇的なことが、
劇的って言っても、
なんかしょうもない劇ですが、
ドラマタイズが起きてるわけじゃないですか。
ビジネス書における期待とクレーム
ある意味ではね。
そのドラマタイズというのは、
なんつうのかな、
じゃあそのドラマは、
誰が筋書きを書いたの?
っていうと、
怒ってる人が書いてる部分も大きいと思うし、
出版界が書いてるわけでもありますよね。
本のやり取りをしてるわけだから、
筋書きは。
そこで、
お金返せ、みたいなセリフと、
いや、これはビジネス書でね、
こういうタイトルつけるもんなんですよ、
ありきたりなこういうやり取りは、
別にタスク集と本だけやってるわけじゃないですよ。
どんな本でもこういうやり取りをきっとね、
読者さんの熱心な方と、
著者、編集者、
出版関係者の人の間では、
起きてると思うんです。
つまり、こういう筋書きは、
そこら辺にあって、
この筋書きの上に乗っかって、
我々が喋ってる時、
どっちが悪いとか、
主体は誰にあるんだっていうのは、
ナンセンスだってことなんですよ。
筋書きがなんかこうあり、
人間はその上を、
ただそういう意識ないんだけど、
そういう役割として、
役割応答とかいう言葉もあるんですけど、
ちょっと話がどんどんどんどん逸れていくんで、
やめましょう。
とにかくそういう敗役を振られているかのように、
振る舞ってしまうっていうことは、
そこら中で起きてるんですよ。
恋愛してるとなんか、
冷静な人はきっと思うと思うんですけど、
恋愛ドラマで言ってるようなセリフを、
俺言っちゃってるしみたいな、
私なんか言っちゃってるしみたいに思うことって、
きっとあると思うんですよね。
それぐらい、ドラマのシナリオというのは、
ある意味よくできてる、
とも言えるし、
要するに陳腐だとも言えるんですけれども、
そこら中で、
そういうことを言わざるを得ない、
だから例のあれですよね、
昔で言うところの、
仕事と私どっちが大事なの?みたいな、
それに類することって、
きっと本当に言われてるんだと思うんですよね。
笑っちゃいけないのかもしれないけど、
でも深刻なんだけど、
でもそういう、
これまで100万人が言ったような言葉を、
私も言いますみたいなのって、
そこに本人が主体的であるっていう、
変かもしれないけど、
その人としては主体的なつもりでいて、
別にシナリオに乗っかってるわけじゃないんですよね、
現実のことなんだから。
でもそういうことあるわけですよね。
で、私はここにですね、
必ずと言っていいぐらい、
この種の話が出てきたとき、
つまり、金返せ、
いや、それビジネス書ですから、
みたいなこのやりとりがあったときには、
大体決まって、
期待というものがそこに、
要するにシナリオのタイトルを
期待としておいていいような感じなんだ。
期待とは何かっていうことなんですよ。
理想化っていうよりも、
私は期待と言いたい気がするんですね。
私は、
例えば本とかは特にそうね、
本、最近で言うと、
有料ノートの記事とかね、
有料ノートの記事とかって、
僕、適面だなって思うんですよ。
大体払った後で怒ってる人いるんでしょうけど、
期待に払うんですよ、金は。
なんかね、
情報に金を払うと思うから、
みんな払う。
まあ、でもこれはしょうがないんだよね。
タイトルも、
有料ノートは考えられてますよ、すごく。
ただすごくビジネスションに似てるけど、
有料ノートのタイトルは、
期待をやっぱ煽ってますよね。
煽ってないって言うかもしんないけど、
煽られるんですよ。
で、煽ってないのかもしんないけど、
煽ってるんですよ。
そういうシナリオの上にあるんですよ、これは。
期待を煽ろうという意志はないかもしれないし、
意識はないかもしれませんけれども、
ちゃんと期待を煽ってしまうんですよね。
だから後で、
いや、期待しすぎだとか、
期待させるつもりなかったし、
ってことになるんだと思うんですよ、
クレームが出ればね。
で、これが起きてる、
これがものすごく深刻かつ、
