おはようございます。タイトルをまたしても変えました。 AI 時代のカウンセリングというタイトルに変えました。
基本的な趣旨は何も変わらないんで、あれなんですけれども、
ライフハック時代ってなかなかもう来ないかもなっていうのは、しゃべってるたびに、このタイトルコールをするたびにちょっと考えておりまして、
AI時代は来てるから、すぐ終わっちゃうかもしれませんけどね。なんかポストAI時代とか言われるかもしれませんが、少なくとも今今はAI時代だなって感じが初手に行くとしますんで、
昨日もね名古屋に行ってきたんで、この名古屋話をしながら今日の本題に入っていきたいと思いますが、
AI時代のカウンセリング、AI時代の精神分析でもいいんですが、あまりにもそれはとんがりすぎだなっていうふうにちょっと思いましてですね。
トッキントッキンっていう不思議な言葉も習いましたし、
これを聞いている人は意味がわかる人だけに笑いが取れるかもしれない話ですが、とんがりすぎだなと思いましたので、
そういう使い方はしないらしいんですけどね。この話自体がすごいちょっと分析的だなと思わなくもないんですが、この話はよしとして、
AI時代のカウンセリングというタイトルにしてみようと。カウンセリング、相当AIといろんな意味でね、
勝ち合っている感がありますよね。ユキロシさんという、ある意味この界隈ではやや伝説的な人となりつつあるXで、毎日のように1回は聖書から引用。
正確には1日1回じゃないかもしれないんだけど、私はそういう漠然と眺めていて、聖書から引用をして、
AIの話でもヒットして、スーグクガールが有名ですけどね、実に独特のポジション。この界隈ではヒットするんであれば独特であれば独特であるほど私はいいと思いますが、そういう意味ではちょっとね、
本当にこの人実在しているんだろうかって思っちゃうようなタイプの人ですね。
誰とも似ていないし、基本的には全く正しい道を歩んでるって感じがする方ですね。本人は分かんないですよ、ご本人がどう感じていらっしゃるかは。
個人的には全く存じ上げない人なんで、まさにXだけに僕の中では存在するというでもすごい人みたいな、リアルに本が出てくるんだからリアルにいらっしゃるわけですけれども、
私は自分が非常にわけのわからん道をぐねぐねぐねぐね回っているんで、全く対照的だっていうふうに思っておりますけれどもね。
何の真っ当な戦略もない人間が私だとすると、だからご本人は分かりませんよ。
正しい道が常に存在している人みたいな、僕はそもそも道がないんじゃないかっていう疑いすら抱かれそうな人間ですけれども、人それぞれ、生き方もそれぞれなんでしょうがないんですけど、ああだったらいいとは思うんですけれども、どうすればそうなるのかっていうとなんかもう僕の感じではあのレベルまで行くと空中に道があるぐらいな雰囲気になっちゃうわけですよ。
でも、じゃあお前は道を歩いておけばいいじゃんって言われるかもしれないけど、僕は道を歩こうとすると何か具合が悪くなるっていうタイプの人間なんで、道は歩けないっていうね、そういう人間なんで、世の中やっぱりそういう人間もいるんですよね。道は踏み外すものだぐらいな感じのですね。
えーと、なんか何言ってんのかよくわかんないんで、先へ行きますけれども、まあそういう、でも結城さんがAIと生きるみたいな本を書かれていて、まあよく売れていて、昨日も山仙堂でワゴンに乗っかっていて、いいなあ、こうなりたいなあって思ったわけですけれども、まあただ僕は思ってるだけで、自分の本を探す気すらもあんまり疲れすぎていて、したくなっていたという。まあね、重いんですよね、一泊とはいえ荷物がね。
帰りの頃ってもうほんとゲンなりしません。その旅の内容がどうであれ、僕もう帰りに割ってて、体力が多分ついてかない。あと左の太ももの外側付近から腰にかけてがもうね、かなり痛くなってきて、もうゲンなりしてるんですよね。
そうは多分片目から見えないかもしれないんですけど、めちゃくちゃ帰りの新幹線に乗る直前あたりはもうね、あのもう本当にダメだわって感じになっていて、本屋にいるしか他にもうできることはないわけなんですが、その本屋でずっといてですね、まあとにかくこうやってればなんとか持つみたいな、本屋の前にトイレにこもるっていう儀式がある、儀式じゃないですけど、別に好きでやってるわけじゃないんだけど、そういうことになるんですけどね。
