1. 人生相談のための精神分析的ラジオ
  2. まずは「小さな反復」について..
2025-01-27 41:54

まずは「小さな反復」について考え抜く【1127】

目に見えないテーマを捉えるために。
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サマリー

このエピソードでは、小さな反復という概念に焦点を当てています。リピートの重要性や精神分析における反復体験の意味について考察されています。また、「小さな反復」がどのように無意識に影響を与え、日常生活におけるパターンを形成するかが議論され、ライフハックがこれらの反復にどのように対処しようとするかについても触れられています。さらに、アトピーに苦しむ中での個人的な体験を通じて、母親の不在と小反復が自立や心理的な問題にどのように関与するのかが考察されています。母親の過去の体験とその影響がアトピーにどのように関連しているかも探求されています。

小さな反復の意義
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1127回をお送りします。
1月27日月曜日、7時27分です。
というわけで、精神分析的なんで、週に4回はやって、しかも7時半前後にやると。
できるかな?まあいいや。とりあえずできそうな気もしなくもないんで、やっていこうと思っています。
GMVっていうのは割といいタイトルだったとは思うんですよ。
私のタスクシュートライト上には、GMVというコードでずっと続けてるんです。
タスク名私変えるのめんどくさいんで、これで通る間はそれで通し続けるっていうやり方をしてます。
だからコードネームみたいなのが、今後こういうの増やそうと思って、増やそうってことはないんだけど、
あんま修正かけずにおこうかなっていうふうに思っているんですけど、
それはどうなのか、いいことか悪いことかさっぱりわかんないですけどね。
GMVはずっとGMVなんですけど、タイトルはどんどん変わっていくというね。
将来的にも変わるかもしれませんけど、このタイトルはまあまあしばらくいけそうな気がしてます。
精神分析とリピート
お知らせなんですが、3カ月チャレンジ第9期はおかげさまで満席となりました。
現在ですね、鋭意考えている中なのが、個人セッションだけサービスというのは作ってもいいなと思うようになりまして、
3カ月チャレンジの新しい機能、1ヶ月半くらいのところからまた3回お試し募集をかけさせていただくとともに、
それまでは普通に1回ごとみたいなのも、まあ1回ね、1回か。
まあでも1回もありかなというふうに最近ちょっと思ってきたんですよね。
その他、継続の方に学習というのを今提案させていただいていて、ご利用者さんも補助されてきたので、
この辺でちょっと形を作って、できれば何かにまとめておこうかなと。
ホームページってことになると思うんですけどね。
その辺のことを考えております。
考えてるだけかもしれないけど、とりあえずさらっと考えてはあります。
正直言いまして、継続的にセッションを受けてくださる方が10名前後いらっしゃればですね、
基本的に私がやってることとしてはそれでいいんだって感じがあって、
今みたいなのは結局外形的と言いますか、枝端的と言いますか、そういうものなんですけれどもね。
まあ娘がね、大学出てしまえば、私としては、私自身は、
本当にこうなんだろうな、生きていければ物欲はそれでいいみたいな感覚になって、
多分年を取ったってことなんですよね、これがね。
欲しいものとかが本当に何にもなくなってしまって、
趣味としては、今対戦型テトリスに異常にハマってるんですけど、
空いてる時間は対戦型テトリスか精神分析の本を読んでれば、
てか他のこと何もやらなくなってきた。
運動しろ言うから、言われるから、するんですよ。
なんかその場でスクワットとか、どっか歩きに行くとかはするんですけど、
それは本当にテトリスよりも金かかんないじゃないですか。
でも散歩とか僕、好きなんだなってことが分かってきたんですよ。
昔散歩ってする人の気が知れないぐらいに思ってたんですけど、
今とか1時間ぐらいは普通にやってて、
下手すると2時間ぐらいやりたくなるんです。
時間なくなるんで、あと家の人心配するって、
3、40分にとどめてはいるんですけど。
でもね、僕GPSで妻に捕捉されてるんですよ、ある意味では。
妻は見てないですけどね、ほとんどね。
でも僕は妻の居所は厳密には捕捉できてないんですけど、
妻は私の、やろうと思えば全居場所が捕捉できるんで、
別にそんな心配いらないんですけど、
でも外で惹かれるとか、それって時間関係ないじゃないですか。