えーと、なんていうのかな、
それこそ、なんか傲慢だとか、
なんかこのクレームを出すと、
傲慢な感じが人によってはするというか、
かといって、
傲慢だという割には、
理想化してるわけだから、
依存的だとか、
そういう、それはつまり、
視聴者側からの見方なんですよね。
視聴者側でも、
期待した側には、
多分異なる世界が広がってるんだと、
思うんですよ。
だからこれをやっぱり、
あのー、
美音が言ったように、
シナリオがあるのであって、
どっちかに主体があるみたいな言い方をすると、
話がおかしくなると思います。
期待というのはですね、
やっぱり期待をさせる人と、
期待をする人と、
両方いないと成り立たないわけで、
一方的にどっちかが期待したわけではなくて、
一方的にどっちかが期待したわけではない。
なんか、あのー、
ああいうこう、ロゼフェルトさんの本とか、
読んでると、
一方的に患者さんだけが存在しているように
見えてしまう。
あの本は特にそういう雰囲気が、
まあやっぱり劇的だからなんでしょうね。
しかも劇的なところを、
ある意味、まあ当然なんですけど、
焦点付けて話を展開しているからなんでしょうね。
で、この期待という風に考えた時には、
我々もよくやるんですよね。
きっとこれはですね、
あのー、
いわゆるクライアントさんは、
期待する側ばっかりやってるけど、
あれ、外に出ると、
期待される側に回ってたりするんですよ。
当たり前なんですけど、
仕事していれば絶対そういうことになるんでね。
で、その期待の対処も、
非常に扱い兼ねるだろうな、
っていう感じはするんですね。
だから、病理っていうのはおかしいと思うんですけど、
期待をめぐる、
その心の動き、
およびそのトラブル、
みたいな感じなんですよね。
悲しく期待した時は、
なかなか大変なことが起きますから、
精神分析における期待と治療者の役割
それがだから、松木さんが上手に、
上手にっていうか、こう、
ビネットで書いていることなんですけれども、
要するに松木さんという人には、
まあ、ああいう本も出されているし、
今となっては退化ですから、
患者さんになった人の立場からすると、
期待しちゃいますよね。
つまりこれは、
治療的万能感、
まあ、それは治療者側が持つものかもしれないけど、
でも、万能的に、
この人ならやってくれる。
って感じなんですよね。
何やってくれるかがよくわからない。
歯医者とかでは違うんで、
歯医者とかももう何やってくれるかは、
かなり患者さんは明快に意識してますから、
そんなに過度な期待はしないけど、
痛くないようにやってくれような、
くらいのノリだと思うんですけど、
これがやっぱり精神分析家ともなってくると、
いや、この人はやってくれそうだ、
みたいなね。
そういうふうに何を期待しているのかも、
よくわかんないんだけど、
多大な期待をかけると。
いればいるほどですね、
マスキさんが、
それこそ私は何も気の利いたことは言えてなかった、
みたいなことを書いてますけど、
いや、こんなに通って、
こんなに対価で、
こんなに期待させておいて、
なんかその、
あなたは苦しんでますとかしか知らないですよ、
何言ってるのかは。
言ってくれないんかみたいになるわけじゃないですか。
つまり、
もうなんかこう、
金返せどころじゃないんですよ。
ちゃんと仕事しろぐらいな勢いになっちゃうわけですよ。
で、マスキさんは、
それはわかんないけど、
ちゃんと仕事しない瞬間とか、
なさそうな人じゃないですか。
だから、多分ですね、
多分切羽詰まってるなら、
私も行った場合、
例えばここに行けばアトピー治るぐらいに思って行った場合、
いや、なんかアトピー全然良くなんないんですけど、
みたいになって、
多分サボってるとすら思わないと、
どう思うかっていうと、
いや、このマスキ先生は私にだけ意義悪してるんだ、
みたいに思うと思うんですよね。
で、これは、
病理だって言われるや病理かもしれませんけれども、