まああの、とにかくそんなこんなで帰ってきたわけですが、まあ楽しかったんですよね。楽しかったし、まあいろいろこのところ、Jさんと3日連続で過ごしたりして、2日連続か、思うところは多分にあったんですけれども、まあ大体僕は思うところはやたらあるだけで、ここで喋って大体終わっちゃうみたいなところもありますが、まあAI治療のカウンセリングというタイトルにしたのも思うところもあるわけですよ。
まあこれはちょっとありきたりでわかりやすいタイトルだとは思うんですけど。で、この、まあAI治療のカウンセリングというタイトルにした話はおいおいゴールデンウィーク中にでもするとして、今日する話はですね、まあJさんと、J松崎さんとね、あの接著についての出版記念イベントで、まあ彼はいい人なんで、あの応援に来てくれてるわけなんですけど、単純にそうなんですけれども、
あの応援に来ていただいて喋ってるのを聞きながら、やっぱりこの人が考えてることって、実はですね、あの、彼は、あのなんていうのかな、ああいう人なんで、人々がね、ちょっと軽く考えるところがあるなと、まあ本人はそれでも全然OKっていうタイプの人なのかなっても思うんですけど、彼はですね、すごいいろんなことを考えてるんですよね。
それがね、あの意外とそれについての説明はなされない人なんで、面白いことにですね、違うことはいっぱいいろいろお話になるんですけど、自分が本当に考えてることについてですね、あのまとまった説明をするって機会は、考えてる量に対しては少し少なめに感じられるんで、わからないところも結構あるんですよ。
例えばあのつい最近いっぱいアップデートされてるんですけど、タスクシュートクラウド2ですね。このタスクシュートクラウド2はどうしてこんなに多機能になっていくんだろうっていう、彼もチラッと言ったんですけど、あれを作るのは実に難しいことなんだっていう話をされていて、なんかパッと見単純な仕組みなもんだから、時系列順にタスクリストが並んでるだけとも言えるんで、すぐ作り出すっていう人が出てくるんだけど、
作ってみると意外といろんなところで引っかかって挫折する。だから中途半端なタスクシュートみたいなツールが所々出てくるっていう話をしていたのは非常にこう実は印象的でして、あれ難しいんですよ。
例えばあの対外の人ってタスクあれだと1日のデイリーリストだから、1日の終わりでタスクリストが終わればいいって思うじゃないですか。でも1日の終わりっていうのは人によって時刻が全然違うんですよね。0時でいいじゃんっていう人はよっぽどものがシンプルに考えられていて、もう絶対に12時前に寝る人なんですよね。
人によっては12時から仕事する人も世の中にいるわけだから、グローバルにこのタスクリストを作ろうとすればするほど実はハマるんですよ。そういう人にとっても今日はここで終わりっていう時刻は来るんで、その時刻がユーザーによって極めて恣意的に決められるにも関わらず、その人にとっては納得のいく時刻にセットできないという場合、タスクシュートにはならないんですよね。
これ一つとってもかなり難しいですよ。人によっては2時で終わる。人によっては4時で終わる。これをどうやってセットするのかっていう。その人が常に4時で終わるんだったら、その人が自分で設定すれば事足りるんですけど、場合によってはその人は5時まで仕事があるし、場合によっては0時前に寝ちゃう。挙動が大きく変わるんですよ、その度に。でもそれじゃツールとしては使い物にならないんで、これを決定するっていうのは実に難しいことなんですよ。
さらにこれを結構今では普通にいらっしゃるけれども、ニューヨークに行って使うときに大きく時差が発生しますね。日付変更線を反対側からまたぎますね。またぐ場合によってはね。そうするとどうなるのかっていうことを考えだすと、もうパニックになっちゃうみたいな方も少なくないんですよね。
このロジックを私が抑えるのにかなり手間暇かかったんで、しかもそれをあらゆる人のユーザーの少なくとも何千人ぐらいのユーザーが無料で使う人を入れると数万人単位になるらしいんですけど、少なくとも1万人を超えるらしいんですけど、のユーザーをみんなが納得できるように作れるかというと私じゃ無理ですね。