私は別に妻に居所が完全に捕捉されていて、
かつお金が全部妻のものになっても、
もはや全く苦にならない感じなので、
実際それに限りなく近いですしね。
私のクレジットカードもデビとか、余計なことはやめよう。
だからそうは言っても、
妻の教育費というものは頑張らなければいけないんで、
ここは頑張ろうと思っているし、
別に大学卒業したらすぐ仕事辞めるぜとか思ってるわけでは
決してないんですけれどもね。
私は別に体が動く、
ひょくろん口が動けば仕事はできるんで、
今はタイプできなくても口が動けばできるじゃないですか、
今の時代ってすごいじゃないですか。
だから口が動く限りは仕事はしようと。
口が動かなくなっちゃったらもうちょっとどうしようもないんですよね。
あとは脳波から文章。
脳波から文章が出てくるようになって、
文筆とか口頭の仕事って残りますかね。
その辺ちょっと多分難しいんではないだろうかと思うんですけれども、
口が動く限りは仕事はしようとは思っています。
えーっとですね。
何の話をしようとしてたのかというと、
私ここの番組を通じていろいろと、
私自身が昔こうであったというのが精神分析の知識で、
一つ一つに対してダメをしている感じが治ってきてるっていうのもあるんですよ、感覚の中に。
だから精神分析って本当に身近で受けられればこんなに良いことはないんですけどね。
例えば小田原でできるとかだったら、
結構さっき言ったようにお金にもう執着はほぼないんで、
週4とかでも行きたいかなって思うんですけどね。
でもまあそれは何だろうな、相性とかもあるよな、あれ結局と。
相性が課題になるのは最初だけかもしれないんですけどね。
最初って言っても長いじゃないですか。
精神分析ってあっという間に月10回とかにはなるわけですから、
普通そんなに人とは会わないですからね、月10回もね。
昔大橋哲夫さんと仕事を始めた頃、週に3回スカイプやってたんですけどね。
ライフハックの価値
あれだって相当な頻回って感じはしてましたけど、
彼は時刻とかもすごい厳密に決める方だから、
しかもそれをリピートにするから、あれはある種の精神分析だったと。
オンラインだからね、いろいろと問題というか精神分析的もいいところなんですけど、
でもそうだったなと思うんですよね。
絶対に即座に転移が起きてましたからね。
まあ年、彼の方が一つしたとはいえ、実際半年ぐらいでしかないんですけど、
どっちかというと彼がお父さん役って感じがしてましたけどね、私の中では。
でも転移が起きてたのはもう確実だと思うんですよ。
何転移であろうともですね。
だからそういうことは起こるし、起きざるを得ないし、
あんな頻回にやってればですね、そういうふうになっていきますよね。
なっていくっていうのも変ですけど、
特に急速に関係が深まるとかそういう一般の用語で言えばそうなんでしょうけどね、
そういうこととはまたちょっと違う話もあそこにはあったんじゃないかという気がしますね。
だから私は分析の本読んでいて、お互い気をつけているからってことは当然あるし、
お互い少なくとも精神病水準には遠いかったと当時は思ってあれなんですけど、
とはいえ、あれで関係がこじれなかったっていうのは結構大したことをやったなって感じ。
もう喋ってるだけでもこじれなかったというのは偉いって思うんですよね。
あの頻度であれば。
だってカウンセリングって最初何の問題もなさそうな人でも結構分析家に食ってかかったりするシーンって
やたら出てきますから、やっぱり人間はよっぽど精神情緒が安定しているようでも、
藤山直樹さん流に言うとボロが出るんですよ。
そんなに頻繁にやってればですね、このボロが出るのが欠かせないんだみたいな。
だから一見健康度が高そうな人はなかなかダメなんだみたいなことを、いかにも藤山さんらしくおっしゃってるんですけど、
でもまぁ取り繕うもんね、普通人間ってのはですね。
結局のところ精神分析家なんて見ず知らずの他人なんで食ってかからんだろうって思うんですよ。
でもまぁ言うことなくなっていきますもんね。
そしてその人に秘密全部握られてるわけだから、
いろんな意味でこの理不尽なものが勝手に感じるんですけどね。
この勝手に感じるというのはあれですよ。
つまり僕がよく運転中に言ってるやつですよね。
運転中にちゃんと止められないとかこいつ運転下手だなと思われてるんじゃないかと思いながらバックミラー見ちゃうみたいなのが勝手に感じるわけですよ。
だってそんな視線を感じるとか漫画じゃないんだから視線は感じませんし、
自然感じだしたらもうそれは原始に近いんでやばいじゃないですか。
そんなことあり得ないんで。