これがでも必要なんですよ。
私、仕事してると、
つくづく思うんです。
なんかね、上手い編集者さんとかの手にかかると、
こういうことが起きるんですよ。
なんかね、
本企画のうって、
いや、なんかもう大変だなみたいに、
本書いてると1回ぐらい、
そういうことで絶対起きるし、
そういうタイミングで、
なんか上手いことさせてくる人っているんですよ。
なんかこう、上手いんですよ、多分。
意識してるのかどうかわかんないんですけど、
そういうのに乗っちゃうんですよ。
だから、
ラテラルコミュニケーションが働いてるわけですよ。
で、この本出せば、
なんかもう10万部いくわ、
みたいな気になっちゃうんですよ。
なっちゃうから書いてられる、
みたいなことってあるんでね。
で、10万部、
そうは言ってない、
てか何も言ってないんだけど、
編集者さんによっては、
佐々木さんこの本、
いけますよ、みたいなノリになる。
そういうノリないと、
企画にならないですからね。
企画ってのはそういうもんなんで。
だから、期待なんですよ、まさに。
期待させる側と期待する側といて、
で、本出すとするじゃないですか。
全く売れないみたいな。
そうすると腹渡ってくるんですよ。
おかしいんだけど、
明らかにおかしいんだけれども、
いや、ちっとも売れないじゃん、みたいな。
話違うじゃん、みたいになるわけですよね。
でも、これはまさに、
おかしいんじゃないですか。
だから、そこら中にあることだと思うんですね。
で、なんか、
10万ブーレルって言ったじゃないですか、
そんなこと言ったことないですよ、さすがにね。
そんなこと言う人いないし、
いや、私そんなこと言ってませんし、
っていうことになって、
終わってみると、
印税16万円、
16万8900円、
みたいなのが振り込まれていて、
お金をもらってるのに激怒すら、
みたいな、
そういうことが起きかねないわけですね。
そういうことになるわけです。
で、僕が思うに、
これが必要なんだと思うんですね。
仕事とかでは本当そうで、
なんていうんですかね、
風呂敷を広げる、
みたいな言い方するじゃないですか。
で、精神分析家の人たちとかは、
私も3ヶ月チャレンジは極力そうしてますけど、
慎重にこの辺頑張りますから、
あれで、
少なくとも煽らないとは思うんだけど、
ビジネスの現場は逆ですよね、
半ばね、煽っちゃいますよね。
もう次タスクシュートはAI搭載しますから、
みたいなノリになりやすいじゃないですか。
そういうことをしたくなる空気、
だからやっぱりシナリオはないにせよ、
に近いものはあるんですよね。
いやもう次世代はすごいですよ、
みたいな、
何言ってるのかよく分かんないんですよ。
言ってる人もよく分かってないし、
期待してる人も、
命名が違うことを考えてると思うんですよね。
もう次は、
ついに、
Googleカレンダーの連携の次は、
検索機能つけて、
いよいよAI搭載して、
みたいなことを言うわけですよ。
そこで言われてることは、
実はよく聞いてると、
すげえ、
ほぼ何も言ってないなって感じ、
でもあるんだけど、
聞く人は自分の好みに合わせて、
その話を変形してるわけですよね。
変形してるわけですよ。
これは思考水準ではあるんだけど、
思考としては、
夢思考の水準を全く脱してないと思うんですよね。
つまり、
コンセプトに至ってないんですよ。
こういう話のやりとりをしてる時というのは。
アルファ機能とは、
アルファエレメントとはさすがに言わないまでも、
なんかこう、
夢を見てるだけなんですよね。
お互いが、お互いの。
その上に、期待というシナリオの上に乗っかってて、
期待を煽らなければならない状況にある人と、
期待せずにはいられない状況の人が、
こう、
どうしよう今を見ると。
そういうことになってるはずなんですね。
でもこれが大事なんですよ。
僕はここに金を払うんだと思ってます。
情報とか機能にお金を払うんではなくてね。
特に本はそうです。
