いつもはベータ要素から考えてきましたが、今回はビックという人の「第二の皮膚」の概念を使って、自分のアトピー話をしています。
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感想
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サマリー
このエピソードでは、パーソナリティが自身の長年のアトピーとの闘いを、精神分析家エスター・ビッグの「第二の皮膚(セカンドスキン)」という概念を用いて語ります。ビッグの理論によれば、「第二の皮膚」は、乳児期に十分な抱擁や情緒的な安定(コンテイメント)を得られず、自己が崩壊する(破局する)恐怖に直面した際に、それを防衛するために形成される病理的な構造です。パーソナリティは、自身の皮膚病の経験を、この「第二の皮膚」の形成と関連付け、幼少期に母親からの情緒的なコンテイメントが不十分であった可能性を示唆します。この「第二の皮膚」は、攻撃性、多動、多弁、知性化といった形で現れることがあり、パーソナリティ自身にも多くの当てはまる点があったと分析します。 さらに、パーソナリティは、この「第二の皮膚」が、現実の出来事(β要素)に直接触れることへの恐怖から自己を守るための防衛機制であると説明します。しかし、この防衛機制は、現実検討能力を歪め、しばしば「夢」という形で現実を解釈するようになります。パーソナリティは、自身の経験から、この「夢」の見方を修正し、現実をより健全に受け入れることの重要性を説きます。最終的に、彼は、自身の皮膚病の経験が、この「第二の皮膚」という防衛機制の形成と深く結びついており、それを乗り越えるためには、現実を「夢」を通してどのように解釈するかを見直すことが鍵となると結論づけています。
近況報告と新刊のお知らせ
おはようございます。佐々木正悟の自由連想をお送りします。 8月21日金曜日10時48分です。実に久しぶりですね。
あのー、ご葬式、身内のね、葬式とか色々ございまして、ちょっとこう、どうしても時間がうまくですね、この時間を確保するのも、どうやっても無理だったというわけですね。
夏休みはそうでなくても時間が不規則になりがちで難しいので、まぁちょっとね、あと、ゴワーッていう音も聞こえるかもしれませんが、この場所もね、暑すぎて喋ってらんなくなるんで、喋ってらんなくなったら打ち切っちゃいますけど、まぁまぁご容赦いただければと思います。
えっとですね、まだちょっと、初詣すら出てないんでアレなんですけど、あのー、9月24日に本が出る予定でして、えー、J.増崎さんとの協調ですね。これの技術評論者から、えー、戦略的無計画というタイトルで出します。
でまぁこの本は、まぁ私は基本的に様々な企画に携わっていて、もちろんその構成なんかもしているんで、強調者なんですが、メインの、まぁ著者は、メインの著者って、強調者ってメインの著者もないんですが、まぁJ.増崎さんで、まぁ彼の考えというものをですね、こう、ガッと全面に打ち出してもらって、それを書籍の企画に載せて編集し、整えて出すという、まぁかなり気合は入っておりますが、
あの基本的に、えーと書いたのは、彼がほとんどっていう本なんですね。まぁ彼の本だと、まぁ第一に、技的には。まぁ本って一人では作れないので、あのー、まぁ強調者がいる以内は別としてですね、一人で作れるものではないんで、本というのは結局のところ合作なんですけれども、まぁそうは言っても中心人物は彼であるというのは確かなので、まぁ、えー、まぁ彼という人をですね、私は、J.増崎さんに関しては人を打ち出して、
打ち出すべきであるっていうふうに一貫して割と思っているところがあります。あのー、だから本なんですけれども、まぁもちろんタスク中途クラウド2という彼のですね、非常にこう、彼、あれはもう心血注いで作ってるツールなわけですけれども、ツールが人を表すというふうに、人々はなかなか考えないと思うんですよ。
エクセルの開発者、元祖は誰だとか、興味ないじゃないですか。私も知りませんしね。そういうことになりやすいんで、あのー、でも、まぁ彼はある種のそういうカリスマ性と言ったらいいんですかね、そういうものを持った人で、僕はそうではないと思っているんですね。
だから僕が本を書くとき、佐々木賞吾が出ていくわけですけど、当然、今回の本だって全く佐々木賞吾的な面もいろいろあるわけですけれども、私はああいう本の著者のありようとしては、ガリガリ自分が書き込むというよりは、本を作っていくのに収穫的に携わっていく。
編集さんはそうだっていう考え方もあるんですけど、編集さんとはまた違う気がするんですよね。編集さんというのは特に今は僕はハブだと思っているところもあります。
出版社、取材さん、書店さん、出版社のですね、営業さんなどなど、著者もちろんを繋いでいく。その繋ぎ役として必要なことは全部やる。ものすごい仕事が膨大になっちゃうんですが、それが私は編集という人だと思うんですけど、