後ろの視線を感じるとか言うのはもちろんやたら煽る人っていますけど、
本当に煽られてるって言うんだったらそれは幻想じゃないんだけど、煽られてないならばやっぱりそれは投影ですから。
そういうことが起きるというのはですね、
まあ力動的なことになっちゃってるわけですし、
まあ少し神経症気味なことにもなっちゃってるわけですよね。
リアルにはまだそれは知覚できていないはず。
知覚に混ぜ物をしてるってことですよね。
で、僕最近思うんですよ。
このタイトルにしてみても思うんですが、
いやでも松木さんとかが、松木文洋さんとかがあんなにパーソナリティ障害も日本人にもわかりやすく現状に踏まえて説明つけてくれているんだから、
これ読めば私の仕事みたいなのはいらんじゃんって思うんだけど、
そもそもこれを大概の人は読まないし、きっちり書いてるやつはあっさり絶版とかになってるから、
これまだ今は受けが良くないという意味では私の仕事の意味はあるなと思うのと、
もう一つがですね、私やっぱりライフハックで長らく仕事をさせてもらっていたから、
なぜこれが精神分析的っていうことを僕が一生懸命言いたくなってるのかのわけが、
やってるうちにだんだんこれのやってることの意味がようやくですね、
8期になって9期ですね、まもなくね、3ヶ月だから、
期ということは24ヶ月で2年なわけですね。
丸2年経って、でも2年って結構大事なポイントな気がしますね。
なんか2年ぐらいやらないとそれのやってることの意味って結構わかんないもんですよね、僕の感じでは。
2年というとタスクカフェで言いますと、タスクカフェで言う必要ないんだけど、
大橋さんはきっちりリピートが、しかもやる場所もあんまり動かさないみたいなことをやってたんで、
タスクカフェ2年、やっぱりそうですよね。
タスクカフェというものの、こういうことね、みたいなことが僕にわかってきたのはっていうんですけどね。
まあ大体2年ぐらいだったような気がしますね。
形がカチッと定まってきて、
タスクカフェってのは自分をやって生きていくんだぞ、みたいなことが、
最初の3回とか5回だと、いつでもやめられるし、
なんかこう、とりあえずやってみたっていう感覚が自分に実感されるまでにはまだちょっと遠い感じなんですよ。
2年ってのは良い数字なのかも。
まあ途中いろいろ大発見だって思うことはいっぱいあるんだけど、
大体それらは小発見にも満たないみたいなところがありますね。
最後に行き着くっていうか、とりあえずまず2年で感じることっていうのも、
だんだん地味な感じにはなっていくんですよね。
一言で言うと、つまんない話だなっていうふうに聞こえる。
ライフハックずっとやらせてもらってた、
ライフハックで食ってきたみたいなところがある人間としては、やっぱりあれですね。
小反復と言ったらいいのかな。
私は一つは精神分析というのはその転移とかを通じて、
転移ってのは要するに疑似家族関係みたいな、
ちょっと語弊ありますし誤解招きそうですが、
ちょっとここはすっ飛ばしてね。
疑似家族関係みたいになると。
週に4だ5だ会うということはですね、
無意識と小さな反復
あってしかも自由連想で喋るということは全く家族だと思うんですよ。
自由連想で喋るっていうのは、
例えば昨日終わりましたけどお相撲さん見てて、
お相撲とか見ててね、見てないじゃないですか。
よく昔私、私の大学の先生も言ってたんですよ。
どっち買ったのって聞かれても答えられねえと。
だけど見てるわけは、見てることは見てるんだと。
先生はいいとこの育ちだったんで、
こたつでみかんでも食べながら、優雅なんですよ要するに。
こたつでみかんでも食べながらお茶飲んでぼんやりしてテレビ見ていると。
でも見てないんだと。
でどっち買ったのと言われて、あれどっち買ったんだっけになると。
この会話こそが私は精神分析的な、
もうちょっと精神分析では緊張感の高い会話が多くなると思うんですけど、
こういう空間においてすらリラックスしきれないような人が神経症水準なわけですよ、要は。
そういう時にしている会話っていうものに近いものを赤の他人とやると、
いろんな気持ちの動きというものが激しく、
普通の人でもなっていかざるを得ないようなシーンが、
そして思わずそれが何者なのかを忘れて見失ってですね、
自分の立場とか自分の置かれている状況も見失って、
つまり夢見ているのと変わらないですよね。
ここですっごく普段なら出ないような無意識のですよね、
普段は意識できていない領域の自分というものが飛び出してきて、
何か言っちゃうとか、下手すると何かやっちゃうとかね、
そういうことが起きるんだっていうような、
あれはそういうことじゃないかなと思うんですね。
