私たちは数々の制約を受け入れることによって安全に生きられる。
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感想
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サマリー
このポッドキャストでは、まずAIによる音声入力技術「タイプレス」の進化について語られます。特に、ささやき声や言い淀みが多い状況でも高精度にテキスト化するウィスパーモードの能力に驚き、メモ術の時代は終わったと感じるほどだと述べられています。次に、行動科学における「罰回避」の強力な動機付けについて、ネズミの電気ショック回避実験を例に説明されます。この罰回避は、哺乳類にとって生存に直結するため、報酬を得ることよりも優先される行動原理であり、経済学における「損失回避」とも共通する概念だと解説されます。さらに、この罰回避行動が、私たちの日常生活における様々な選択や行動範囲を狭める原因となっていることが指摘されます。例えば、墓場を避けるために遠回りをする、店員に話しかけるのを避ける、といった行動が挙げられ、これらが結果的に「もっと自由に生きられるはず」という可能性を狭めていると論じられています。最後に、カウンセラーがクライアントにとって「魔法使い」のように映り、それがクライアントの回復を促す一方で、カウンセラー自身に大きな負担や責任を生じさせる可能性についても触れられています。特に、特殊な関係性(ラポール)を築くことの重要性と、それが通常の制約から解放された関係であること、そしてその関係性の中で「もっと自由に生きてもいい」というメッセージが伝わることの意義が語られています。
AI音声入力技術「タイプレス」の進化とメモ術の終焉
おはようございます。のきばキャスト第1353回をお送りします。 5月18日月曜日7時30分です。
いきなり余談から入るんです。
タイプレスというやつをちょっと使ってみています。 まだお試し期間中というやつなんですけど、なかなかすごいなと。
いろいろ言われることもあったりしているけれども、セキュアな問題とかそういうことだと思いますけどね。
要するに音声入力なんですけど、ウィスパーモードっていうのがなかなかすごくて。
要するにそういうところでは公共でウワーッとしゃべれないから、ささやくようにしゃべるわけですよね。
いわゆる電話口に口をつけてみたいな昔の表現を使うと。そんなこと今はしませんけど。
ささやくようにしゃべって、しかも言い淀みがめちゃくちゃ多くても、だからAIが解材してくれるんで。
ほぼ完全にしてくれる。たまにAIが解材しすぎるということが起こるんですけれども、基本的には文脈を読んでくれるんで。
例えば一つ目にはこう、二つ目にはとか言っていたとするじゃないですか。それをちゃんと過剰書きに変えてくれるんですよね。
だからなんていうのかな、昔メモっていうものですごいいろんなメモ術が世の中には、私もそういうので食ってきた人間なんですけど、ライフハック系メモ術ですね。
でも、これに完全に決着がついたんだなということを考えさせられる。そういうものですね。考えさせられるというか、もう時代が完全に変わったんだなということを感じさせられる。
そういう感じがします。で、無限に近いぐらい、だからこういう月一期もほぼ完璧だなという感じがします。
私、これをやる方が本をAIに書かせるというより断然いいんじゃないかなという。やろうと思えばですね、一日、僕はやりたくないからそういうことはやりませんが、一日2、3章いけると思いますね。一気に。
ひたすら考えてはしゃべり、考えてはしゃべりを文章化していくのを眺めていって、それをずっとやっていくと、勝本隆さんが書いてたんですけど、あの人すごい早いんですよね。それに手を出したのが。
肘が研修編になっちゃったから、音声入力にすごい凝ったんですけれども、4倍ぐらい早いっていうふうに、たぶん慣れればそうなんでしょうね。速度的には。
ちょっと4倍の速度を出しちゃうとできないことって出てくると思うんで、その後の手直しって結構いると思うんですけれども、手がつまりゴリ出しとかいうんじゃなくて、そうではなくて、なんかちょっといると思うんですよ。
やっぱ工術とタイピングが少し違う気がするんですね。早すぎるって言いますかね。
あの今回、かつま家伝っていう本を私も買って読んでみたんですけど、なんかね、かつまさんがすっごい早い感じで、あの人頭の回転が早いからなんですが、早い感じで話しかけられてきているような、幕仕立てるって言うんではないんだけど文章だから、
早い調子でワーッと話しかけられてきているような、読語感があるんですね。これは別に僕は全然苦にならないんでいいんですが、これ苦にする人がこの、なんかこう、この種の本を好かないのではなかろうかっていう感じがしましたね。
なんかこう、どんどん早い調子で畳みかけられてくるっていうのは、そういうわけじゃないんですけど、でもそういう感覚が伝わってくるから、まあこれは感じすぎなのかもしれないですけどね、そのそういうものが入ってるってわけじゃないんで、別に文章ですから、テキストなんで。
ちなみに、このタイプレスで面白かったのが、カツマカデンっていうのを公術筆記したら、カツマ式ロジカルカジっていう別の本が置き換わっていて、これがやっぱりAIならではだなという、いわゆるタイポと違うじゃないですか、これって、そういうタイポはありえない。
だから私のでもなんでもいいんですけど、タイポになりそうな分析ができなかったときに、他のそっくりさんで置き換えてしまうという、しかもそのカツマ式ロジカルカジみたいなの、そういう本もあるんですよね。
だから余計そういう、いい淀みが違う形に変換されるという、現代的なタイポだなっていう感じが、AA時代のタイポだなって感じがしました。
その話だけで5分いっちゃってるんで、もうやめますけれども、本当にいろんな意味ですごいなっていう感じがしますね。
これはこのPodcastもそうですけど、リッスンスタイルが早々にやってくれましたけど、悪いと誤字もあるんですけどね、これもう一台買って、絶対やる人だったらやるなと思うんですけど、もう一台買ってそっちタイプレスでずっと撮らせておけばですね、たぶんものすごく正確にテキスト起こししてくれますね。
果たしてインターネットのラジオの意義はっていう感じもしてくる。ただ、その文章を読みたいかっていうと、たぶんそんなことはないと思うんですよ。
広出筆記には様々な難しさがありますけど、私のこれも全然ロジカルに喋ってないですから、ただ思いつくままに喋ってるだけなんで、冗長性が非常にひどいと思うし、テキストで読むとなると価値は大きく下がると思います。
私も昔から自分の声って好きじゃなかったし、今でも別に決して好きとは言えないんですが、それでもだいぶ気をつけるようにはなってきたんですよ。
つまり、今寝起きだからっていうこともあって、あんまりいい感じに喋れてないと思うんだけど、やっぱりこう、声を聞くというコンテンツの価値にはいろいろな部分があって、テキストではやっぱりどうやったって無理なわけですよね。
今は本当にAIで全て置き換えられる時代みたいになってきてるじゃないですか、まだまだ走りだと思いますけど、例えば一冊の本を要約するにあたっても、要約はするし、しかも二人組の人が登場してきて、それをニュース風に要約するとかいう、ノートブックエリアでしたっけ?