著者は企画を作る人と中のコンテンツを作る人が同一人物であることが大半でしょうけれども、協調者であればそれが役割分担をするのもありだろうというふうに。この本はどういう本であるかの正確づけをすると言ったらいいですかね。
そういうことを本当は僕はこれも専業でする人がいてもいいぐらいじゃないかと思うんですけど関わる人間が多く取れないのが現在のその出版業界の苦境なんですよ。関わる人間が少なくなるから一層苦境に陥っていくというある種悪循環なんですけどね。
これを何とかしたいと思わなくもないんだけどちょっと簡単じゃないなって思うんで最近はね。お金があればテレビが昔そうだったようにディレクターさんとかいろいろな人が関わることができるわけですけど、お金がなくなっていくと一人何役もやらなくなっていて、贅沢にいってられないわけですよね。
そんなわけで本が出ますんでその点もいろいろ活動していきたいと思ったんですけど、それとは別にね私はこのポッドキャストでもお話ししている私自身のこれも一人でやりたいわけじゃないんだけどこれを理解していただくのも至って困難なので
まずは理解してくれる方を一人でも二人でも多くお伝えしていき、そうして一定のムーブメントには一定の地点、僕の場合は小規模ですけど、僕のできる関係でのムーブメント、つまり精神分析というものの知識は必要だよねという風に多くの人が考えるのも自然になるというムーブメントを起こしたくてこれをやっているわけですね。
そろそろ本題に入りますけど5分経ったんで、5分で本題に入ると決めてるわけじゃないんだけど
えーと、なんだっけな、名前すぐ忘れちゃう、ビッグさんっていう人がいるんですよ。私も本はほとんど見たことがないんですよね。エスタービッグさんっていう人なのかな。
でもこの人の第二のスキン、セカンドスキン、第二の皮膚っていう概念は結構精神分析ならずとも出てくる概念で、この概念に僕が興味を持つのは当然じゃないですか。なぜなら私は40年代皮膚病に悩んできたから、皮膚って言葉にはもうね、かなりの速度で反応しちゃうんですよね。
嫌な話なんだけど、皮膚って僕なかなかいいイメージ持ててないですもんね。不文字難しいじゃないですか。皮は簡単だけど。だいたい皮膚ってカタカナで書くわけですけど、特に不はカタカナで書くわけですけど。
エスタービッグさん。彼が書いているこの第二の皮膚という考え方は、要は破局を防ぐための防衛なんですね。これだけ言ってさすがこの番組だったら通るかもしれないけど、大筋通らないと思うんですけど。
精神分析の普及とポッドキャストの目的
破局っていうのはですね、私はクラインの不安論ってのがめちゃくちゃ正しいと思うんですよね。基本的にこういう意味でも精神分析を広めていきたいんですけど、不安って漠然としてるじゃないですか。様々な不安。老後の不安。将来の不安。お金の不安。勉強の不安。様々あるわけですよ。
今日プレゼンして人前で喋る不安みたいなね。人前で喋る不安も有名ですよね。不安をクラインは2種類に分けたじゃないですか。つまり抑鬱不安と白外不安。PSポジションの不安とDの不安っていうふうに分けたんですよ。すごいなと思うんですよね。
すごいのはですね、こういうの概念を断片的に考えてるとは良くないのであって、歴史的経緯を踏まえようみたいなのもあるんだけど、歴史的経緯を踏まえるなら、やっぱりそれを統合したビオンの概念をまず学ぶべきだと思うんですよ。
ところが臨床っていうものは、私は臨床やってるんじゃないけど素人考えですか。でもね、現実の問題としてクラインのすごいところはなんだかんだPSとDは残ってるんですよね。もうビオンに統一しちゃえばいいじゃんみたいに思えなくもないんだけど、フロイトクラインっていうのは残っていて。なんだっけな、ベリー・チョネフさんかな。
ちょっとど忘れしてますが、ワスキさんがフロイト読めなきゃダメよって言われたっていう話が残ってるんですよ。フロイト読みなさいと。クラインとは言わなかったというふうに彼は書いてるわけですよね。クライン派なのにその集まりは多分。
これはやっぱりですね、僕はなんかある気がするんですよね。現場で役に立つ言い回しや考えや発想に至った何かっていうのがなんかPSとDってすごいんだなって感じがするんですよ。私自身も。
だから野の医者の人は特にですね、僕はクラインはおすすめだなって思うんですよね。やっぱり人間は悩んだ時にはあの考え方は相当使えるんです。もちろんビオンが統一見解だから、物理学とか科学とかならばボイルさんとシャルルさんの考え方をくっつけてボイルシャルルの法則にしてしまって。
ボイルシャルルの覚えとけばいいのであって、歴史的経緯とか関係ないわけですよ。極端に言うとですね、歴史的経緯とかは面白いかもしれないし教養豊かになるにはいいかもしれないけど、やっぱり天動説とか今時、宇宙物理学を知るのに天動説とかいらないじゃないですか。