本は期待量だと思うんですよね。
期待とは何かってことですよね。
これを期待のしすぎさせすぎで終わるんだったら、
精神分析とか必要ないと思うんですよ。
そうではないんですよね。
これは失敗するんですよ。
必ずね。
だって期待には絶対答えきれないんで、
必ず失敗する。
ここでウィニコットが出てくる気がするんですよね。
期待しすぎっていうことが起こる。
で、分析家の人は、
いやあなた期待しすぎですから。
それを言えば直面化で、
そういう簡易の仕方があるケースあるのかもしれないけど、
まああの、松木さんの本を読む限り、
そんなことは言わないだろうなって感じがします。
黙ってるかなって感じがします。
何にしても持ちこたえるしかないとかなんとか、
そういう話になるわけですよね。
期待の破れと最終的な決着
いやお前あんなに期待させといてなんだみたいな。
ここにやっぱり悲しみというものが
滲み始めなければ、
しばらくは大変だと思うんですよね。
つまり期待したほどの人じゃない。
で、この人すらそうだとすると、
この世に私が期待したほどのものはない。
で、こういうふうな、
これがつまり考える、
考えられつつあるってことだと思うんですけれども、
それは単に妥協か絶望か諦めかみたいに言われるかもしれないけど、
そうではないと僕は思う。
そうではないというか、
一時はそうなるしかないと思うんですけれども、
さらにその後があると思うんですね。
例えば、
これは定員覚書だろうとなんだろうと、
他の松木さんの本にも出てくる話ですけど必ず、
どうはいえ来ているんですよね、分析に。
松木さんのところには少なくとも。
つまり、陰性治療反応です。中断しました。ではないんですよね。
来てるわけですよ。
で、大概こう書いてあるんですよね。
こんなに苦しい分析に来させている私に対する
怒りが感じられるみたいな。
いや、松木先生は来させてないんじゃないかと思うんだけど、
患者さんの観点、クライアントさんの観点からは、
ずっとそうなんですよね。
ここに来るしかないからここに来てるけど、
ここに来てるのに、はかばかしく何もいいことが起きてないし、
ただ苦しいだけだし、
でも私はここに、
なんかここしかないような気がするからここに来てます。
これが分析の効果ってやつだと思うのと、
そうは言っても、たとえ気が利いてようと利いてもないと、
解釈というものを必要としているわけだし、
そして何よりもこのシナリオは、
やっぱり期待をさせられるっていうことを、
ある意味最後まで見届けると言いますか、
期待しましたっていうのはまだ終わってないじゃないですか。
期待を煽られました。
本読んでいただけば分かりますけど、
松木くんいろさんが期待を煽るってことってないと思うんだけど、
クライアントさんは少なくともある程度見たと。
私なんかはビジネッシュ作家だから、
期待煽りますからね、はっきり言って。
いやもうタスクシュートいけますみたいな。
いけると思ってるけど私も。
だけども、たとえば期待した人が考えることって、
ここにあるスーパーマンになれる5000のタスクがあるけど、
これが1日で終わることを期待するぐらいの勢いじゃないですか。
それはちょっと言い過ぎかもしれないけど、
掃除でそのレベルに近い。
私が言ってるのは要するに、朝歯が見かけますとか、
夜お風呂に入れますとか、
ふざけんなって感じになるわけですよ。
でも私はここが大事だと思うんですけど、
期待したほどのものはないんですよ。
それはつまり何を言ってるかというと、
理想の親はいなかったって話に一気に近づいてると思うんですね。
多分そういうことがそこでは行われているんだろうなって感じがするんですよ。
これは実際の親がいいとか悪いとかとは別の話をしてる気がするんですよ。
ここで言われている親というのは、
つまり子供というのは親を頼るもんだと。
たとえそこに親がいなくても頼るもんだと、
そういうふうに設計されてきているんだと。
つまり期待ですよね。