不可解なサービスが、不可解って言っても面白いサービスだなとは思うんだけど、でも私あれ聞いてて、いやこれはなんかAIが喋ってる感があまりにも酷いよね。
なんかこうね、外国人が翻訳帳で喋ってるように日本語ってなってしまうんですよね。なぜなのかはわからないですけど。
なんかこう、なんかこう外国人っぽいっていう不思議な感じがするんですよ。外国人がああ喋るわけではないんだが、ああいう感じに聞こえる。なんか日本語らしさがどっかない感じがする。
でも完璧なんだけど、完璧って言うのも変だな。完璧っておかしいと思うんですよ。だって私が喋るこの感じ少しも完璧じゃないんで。完璧っておかしいと思うんだけど、確かにそれは機械が喋るにしては素晴らしいけれども、なんか変だなって感じはしますね。
行動科学における罰回避の力と損失回避
そんなこんなで時間を無駄に使いましたが、本題に入りまして。
昨日ですね、神保町でセミナーしてきまして、3ヶ月チャレンジ別コースで習慣化コースというのの第1回のレクチャーをしてきたんですね。
その話をするわけではないんだけれども、その中で私は昨日はもう鉄頭鉄鼻行動科学の、しかも罰回避行動っていう専門的にはですね、そういう罰を回避するという形で取る報酬、それによって繰り返す。
簡単に言うと、非常に簡単に言うと、ネズミに電気ショックを与えるっていう酷い実験がありまして、レバーをいいタイミングで押せばその電気ショックを完全回避できるっていうカゴを作っておくと、かなりこれが複雑な回避行動でも確実に回避していくっていうね。
そういうところからタスクシュートを説明して、私はタスクシュートの説明としてはこれが一番、一番網羅的にできているって思うんです。
なぜならば報酬刑ってすごく人によってズレがあるんですよ。これも今後その6回のセミナーの中でやっていく予定なんですが、6回か、6回だな。
とにかくその報酬刑というものには非常に難しさがあるんですよ。
しかし、罰回避という形の報酬はほぼ100%例外なく哺乳類はそれを獲得していくんですね。
で、これは行動経済学では有名ですけど、損失回避は同じ、多くの場合お金ですけど行動経済学だから、同額の報酬よりも感情的には2倍強く響くみたいなのがあるんですね。
これは同じことを言ってると僕は思うんです。年職回避する方がチョコレートもらうよりも、ネズミは複雑なことを覚えるのに労を厭いませんよっていう話です。
なぜならそれは結局のところ罰回避っていうのは哺乳類のようなそんなに強くない動物にとってはですね、罰を回避するということは生きることに直結するからなんですよね。
で、リソースを得るよりも大事なんですよ結局は。リソースっていうのはセックスとか、つまりそれは子孫を残すとかで大事なんだけど、まず自分が生き延びないことにはセックスなんてやってる場合じゃないじゃないですか。
死にそうなのにセックスしますっておかしいんで、そういう話もまた別途あるんですけども、でもとりあえずまずは生きてなんぼなので、そういう意味でとにかくまず逃げるっていうのは大事なわけですよね。
で、この当然のことながらですが、どの分野においても、例えば精神分析であろうと心理臨床であろうと、必ずこの罰回避っていうのはものすごくやっぱ強く出てるなと、やっぱり思わざるを得ないんですね。
これは行動科学はその行動を見ていくわけですけど、経済学では損失回避、つまりお金を失うのを避けるっていう形のやっぱりある種の行動を見てるわけですが、その行動は目に見えない場合も多いですけどね。
例えばそういう風に投資のプログラムをセットしておくみたいな行動に、それは行動だけど目には見えませんよね。だから早い段階で売るようにちゃんとAIなりに指示しておくとかそういう話になってくるわけですよ。
でもやっぱりやってることの形は同じで、脳は原始的に動いてるわけです。100万円の得を見るよりも100万円の損の方を重視するんですよ。必ずしもこれは合理的じゃないですよね。まして金額が同額なのに2倍の強度でその行動に促されるというのは明らかに合理的ではない。
少なくともだから経済合理主義から少しずれているっていう話をしてるんですが、つまり浄土に動かされてるわけですね。浄土に動かされてるのが無意識化するとつまり力度って話になっていくんで、これは精神力度に当然絡んできているわけです。我々は回避行動っていうのはすごい強めに出ます。
つまり人に侵襲されたくないということですね。お金にでもそうですけど、現実に侵襲されたくないと。事態があまりひどくなると、つまりベータ要素なわけですよ。事態がひどくならなくったって、藤井直樹さんが書いているような言い方をするならば、ミクロな形でのベータ要素に私たちは現実に遭遇するたびにぶつかっているんだみたいな、あるいは味わわなければいけないんだみたいな話になってくるわけですね。
この場合、ベータ要素といったって、例えば100万円の損というベータ要素っていうのは、現実が何か嫌なものが降ってくるとかなんですけれども、地震を体験するとかそういうのとはだいぶ違うじゃないですか。
100万円損をする。しかもそれが電子上の決済での100万円の損というのは、ベータ要素といったってベータ要素なんですけど、非常に意識内部でしか発生しませんよね、そういうことは。現実にはありますよ。石油価格が上がるとか、株式相場が落ちるとか、でもそれは単に数字が変動しているだけで、関係ない人にとってはベータ要素でもなんでもないわけですよ。
全く同じものを見たって、例えば私なんかが当初とかを見て、数字が大きくなろうと小さくなろうと、日本の経済だから過剰に小さくなるのは問題かもしれませんが、だけど別に僕はブラックマンデー見たって全然ベータ要素じゃない。だって僕株1、1株も持ってないし、いわゆる投資信託系を含めても1円も株式投資していないんで今は、あれ見ても何も感じないわけですよ、はっきり言って。