天は動いてますけど、地球止まってるわけじゃないわけですし、地球が宇宙の中心になるとか、今時いらない理屈になるじゃないですか。結果だけっていうのかな、最先端の知識が頭で理解できるならそこから行けばいいわけですが、心理臨床ってそうはいかない感じがするんですよね。
私、ビヨンから逆に遡っていってフロイトにたどり着くっていう風に理解した方が現代の人には向いているっていう風にも思うんだけど、そうは言ってもですね、やっぱり結局クラインに行かないわけにはいかないんですよね。
で、やっぱりこの不安をPSの不安、つまり迫害される不安とBの不安、要するに自分ダメになっちゃうかもみたいな、自分原因で自分の未来は暗いみたいに、そこに行き着けるっていうのが非常に現実見当においては重要だっていう話になるわけですけど、人間ってやっぱり何かすると嫌な目に会っちゃうんで、会わない方がいいと私は思ってますよ。
嫌な目に会うのが、まあ嫌な目に会うけど、今回だったらお葬式に行ったわけですから、人はお亡くなりになりますし、我々はお金を失いますしね、しょうがないわけですよね。そういうことが一切ないっていうことは生物である以上ありえない。だって我々はやっぱり物を食いますからね、なんであれね。
多くの場合、肉食うじゃないですか。やっぱりそこには悲劇がないっていうわけにいかないですよね。椎茸で肉作るとかありますけど、そういうのを突き詰めるっていうのはやっぱり罪悪感を感じるからだと思うんですよね。それはつまり、ある種迫害不安と関係があると思うんですよ。
で、結局攻撃するということは攻撃される可能性というものがあるし、実際攻撃って、まあそんなことをいちいち考えずともされますし、私たちは外に私を攻撃する存在があり、そいつに攻撃されるという、これは不安を覚えますよね、それはね、当然。
なんかぼったくりバーとか行ったところをパッと連想すればそれで十分なわけですよ。あるいは自分が年をとってなんか特殊詐欺の電話がかかってくると。もう100%に近いぐらいは向こう側に悪い奴がいて、自分を落とし入れてなんか奪っていくとか、なんならこう本当に攻撃を加えてくるという不安です。これが迫害不安ですよね。
おおむねまずこれを念頭に置きますよね。次にやっぱりこう自分がなんだろうな、お金いっぱい使っちゃうんじゃないだろうかとかね。締め切りは近いのに全然勉強しないまま受験の日を迎えるんじゃないだろうかと。これはだから自分の原因で悪いことが起きるからよく写すわけですね。この2つにまとめたというのがすごいわけですよ。
まだ本体の中核に行き着いてない。もう一つ大事なのは不安じゃないんですけど破局する恐怖っていうやつなんですね。いろんな名付けられ方がありますけど、これはもう言ってしまえば発狂する恐怖なんですよね。不安でもいいんだと思うんですけどね。
要はこのようなことが起きたら、あるいはこのようなことには自分は耐えられないと。この耐えられないというのはですね、大人になればなるほどってこともあるんですけど、他の人にはなかなか理解されないところがあるわけです。
例えば私は全身の肌が荒れ放題荒れるという恐怖を持っていたんですよ。それは一見抑鬱不安のようなんですよね。自分が自分で我慢できず描いちゃったり肌が荒れていく。つまり自分原因で未来の自分がひどい目に遭うと。それはそうなんだけど、これは決して抑鬱不安っていう雰囲気のものではないんだよね。
頭おかしくなったんじゃないかぐらい自分、ものすごく描くみたいな。この時に急速な対抗、つまり子供に帰っている感じってあるわけですよね。何がなんだよくわからなくなっちゃってるみたいな。子供がものすごく肌かきむしるみたいな雰囲気に10代後半の私はなってしまってたわけですよ。
これは他の人にはわかんないんですよ。それは戦争に行ったとか大地震に見舞われた人の心的外傷、トラウマの恐怖に比べると何ほどのこともないじゃんみたいになりやすいんですよ。
でも私はそうじゃないんだという、この自我というものが自分の状況を認識して、例えば肌かきまくれば肉えぐれるみたいになるんだけど、えぐれるのはわかってるわけじゃないですか。本当にそこまでしなきゃならないほど痒いのかっていうとそういうわけじゃないんですよ。
ビッグの「第二の皮膚」概念とクラインの不安論
でもやっぱりそれであの起死年齢になるみたいな人は私はそういう回みたいに出てたんで、同然いるわけですよ。はっきり言って。
で結局のところこれはそういうなんか肌になんかすごい嫌な目にあったのかというと、あってないわけじゃないんだけど、はっきり言ってあんまりそんなことは関係ないんですね。
だからこれをトラウマで説明しようとするのは無理なんですよ。しかしそれ自体はトラウマであり得るんですね。
だからこれを現象の恐怖とか名付けへの恐怖とか破局不安とかいろいろあるんですけど、PSの不安、Dの不安、以前の不安ですよね。