そういうことをやるということの意味はですね、
結局、疑似家族間というものを作り出してまで何を見たいのかというと、
大きな意味での反撃を見たいんですよね。
で、この大きな意味での反撃は大きすぎて捉えきれないんですよ。
なんかタスクシュートみたいなことで、
よくこうライフログでもいいんですけど、
自分のパターンを見るっていうじゃないですか。
これはこういう記録を残しておかないと見えてこないパターンがあるよねっていう話なんですよ。
例えばこう空き口になると決まって何かの薬買っちゃうみたいなそういうような、
でもこれもまだまだ小さいんですよ。
もっと大きな記録を取っていたとしても本人が気づけないような、
そしてもう一つ大事なことがあって、
無意識がそいつを見させないようにしてるから、
これが反復だとは気づかないような当人にはね。
他人には分かるんだけど、
そこが精神分析的なんだと思うんですよね。
カウンセラーさんには分かるが、
当人は分からない。
その反復というもの。
あるいは分かっていてもやめられない。
だとこれだとどっちかっていうとあれなんですけどね。
死壁みたいな話になっていくんですけど。
分かっていてもやめられないというのは、
やめられないからこそ死壁なんですよ。
分かってしまえばやめられるものは、
ある意味死壁なのかもしれないけれども、
大した問題ではないわけですよね。
分かっていてもやめられないこと。
そしてそもそも分かりにくいこと。
そういう反復。
ライフハックの影響
だから我々はよく無意識の心とか、
心の奥底に無意識があるみたいな感じなんだけど、
どっちかっていうと、
それも林翔の本を読んでいて思うのは、
無意識の中にいるって感じなんだよね。
無意識というものが動いていて、
大きな川の流れみたいなものを作っていて、
我々はその中を生きているって感じで、
この流れがどこから来ていて、
どこへ行くのかが全然分からないと。
我々には。
でもそこで一生懸命それについて、
ああでもない、こうでもないと、
基本的にはそれについて考えるというよりは、
それと関係のないことを喋っていると、
あれ、こういう流れが感じられてきません?
みたいなそういうノリな感じがするんですよ。
つまり大きすぎて見えない反復なんですね。
で、です、で、でね、
ライフハックというのは、
小さくて見えまくる反復を問題にしやすいわけですよ。
しかもそれすらも、
そんな短期間じゃ、
その小さい反復だって捉えきれないし、
まして解決できないじゃんっていうところで、
もう解決しちゃおうとするんですよ。
そこにライフハックというか、
現代的ななんていうのかな、
心構えみたいなものがきっとあるんですよね。
だから、よくですね、
いろんなセミナーとかやってたじゃないですか。
それこそタスクカフェもそうでしたけど、
タスクカフェはちょっと独特なんですけど、
でもどれだってある意味独特ですよね。
あるじゃないですか、朝カツとかいろんなものがね。
あそこで、なんかね、
とてもじゃないけどそんなのが、
1回のセミナーで解決しないでしょっていうのが、
1回で解決することが目指されてるんですよね。
そこがライフハックの魔法みたいなところであり、
無理のあるところでもあると思うんですよ。
やり方がいろいろ工夫されていて、
そこで真剣に結構検討されてるという、
つまり、それが良心的だったりするってことに、
疑いはあんまないと思うんですよ。
取ってる金額も安いですしね。
昔、それこそ北信也さんとやってた東京ライフハック研究会とか、
ほんと何という金額だって今思うと、
しかも彼は額割りとか儲けてたんで、
結局学生だったら1000円ぐらいな勢いで、
いくらなんでも数時間、
社会人がやるサービスで1000円とかって、
いやーすごいよね。
本当にもう福祉サービスみたいじゃんって感じがするんですよね。
結構そこでいろんなことを話したり、
もうじゃんじゃが出していくわけですからね。
ただ、私が思うのはそうじゃなくて、
それは良心的なんだけど、
その課題多分、
半日やそころじゃ解決できっこないですよねっていう、
それこそ疑似家族を作って、
何年か付き合って、
ようやく捉え始められるような課題なんじゃないか。
それをわずか半日で何とかしよう。
そのスピード感ですよね。
スピード感という言葉が昔いっとき、
流行ってたんだけれども仕事術の世界でも、
心理臨床の必要性
このスピード感、今でもすごい流行ってますけどね。
早く解決しようというのが、
生活習慣病みたいなものを半日で解決しようというのが、
ライフハック的なんですよ。非常に。
上手くいけば特に。
上手くいくと怖いなって私は最近思うんだけれども、