期待している自覚が全くないときほど、
人はいっぱい期待してるものじゃないですか。
だから私の本にお金を1500円なりを払っていただく場合には、
ほとんどの人はここに正しい情報があるっていうふうに、
正しい情報を買ってるつもりでいるんですよ。
そのときはもう自覚がないんですよ。
あれば果たして1500円で正しい情報、
藤井壮太になれる正しい情報とかが1500円で手に入るものかっていう、
しかも誰でも手に入るっていうのは原理的に変じゃないかっていうのは、
考えればすぐ答えは出るんですけど、
考えはしてないわけですよね。
圧倒的に期待が切実な状態にあるときは、
そういうことが起きるわけです。
これはつまりやっぱりそこにないおっぱいがあるわけですよ。
ないおっぱいがあるというのはつまり、
そういうふうに生まれてきたっていうことを言ってるのであって、
親がどうであるとかこうであるっていうことは、
いわばその次に来る問題なんですよね。
何だと思うんですよ。
実際にはこうだと。
実際とはこんなもんだっていうことに失望すると。
この失望はほぼ絶望なレベルで失望すると。
一方が違うと1年間何の期待にも応えてもらえないまま
ここに通い続けたみたいな話が割と平気で出てくると。
私はそれには耐えられそうにないから3ヶ月っていうことにしてあるんですけど、
とりあえず1年経っても何も期待したものはやってこない。
でも私はここに通い続けてるし、
この人はここにいるっていうこの話が、
最後はどういうところに決着するのか。
期待ってのは結局期待が破られました。
その後どうなるのかっていう。
ここでやめてしまうとやっぱりそういう言葉は良くないと思うんですけど、
でもここで終わってしまったらやっぱり中止なんですよね。
そうではなくて最後までいくと何が起きるのかというとですね、
これはもうメタファーの世界ですけど、
子供か親にっていう話であれば悲しみっていうのは何て言うんですかね。
それもまた抽象論かもしれないけど、
だって例えばですけど、
例えば私だってもうそういう年になってきますけれども、
母親っていうものを、期待した母親っていうものが、
どう考えても私が期待したっていう意味だったら、
例えばどう考えても違うだろうって話からするとですね、
私はこうYouTubeで散々言いましたけど、
これからも話しますけど、
父親は大石倉之助であるべきだったって言っても、
どう考えてもあの父親は大石倉之助ではないし、
やっぱりこう期待外れってことになるわけですよね。
ただですね、いなくなった時どう考えるかってのは、
つまりそれが見届けるってことなんですけど、
生きてる限りはまだ可能性は分かりませんからね。
実は大石倉之助でしたみたいな。ないけど。ないと思うけど。
まあでも生きてるわけだから分かんないわけじゃないですか。
でもお墓になってしまったらもう答えは出てますよね。
ある意味ね。見届けることはできますよね。
その時に分かんないですけどね、これだってね。
でもまあお墓がありましたと。いません。
でも私はそういうものを死亡しましたっていうのかな。
求めました。やっぱりできることとしたら、
つまりそれは子供というものが親を愛するものだっていう、
そういう設計がこの世にあるんだとすれば、
あるのは悲しみだってことになる。
つまり悲しみというのは愛だってことだと思うんですよ。
で、このことが最終的には、
シナリオと人間関係の構造
自己愛じゃないってことを意味してる気がするんですよね。
まして自己愛構造体とかではないって感じがするんですよ。
結局悲哀がそこにあるってことはですね、
実母がどうであったかによらず、
愛するというベクトルはあったってことを意味してる気がするんですね。
ここに期待という、
もっと表層的に言うならばそういうことが起こるだろうなと。
本買うときに、だから私はつくづく思うんですよ。
やっぱりこれが愛であるならば、
情報を1500円で買ったということではないだろうと。
それだけだったとすると、