これをだからですね、なんかこう自分で作った方が早いみたいな話をされると聞いたときに、ご自分しか使わないんだらそうなのかもしれないけれども、結構そうでもないんだよなっていうのを考えるんですね。
でも私はタスクシュートを人はそれにしても何で使うんだろうって考えたときに唐突にやっぱり精神分析だけで使う用具では決してないですけど、精神分析でおなじみの罪悪感って言葉が一番ぴったりくるなっていうふうにJさんのイベント中の話を聞きながら僕は思ったんですね。
人は時間管理に、ちょっと昨日Xで投稿はしておいたんですが、時間管理について、時間管理についてというよりは時間の使い方についての罪悪感がとってもひどいんですよ。
これは生まれ持ったもののはずがないから完全に教育効果なんだけど、本当に時間の使い方について罪悪感を持ってる。
持たされるんですね。
全ての人がとは言わないまでもそういう思いを持ってる人はたくさんいます。
お金についてもあるんですね。
私はお金と時間については家計事時間簿を楽しくつけるということが何よりだなと。
この楽しいっていうのが何回かタスクシュートの任天堂レーナーさんとの懇親会とかでも出てきたキーワードだなと思ったんですけど、楽しくつけるっていうことができればあれを苦しくつけてる限りはなかなか難しいんですよね。
やってることは何にも変わらないんですよ。
家計簿をつける時間簿をつける。
ただそれを楽しくつけられるかどうかだなと思うんですね。
楽しくつけてればいずれ時間にまつわる罪悪感が消えはしないかもしれないけど激減するんですね。
激減したときの感覚が大事なんですよ。
フロイトですけども、
あなたは今病気で痛ましい状態にありますが、それをありふれた不幸に変えるだけでも多くの力が得られます。
趣旨はそんな感じですね。
そもそも痛ましい不幸、つまりそれは自分だけの不幸、自分に特有の不幸っていうふうに感じられる、そういう現実の体験でありますね。
それは確かに不幸だし、同情されるべきことではあるんだけど、
でも世の中にその不幸は名前もついてるし、極めて一般的なものだと。
つまり普通の不幸だと。
苦しいんだけど普通の不幸でもあると。
そういうふうに、それは簡単なことではないんですけどね。
これを言った相手がドラであるっていうのはまた皮肉なもので、
フロイトはドラの治療には失敗してますから。
こんな名言を残した相手の治療は成功しなかったんで、
治療の成功失敗というものについても、このエピソードは大変感慨させられるエピソードではあるんですが、
ドラはね、お父さんが悪いわけですよ。
お父さん不倫してるし、その不倫をドラに認めさせるために、
ドラには家庭教師と言って男を当てがいい。
それといい仲になりなさい。俺は不倫してるからみたいな、
ただし明治時代だっていうことを忘れちゃいけないんですけど、
フロイトにかかってる人たちの見るとやっぱり時代が違うなって思うんですよね。
昔イギリスの王様が、王脚を治すために足に風はめられて寝るみたいな時代ですよね。
とにかくそういうことがまかり通ってる時代の話なので、
今とは全然常識が違うんですけれども、
こういうことがしかし、当時はありふれてたわけですよね。
ドラはお兄さんたちは別にいいじゃんっていうような感じで、
お父さん不倫してるのはそうなんだけど、
別にだってお母さんがああなんだししょうがないじゃんみたいなそういうんで、
しかもドラはそれに頭では納得してるんですよね。
でも許せないんだっていう話をしていて、
それはお父さんが大好きっていうことと深く関わってるとは思うんですけど、
でもいずれにしてもそんなにめっちゃレアな話だとは人は思わないと思うんですけど、
ドラはそれで病気になるレベルで痛ましい状態にあるわけですよねきっと。
だからこの話って結局それはどっちも正しいんだけど、
これを人々、我々はみんなですね、
お話にされたくないっていう感情を持ってるわけですよね。
最近では回収ってそれを言う。
回収するっていうのはそういう使い方をしてみると、
なんか不思議な言葉の響きを帯びてくるなとは思うんですが、
それは非常によく言われますよね。
で、回収っていった時に私が感じるのはですね、
つまりそれは説明が繰り返されているっていうことなんだろうなと思うんですよね。