だからPSの不安っていうのは結局迫害されるっていう不安だから、現実のことが相当わかってるわけですよ。
一番割と世の中的に有名なのは、あれはあれで嫌だと思うんですけどすごく、
例えばパソコンについているウェブカメラが私を四六時中監視していて、何ならその情報はプーチンに送られているとか、そういう妄想性のところまで行き着く、これは妄想性のところまで行った場合の話ですけど、
お隣の人が盗聴器を仕掛けているとか、ああいうのが迫害不安の精神病水準的に現れるっていう話ですね。
でもこれって世の中のこと結構わかってるわけじゃないですか。ある意味プーチンとか知ってるし。
そういうんじゃないですかね。肌かきむしるみたいなのは非常に原始的で、何も知らなくてもそういう恐怖はあり得るという恐怖。
赤ちゃんがだから、恐慌、バステーションという言葉があるんだけど、恐慌というものがこの事態をよく表している。
もう自我が壊れていくわけですよね。自分が誰かとか、肌かくとどうなるかとか、そんなことはもう関係なくなっちゃう。
赤ちゃんがギャーって鳴いて、痒そうなところをバリューってやるときにはもう何もわかってないわけですよ。
皮膚とは何かとかも知らんわけですよ。かくとどうなるかも知らないわけですよね。
あの状態に近い感じがする。
で、これがその時々はなるっていうのは、時々ってのは本当に時々って言うんですけど、しょうがないとして、
日に1回2回毎日になっちゃうみたいなのが、やっぱり自我がすごいあにゃういところに行ってるっていう感じなんですね。
不安の二分類と臨床現場での有用性
で、これはやっぱりですね、皮膚にくるまれるって感じを不十分だった気がする。
要するに簡単に言うと、ちゃんと抱っこしてくれよっていう話に近いわけですよ。
うちの母がやりそうなことだなって思う。
母のパーソナリティの話をここでしても意味ないんですよ。
なぜなら本当かどうかわかんないから私には。
ただ、なんとなくうちの母はやりそうなんですよね。
いやいや、寝てるからいいっしょみたいな、そういう風になりやすい。
だから私がすごい非常に、何て言うのかな、梅塚像が結構描いていて、やな話なんですよね。
ホラーなんですよ結局。
なんかね、部屋の隅の方に虫の大群がいて、
まあ大体想像が少ないですが、あの人が描く漫画だから。
虫の大群がいて、その虫の大群に襲われて化け物にされていくみたいな、
ああいう恐怖なんですよね。
ああいう時に、いやいや、お母さんが抱っこしてくれて、
まず情報に行くっていうのが大事なんですよ。
虫とかって大群が床とか張ってくるから、
結構、何て言うのかな、昔の寺なんて汚いんで、
本当に昭和の40年代の寺なんて、そんな綺麗じゃないんで、
言うるんですよ、そういうのが。
アメリカとか留学して言うるなってのはよくわかったんで、
そういうのすごい恐ろしいって思う人もいるわけじゃないですか。
迫害不安とかいうレベルとちょっと違うと思うんですよね。
破局恐怖と自己の解体
虫が迫害してくるって言えばそうなんだけど、
虫って別に迫害してこないんで、
やっぱり迫害不安っていうのも、まあだから迫害不安、
でもそれは虫だってわかってるわけですよね。
赤ん坊の頃ってわかってないから、
ただただ何かが恐怖みたいになった時に、
その肌でくるまれるっていう感じ。
まあそのくるまれるって感じが結構大事なんですよね。
で私はそれを非常にこう、ちゃんと持ってなかった。
待たなかったってわけじゃないし、
まあ母が抱っこもしなかったとかそういうことではないんだが、
なんて言うのかな、情緒が十分こもってないと言いますか、
まあ難しいですね。
それがすごい冷たかったのかというと、
そういうわけでもないんですよ。
だから思い過ごしみたいなところもないわけじゃなかったと思うんですね。
なのでトラウマで説明するのは困難なんですよ。
だからといってこれを欲動で説明するのも、
じゃあ抱っこしてって、
原始的解体状態とコンテイメントの重要性
すごいお前が抱っこして病にかかっている赤ちゃんだったから、
母を持て余したんだっていう論を立てられないことはなさそうなんだけど、
まあ私は非常に個人的に欲深いところありますから、
母ゆずりなんですけどね、これをね。
母は大変個人的に欲深い。
まああれもね、でもね家が異常に貧乏で、
しかも父親がアルチューで飲んだくれて、
なけなしの金を、まあよくあるやつですよ。
持ってってはわけわかんない酒に変えていくみたいなことをやってたせいで、
そういうことになったっぽいんだけど、
とにかく、まあ我滅っちゃ我滅いんだけど、
それとやっぱりこの抱っこして病って全然関係ないような気がするんですよね。
金への執着が強いとかはわかるんですよ。
でも僕はたぶん自分が金に対する執着が強いことと、
自分が皮膚の病気だったことはほぼ全く関係ない気がするんです。
これは抱っこ問題みたいな感じなんですよ。
それは、強硬をきたしそうになって、