つまり現実っていうものはやっぱりベータ要素になるというのはですね、信託を受けるんですけれども、それはなんて言うんですかね、もちろん数字を心の中に、というか数字って心の中に入れない限り意味を全くなさないと思うんだが、心の中に入れるんだから、これは当然アルファファンクションは機能しているわけです。
この地殻そのものは。ただし、そうして心の中に一旦入れてしまった数字の乱高下というものが、その人の心の中の感情としてのベータ要素、つまり内面的な現実の中でのベータ要素ってものが、やっぱりこうドンとくると思うんですよね。
罰回避がもたらす行動範囲の狭まりと自由の喪失
という現実。だから藤山直生さんがこの点はすごく強調していて、これはどっちかちょっとこっちを強調してる気がするんだけど、その現実は外的現実だけではないというか、むしろ内的現実こそが問題だみたいな言い方をされてるわけですよね。
それも現実なんだと。だからミニコットも、ミニコットはベータ要素の人じゃないけど、ビオンですけどベータ要素は、ミニコットも言ってるわけですよね。本能は雷鳴のようにっていう。つまり雷鳴って普通外から来るものに決まってるじゃないですか。本能が雷鳴のようにっていうのは非常に彼らしい逆説的表現なわけですよ。
性欲のことを言ってるわけですけど、性欲は雷鳴のように響くわけですよ最初。なんかジャジャジャジャーンですよね。ジャジャジャジャーンは外から出てくる音でしょあれは。運命が戸を叩いてる音は外から聞こえてくるわけですよね。
でも性欲というのは本人は自分のものだとは最初気づいてないから、自分の性欲というものが活性化したときはうわっと思って、まずい、何がまずいんだかさっぱりわかんないけどまずいっていう感じを抱くわけですよね。
ちなみにお化けを見るってそういうことですよね。お化けっていうのも結局化け物というのも、化け物というのはこれはスピの人たちに怒られるかもしれませんが、私の考えでは化け物というのは人間の心が作り出すものだから、つまりそれはやっぱ本能の関係があると思うんですね。
やっぱり雷鳴のように外から来るわけですよ。墓場から来るものなんですよ。その人の心の中で登場するんだけど、でもやっぱり墓場にいるものなんですよね。この辺がすごいミニコットの新骨頂かなと思うんですよね。
それは内側にあり同時に外側にあるものであるとか、それは客観的であり同時に主観的であるとか、母親が作り出した、母親が用意したものでありながら子供の心で作り出すんだみたいな、この辺で言ってることは一生懸命彼が言っている長くて短い鉛筆みたいなやつは結局はこういう話をしているんだと思うんですよね。
で、忘れてはいけないのは、いやそれは結局のところ心の中の話でしょって言うんじゃないってことなんですよね。ミニコットのこの点がですね、マサンチャレのレクチャーでも強調しているし、何度も聞いてるよって思われるんですよ。きっとね、みんな、皆さんに。僕もそう思ってたんですよ。
でもこの点のすごい大事なところはあくまでこれは本当に外的でもあるんだという、外的な知覚でもあるんだということなんですよね。外的な知覚が同時に、こう内的な心的現実でもある。だから東映っていうものが成立するんだって。東映ってのはやる人もいればやらない人もいます。ではないと思うんですよ。多くの場合。なんか墓場に幽霊を見ちゃいます。じゃないと思うんですよ。
墓場と内的現実の恐怖とがセットに必ずなるっていうことが大事なんだと思うんですよね。お母さんは何種のかな、環境としての母親は物理的な母親なんですよ。なんだけれども、つまりこれあれは二者心理では、二者心理のやっぱ原型だと思うんですよね。二者心理の真理を言ってるんじゃないと思うんですよ。環境としての母親というのは物理的なものなんですよ。
環境としての母親は何か心みたいなものじゃないという、心もそこに含まれてますけど、なんかこうやっぱりちゃんと物理的におっぱいあげたりするんですよね。
それを赤ちゃんはあくまでもほとんど100%、なんていうのかな、心的現実のように取り扱ってしまうし、少なくとも現実を見ているとは言えない。
多分、だからマスキク・ニーロさんの娘さんの表現らしいんですけど、この子はおっぱいを母親だと思ってるって言ってたんだけど、ああいう感じなんですよね。おっぱいはあるんですよ。
でもおっぱいを母親だと思うというのは、間違ってはいないけど大間違いじゃないですか。こういうことが言いたいんだと思うんですよね、ミニゴッドはね。
世の中にはおっぱいだけで動いていたりするものはないわけですよ。感動的なアニメ表現とかでない限り、おっぱいだけそこらへん歩いてたりはしないわけですよ、絶対に。歩くっていうのはそもそもおかしいですから。
でも赤ちゃんの世界の中ではそういうことが起きてしまうわけですよね。しかしそれは空想ではなくて知覚なんですよね。知覚なんだけど現実的ではないわけですよね。
ここのところにあるじゃないですか。専門的な世界ってあるじゃないですか。知覚なんだけど現実としてはおかしいっていう現実があるじゃないですか。
だから遠いってのはある種そういう風になっている部分があるんだってこと。恐怖というものはお墓を歩いてはいないんですよ。
でも私なんかはすごく物理的、唯物的な人間だから、まして家に墓があった人間だから、墓が夜見たからなんていうことがないっていうのはもう100%確実だと僕は思ってるんですよ。
絶対あそこになんか出てこないし、心霊スポットとかパワースポットとかに行ったって私には何も起きないんですよ。これ大事なんですよ。私には何も起きないんですよ。