で、説明が繰り返されてるってことをそもそも人はなんて嫌うんだろうなと、
私にはその話は何度も聞きましたっていうのはすでに抗議なんだけど、
ただ、例えばですね、ある人が端的に喘息ですと言って、
いや息が苦しいんです。
いやそれはあなたは喘息だからです。
ぜいぜい言うんです。
それは喘息だからです。
呼吸困難で夜眠れません。
それは喘息だからです。
いい加減にしろっていう話になるのかもしれないけど、
でもこれは他のことを言うのはまずいじゃないですか。
嘘になっちゃうから。
だから本当だという信念があるならば、
この説明を揺らがすべきではないですよね。
ところがこれをやると大体の人が腹を立て始めるっていうのを、
つまり我々はですね、海飽きやすい生き物なんですよね、非常に。
すぐに新鮮味を失ったものに対する脱価値化っていうか、
価値の引き下げを始めてしまう。
その説明を繰り返されているということは、
自分の病気は十分説明されていないみたいな気持ちになって、
だからといって、何とか性、何とか発作ですとかっていう方がいいのかっていうと、
大変それは疑わしい感じがするんですよ。
この話、つまり私が思うんですけど、
結局すべてはそれを言うとメタファーでしかないわけですね。
非常に僕はこれはしょうがない。
当然そう聞こえるんだからしょうがないと思うんですけど、
何かというと精神分析が遡るっていうふうに考えられる。
言われがちなんですね。
何かというとお父さんとの関係ですっていう話に回収されるというのか、
いつもその説明じゃんってことになるんだけど、
それはメタファーであるという意味においては、
そもそもいつも何でもメタファーなはずなんですよね。
心的現実ってメタファーですから。
人間というのはそもそも言葉を使っている限りメタファーで、
全部メタファーなんで、
隠優というべきなんですけどね。
直優ではないので、多くの場合。
As if personalityとかっていう言葉も心理臨床にありますけれども、
でもそうは言わないじゃないですか、あんまり。
例えばあなたと、隠優にした方が強いって感じがまず何よりもありますよね。
昔、隠優と直優のことで、
なぜなのか知りませんが、
私中学校で習った時に、
バラのような女と、バラの女でと、
国語の先生がいきなり書き始めて、
結構男子校だったんで、
その先生に対していろんなことをみんなが言うようになったわけですけれども、
そういうのを狙っての授業だったのかもしれませんけど、
バラのような女に比べれば、バラの女の方が強いんですよね。
普通に考えた場合は。
その方が陳腐になるという話もなくはないんですけど、
同じで、あなたとその人の関係は、
まるで父親と息子のようですっていうのと、
あなたとその人の関係は、
父と息子なんですっていう時、
どっちも比喩に決まってるんですけど、父と息子じゃない場合は、
どっちも比喩なんですけど、の、ような、
っていうのをつけない方が強めな感じがして、
で、基本的に精神分析の世界ってのは、
これだなって感じなんですよね。
隠喩の世界のようなを外すんですよね。
のようなのに決まってるんだけど、
のようなになってなくても、
母子関係ですって感じにしちゃうわけですよ。
しちゃうっていうのか、言っちゃうっていうのかな。
で、私はこれはですね、でも、
それでも比喩なのかなっていう、だからこの、
どの程度この比喩っていうことを言うならば、
比喩を信じるかということだなというのを、
これも名古屋のイベント中に、
いつも考えてるんですよね。メタファーなんだよな、結局。
だけどメタファーだということによって、
人が直ったり怒ったりするっていうのは、
やっぱり人間っていうのはすごく言葉の力というものに左右される。
良くも悪くもっていうようなことを思ってたら、
ボラスの本にいきなりメタファーっていう言葉がボーンと出てきて、
なんかボラスって人はですね、
やっぱり上手いところつくんですよね。
そして彼はやっぱり抜き差しならない話を持ってくるのが上手いんですよ。
しかも現代的で。彼はサイコパス持ってくるんですね、ここにね。
なるほどなって思ったんですよ。
私やっぱりそういう感性が、
ボラスはすごいなって思うんですよね。
サイコパスかっていう、