自我が散逸しそうになる。
これ以上自分が自分でいるということに耐えがたいみたいな。
それよりは自分の体の皮膚を千切り飛ばしたいみたいな。
ちょっとねうまく言えてないんですよね。
そうなんだけどそうじゃないみたいな。
体の中から異物をえぐり出していきたいみたいな。
これだからベータ要素で説明してたんだけど、
エスタービッグのセカンドスキンというのはですね、
結構昔から知ってたんですよ。
心理臨床を知る以前から知ってたんですよ。
精神分析というか知る以前に。
ちょっとね、あれですね。
これビヨンの本というか、
ビッグの理論とパーソナリティの経験
松木さんのこの精神分析体験ビヨンの宇宙という、
ビヨンを書くための本なんですけど、
そこに出てくるんですよね。
赤ん坊に見られる破局の結果に生じる解体という
無統合状態に注目したのがエスタービッグでした。
1968って書いてあるんですね。
だから僕が生まれる直前なんですよ。
5年くらい前。
だからこういうのやっぱり知っておきたいじゃんって感じ。
知っておいたって無駄だとは思うんですけどね。
うちの親が私の生まれた頃にこれを知ってたとは、
今もなお知ってないですけど、
とても思えないんですよね。
ビッグの観察ではこの原子の解体状態は、
つまり解体状態というのは、
私が私であるというのはまとまりがあるわけじゃないですか。
私にまつわる記憶、例えば私の名前、
私の青年学期、私の好きな食べ物、
私の奥さんとか私の娘とか、
全てそういう記憶がちゃんと自分と関係があるんだというか、
自分の所有覚の脳ですね。
所有不覚の脳をつけてもおかしくないんだという
この世界関係の相当データをまとめていかないと、
こういう感覚って得られない。
これが単一しちゃうわけですよ。
なぜならこの私のであるということが全て嫌だとか、
私自身がもう危機に陥ってるってわけで、
こういうものをいちいち意識している意味も価値も、
何もないみたいな感じがしてくるときに、
私のっていうものが全てばらけていく、
統一していこうという気になれないぐらい、
肌が全身が異常に嫌な感じがするとかね。
そういうだから虫の体験に襲われるとか、
私自身が危機だから、
私のとか考えてるわけじゃないわけですよ。
赤ちゃんのことだからせいぜい知ってるのは私の名前ぐらいなもんで、
コンテイナーとしての母親と皮膚感覚
それだって必死にとどめておかないと忘れちゃうような、
わかんないですよ。わかんないけど、
そういうある種のまとまりのなさがあるわけですよね。
だからビッグの観測ではこの原子の解体状態なわけですよね。
コンテーニングしてくれる対象、
要するに抱っこしてくれて、
あなたはこういうふうにしていて、
まとまっているのがいいんだよっていう、
そういう全体的に肯定してくれる対象ですよね。
すなわち世話をしてくれる母親対象。
だからコンテーニングしてくれ、包んでくれる対象というのは、
世話をしてくれる母親対象。
母じゃなくてもいいんですよ。
おばあちゃんとかでもいいわけですよ。
コンテーニングしてくれる対象、
母親対象によってまとめられ、修復されます。
だから壊れそうになったら、
こうやってギュッてやってまとめてくれるっていうわけですね。
おにぎりギュッて握るみたいなもんで、
あのポロポロ感で私はあって思うんですよ。
私の肌って悪くなると、
こうポロポロと角質がほどけていくんですよね。
乾くとダメなのはそういうことなんだけど、
肌の色が肌色じゃなくて、
なんかこう小麦粉みたいになっちゃうんですよね。
それで乾いた小麦粉みたいにポロポロポロポロって、
しかもそれを母は汚いよねとかって言うわけですよ。
うちの母はね。
そういうところがあるわけ。
で、そのコンテイナーは具体的には皮膚として体験。
第二の皮膚の形成と防衛
そうですよね。
つまりこうグッと包まれるとか、
だからみんなセクシャルな時には肌、
なんでしょうかな。
肌の触れ合いみたいなそういうことを言うんだと思うんですよね。
僕はでもそこを強調しまくるというか、
割と男性にも多いんですけど、
しまくる人っていうのは、
結局これは最早期の、
要するにゼロ歳の頃の自分の欲求不満っていうもの。
だからある種の恵まれなさを感じるわけですよ。
だいたいこうね、今だと結構そういうの厳しいから、
強制なんとかとかでなっちゃうわけですけど、
非常に厳しいんですよね。
空気がヒリヒリするみたいな感覚を常時持っちゃってるみたいな、
そういう感じがあるわけですね。
そのまとめ包み込む原始的皮膚記。
だからコンテイナーは具体的には皮膚として体験される。
ここで大事なのはコンテイナーは3次元なんだけど、
皮膚感覚って2次元じゃないですか。
2次元、3次元、4次元っていうのは、
しょっちゅう最近の現代クライニアン的な話に出てくるわけだが、
要するにさっき言った白外不安っていうのは3次元的世界。
立体感はあるんだけど、
時間の流れがいい加減だから、
