久しく会わなかったのだから、訪ねていくのが楽しみである。 歩いているうちにメロスは街の様子を怪しく思った。
ひっそりしている。もうすでに日も落ちて、街の暗いのは当たり前だが、けれどもなんだか夜のせいばかりではなく、
位置全体がやけに寂しい。 のんきなメロスもだんだん不安になってきた。
道だった若い衆を捕まえて、何かあったのか。 2年前にこの位置に来たときは、夜でも皆が歌を歌って、街は賑やかであったはずだが、と質問した。
若い衆は首を振って答えなかった。 しばらく歩いて牢屋に会い、今度はもっと語声を強くして質問した。
牢屋は答えなかった。 メロスは両手で牢屋の体をゆすぶって質問を重ねた。
牢屋はあたりをはばかる小声でわずか答えた。 王様は人を殺します。
なぜ殺すんだ? 悪心を抱いていると言うんですが、誰もそんな悪心を持っておりません。
たくさんの人を殺したのか? はい、はじめは王様の妹娘様を、それからご自身の親継ぎを、それから妹様を、それから妹様の
お子様を、それから皇后様を、それから献身のアレキス様を。 驚いた。国王は乱信か?
いえ、乱信ではございません。 人を信ずることができぬというんです。
この頃は、信家の心をもお疑いになり、少しく派手な暮らしをしている者には、人質一人ずつ差し出すことを命じております。
ご命令を拒めば十字架にかけられて殺されます。 今日は六人殺されました。
聞いてメロスは激怒した。 呆れた王だ。生かしておけん。
メロスは単純な男であった。 買い物を背負ったままで、のそのそ王城に入っていった。
たちまち彼は巡覧の経理に捕撲された。 調べられて、メロスの懐中からは探検が出てきたので騒ぎが大きくなってしまった。
メロスは王の前に引き出された。
この担当で何をするつもりだったか。 いいえ。
暴君ディオニスは静かにけれども、威厳を持って問い詰めた。 その王の顔は蒼白で、眉間の皺は刻まれたように深かった。
一応暴君の手から救うんだとメロスは悪びれずに答えた。 お前がか。
王はびんしょうした。 仕方のない奴じゃ。お前にはわしの孤独がわからん。
言うなとメロスは生きりたって反駁した。 人の心を疑うのは最も弾べき悪徳だ。
王は民の忠誠をさえ疑っておられる。 疑うのが正当な心構えなのだと、わしに教えてくれたのはお前たちだ。
人の心は宛にならない。人間はもともと死欲の塊さ。 信じてはならん。
暴君は落ち着いて呟き、ほっとため息をついた。 わしだって平和を望んでいるんだが。
何のための平和だ。自分の地位を守るためか。 今度はメロスが嘲笑した。
罪のない人を殺して何が平和だ。 だまれ下賤の者。
王はさっと顔を上げて報いた。 口ではどんな凶楽なことでも言える。
わしには人の腹綿の奥底が見え透いてならん。 お前だって今に張り付けになってから泣いてはびたって聞かんぞ。
ああ王は利口だ。うぬぼれているがよい。 わたしはちゃんと死ぬる覚悟でいるのに。 命強いなど決してしない。
ただ… と言いかけてメロスは足元に視線を落とし、瞬時ためらい。
ただ、わたしに情けをかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日減を与えてください。 たった一人の妹に弟子を持たせてやりたいんです。
三日のうちにわたしは村で結婚式をあげさせ、必ずここへ帰ってきます。
バカな、と坊くんはしゃがれた声で低く笑った。
どんでもない嘘を言うがい。逃がした小鳥が帰ってくるというのか。
そうです。帰ってくるんです。 メロスは必死で言い張った。
わたしは約束を守ります。 わたしを三日間だけ許してください。妹がわたしの帰りを待っているんだ。 そんなにわたしを信じられないならば…
よろしい。この市にセビウンティウスという遺宿がいます。 わたしの無理の友人だ。 あれを人質としてここに置いていこう。
わたしが逃げてしまって三日目の日暮れまでここに帰ってこなかったら、 あの友人を占め殺してください。
頼む。 そうしてください。
それを聞いて王は残虐な気持ちでそっとほくそえんだ。
生意気なことを言うわい。どうせ帰ってこないに決まっている。 この嘘つきに騙されたふりして話してやるのも面白い。
そして身代わりの男を三日目に殺してやるのも気味がいい。 人はこれだから信じられぬと。
わしは悲しい顔をしてその身代わりの男を張り付けに処してやるのだ。
世の中の正直者とかいう奴ばらにうんと見せつけてやりたいものさ。