サイコパスな人たちって、
ある意味どのくらい筋金入りの人がいるのか知りませんが、
謎じゃないですか。
彼らはメタファーを頭から信じ込ませる才能に、
頭抜けて能力が高いわけですよね。
でもそれは、
要は打ってみれば嘘なわけですよね。
サイコパスと精神分析っていうのは、
私はいつもあんまり考えたくないテーマの一つだと思ってたんですよね。
ある意味、精神分析もよくそうなんだけど、
エビデンスがないとか、あるわけがないわけですよ。
だってそれは母子関係を象徴してますとか、
まるでその人との関係はお母さんとの関係ですとか、
これは直言ですけど、
あなたがその人を見ているときは母親を見ているんです。
これがメタファーですけれども、
こういうのって、証拠を出せとか言われても困る。
まさにサイコパスなんですよ。
サイコパスの人は証拠とか絶対出せないわけですよ。
嘘つきなんだから。
筋金入りの嘘つきってやつじゃないですか。
ドーラの話とかに例えば行くと、
ドーラは要するに病気でもないのに病気になるわけですよ。
筋金入りですよね。
病気でもないのに病気になる。
つまりそれは怪病と一般には言われるんだけど、
当時はそういうフロイトは方法論で、精神分析じゃなかったから、
直接的なんですよね、すごく言うことが。
あなたそういうことをやっていると怪病が治らなくなるよっていう。
でもこの怪病が治らなくなるってどういう意味やねんって感じじゃないですか。
怪病はもともと病気じゃないんだから、
怪病が治らなくなるとは何なんだと。
自分で自分を騙すってことなんだけど、
つまりそれがいわば狂気とは言わないまでも、
狂気を書いていると。
ただですね、自分のメリットのために、
ありもしないことをデッチ上げて、
しかもそれは仲間喋ってる本人も信じ込み始めるなどということは、
我々人間にとっては極めてありきたりなことですよね。
ここにありふれた不幸って話が出てくると思うんだけど、
極めてありきたりなことですよね。
全然驚くようなことじゃないですよね。
子供は学校をサボりたくて嘘つきますが、
勉強をサボりたくて嘘つきますが、
そのうち半分以上信じてるんじゃないかなこいつっていう話、
なくもないですよね。話の上手い子だと。
ボラストは本当か嘘か、
それこそ本当か嘘かわかりませんが、
会社に遅刻した時に上司に言い訳をする人と
する人の話を冒頭でボンと出てくるわけですよね、
サイコパスの。どういう嘘かというと、
極めてダメな嘘だと言ってる人は言うんですよ。
まるで何かかすかの小説を劣化させたような嘘なのに、
上司は頭から信じ込んだと。
こいつはおめでたい奴なんだけど、問題は私はこれで
遅刻を叱責されることから完璧に逃れられたんだと。
遅刻を叱責されることから完璧に逃れられたんだと。
このメリットの大きさを思うと、
やっぱりこういう嘘は自分としては手放せなくなるよねって言う。
やっぱりこういう嘘は自分としては手放せなくなるよねって言う。
ボラストは問うわけですよ。これは狂気なのかと。
狂気だとするとどうして狂気なのかと。
やってることは現実に適応するための行為だし、
極めてよく現実的にできているある意味ではね。
だけど危うい感じは少なくとも精神分析家ですからね、ボラストはね。
だけど危うい感じは少なくとも精神分析家ですからね、ボラストはね。
当然しますよね。
しかも嘘もなぜそれを信じられるんだっていうような
逮捕されてしまいましたと。
不当逮捕でしたと。でもいい刑事が出てきて
助けてくれました。だから会社に就職したんです。
これだけ聞くと本当にそれ信じたのかなって感じがするような
でっち上げですよね。しかもこのでっち上げを
なんでそんなに込み入った嘘をついたのかは自分でもよくわかんない
っていう風にこの患者さんは言っていて
この辺にやっぱりちょっと狂気感は少し漂ってきますよね。
だって信じてもらえなさそうな嘘じゃないですか、ある意味。
だって信じてもらえなさそうな嘘じゃないですか、ある意味。
その人は奥さんと喧嘩したから遅刻したんですけど
この辺にこの人のまた独特の感性が現れてますよね。
この辺にこの人のまた独特の感性が現れてますよね。
このサイコパスの人は人がいいんですよ。
だから奥さんの機嫌を損ねて申し訳ないなと思っちゃったりするもんだから