どういう戦いでそんなことしてるんだって話がよくわかってないんですよ。
ウェブカメラが自分監視してるっておかしいでしょ。
そのウェブカメラはそういう目的で、
そもそもついてるものでも買ってきたものでもないから、
その写真はなぜ通知に送られるのかとかがないわけですよ。
第二の皮膚の症状と機能
因果律が尻滅裂になってて、
瞬間瞬間のカメラ監視みたいな、
そういう瞬間瞬間の3次元的な空間のことはよくちゃんと把握してるから、
ロシアにプーチンがいるとかは知ってんだけど、
結局のところ4次元的な世界が尻滅裂になっているっていうのが、
PS的世界なわけですよね。
ものすごく罵り合ってる奥さんがね、
奥さんああいう人でひどくてさ、
もう絶対家から出てやるって言うんだけど、
あなたなんでその奥さんと今ここにいて、
そもそも結婚したのっていうのが、
4次元的な理論、理論ですよね。
この理論が飛んじゃうっていう話がPSとDなんだけど、
その3と4次元がある中、2次元があるわけですよ。
この2次元的な世界に神聖が引っ張られると、
自閉症的世界があるみたいなことを言い出すわけですよね。
だからこの皮膚というのは非常に2次元的な世界なわけですよね。
だから包むんだけど立体感があんまりない。
こうセックスっていうのは2次元的世界じゃないじゃないですか。
どう見たって少なくとも3次元的世界なんですよ。
立体感がないと始まらない感じがするじゃないですか。
だから包むって言っても神みたいなものとは違うわけですよ。
でも肌ってものに執着するっていうのは非常に2次元的なものが、
私にとって皮膚っていうのはすごく2次元的だったってことなんですよ。
実際そうだったわけですよ。
なんかこう体にただ張り付いているだけのような感じっていうのは拭えなかった。
今そういうものから解放されてみると、
肌と肉っていうのは完全に一体感があるんで、
もっともっと立体感があるわけですよ。
私の今の感覚が。
第二の皮膚の克服と夢の役割
だから最初はコンテーナーっていうのは具体的にゼロサイズにとって皮膚として体験されるんだと。
そのまとめ包み込む原初的皮膚機能が障害されているときに、
だからまとめ包み込む原始的な皮膚機能っていうのが母親が提供するべきものなんだけど、
それをちゃんと提供しないとか、なんか引っかかりがあるということになると、
その代用物として病理性の強い第二の皮膚、セカンドスキンが形成されます。
で、形成されたのが私です。
そういうことなんだと思うんですよね。
それによって乳児は破曲による無統合状態の持続を防ぐのです。
そういうことなんですよ。
しかしこれは病理性が強いかもしれないが、統合的なものであるし、防衛的なものとしてギリギリ機能はしてます。
代わりに副作用があって筋骨たくましいから、
私非常にこの説明は分かるんですよ。
攻撃的な多動、体を固くした姿勢。
私は体を固くした姿勢というよりは体そのものが固かった。
ただし男子だからそこを褒められるわけですよ。
なんかフニャフニャしてないわけですよ。
これはでも私の緊張感がなせる技で、今だから皮膚病から解放されて皮膚が結構フニャフニャしてきた。
皮膚ってもともとこうなんだと。
私もともと固かったわけですよ、全体的に。
言語的な筋骨のたくましさ、多弁、強力な知性化などがリックの例示する第二の皮膚の例です。
私多弁でしたしね。
子供の頃、ある意味すごい褒められたんですけど、ものすごくよく喋る子だと。
要するに頭がいいと。
知性化って書いてあるじゃないですか。
知性を除けば全部当てはまるんじゃないかぐらいに第二の皮膚っていう概念は当てはまったわけですね。
ただこれ、どのすりゃいいんだって話が残るんですよ。
自我、夢、そして現実
私はですね、じゃあお母さんにまた抱っこしてもらえばいいのかと。
それは一定の効果があると思うんだけど、多分そんなんじゃもう皮膚病が治るわけじゃないんですね。
で、やっぱりこの破曲を防ごうとしているんだっていうこと。
これが大事だなと思いますね。
破曲を防ごうと、もはやしなくても私は良かったわけですよ。
破曲を防ごうとするために、無凍合状態を避けるために第二の皮膚を作っちゃったから。
無凍合状態にはそう簡単にならない年齢になっても、その第二の皮膚がなくなってくれなかったわけですが。
癒え済みだってことですよね。
これはGood Vibesでアルガママっていうのを思いっきり真剣に受け入れるみたいなことによってずいぶん進展したわけですけど、
やっぱりそれでも僕が完全にそこを組み込めなかったのが夢って考え方なんですよね。
視覚と夢。視覚は夢であるって感じなんだけど、要するにβ要素っていうのは現実に直接触れちゃうことを。
自我っておかしいわけですよ。自我というのは世界の中心ある意味自分にしてしまうし、
私の娘とか、実際娘は私のものじゃないじゃないですか。