願いを聞いた。その身代わりを呼ぶがよい。 三日目には日没までに帰ってこい。
遅れたらその身代わりをきっと殺すぞ。
ちょっと遅れてくればいい。おまえの罪は永遠に許してやろうぞ。
なに、なにおっしゃる。
ハハハ。命が大事だったら遅れてこい。おまえの心はわかっているぞ。
メロスは口惜しくジランダ踏んだ。ものも言いたくなくなった。
チクバの友セリヌンティウスは深夜王城に召された。
坊くんディオノスの面前で良き友と良き友は二年ぶりで会いを負った。
メロスは友に一切の事情を語った。
セリヌンティウスは無言で頷き、メロスを必死と抱きしめた。
友と友の間はそれでよかった。
セリヌンティウスは縄を打たれた。
メロスはすぐに出発した。初夏満天の星である。
メロスはその夜一睡もせず十里の道を急ぎに急いで村へ到着したのは明る日の午前。
日は既に高く昇って村人たちは野に出て仕事を始めていた。
メロスの十六の妹も今日は兄の代わりに羊の群れの晩をしていた。
よろめいて歩いてくる兄の疲労困敗の姿を見つけて驚いた。
そうしてうるさく兄に質問を浴びせた。
何でもない。メロスは無理に笑おうと勤めた。
一に用事を残してきた。またすぐ一に行かねばならん。
明日お前の結婚式をあげる。早い方が良かろう。
妹は頬をあからめた。
嬉しいか。きれいな衣装も買ってきた。
さあこれから行って村の人たちに知らせてこい。結婚式は明日だと。
メロスはまたよろよろと歩き出し家へ帰って神々の祭壇を飾り
祝縁の席を整えまもなく床に倒れ伏し
呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
目が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ花婿の家を訪れた。
そして少し事情があるから結婚式を明日にしてくれと頼んだ。
婿の牧人は驚き。
それはいけない。こちらにはまだ何の支度もできていない。
ぶどうの季節まで待ってくれと答えた。
メロスは待つことができぬ。どうか明日にしてくれたまえとさらに推して頼んだ。
婿の牧人も頑強だった。なかなか承諾してくれない。
夜明けまで議論を続けてやっとどうにか婿をなだめ透かして解き捨てた。
結婚式は真昼に行われた。新郎新婦の神々への宣誓が済んだ頃。
黒雲が空を覆いぽつりぽつり雨が降り出しやがて車事後を流すような大雨となった。
祝縁に列席していた村人たちは何か不吉なものを感じたが
それでもめいめい気持ちを引き立て狭い家の中でむんむん蒸し暑いのもこらえ
陽気に歌を歌い手を打った。
メロスも満面に喜色をたたえしばらくは王とのあの約束をさえ忘れていた。
祝縁は夜に入っていよいよ乱れ華やかになり
人々は外の豪雨を全く気にしなくなった。
メロスは一生このままここにいたいと思った。
この良い人たちと生涯暮らしていきたいと願ったが
今は自分の体で自分のものではない。
まもならぬことである。
メロスはわが身に鞭打ちついに出発を決意した。
明日の日没までにはまだ十分の時がある。
ちょっと一眠りしてそれからすぐに出発しようと考えた。
そのころには雨も小振りになっていよ
少しでも長くこの家にぐずぐずとどまっていたかった。
メロスほどの男もやはり未練の女王というものはある。
今宵呆然歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り
おめでとう。私は疲れてしまったからちょっとごめんこうむって眠りたい。
目が覚めたらすぐに市に出かける。大切な用事があるんだ。
私がいなくてももうお前には優しい邸主がいるんだから決して寂しいことはない。
お前の兄の一番嫌いなものは人を疑うこととそれから嘘をつくことだ。
お前もそれは知っているね。
邸主との間にどんな秘密でも作ってはならん。
お前に言いたいのはそれだけだ。
お前の兄はたぶん偉い男なんだからお前もその誇りを持っていろ。
花嫁は夢見心地でうなずいた。
メロスはそれから花婿の肩をたたいて
支度のないのはお互い様さ。私の家にも宝といっては妹と羊だけだ。
他には何もない。全部あげよう。
もうひとつ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。
花婿は揉み手して照れていた。
メロスは笑って村人たちにもえしゃくして遠赤から立ち去り
羊小屋に潜り込んで死んだように深く眠った。
目が覚めたのは明る日の白明の頃である。
メロスは羽起き、ナムさん寝過ごしたか?