そこをやってるんですよね。
例えばあれですよ。
例えば何でもいいです。爪を噛むみたいな。
じゃあ爪に嫌な匂いのするこれを噛むとね、
すごい嫌な味と匂いがするやつを塗りましょうみたいな。
これがライフハックじゃないですか。
で、爪を噛むというこの、もしかするとその人が、
ここが大事なんですよね。
30年に渡って子供の時から、
やめられなかった爪噛むのをあっさりやめられましたみたいな。
ちょっと怖くないですか。と思うわけですね。
私が今3ヶ月チャレンジというものでやってるのも、
3ヶ月なんで結局小反復を見つけることになる。
大概の場合、その小反復は既に見つかってるわけですよ。
爪を噛むみたいな。
ただ、これを簡単に解決するっていう、
作戦というか路線は手放す。
そこはちょっと捨てる。
別に爪刀だっていいじゃないですか。
爪を噛むからといって、本当の意味で人は困らないと思うんです。
だから噛むんですけどね。
この小さな反復は反復ですよね。
噛んだり噛まなかったり繰り返すわけだから。
小さな反復は何かすっごい大きな反復の中の、
その大きな反復を構成している一要素なんですよ。
我々そんなこと言えば、全生活は基本そうですよね。
サンドサンドのご飯を食べて、おやつも食べて、
お風呂入って寝るみたいな、こういう目に見える反復を繰り返す中で、
何か大きな反復をしてるわけですよ。
大事なのはですね、そこに異常なほどミクロな事態というものが、
無数に集約されていて、ここはもう記録とかには取り切れませんね。
例えば何かを見たとかいうことがここに入ってくるけど、
見たもの全部を記録に取ってたら、
記録をすることと生きることが同じ時間必要になるんで、
到底無理ですよ。
だからものすごい小さな反復の中には、
ものすごいミクロなものが入っているわけですよ。
極論ベータ要素みたいな話を僕は意識してるわけですよ。
一方で、これをやることによって、
気がつかないうちに自分の人生をこっちへこっちへと向けていくような、
これを記録によって捉えましょうみたいなところも、
ライフハックの中にあるんだけど、
私は土台無理だって思うようになったんですよ。
2つの理由があって。
1つはその反復の流れが大きな流れすぎて目に見えない。
3つ理由があるんだ。
もう1つはそれがあまりにもミクロなものの集合体であるために、
修正が効かない。
さらにもう1つは、そもそもそれを意識下に落としたり否認したりしようと、
当人に知らせまいとしている働きがあるので、
他の人にはあからさまにやってるのに、
当人にはそれがさっぱり気づかれていないってことが起こる。
現実には。
マイナスKの話に近いですけど、
目隠しをされちゃうってことなんですよね。
しかもそれだけが見えないように目隠しされてるんで、
本人はそれだけが見えないってことがわかんないんですよ。
私これタスクシュートやってるんでよくわかる気がするんです。
肝心なことに限って記録から漏れる。
というか、最初からそれを記録する気が起こってない。
すごいんですよ、無意識ってのは。
徹底してるなって感じですよね、そういうところ。
徹底してるんですよ。
やり損ねるとかがないんですよね。
だから気がつくとそれは記録に乗らないんで、何度もやっていても。
何でもかんでも私たちは中立に記録できると思うところが大きな間違いで、
ものすごく選択的に記録しますから、記録というものはね。
だからその記録に残ってこないんですよ、私にとってはですね。
他の人が私について記録すればそれは確実に残るんでしょうけど、
私自身がこれについて記録をしようとすると、それは残らないってことが起こる。
残ったとしても大事なものには全く見えないということが起きるわけですよ。
で、それが大事なものなんだ、記録にも残りましたっていうのを直面すると、
トラウマになっちゃうんですよね。
そういう物事っていうのが人間にはあるんですよ。
だから実質的には無理なんですよね。
これが故に私たちはですね、簡単に言うと心理臨床を必要とするってことになるわけですよ。
他者がそこにいてくれないと。
あ、失礼しました。
えーとですね、今アラームがいきなり鳴っちゃったんで、
時々こういうことがありまして、中断させられるんですよね。
電話がかかってくるとこれ止まっちゃうんですよ。
だからもうこれ防ぎようがない。
電話はかかってこないようにはできない。
SIM抜くとかそういうわけにもいかない。
SIM抜けないんだな、これは考えてみると。
小反復の概念
小反復。
わかりにくいかもしれないんで具体例出しますと、
例えば私アトピーだったわけじゃないですか。
で、例えばかくということが肌をね、ひっかく、かきむしるというのが小反復だったわけです。