金額的には妥当かもしれないけど、
大変奇想的なものを感じるわけですね。
もはや表層的ですらない感じがする。
だから期待をし期待されますみたいな話がシナリオだとすると、
その最終決着点にもやっぱり
2者いなければならないなって感じなんですよね。
そこにはもうお墓しかないのかもしれないけど、
でもお墓があるのと最初から何もなかったというのは全く違うんですよね。
お墓はあるんですよ。やっぱり。
お墓があるなんつったってそこに生きている人はいないじゃんっていないんですけど、
でもお墓はあるんですよね。
そこにつまり対象とベクトルはあるということを物語っている気がするんですよ。
それを、そうなったらもうお墓になりかけるってことも人はしますけど、
でもそうなったらもうラテラルコミュニケーションじゃないですか。
僕は結構ですね、意味は私は一応寺の子なんで意味は知ってるんですけど、
でもあそこで意味不明なおにゃにゃにゃにゃってやってるのはあれはですね、
やっぱりあーでなきゃいけないなって思うんですよね。
あれ現代語訳にするっていうのはたまにあるんですよ。なぜかね。
そのほうがいいって考え方もあるんだけど、日本語訳か。もともと漢文ですからね。
あれはインド語を漢文に直しただけなんで意味不明なんですけど、
どっちにしても当て字ばっかりだし漢字のほうは。
それはどうでもいいんですけど。
つまりあの訳分かんなさというのは、やっぱり赤ちゃん言葉がそうであるようにですね。
あそこで訳分かったことを言っていたところで、
やっぱりそれこそ表層的なものになっちゃうという感じがしますよね。
とってもあの場面ではですね、いろんなことが起きるものなんですよ。
私はオハカってすっごい馴染みがあるんで。父の職業柄ね。
オハカばっかりどこ行ってもオハカだみたいなそういう世界なんで。
不思議ではないんで。不思議に言うとオカルトになっちゃうんで不思議なことは何も起きないんですけど。
でもいろんなことが起きますね。オハカとオハカ参りというのはですね。
子供の頃になんでこういろんなことが墓では起きるんだっていうふうによく思ったもんです。
だから全然行きたいと思わなくなっちゃうんですけどね。
なんていうのかな。ああいう非日常的なことばっかりやってるとですね。
非常に日常に戻ってくるのに手間暇かかりすぎるんだというのが私は実務的だったんで。
どうしてもそういうふうに思うんですよね。
結局うちの一族って、ほら母親をうちの母ですけど坊主にとつがせるぐらいだから宗教にかぶれてるわけですよ。
一族そろって。そうするとまあそれにしてもオハカ参りみたいなことばっかりやってるわけですよ。
何かって言うと行事行事行事なわけですよね。
実生産的なことを何もしていないんで。
いつも何やってるかっていうとオハカ参りとか法事とか行って帰ってきてはみんな黒い服を着てなんか世間話をしながら
その世間話もあそこの坊さんがどうしたとかこうしたとかいう世間話をしながら
こたつに入って東北ですからみかん食べてるわけですよ。
ほんとあれはね。
なんかもうほんとダメだわみたいに私は本当に肌が軽くなるのも最もだと思ってダメだわって思ってたんですよね。
すっごいかわいはやむさんの本とか読むと真逆のこと書いてあるじゃないですか。
こういうのが必要なんだって書いてあるわけですけど私は全然そう思わなかったんですよね。
こんなことばっかりやってたらほんとダメだわっていう感じが戻ってこれないんですよね。
なかなか戻る場所もあんまりはっきりとないし。
私はそういうときにすぐなんか脳骨堂のエクセル表とかをやたら作りたがってたわけですよね。
わかります?この漢字。
わかりにくいですよね。
でもねこういうふうにしてないととてもじゃないけどやってられんみたいなのがあったわけですよ。
本当に私は重力に逆らう傾向が強くてよくなかったんですよね。
そういうとこに一人で重力に逆らってばっかりいるからなんとかな無駄に圧力を生んでたんですよ。