いや、まだまだ大丈夫。これからすぐに出発すれば約束の告言までには十分間に合う。
今日はぜひともあの王に人の真実の損するところを見せてやろう。
そして笑って張り付けの台に登ってやる。
メロスは悠々と身支度を始めた。
雨も幾分こぼれになっている様子である。身支度はできた。
さて、メロスはブルンと両腕を大きく振って、
あまなか矢のごとく走り出た。
私は今宵殺される。殺されるために走るのだ。
身代わりの友を救うために走るのだ。
王の感銘者地を打ち破るために走るのだ。
走らなければならん。そうして私は殺される。
若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。
若いメロスはつらかった。幾度か立ち止まりそうになった。
えいえいと大声あげて自身を叱りながら走った。
村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、
隣村に着いた頃には雨も止み、日は高く昇って、
そろそろ暑くなってきた。
メロスは額の汗を拳ではらい、ここまで来れば大丈夫。
もはや故郷への未練はない。妹たちはきっといい夫婦になるだろう。
私には今何の気がかりもないはずだ。
まっすぐに王城に行き着けばそれでよいのだ。そんなに急ぐ必要もない。
ゆっくり歩こうと持ち前の野木沢を取り返し、
好きな子歌をいい声で歌い出した。
ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、
そろそろ禅里邸の半ばに到達した頃、降って湧いて災難。
メロスの足は旗と止まった。見よ、前方の河を。
昨日の豪雨で山の水源地は波乱し、
濁流とうとうと火流に集まり、
茂盛一挙に橋を破壊し、堂々と響きを上げる激流が
骨葉みじんに橋桁を跳ね飛ばしていた。
彼は呆然と立ちつくんだ。
あちこちと眺め回し、また声を限りに呼び立ててみたが、
景州は残らず波にさらわれて影なく、
私の森の姿も見えない。
流れはよいよ膨れ上がり海のようになっている。
メロスは川岸にゆずくまり、男泣きに泣きながら
ゼウスに手を挙げて哀願した。
ああ、沈めたまえ、荒れ狂う流れよ。
時は刻々に過ぎてゆきます。太陽もすでに真昼時です。
あれが沈んでしまうのうちに王城に行き着くことができなかったら、
あのいい友達が私のために死ぬのです。
濁流はメロスの叫びをせすら笑うごとく
ますます激しく踊り狂う。
波は波を呑み、巻き、煽り立て、
そうして時は刻一刻と消えてゆく。
今はメロスも覚悟した。泳ぎ切りより他にない。
ああ、神々も省乱あれ。
濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を今こそ発揮してみせる。
メロスは山部と流れに飛び込み、
百匹の大蛇のようにのたうち荒れ狂う波を相手に
必死の闘争を開始した。
満身の力を腕に込めて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを
何の懲れしきと掻き分け掻き分け、
めくらめっぽう四肢粉塵の人の子の姿には
神も哀れと思ったかついに憐憫を垂れてくれた。
押し流されつつも見事対岸の樹木の幹に
すがりつくことができたのである。ありがたい。
メロスは馬のように大きな動物類を一つして
すぐにまた先を急いだ。一刻といえども無駄にはできない。
日はすでに西に傾きかけている。
ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼりきって
ほっとしたとき、とつでん目の前に一体の山賊が
おどり出た。
「待て。」
「何をするんだ。私は日の沈まぬうちに王城へ行かねばならん。
離せ。」
「どこへ離さん。持ち物全部置いていけ。」
「私には命のほかには何もない。そのたった一つの命も
これから王にくれてやるんだ。」
「その命が欲しいんだ。」
「さては王の命令でここで私を待ち伏せしていたんだな。」
山賊たちは物も言わず一斉に金棒を振り上げた。
メロスはひょいと体を折り曲げ、
貴重のごとく身近の一人に襲いかかり、
その金棒を奪い取って
「気の毒だが正義のためだ。」と猛然一撃、
たちまち三人を殴り倒し、残る者の怯む隙にさっさと走って峠を下った。
一気に峠を駆け下りたがさすがに疲労し、
折から午後の灼熱の太陽がまともにカッと照ってきて、
メロスは幾度となくめまいを感じ、
これではならんと気を取り直しては、
よろよろ二三歩歩いてついにがくりと膝を折った。
立ち上がることができんのだ。
天を仰いで悔し泣きに泣き出した。
「ああ、ああ、濁流を泳ぎ切り、