会社に夫婦喧嘩ぐらいで大幅に遅刻をするわけですよ。
そんな大幅な偽装、大幅な嘘をつかなきゃなんなくなる。
でもこのような嘘をシャーシャーとつくほど
両親が全くないようでいて
奥さんと喧嘩したことに対する西悪感は極めて強いわけですよね。
聞く人によってはバランスが欠いてるように聞こえると思うんだけれども
そういう話なんです。
でもこれ完全にさっきのメタファーの話にぐっと寄っているわけですね。
でもこれ完全にさっきのメタファーの話にぐっと寄っているわけですね。
少なくとも症例通霊の話は連想してもおかしくはないですよね。
けびょうとは違いますけれども
要は虚言を信じれば信じるほど
フロイト流に言うと
あなたその虚言から出てこられなくなるよっていう
虚言から出てこられなくなるってことは
要するに中場狂気の世界にすぐってことじゃないですか
自分の想像した世界のことを
現実だと思い込むわけだから
つまり夢と現実の区別がつかなくなったら
あるいは妄想と現実の区別がつかなくなったら
我々はそれを狂気の水準とは呼ばないと
出席が怖いとか奥さんとの喧嘩が怖いっていうのを
やっぱり精神分析では
これは回収とされるのかもしれないけれども
ありがちなメタファーを使いますよね
母子関係だと
これを遡ると
時系列的にはそれは遡るなのかもしれないけど
私はこれは遡るじゃないと思うんですよね
だってその例えば
刑事に不当
駐車違反ごときで牢屋にぶち込まれました
不当逮捕に遭いましたっていうのは
これは嘘をついてるだけなんで
時系列的に何か遡ってるわけじゃないですよね
その人の記憶をたたってるわけじゃないわけですよ
つまりある意味ラテラルなわけですよ
平行移動してるにすぎない
私はそれは母子関係であれ
効果対象関係論だと思うんですが
母子関係であれ父子関係であれ
非言語水準であれ
私はその人はただ
ラテラルに移動しちゃってるだけだと思うんですよね
今も持ってる母子関係の記憶というか
メタファーを使ってこの関係を見ている
この関係にだぶらせている
この関係をあたかも何々のようなものだと捉えている
私はこの説明をしたからといって
ありきたりの説明にして
なんとか丸め込もうという話をしているわけではないように思うんです
むしろ逆なんじゃないかと
この人にとってはそっちの方がリアリティがあって
良い実感をもたらすものだから
そっちの説明を使っちゃうんではないかっていうか
そっちの関係でこの関係を捉えてしまうのではないかと
我々は結局人間関係というのを
白紙の状態では結べませんから
何かしらここの人間関係に
何かを見ちゃうわけですよね
これを何関係に置き換えてみようと
置き換えるわけじゃないんですよね
やっぱりそのたとえるんですよね
この関係をなんとか関係にたとえるんですよね
そしてしばしばそのたとえば
現実以上に現実的なんですよ
本人にとってはですよね
現実以上に現実的な関係に
なぞらえられているものが
なぞらえられているんだっていう
指摘によって
その現実の価値が下がっていくわけでは
決してないような気がする
いつも私たちはやっぱり
そういうことをしなければ
世界を歩んでいくことができないんで
全ての交差点は
異なる交差点だけど
やっぱりそれは
この赤と青と黄の
そして横断歩道があって
例えば十字になっていたり
T字になっていたりする
全ての交差点を
ある交差点という
メタパワーでたとえることによって
そこをくぐり抜けてくることが
できるわけではないですか
リアルを見ていないから
それを交差点という言葉に
回収しているわけではないんですよね
決して
むしろ交差点をくぐるんですよね
私たちは
メタパワーを生きないわけに
いかない生き物といいますか
やることが複雑回帰なんで
だから他の動物は
殺されちゃうわけですよ
ぶつかって死んじゃったりするわけですよ
あれをアニマルキルって言ったり
ロードキルか
ロードキルって言ったりするということを
昨日テレビ番組で知ったんですけど
でも動物にとっては
道路は全て違うんで
まさに近く対象でしかないので
メタパワーとかを決して使うことはないんで
ここを横断しているとか
横切っているというつもりはないわけですよね
まさに現実なんで彼らにとっては
我々はそういうものの見方が