繰り返すわけですよ。
で、このひっかくのやめればアトピー治るわけではないんですね。
これは私の一つの発見だったんだけど、手足縛って寝ていたことがあったんですよ。
肌はね、確かにかきむしり跡はなくなるんだけど、
感知はしないんですよね、これがね。
あれはびっくりしました。
一つの発見でしたね。
だから小反復があるわけなんだけど、
これはやっぱり二つの要素があるんですね。
非常にミクロな問題があった。
私、今思えば肌と同居していた頃、当然同居しているわけですが、
多分私のアトピー治んなかっただろうなと思います。
基本的に私のアトピーって、これを言ってもお医者さんには何だって思われるでしょうし、
聞いてる方にも何か意味がわからんと。
一時この話、このポッドキャストではしたんで、その辺聞いていられる方はどこかわかっていただけるかもしれないですけど、
やっぱり私がアトピーだったのは、母親の不在っていうことだったんですよね。
ことだったって言ってもね、わけわからんのですけれどもね。
そこに母親いたわけじゃんっていう、非常に難しいんですよ、これは。
自立、非常に大きく言うと自立の問題になってくるんだけど、
母親の不在というのは、
いて欲しいときに母親がその母親役というものをちゃんとやらなかったというか、圧倒的に足りなかった。
これはですね、この言い方をするとまるでネグレクトみたいになっちゃうんですけど、それともまた全然違うんですよ。
母は少々横暴なところがありましたけど、別にネグレクトしてたとか、
ただね、虐待をしていたと今ならは言う人によっては言うかもとは思うんですね。
でも私はあれを虐待とやっぱり見なす風潮は行き過ぎだと思いますし、虐待的ではなかったんですよね。
その母の不在というのは、なんというのかな、説明が非常に難しいですね。
これもしかすると臨床課であれば私の話をずっと聞けばもっともっとうまく解説できるんだと思います。
そこがやっぱり言語は客観的なもので、私は主体的にそれに関わっちゃってるから、あれが何だったのかを体験したからこそ説明しにくいんですね。
なんていうのだろう、歩くということは説明しにくいじゃないですか。違うなぁ。
夢の説明って難しいじゃないですか。それとよく似てるんですよね。
あまりにもいろんなことが体験的にだけ、体験的にだけですよね。夢って体験しかできないものじゃないですか、ある意味。
実体はないし、説明するためのものでもないし、大概は記憶が曖昧になるし、それとすごい似てるんですよ。
幼い頃にあったことですし、言うならあれと似てるんですよね。
日本でも同じことは起こるんですけど、アメリカの精神障害者用施設に勉強しに行ったときに、
多分、もう記憶が曖昧になってきたけど、中年女性がいて、日本語で言うならお母さんを待ってるのと言ってたんですよね。
お母さんはこんなに。この感じが肌にあるんですよ。説明になってないな。でもこの感じが肌にあるんですよ。
だから私はそれをセックスがしたいんだと誤解してたんですよね。お母さんとできないじゃないですか、その年になってね。
だから腹を立ててたわけですね。こんなことは母親が横にいてれば意識させてもらえないんですよね、意識の方に。
気持ちが悪くて否認してしまう。だから記録になんか残んないわけですよ。
これ記録に残しようがないですよね。行動じゃないし、そういう思いがあったという認識すらないし。
とにかく肌を描くと。ここしか見えないわけ。だから肌を描かなくすればいいだろうっていう発想になっちゃうわけですよ。
ライフハック的にはね。爪を噛まなきゃいいだろうってことになっちゃうわけですよ。
ここから爪紙を取り除いてしまうと一層見えるべき何かが見えなくなるんですよと僕は思う。
だから3カ月チャレンジでは小反復についてしつこく検討を加えるのであって、小反復を取り除こうとはしないんですよ。
そういう意味では決してライフハック的にならないってことだし、そういうサービスですってことを言えば言うほどある程度の方に興味を持ってもらえるということは、
つまりライフハック的なものの苦痛というもの、そういう苦痛というものがもたらされているっていう現実がきっとあるんだと思うんですよね。
大反復をここでいきなり捉えるってことはできればいいんでしょうけど、そこまで一気には目指さず、小反復についてしつこく検討を加えることによって、
多分見えてくるものが、それが反復なんですけど、その反復はものすっごくミクロに僕らのライフの人生の中に、現実の中に織り込まれているんですね。
例えば私の場合、肌って現実には常にあるものじゃないですか。皮膚。
寝ても覚めても皮膚と一緒じゃないですか。僕その感覚がすっごいあるんですよ。アトピーで困ったから。