山賊を三人も打ち倒し戯田天ここまで突破してきたメロスよ。
真の勇者メロスよ。
今ここで疲れ切って動けなくなるとは情けない。
愛する友はお前を信じたばかりに、やがて殺されなければならん。
お前は鬼体の不審の人間、
まさしく王の思う壺だぞ。」と自分を叱ってみるのだが、
全身苗て、もはや芋虫ほどにも全身敵わぬ。
路傍の草原にごろりと寝転がった。
身体疲労すれば精神も共にやられる。
もうどうでもいいという勇者に不似合いな不適された根性が
心の隅にすくった。
私はこれほど努力したんだ。約束を破る心はみじんもなかった。
神も生乱、私は精一杯に努めてきたんだ。
動けなくなるまで走ってきたんだ。
私は不審の人ではない。
ああ、できることなら私の胸を立ち割って真空の心臓をお目にかけたい。
愛と真実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。
けれども私はこの大事な時に精も根も尽きたのだ。
私は欲々不幸な男だ。
私はきっと笑われる。私の一家も笑われる。
私は友を欺いた。
中途で倒れるのは始めから何もしないのと同じことだ。
ああ、もうどうでもいい。これが私の定まった運命なのかもしれない。
セリヌンティウスよ、許してくれ。
君はいつでも私を信じた。
私も君を欺かなかった。
私たちは本当に良い友と友であったのだ。
一度だって暗い疑惑の雲をお互いの胸に宿したことはなかった。
今だって君は私を無心に待っているだろう。
ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。
よくも私を信じてくれた。
それを思えばたまらない。
友と友の間の真実はこの世で一番誇るべき宝なんだからな。
セリヌンティウス、私は走ったんだ。
君を欺くつもりは未尽もなかった。
信じてくれ。私は急ぎに急いでここまで来たんだ。
濁流を突破した。
山賊の囲みからもスルリと抜けて一気に峠を駆け下りてきたんだ。
私だからできたんだよ。
ああ、この上、私に望み賜うな。
放っておいてくれ。どうでもいいんだ。私は負けたんだ。
だらしがない。笑ってくれ。
王は私にちょっと遅れてこいと耳打ちした。
遅れたら身代わりを殺して私を助けてくれると約束した。
私は王の比率を憎んだ。けれども今になってみると、
私は王の言うままになっている。
私は遅れていくだろう。
王は独り勝手にして私を笑い、そうしてこともなく私を訪問するだろう。
そうなったら私は死ぬよりつらい。
私は永遠に裏切り者だ。
地上で最も不名誉の人種だ。
セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。
君だけは私を信じてくれるに違いない。
いや、それも私の独りよがりか?
ああ、もういっそ悪徳者として生き延びてやろうか。
村には私の家がある。羊もいる。
妹夫婦はまさか私を村から追い出すようなことはしないだろう。
正義だの?真実だの?愛だの?考えてみればくだらない。
人を殺して自分が生きる。
それが人間世界の定法ではなかったか。
ああ、何もかもバカバカしい。私は醜い裏切り者だ。
どうとも勝手にすればいい。
やんぬるかな。
獅子を投げ出してうとうとうまどろんでしまった。
ふと耳にせんせん水の流れる音が聞こえた。
そっと頭をもたげ息をのんで耳をすました。
すぐ足もとで水が流れているらしい。
よろよろ起き上がってみると岩の裂け目からコンコンと。
何か小さくささやきながら清水が沸き出ているのである。
その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。
水を両手ですくって一口飲んだ。
ほうと長いため息が出て夢からさめたような気がした。
歩ける。行こう。
肉体の疲労回復とともにわずかながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。
我が身を殺して名誉を守る希望である。
斜陽は赤い光を木々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。
日没までにはまだ間がある。私を待っている人があるんだ。
少しも疑わず静かに期待してくれている人があるんだ。
私は信じられている。私の命などは問題ではない。
死んでお詫びなどと気のいいことは言っておられん。
私は信頼に報いなければならん。今はただその一時だ。
走れ、メロス。
私は信頼されている。私は信頼されている。
戦国のあの悪魔の囁きはあれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。