だけどこの感覚があるわけですね。この感覚に対する疑念があったと思うんですね、私には。
この感覚に対する疑念、つまり自我感覚というものに対する疑念を基本的には無しにした。
自我の現実と現実の正しく現実と反映していないというのはそうなんだけど、
これは言うなら便宜的な話であって、要するに信号機。
私は毎度毎度これを言うんだが、交差点が意味を成すのは人間にとってだけなんですよ。
だから犬とか赤信号渡って跳ねられてお亡くなりになったりするわけですよ。
それは犬が悪いわけではないんだが、しかししょうがないんですよね。
それは人間が一所に泥をつくのが悪いのかもしれないんだけど、しょうがないですよね。
つまり私たちは自我を持って生きていくというのが普通の生き方だし、しょうがないわけです。
だからラインのスキンというものまで使って統合しようとせずとも、
自我の統合というものに乗っかって基本は生きていけばいいわけで、
それは夢を見て生きていくってことなんですけど、
赤信号は止まれだという夢を見て生きていくってことなんですけど、
いやあれはただの赤だからって言って突進するとだいたい死んじゃうじゃないですか。
あるいは事故るじゃないですか。そういう生き方を人はできないようになっているんで、
四六時中夢を見続けなければならないわけで、
ありきたりの不幸と破局恐怖
その夢の一環として、
私の肌は私を包んでいる。
これは物理的にはそうじゃないんですよ。
物理的には肌は別に私を包んでいるわけではない。
だけどこの夢を信じておいて、
つまり他の人にも共通していると見られ、
他の人もそのやり方でやっている。
赤信号で止まり、青になったら進むっていうこの夢は、
現実に通用する夢なわけですよね。
だからそれを象徴機能とか、
共通認識とか常識とか言ってみたりするわけですけど、
常識的に、常識っていうのはつまり矛盾があったり、
ほころびがあったりいい加減であったり、
現実的ではなかったりもするんだが、
でも一応それを通用させておけば通るっていう。
だから肌は自分を包んでいて、
私の身体は私のものである。
これは究極嘘なんですけど、
その究極の方について、
認識を改めようとしなくても別に構わないんだと。
それは常識じゃんって言われるかもしれませんがし、
常識なんですけど、
常識では済まなかったことがあったわけですね、
私の生育歴の中で。
誰にでもあるんですよ、そういうことの一つや二つは。
だからこれをありきたりの不幸って言うんでしょうけど、
ありきたりの不幸かもしれないが、
この不幸は非常に重大な不幸なわけですね。
絶望しなくてもいいと思うが絶望的でもあるし、
やっぱり破局恐怖っていうのは非常に冗談ごとではないんですよ。
現実検討と夢の見方
ただ他の人にはなかなかわかってもらえない。
他の人はそこを常識で乗り切ってるから、
例えば肌が自分を包んでるのは常識だよねって乗り切ってるし、
肌は自分のものだよねって常識で乗り切ってるし、
この肌感覚の中には、
実は母親からもらったものばかりであるっていうことがあるんですけど、
そこまで考えなくても大抵の人は済むわけですよ。
だから結局多動にせよ、多弁にせよ、知性化にせよ、
全部自分がばらけていくということを防ぐためにやってることなんですが、
ばらけてなんかいかない。
そして究極は、これはだから宗教的な世界になっちゃう。
ばらけても大丈夫なんですけれども、
なぜならば自我というものは共通認識のために作った。
ある意味、安全のために作ったというか、
安心のために作ったものなので、
なくてもなんとかなるんでしょうけど、
多分私はなきゃなんとかならないんですよね。
だからこれは私という人間はこういう人ですということで、
他の人にも共通認識を持ってもらうと。
持ってもらう義理はないのかもしれないが、
一応持っておいてもらうということにすることで、
社会的には安心して生きていける可能性が広がるわけですよね、結局。
みんながそういうやり方を人間はしているから。
この発想を多分ですね、
あんまり低く見ないみたいな、下げすまないみたいなことが
大事なことに含まれるんでしょうね、私の場合は。
だから、ここからは欲打つ不安に近いんですよ。
肌を放っておいてもボロボロになったりしないし、
毎日コッテリとアノンみたいなもの、超保湿成分たっぷりの保湿剤とか、
代用品としての皮膚と心の包み
コッテリ塗らなくても多分大丈夫だろうと。
それは常識なんだけど、私はそんなことを信じていなかったから、
コッテリ塗らないと、それはつまり母親に抱きしめられるということの代用物だったわけですね。
これは代用を得ようと頑張らないみたいな感じなんですよ。
難しい話なんですけどね。
代用物は移行対象みたいな話ですね。
実は、物である必要はないってことがまずあるんですね。
自分を包むというのは、自分の自我を包んでいるんだから、
それは結局物理的な包み物ではないんですよ。
だから要は皮膚が心を包んでいるわけじゃないという、