豚山さんたら豚山さんっていう絵本があるんですけど、あれを非常に連想させるんですよ。豚山さんには何も起きないんですよ。
彼はたくさんの化け物と遭遇してるんだけれども、彼は誰とも遭遇していないんですよ。
これが心的現実と、しかも物理的現実がオーバーラップするんですよ。心霊スポットに行っちゃうと何かが起きちゃう人はいるんですよ。
それは心霊スポットと関係はあるんですよ。やっぱり。やっぱり我々はお墓でこそお化けを見る。これすごい大事だなって僕は思うんですよね。
なんかね、上に行こうともそうなんだけど、はっきり言って完璧に伝えきれてるとは思えないんだけど、我々はお墓でこそお化けを見るんです。
物理的に無関係ではないはずなんですよ。そういう人は怖がりさんだから夜の渋谷でもお化けを見るよね。そんなことはないんですよ。僕が思うに。
やっぱり、なんていうのかな。そうなんですよね。サンシャインを夜見に行ってそこでお化けは見ないんですよ。どんなに怖がりさんでも。
やっぱり心霊スポットだからこそ見るわけですよ。でも私は心霊スポット行っても何も起きやしないんですよ。おそらく。
これすごく大事なんですよね。こんな私だって真っ暗の反応とかのお墓のところに夜の2時ぐらいにポンと置かれれば怖いなって思うと思いますよ。
全然平気だよって感じのことを言っちゃうかもしれないけど、でも怖いなって思うと思いますよ。
だからそれは僕が投影するということはそういうことであって、からくりがわかってます。現実にそういうものが物理的に存在するわけではありません。
しかし心的現実というのはやっぱりβ要素というのはものそのもののように心の中でものそのものってそもそもおかしいじゃないですか。
感動的な表現なんだけど、β要素はでもやっぱりものそのものって言ってるわけですよね。我々はでもよーく考えてみると、よーく考えてみるとですよ。
現象学的な話なんだけど、ものそのものに心の中でしか遭遇できませんよね。これも私はすごい大事なことだと思うんですけどね。
だって我々の見る空間風景っていうのはものを見てるつもりでいますし、実際ものを見てるはずなんですね。
でもものを見ているとはいえ、見てる以上は目の中にそのものが入ってきてはいませんよね。そしたら目ダメになっちゃいますよね。
どんなものでもそうですね。どんなに小さいものだって目の中に本当には入ってきてませんよね。
目の中に入れても痛くないって表現、僕よくこういう時考えるんだけど、痛いですよね。何入れたって。
こんなちっちゃいなんかつぶつぶみたいなのだってめちゃくちゃ痛いじゃないですか。だから目の中には何も入ってきてないけど、我々は心の中に月だって入れられるじゃないですか。
でもそれはものそのものではないじゃないですか。月の風景だけど。
だけれどもそれじゃあ月という風景とそれは関係ないかっていうと関係はめちゃくちゃあるじゃないですか。おそらく関係なければ見えないじゃないですか。
この辺のところのことをメニコットという人、ビオンもそうですけど言ってるんだろうなと。オーバーラップという言い方も正しくない気がするんですよね。
それが同時にセットで起きなければそのようなことは起こらないみたいな言い方が一番正しい気がします。
だから投影なんだけど、もう近くと投影は切っても切れない関係にあると思うんですよ。
だって私、全然今みたいなことを平気で言う人間ですが、一度もお化けって見たことがないけど、それでも夜の墓場は多分怖いと思います。
で、同じ場所に昼に行ってもちっとも怖くないと思うんですよ。
これはだから夜の墓場という近くが投影なんだけど、投影と近くは切り離せないんですよね。
知識として完全に理解していたとしてもやっぱり同じなんだと思う。
同じではないと思うんだけど、同じようになっちゃう。
だからやっぱり豚山さんたら豚山さんはよくかけてると思うんですよ。
彼は怪物に呼びかけられるんですよ。
豚山さん、豚山さんって呼びかけられるんだけど後ろ振り向いた頃にはもう怪物はいない。
だから彼にとって怪物などというものは存在しない。
だけれどもそこら中に怪物だらけなわけです。
こういうことはあり得ることなんですよね。
というふうに思います。
だからこれと損失回避と言いますか回避行動ですよね。
恐怖を回避するという力は絶大で、我々は知覚として恐ろしいものを見てしまう。
知覚として恐ろしいものを見ちゃう。
それはだから当省の暴落かもしれないし、原油の1バレルが最高値を更新することかもしれない。
ある時は単にお母さんが怒るということかもしれないし、
私なんかの場合はまだ依然としてそうなんだけど、
奥さんが皿の置き方について文句を言うことかもしれない。
それらのことが知覚であり、ベータ要素ですし、侵入になってしまいますし、
子供にとって墓場に取り残されることのように感じられているのかもしれない。
やっぱりそれは絶対にできれば避けたいことですよね。
だから避けますよね。避ける能力を持っていれば。
そうして私たちは現実というものの選択肢を大きく狭めてますよね。
ここしか通れない人になっちゃうんですよね。
例えば夜遅くなった時に別に人的、犯罪的な話は一旦置いておいて、
2つ道帰る道ありますと。
少し遠回りですけど墓は見ずに進みますと。
かなり近道ですけど墓の真ん中を突っ切りますと。
絶対墓避ける人ってかなりの数いると思いますね。
やむを得ず通ったことがあるんだけど、
その時に何かひどいことが起きたとか、
貞子さん出ちゃったとかそんなことはないはずなんですよ。
ないんだけどやっぱり避けますよね。
なぜか避けますよね。
こういうふうにして避けていることが、
店員さんに話しかけることを避けちゃうとか、
その上司が会社に来る日は絶対に在宅勤務にしちゃうとか、
そういうふうにして私たちは自分の自由選択の環境を