寝ても覚めても俺は俺の肌と一緒だっていうこの感じが非常に苦痛だったわけですね。
で、これがミクロに織り込まれてきてるわけですよね、現実に。
これがあるがゆえに私は例えば、定期的に皮膚科の病院を探すとか通うとか温泉に行くという、目に見える小反復を生み出すわけですね。
そして書くとか、そういうことを繰り返す、それは記録に残る反復なんだけど、記録に残してたわけじゃないですけど、でも記録に残る反復です。
肌の写真撮ってみたりね、そういうことはやってました。やってた時期もある。あるいは食事制限をかけてみる。これも小反復ですよね。
こういう生活上の反復を、私が私の肌を四六時中一緒にいなければならない。こっちの方がずっと重要なことです。
温泉に行くとか、食事制限するとか、肌が健康になれば一切消滅する小反復でしかないんですよ。
でもこの小反復しか我々の言語の記録に残りにくいし、目にも見えにくいんで、ここを検討するより他ないです。
でもここを検討しちゃうと、じゃあ塗り薬を塗りましょうって話になるんですよ。それは間違ってるわけではないんですよ。
ただ、それで解決するわけでもないんですよね。ここにライフハックが現れる。こればっかりしかやらない。これをやることはいいんですよ。
いいことなんだけど、これしかやらなくていいんだってことになると、この苦しみは増すんですね。
だから僕は3ヶ月チャレンジやってんだという話なんですね。
で、非常に大きな反復っていうものは、これはもう記述もできなければ、意識もできないし、説明もできないんだけれども。
ただ、小さい頃にこういうことがありましたと。つまり、要するにたわしみたいなので、あるいはひどい場合には軽石みたいなもので、肌をうちの母はこすってたわけですよね。
母親の不在の影響
こうやって赤を取れば汚いものが流れて治るんだみたいな、そういう思い込みに突っ走ってたわけですよ。マイナスKなわけです。間違った知識ってことね。
で、母は当時朝日新聞、夕刊とかを長くほど読んでたから、こうすればいいんじゃないかとか、ああすればいいんじゃないかとか、頑張っちゃうわけですよ。
そんなに額がある人じゃないですしね。なんかどうしてもディスってるみたいになるんだけど、そういうつもりはないんですよ。
これは愛情表現だったっていうのはよくわかるんです。母の感覚の中ではそういうものでしかないんですよね、これがね。
すべてがおかしな方向を向いてたとしても、だって当時は今に比べても、例えばヘパリン含有物質とかないんで、つけるものとするとフルコートみたいになっちゃうわけですよ。オイラックスとかね。
なんかやたらと強い薬で、刺激力もやたらと高くて、でもそういうものが平気で売ってたわけですからね。
今ちょっと製品名出しちゃいましたけど、それらが悪いってわけじゃないですよ。使い方に大きな間違いがあったし、で、今はもう全然違うものになってますからね、同一製品名でも。
全然違いはしないけど、はるかにあの当時よりはまともなものになっちゃってるんで、もう同じことは経験する人はいないでしょう。
もうなんかね、肌でガリガリガリってやって、割とこう肌が血をしぶいてるのに、そこにこう塗り込んでいくみたいなね、明らかにやってることに問題があるじゃないですか。
でもそれは悪意があってのことではないわけですよ。で、ここにマザーカミングスーンなんですよ。
お母さんを待ってるのっていうのかな、なんて言えばいいんだろうな、これ。母親の不在なんですよ。環境としての母親がそこにいるべき存在がいないんですよ。
もちろん母は忙しかったし、めんどくせえなと思ってたんですよ。そういうことは今になるとよくわかるんですよね。
だからそこでとことん付き合おうという母親がいて欲しかったところにいないわけ。皮膚に母親がいないですよ。だから母とセックスしたって無駄なんですよね。
それで治るわけではない。もっともっとこれは厄介な問題なんですよね、不在という問題は。
だけど私は不在を不在だと認識するには幼すぎたので、2歳3歳の頃ですからこれ多分始まったの。これをβ要素にしちゃうわけですよ。
母がいないのではない。肌に悪いものがあるんだと。これが悪いおっぱいってやつですよね。
これが例えば肌を噛むとか、肌を毒すとか、そういう風になってるから取り除かねばいかないということで書くんですよ。
これは取り除こうとしている行為なわけですね。
なんてことは、私はでもこれがいやそんなのナンセンスでしょって言われればそこに反対はしませんが、私にはこの認識に至ることによって痒みが消えたということはありますよと。
で、ここに至ろうとサンチャレでしているとは私は思ってないんですよね。