ライフワークばっかりそういうところでやると表面的には
いやそれ便利だねとか頭いいねとかって言われるんだけどだいたい適応も食べてるんですよ。
適応煽ってるわけですよね。
これもまた期待を煽るのとよく似てるんですけどね。
そういうことをやっていたんで私なんかは。
それは病気にもなるしはかどらないわけですよね。
みんながみかん、こたつでみかん食べてるのになんか無理やりそこで中間テストのための微積の勉強とかをして
見よがしにやっていたわけですよね。
だいたいいいことは起きない。
良くないことばかり起きるわけですね。
うちの母はそういう私をすごく後押ししたがってたんだけど
そういうそういうのない人なんでどっちかというとやっぱり
こたつでみかんの人なんでお墓から帰ってきてね。
だから非常に分裂的になっちゃうわけですよね。
そういうところでね。
ということも最近思い出しまして。
あれも全部あからさまにシナリオの上に載ってたなっていうのも
シナリオの上に載ってるんですよね。
そこに主体性は何もない。
私はやっていたそのエクセルで脳骨動の管理みたいなのもそうです。
主体性はないですね。
すっげー主体的にやってるつもりでいるんだけども
完全にシナリオの上に乗っかってる行動なんですよね。
いかにこの種のシナリオが猛威を振るってるというか
あの強く強い存在であるかというか
強いってのはおかしいな。
何か因に用に人を役割というものを
上手に配置してしまうものかという
それが悪いことのように言ってますけど
良いも悪いもこれはやっぱない気がします。
そうやって生きていかなければならない部分も
私たちは人間というのはたくさんあるんで
動物でもあるんで
我々は人間ならではのラテラルコミュニケーションというものが
すごい大事なんですよね。
群れなんですよ。
鳥みたいに原始的じゃないから
あんなに整然とした群れではないけれども
やっぱり群れなんですよね。
で、群れるってことに対して
期待の捉え方と現実の受容
すごく人間は軽蔑的に言うじゃないですか。
いつからなのか知らない。
昔からなのか今なのか知らないけど
なんかこうもっと独立活歩するのが
かっこいいみたいにあるじゃないですか。
でも独立活歩は大体でかい代償を払うことが
とても多い気がします。
で、どうやってこのどちらかというとやっぱり
群れるように設計されている
霊長類大体そうですから
群れるように設計されている
この群れるように設計されている中で
なんつうんだろうな
とはいえとても複雑なので
この群れのやり方は
魚のようじゃないんで
えらい複雑なので
だからすごいその中で困るわけですよね。
中でもこの機体というシナリオは
とっても扱いにくいなと
ただ全体としては
そのシナリオの中心を占めているのは
やっぱりこう理想化と脱可視化
みたいなところから始まるけど
最後は物作業で決着するんだなっていうのが
最近むしろそれこそ
ローゼンヘルドさんの本を読んでいるうちに
物作業で決着するしかある意味ないなという
それは悲しむなんつうんですかね
そんなにネガティブである必要はないんですよね
必ずしも
私は最近思うんですよ
ただそれはありきたりっていうことを
ありきたりっていうものに対して
どこまで極端にポジティブであったり
ネガティブであったりすることから
身を離せるかみたいなものに
かかってる気がするんですよね
松木さんの本で
必ずと言っていいぐらい
臨床で強調されているのが
理想化した私が実は平凡な人間でしかない
繰り返しと言っていいぐらい書いていて
この人のパーソナリティも絶対あると思うんだけど
でもそういうことでしかないなという
なんで我々はですね
自分が別に本当の意味では
少しも目指していない太谷翔平でないことを
嘆くのかってことですよね
嘆く人は少なからずいらっしゃるような
気がするんですけど
実際には
一回もバッと振ってなかったりするじゃないですか
これは比喩でいう話なんですけど
それでいいはずなんですよね絶対に
どうもありがとうございました