どんどんどんどん狭くしていて、
気がつくと家から出られないってことは起きてるはずなんですよ。
ザラにあると思う、そんなことは。
だから気がつくと学校では先生も嫌じゃないです、
勉強も好きです、いじめにも合ってません、
でも学校にはいけませんっていうお子さんはきっといらっしゃる。
それは途中で遭遇する犬とかが怖いのかもしれないですし、
その子にとってその犬が鎖に繋がれているとか関係ないわけですよ。
そこを通るってことがダメなんですよ。
今それは言ったような事情です。
犬が噛みつくわけではない。
でも犬を知覚することができないんですね。
知覚は同時に投影で、投影は同時に投影同一化で、
これはもう我々は医師の力だけではいかんともしかないです。
それを避ける方法はないんですよ。
遭遇して知覚してしまえばベータ要素は発生し、
心の内からなのか本当に外界からなのかは分からないけど、
とにかく発生し、そいつが遭遇し、そいつが物事態になっちゃう。
自由意志の発揮と運営側の難しさ
ちなみに私今こうやって熱を入れてやたら喋っていますけど、
このポッドキャストはそもそも3ヶ月チャレンジの外的PRにせねばならんと、
じわじわと参加者さんの数が減ってますからね。
収益はあんまり変動ないんだけれども、おかげさまで大変ありがたいことに、
収益はさほどの変動がないからやってはいられるんだけど、
じわじわと参加者さんが少なくなっている。
一期につきお一人、別にそれはとても良いことなんですよ。
やっぱりおしまいにするっていうことによって、
なんていうのかな、卒業とかじゃないですよ。
僕が良いと言ってるのはですね、
参加者さんが自由意志を発揮されるってことなんです。
参加することも良いことだし、親身になることも良いことなんですよ。
これがやっぱり力動がかかってきてるんで、ここには。
自由意志が発揮されたということが良いことなんですよ。
もっともどちらどこまで力動でどこから自由意志なのって言われると、
それは分かんないんだけど、分かんないんですけど、
やっぱり入る人もいて、辞める人もいて、続ける人もいる。
全部良いことであるのが良いわけですよ。
で、なぜ良いのかとかではないんですよね。
それは自由に選択された結果だからっていうのが、
一番私は良い話だなって思うんですよ。
なんかね、じゃあ佐々木が強制してるのかというと、
そんなことはないつもりなんだけど、でも分からないじゃないですか。
結局のところここに来れば来るほど、
どんどんどんどん事態が悪化しているとかいうことが、
実は起きてるのかもしれないじゃないですか。
そうおっしゃらないにせよですね。
3ヶ月チャレンジ長らくしているし、
私の人生は最悪になりました。
これはやっぱり運営している側としては非常に辛いじゃないですか。
それを聞かされたら。
でもこれだって本当にそうなのかどうなのかは分からない。
この仕事本当に難しいなって本当に思いますね。
SVという風、スーパーバイズというシステムが存在するわけが、
本当によく分かります。
だけど、私が非正義だからできないってこともあるにしてもですね。
じゃあこれスーパーバイズがいれば、
この問題が解決するのかっていうと、
それは力量の話じゃないですよ。
原理的に無理じゃないのかっていうことをやっぱり恐れてしまいますね。
最近の私はそれを非常に考え込んでますね。
それも同じでさっきの話と似ていて、
私正義になるための何の努力もしてないのに、
そういうことを試行実験だけするのってあまり意味ないんですけど、
だからさっきの話と似てるんですよ。
自由意志を発揮していると言いながら、
それは力量かもしれないってどんなに考えても
原理的にわからないことで、
同じように正義のスーパーバイズをつけるということが
私の3ヶ月チャレンジについては、
金輪際起きないのに、
それについての試行実験って意味あるんだろうかってのはありますけどね。
もう一つ、これはちょっと一段階下がっちゃうんですけど、
「良くなること」への疑問と精神分析の営み
何度も言ってますけど、
これを言うと何かのやゆみたいになって嫌なんですけどね。
でもね、そうじゃないつもりなんですよね。
やっぱりうちの親父もそうだったけど、
中継って言うんですよね。
なんかセンスみたいなの持ってるんですよ、坊主は。
あれね、やっぱ持ちたくなるなって思いますね。
なんて言うんだろう、水氷玉でもカードでもいいんですけど、
なんなら、何でもいいんですよ。
とにかく物が欲しくなります。本当に。
この物によって多くの人は良くなっているという、
だから僕はやっぱり、同列に言うとまたそれはそれで、
だからここには炎上データしかないんだけど、
やっぱりお薬ですよね。
やっぱり統計というものに逃れたくなっていくんですね。
だから生命判断とか、
星占いは統計学だっていう話をする人も、
スピリチュアルの方から聞こえてくることが、
野の医者を笑うにもかかわらず、
そういうふうに思いたくなりますよね。
どうしても、良いとは何をこの場合にするんだろうってのが
ずっとあるので、本当にそれは良いことなのかっていうのが
ずっとあるので、だって3ヶ月チャレンジに生きているうちに
会社に行けるようになりました。
良かったってことになると思うんですけど、
それって良いことなのかっていうふうに思っちゃうじゃないですか。
私が無理やり促した、そういう話がいきなり出てきますよね。
藤山直樹さんの精神分析という営みの中で、
いきなり出てきます。
つまり、どんどん良くなるクライアントさん。
最初は引きこもってたんだけど、
藤山直樹さんの精神分析を受けることにより、
会社に行けるようにも元気になり、
外出もできるようになり、ついには会社に行けるようになりました。