でも小反復というものについて検討を加えて、しかもそれを情緒的な側面からの情報は全てを取り上げていきたいと。
こういう姿勢が大事だと思うんですよね。
情緒的な側面を全て廃棄していきたいっていうノリがどこか現代的じゃないですか。
例えば薬を塗りましょうとか温泉に行きましょうとか。
情緒が入ってきてないですよね。親子関係みたいなものはそこに何にも出てこないですよね。
やってることが間違ってるわけじゃないと思うんですよ。
今だったらヘパリン塗っておきましょう。
多分よくなりますよ絶対に。
そうしておけば。
塗り方間違いず確実にやっていけば。
ただそこには様々なドラマがあるんですよ。
私のとはまた違うドラマが。
だからそれらを全部アトピーという名称にくぐってしまうと見えなくなることがあるんですよね。
全てが母子関係に集約できるわけではないですし、
母親の不在という側面で説明できるわけではないんですよ。
私の場合たまたまそうであったというのに過ぎないわけですね。
時代背景もありますしね。
有感もありましたし新聞のことね。
新聞が悪いわけじゃないんだけど。
この何が悪いわけではない。不在ですから。
不在って何かが悪いとは言い切れないじゃないですか。
何かが悪さをしてきているわけじゃなくて、存在していなかったって話ですから。
情緒的側面の重要性
でも存在していて欲しかったっていうことはあったわけですよ。
これをまず、私の頃の私は到底認めることもできなかったんで。
母にいて欲しかっただなんてね。
そういう甘えられたことを言いたくない年頃の男の子だったんで。
すごいそういう意味では自分にストイシズムを強いがちだったんで私も。
母はまさにそういう人だったんでね。
女でありたくないタイプっていう。
それはでも今思うとですね、今全然母はそういうことで悩んでないから。
これがこの人の素なのねっていう。
女でありたくなかったのは私のおじいちゃんね、祖父がDVだったからなんですよ。
この祖父のDVと私のアトピーは直結してるんですよ、はっきり言って。
ああなるほどなって思うんですよ。
あの暴力的に肌から皮膚というものを破壊していたのと、
うちの祖父が、私の祖父が一人じゃ生きていけないくせに酒を飲んで出ていけとか言って、
うちの母とかをぶっ飛ばしていたのは、なるほどそっくりだと思うんですよね。
見えないじゃないですか、こんなもん。
アトピーいくら考えていっても。
でもこれだったら非常に理にかなってるんですよ。
なるほど母が中心グラ大好きだったのはあのおじいちゃんのせいかと。
あのおじいちゃんをやっつけたかったわけね。
それは無理だよねと。
だって4歳の女の子があんなおじいちゃんやっつけれるわけないじゃないですか。
あのおじいちゃんは別に格闘家だったってわけじゃないですよ。
でも勝てっこないじゃないですか。
でもやっつけたかったわけですよね。
だったら女の子してる場合じゃなかったわけですよ。
家貧乏だったみたいだし。
ものすごく強い人間でありたいというか、
ものすごく知的でストイックでマッチョな人でありたかったわけですよ。
親父の首なんか打ち首にしてやりたかったわけですよね。
と思いますね。
不思議な話ではないんですよ。
だけれども今の母を見ているとそんなのはどこにもないわけですよ。
もうお花畑おばあちゃんになっちゃってる。
これが巣なんですが、巣に戻るのに80年近くかかっちゃってるわけですよ。
なるほどなっていうのが今ならばわかるんですよ。
これが大きな流れなんです。
記録に残んないでしょこんなもん。
言ってましたよ母は確かに。
うちの親父は僕でもなかったと。
宗教に金突っ込んで叫びたりになって奥さんと娘を殴ると。
しかも息子は殴らないと。
やり返されるの怖いからね。
そういう感じだったんですよ。
でも私は私の朝日川に実家あったんですけどね。
今はないですけど。
おじいちゃんと会って話したとき別段そんなに悪人そのものって感じではなかった。
ちょっと父方の祖父に比べると癖ある人だなとは感じた。
小学校の頃にあったんですけどね。
母は当然好いてなかったから。
まず朝日川の実家はほとんど行ったことがないんですね。
これらのことが全て私のアトピーと関係があるということがわかったのは、
私にしても40なんですよ。
流れが大きすぎてわからないですよね。
三浦彩子さんが評点という小説の中でこの種のことを非常に書いてます。
私あれを読んだのは大学時代だったんだけど読んでもわからなかったですね。
ただ今思うとあれを読んでわかることができていたらなと思いますが無理でしたね。
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