これも常識なんですけど、皮膚が心を包んでいる様子を現実に想像してみれば、
それがいかにおかしなものであるかって感じが分かるんで、
それはそれでやっぱり常識なんだけど、
一つ一つ、私ぐらいに病理が進んじゃった人間としては、
一つ一つある意味やっていくしかなくて、
その話を一生懸命今しているわけだけど、
簡単に伝える話ではないなと思うんですよね。
二次元的な、初めは包むと言っても二次元的なところから始まり、
三逸しないようにしていく。
本当はいきなりカフォーギアの腕など、おっぱいなどがすぐそばにあるっていうのがベストなんでしょうけど、
そうしてなかったとしてはないと思うんだけど、
しかし私は足りないという風に感じたんでしょう。
実際その足りなさというものが、私が第二の皮膚を自分で作って、
その違和感に耐えられなくなってしょっちゅう壊すっていうことを繰り返していたわけですね。
そうすると第二の皮膚を壊したついでに第二次元的な皮膚も吹っ飛んじゃうわけですよ。
実際に第二の皮膚っていうのは心理的なものでしかないから、
現実に存在しているわけじゃないんで、
それえぐり取るとかは不可能なことなので、
でもそれは、要は現実見当でしかないんですよね。
皮膚は自我を包んでいるわけではない。
だから第二の皮膚というものがなくなったからといって、
私の自我が散逸はしないと。
言うと全く意味のないことをしゃべっているような気がするんですよ。
β要素、夢、そして現実
しかし、実際に私が思ったことはそういうことでしかないわけですよね。
そのように思えば、その問題解決するのかと言われると何とも言えないんですよね。
部分的には絶対解決すると思うんですよね。
大事なのはそこで、そこで非常に僕にとって大事だったのは夢だと。
つまりβ要素というものは現実にあるわけです。
皮膚にかかってくるもの、汗とか水とかちょっと汚いもの。
僕は汚い水とかかぶるものの全身が一気にかいてなりましたからね。
それを洗いまくってもなかなか簡単じゃないわけですよ。
一旦それが起きると。
母はそう汚いということに非常にうるさかったですね。
だから私の肌をきれいにしようとしてアホみたいに擦ってたわけですけど。
擦るって言葉も僕には非常に響きが依然としてありますもんね。
擦るって音を聞くと血が出てくるような感じが。
擦ると皮膚をと言ってないじゃないですか。
風呂掃除の可能性もあるわけじゃないですか。擦るなど。
僕は擦るって言葉に非常にトラウマがありましたね。
だからそういったこと一つ一つなんですけれども。
夢の解釈と現実
言うならやっぱり僕はこのS、ビッグはすごいんだけど。
美音なんですよね。
ベータ要素って言葉がここにないと。
私は物事、問題を結局最終的には解決できなかった。
汚物とかはベータ要素なんですよ。
現実そのものじゃないですか。
現実のものが自分の肌にかかるということが恐ろしかったわけだけど。
現実のものがかかるということを
私は夢を見ていることによって認識しているんだと。
だからこの夢にはっきりコミットすればいいんだみたいな感じです。
汚いものっていうのは汚いものなんですよ。
肌を崩壊させるものではないんですよ。
それが常識的な夢の見方なわけですよね。
他の人だって洗うわけですけど。
年入りに1日洗ってるとかはしないわけじゃないですか。
脅迫心声みたいな話にも聞こえると思うんですけど。
そういうものはもうですね。
いろいろオーバーラップしてると私は思うんですよね。
汚いものがあったからって言って
そこをアルコールで消毒してその後に保湿剤塗るとか
必要ないはずなわけですよ。
やってることはそこは非常にメンタリティな話であって
それは夢の見方なんですよね。
夢なんだから
夢には見方があるわけですよ。
赤い信号を見てこれは黄色だなとか思っちゃいけないわけですよ。
これは注意しながら進めだなとか
独自解釈をしちゃいけないってことなんですよね。
でも独自解釈したいじゃないですか。
自分の肌のことだから。
他の人のやり方と同じじゃダメじゃんって思うんだけど
他の人のやり方じゃないですよね。
他の人の夢の見方なんです。
汚いものは汚いもの。
侵入物ではないんですよ。
そういうことを自分独自の夢解釈が
自分を損なっていないかとか
自分に有害なことを
結果としてもたらしすぎていないかみたいなことを
いちいちしぶとく検討することを
現実検討すると。
それをベータ要素から夢を見ていくみたいな
言い方をしてもいいんじゃないかなという風に
ちょっと不正確かなとは思うんだけど
でもとっさにやることとしては
私はそんな風な印象を持っていて
なるべく夢を見よう、夢を見ようっていう
夢とは現実的で常識的で
他の人の思想な解釈だけする。
それ以上やんないみたいな感じですよね。
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