ということで、リクルートスーツ買ってみたいな感じなんだけど、
いきなり藤山さんは殴られる。
確かそういうストーリーだったような気がするんだけど、
なんでなのかという話だけれども、
後から振り返ってみると、
どうしてこの人こんなに良くなったんだと。
俺なんかしたかっていうと、別に何もしたような気がしないとか、
何にしても展開が発球すぎないかと。
こんなに良くなってるということは、
めちゃくちゃこの人頑張ったんではないかと。
ということは、つまり、めちゃくちゃ無理をしたんではないかと。
ということに全部殴られてみて気づいたみたいな話なんですけど、
本当かどうかわかんないですよ。
でも、さもありなんという感じはします。
別に藤山さんがって意味じゃなくてですね、
心理臨床ってそういうもんだよなっていう。
だってここにはやっぱり対人関係が働いているわけですから。
ベータ要素に遭遇しちゃうわけですから。
現実は全部ベータ要素だって、
藤山さんのような方はおっしゃるわけですから。
ピヨンが言ってるようなことですけど。
つまり、カウンセラーはベータ要素ですよね。
これを見落としますよね。
カウンセラーは自分だから。
自分がやってる場合は。
カウンセラーはベータ要素ですよね。
だから遭遇するとめちゃくちゃ恐ろしいですよね。
墓場のお化けですよね。
化け物ですよね。
だって何でもできるんですよ。
グライアントさんは。
そう誤解してしまう。
実は何にもしてくれないケースが多いけど、
これもいい時ですね。
実は何にもしてくれないケースも多々ありますけれども、
何でもしてくれるような気がしてしまう。
何でもしてくれるとは誰か。
自分が0歳だった時のお母さんですね。
変形性対象ですよね。
レンジでチンするとミルクが一気に温まる。
そんなの見たことも聞いたこともない赤ちゃんは、
衝撃を受けるんですよね。
なんか服を、服って物を知りませんけど、
ポロンとやると何か出てくる。
出てきた物にかぶりつくとそれが美味しい。
しかもお腹が満たされる。
異常ですよね。
つまりシンデレラの魔法使いですよね。
と同じように見えるんですね。
カウンセラーというのは。
実にとんでもない奴で、
だから自分は引きこもってなんかいられないわけですよ。
相手は魔法使いなんだから、
引きこもってなんかいられない。
外出もしてリクルートスーツも着て、
会社員になっていけちゃう。
つまり自分が親にされてきたことを、
まんまカウンセラーにされるわけですよね。
このままでは大変なことになりますよね。
だってそれなりの年齢に達し、
大学を卒業して、
でも会社に行けなくなりました。
家に引きこもりました。
大変なことが起きたわけじゃないですか。
それなのにたかなか3ヶ月間話をしたぐらいで、
自分は全てが好転するようになりました。
ということはものすごく強制されたわけですよね。
何にもされてないんだけど。
ただ話をしただけ。
しかも世間話みたいな話をしただけなんだけど。
おそらくは世間話とは違うんだけど、
こういうことがあって、こういうつらいことがあって、
こういうふうにして自分は引きこもってるんですよ。
っていう話をしたんですよね、きっとね。
したとしてですね。
カウンセラーとクライアントの関係性:魔法使いと赤ちゃん
それに対して、
ふりあわさはしないでしょうけれども、
寄り添ってくれるわけですよね。
共感する。
それは本当につらいよね。
恐ろしいことですよね。
そんなふうに寄り添われてしまったら、
だって何でもできるっていうのは大きな誤解なんですけど、
何でもできる赤ちゃんに対して、
赤ちゃんに対してというかシンデレラに対して、
ネズミを馬に変えたり、
カボチャを馬車に変えたりすらできる存在が、
寄り添ってくれる。
これに対して、
あなたが寄り添ってくれるっていうか、
会社なんか行けませんよっていうのって、
勇気いると思いません?ものすごく。
だから私は寄り添うっていうリスクをあんまり取らないように、
申し訳ないような気もしなくはもちろんないんですけど、
大変だっておっしゃってる人に寄り添わないというのは、
人としてどうなのって思うんですけれども、時々。
だけど寄り添うということをやるってことは、
つまりは、
なんていうのかな、
私自分がそういうふうに寄り添われてみたことが、
全くないわけではないわけですよ。
人はどうしても、
僕とその人は違うんですが、
学校の先生とかもそうですけど、
特に、特にとは言わない。
これもだから問題発言なんだよな。
つまりですね、
佐々木くん気持ちがよくわかるよって言われてしまったら、
もう勉強とかしなきゃならないじゃないですか。
気持ちよくわかってもらったけど、
あれ勉強しないかなって、
すっごい難しいじゃないですか。
なんか学校の先生がお菓子とか持ってきて、
家にまで来てくれて、
あんまり勉強しろってお母さん言わないであげてくださいとか言われちゃったら、
それはもう勉強しなきゃならないじゃないですか。
私そういうのもひどいなと思っていたんですよ。
こういう目にあったわけじゃないですよ。
よくあるじゃないですか、
ドラマとかで寄り添ってくれる先生。
あれひどいなって思うんですよ。
金髪先生もそうだったけど、
金髪先生はちょっといいんですけどね。
何がいいかっていうと、
あれはあまりにもあの人が突飛だからいいんですよ。
なんかね、
普通の人にあれをやられると大変恐ろしいと思うんだけど、
あまりにも突飛な行動をとる人は名物的な存在なんで、
だからそういうのって大事なんですよね。
これも遠畑海斗さんが紹介されていたんですけれども、
よまわり先生。
よまわり先生だからいいんですよ。
だってあの人はよまわり先生ですからっていう話になるから。
何か言いたいこと言ってもいい感じがするし、
言うこと聞かなくてもいい感じがするじゃないですか。
だってよまわり先生以外の先生は同じこと絶対しないですから。
だけども、
普通の人が普通のような顔をして
普通に寄り添ってくれちゃったら、
もうかなり跳ねつけにくいと思うんですよね。
でも、跳ねつけてるのには訳があるんですよね。
1回くらい来たぐらいで、
何かこう、
カシス何とかケーキ持ってきてくれたからって、
いきなり学校に行けるようにはならないわけですよ。
いろんなそこには恐ろしいことがあるわけですから。
外には怪物がいっぱいいるわけですから。
なのに、
そういうふうに言われてしまうと、
かなりの凶悪的なものがかかってくるわけですよね。
だって一歩間違うと、
先生があそこまで言ってくれて、
カシスチーズケーキまで持ってきてくれたのに、
あなたまだ学校行かないつもりなのってことになるでしょ。
そういうお家だったら普通に。
それはとても困るじゃないですか。
だから寄り添ってほしくないはずなんですよ。
と私は思うんですよね。
下手には。
下手にはもう上手いにはもうないんですけどね。
だって上手い寄り添い、
別にその普通の先生が寄り添って言ってるのは、
絶対そう言いますよ。
普通に考えれば。
やっぱりそれが人としてそうするべきだから。
別に来ても来なくてもいいよとかって言ってくれないですよ。
そんなことは。
言えないですよね。
その人の責任問題になっちゃうから。
だから金橋先生はいいんですよ。
あの人絶対普通だったら、
あのめちゃくちゃ言われるようなことをバリバリやっていて、
なんかね、
死んでしまいそうな生徒のところに一緒に走っていって、
なんかこうぶん殴ったりするじゃないですか。
ああいうことを普段からするような人であればいいんですよ。
あの、この人は特殊な人で
勝手にこういう行動を取っているって感じを、
周りの人がみんなコンセンサス持ってるから、
別なんですよ。
ああいう人の行動は。
やっぱりなんでしょうかな。
特別枠なんですよね。
特別枠に入ってしまえれば、
寄り添おうと寄り添うまいと。
だからこれができないはずなんですよね。
普通は。
普通はその世界で取るべき、
相当固められた枠の中での行動を取らなければいけないはずなんです。
なんだけど自由に振る舞えるという人は、
何か特殊な位置に自分を立たせることに成功していて、
その人と特に、例えばだから不良の学生みたいなね、
特殊な関係を築くということができる自由を得てるんだと思うんですよね。
私はこれをラポールというべきだと思うんですけれども、
特殊な関係性と「もっと自由に生きる」こと
普通は形成できないものなんですよ。
そんなにちょっとやそっとでは。
ヨマリ先生は引きこもりの人のところに
毎晩行くっていう話出てくるんですよ。
毎晩行って本を読んでるだけなんですよ。
先生は何で来るのっていうふうに聞くんですね。
子供は当然聞きますよね。
そしたら心配だからって一言言ってまた本読んでるんですよ。
何しに来てるんだって感じじゃないですか。
でも私はあれは完全にカウンセリングだなって思うんですよね。
来ているうちにヨマリ先生はそこで寝ちゃうんだけど、
起きてみたら子供が学校に行ってたって話。
これ多分僕実話なろうなって思うんですよね。
こんなに上手くはいかないと思うんですけど、
でもそもそもだってヨマリ先生超大変ですよね。
昼は学校の先生していて夜は引きこもりの子のところに行って
本読んでそこで寝ちゃうって絶対疲れますよね。
どういう人なんだろうなって毎回思うんだけど、
でもこれがやっぱりその人を特殊な位置に立たせますよね。
でもこんなことをやっていたら多分結婚生活とかできないでしょうし、
つまりある種の制約の外に出るということは
やっぱり何かを失うってことだと思うんですよね。
そういうふうにまでしてくれているっていうことなのか、
そういうふうにまでここにあれが出てくる気がするんですよ。
野野医者は笑うでも出てきましたけど、
生き方の提示なんですよね。
もっと自由に生きていいんだなってことを
なんとなく理解するっていう部分があると思うんですよ。
がんじがらめになってしまうので
私たちは寄り添うみたいなことしかできないわけですね。
昼に来て親御さんと話して気持ちは分かるよと。
絶対そうした方がいいようなことしかできないんですけれども、
読まれてすれば明らかにどうかしてるじゃないですか。
夜に全てが終わってからやってきて
特に何を話すわけでもないみたいな。
で、本読んでいて何ならその場で寝ちゃうみたいな。
めちゃくちゃ自由ですよね。
だから日ごもってる子は全然自由じゃないわけですよ。
ただただもうどうしようもないからそこにいるって感じになっているんだけど、
つまりもっと自由に生きてもいいのかもしれないっていう。
だって目の前の人はもっと自由に、はるかに自由にやってるんで。
なんでなのかは知らないが。
という話なんだと思うんですよね。
これらのことは全部、
つまりなんで自由を失ったかという話は
墓場で幽霊見ちゃうからなんですよ。
我々はβ要素に遭遇せずにはいられないんですよね。
だって世の中には現実があるわけだから。
その現実に遭遇してしまうわけなので。
関都なので。
物自体がそこに多分置いてある。
それはちょっとした石とかでも。
この話はかわいはやおさんがしてたかな。
石とか椅子とか、
我々は椅子そのものを見ることはできないっていうのがかわいはやさんの表現なんだけど。
難しいんですよねこの辺の表現はね。
だからせいぜい我々が知ることができるのは、
椅子製であるって本当にそうなんですよね。
α要素だってことですよね。
ラベルがついちゃうものしか。
我々はこの話を何度もしていて、
ちゃんとうまく伝えられてる気がしないんですけど、
本当に何を見てもその名前言えるじゃないですか。
名前が言えるってことは、
その名前は無意識だってことじゃないですからね。
全意識に入ってるってことだから。
動員されてきちゃうんですよ。
目の前のものは木だとか、
目の前にあるのはコンセントだとか。
コンセントじゃないですから。
ものそれ自体であれば、
唯一性のものだから、
他の全てのものとは異なるわけですから、
というふうには見えないですよね。
他の木と同じような木に見えちゃいますよね。
人間のものの見方というやつで。
だからこういうものに、
我々は遭遇しないように遭遇しないように、
つまり制約されているわけです。
自由に遭遇するとまずいわけですよ。
だから自由に遭遇すると、
何が起きるか分かんないっていうことがあるので、
起きることが分かりきったことになるように、
安全に安全に設計されているわけです。
そりゃそうですよ。
安全のための制約と回避行動
やっぱり小さなお子さんが、
あのゴサロの交差点を渡ることだってあるんだから、
何が起きるか分かんないでは、
たまったものではないし、
そんな世の中は人間社会としては認められないので、
やっぱり起きるべきことしか起きないようになってるわけですね。
代わりに我々は、
いろんな制約を受け入れるようにしているわけです。
中で余計な制約というか、
よりその人に特化された特殊な制約も大量に課されて、
私本当多いなと思いますもん、自分で。
例えばこの時間に、
どんなにあれでも外に行って、
なんかコンビニに行って買い食いするとかは、
とーっと難しい、やっぱり。
やっぱりなんか言われるし、
その言われるのは嫌だし、そもそもしないし、
自然こうやって自分の行動範囲を極端に決めますよね。
で、これも聞かれたくないですよね。
聞かれれば、いや勝手にやればいいじゃんって言われるわけですよ。
で、できないわけですよ。
別にそれが、妻が意地が悪いとか、
不中であるってことは全く意味しませんよ。
そうではなくて、
そういうふうに我々は生きられるようにはなってない。
これはコンビニに誰も行けないって話じゃなくて、
結婚してる人でコンビニにバンバン行ってる人は、
もちろんいるに決まってるんだけど、
そういう人はそこら中にいますけど、
そういう人だって、
別の制約を受け入れているわけですよ。
結局は。
で、それはベータ要素に遭遇しないためであり、
豚山さんが不気味な者たちに遭遇しないためなんですよ。
そうすると安全ですよね。
安全にちょうちょ追っかけられるんですよ。
安全にちょうちょ追っかけられるんだけれども、
生き方としてはすごくレストリクトなんて言うんですかね。
制約されていて、
この道しか歩いちゃいけません。
でも子供にそう言いたくなるじゃないですか、我々は。
この道しか歩いちゃダメだと。
なんかそっちの変な破道みたいなのに行くとか、
車バンバン走ってる大通り行くとか、
そっちのは全部ダメだと。
なぜならばそういうところに行くと、
ベータ要素に遭遇して、いきなり死んじゃったりするからですよね。
現実なんで。
現実ってそういうものなんで、
トルーデさんですよね。
トルーデさんの話は今日はしませんけど。
そういうことを我々は回避するように、
できていて、
回避行動ってのはもう多分、
心にバッチリ組み込まれている。
ラットの時代から組み込まれている。
ラットは本能で基本生きてますから。
それでも回避行動を何より優先するように、
プログラミングされているという話ですね。
これが私たちの心の中の、
多分生きづらさと関係があって、
僕が思う寄り添うとか共感するとか、
もっと単純に言うと優しくするなのかな。
でもそれはラポールという問題が、
やっぱり優先されるところだと思うんですね。
ラポールっていうのは、
特殊な関係ってことだと思うので、
特殊な関係というのはやっぱり、
ある種のレストリクションからは、
解除されたような関係だと思うんですよね。
より一層そこではベータ要素への遭遇というものを
避けなきゃいけないわけですよ。
藤山直樹さん殴られちゃったことになってますけど、
本の冒頭では。
殴られるって完全にベータ要素との遭遇じゃないですか。
問題はもう一人殴った人ですよね。
その人もまたベータ要素と遭遇しちゃってるじゃないですか。
殴ってみて顔面蒼白になって今にも倒れそうだったと。
そうなりますよね。
あまりにもとんでもないことをしてしまったということで。
つまりそこから何となく何かが進展するのではないだろうかと。
希望もっていうのはそういうことにもなると思うんだけど、
なかなかそういうやっぱりできれば避けたいじゃないですか。
殴る殴られるじゃなくて、
そのベータ要素との遭遇ですよね。
下手に遭遇したくはないですよね。
だって本能は雷鳴のように聞こえてくるんですよ。
そんなの聞きたくないじゃないですか。やっぱり。
聞きたいって人もいるかもしれないけど、
私はごめんだなって感じがするんですよ。
自分の心の中で起こってることなのに、
雷の音って今年きっとすごいですよ。
さざましいじゃないですか。
あんな風に自分の心の中だけしか聞こえないものが
あんな風に聞こえたら、
黙ったもんじゃないんだけれども、
私たちは例えば両親のセックスを見るとか、
あるいは私なんかが見たのは、
母が裸の棒をなってる親父をバシバシ殴ってるシーンだったんだけど、
そういうものを見てですね、
この年になっても、
おそらく僕が見たのは1歳半くらいなんですけど、
この年になっても鮮明に記憶してるんですよ。
おかしいだろうそれはっていうことですよね。
48:22
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