小僧が疲れている時はふいとあんな悪い夢を見るもんだ。
メロス、お前の恥ではない。やはりお前は真の勇者だ。
再び立って走れるようになったではないか。
ありがたい。私は正義の死として死ぬことができるぞ。
ああ、日が沈む。ずんずん沈む。
待ってくれ、ゼウスよ。私は生まれた時から正直な男であった。
正直な男のままにして死なせてください。
道行く人を押しのけ、跳ね飛ばし、メロスは黒い風のように走った。
野原で主演のその遠跡の真っ只中を駆け抜け、
主演の人たちを仰天させ、犬を蹴飛ばし、小川を飛び越え、
少しずつ沈んでいく太陽の十倍も速く走った。
一段の旅人とさっとすれ違った瞬間、不吉な会話を小耳に挟んだ。
今頃はあの男も張り付けにかかっているよ。
ああ、その男。その男のために私は今こんなに走っているんだ。
その男を死なせてはならない。
急げ、メロス。遅れてはならん。
愛と誠の力を今こそ知らせてやるがいい。風邸なんかはどうでもいい。
メロスは今はほとんど全裸体であった。
呼吸もできず二度三度口から血が吹き出た。
見える。はるか向こうに小さくシラクスの一の灯籠が見える。
灯籠は夕日を受けてキラキラ光っている。
ああ、メロス様。
うめくような声が風とともに聞こえた。
誰だ?
メロスは走りながら尋ねた。
フィロストラトスでございます。
あなたのお友達、セリヌンティウス様の弟子でございます。
その若い石蜘蛛、メロスの後について走りながら叫んだ。
もうダメでございます。無駄でございます。走るのはやめてください。
もうあの方をお助けになることはできません。
いや、まだ日は沈まん。
ちょうど今、あの方が死刑になるところです。
ああ、あなたは遅かった。
お恨み申します。ほんの少し、もうちょっとでも早かったなら。
いや、まだ日は沈まん。
メロスは胸の張り裂ける思いで赤く大きい夕日ばかりを見つめていた。
走るより他はない。
やめてください。走るのはやめてください。今はご自分のお命が大事です。
あの方はあなたを信じておりました。形状に引き出されても平気でいました。
王様が散々あの方をからかっても、メロスは来ますとだけ答え、強い信念を持ち続けている様子でございました。
それだから走るんだ。信じられてるから走るんだ。
間に合う間に合うのは問題ではないんだ。人の命も問題ではないんだ。
私はなんだかもっと恐ろしく大きいもののために走っているんだ。
ついてこい。フィロストラトス。
ああ、あなたは気が狂ったか。それではうんと走るがいい。ひょっとしたら間に合わぬものでもない。走るがいい。
ユーニアを呼ぶ。まだ日は沈まん。最後の主力を尽くしてメロスは走った。
メロスの頭は空っぽだ。何一つ考えていない。
ただ訳のわからぬ大きな力に引きずられて走った。
日はゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も消えようとした時、メロスは疾風のごとく慶城に突入した。
間に合った。
待て、その人を殺してはならん。メロスが帰ってきた。約束の通り、今、帰ってきた。
と、大声で慶城の群衆に向かって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて、しわがれた声がかすかに出たばかり。
群衆は一人として彼の到着に気がつかない。
すでに張り付けの柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティースは徐々に吊り上げられて行く。
メロスはそれを目撃して最後の優、戦国、濁流を泳いだように群衆をかきわけかきわけ。
私だ、ケーリー。殺されるのは私だ。メロスだ。彼を人質にした私はここにいる。
と、かすれた声で精一杯に叫びながら、ついに張り付け台に登り、吊り上げられて行く友の両足にかじりついた。群衆はどよめいた。
あっぱれ。許せ。と口々にはめみた。
セリヌンティースの縄はほどかれたのである。
セリヌンティース。
メロスは目に涙を浮かべて行った。
私を殴れ。力いっぱいに頬を殴れ。
私は途中で一度悪い夢を見た。
君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と包容する資格さえないんだ。
殴れ。
セリヌンティースはすべてを察した様子でうなずき、形状いっぱいになり響くほど音高くメロスの右頬を殴った。
殴ってから優しく微笑み。
メロス。私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。
私はこの三日の間、たった一度だけちらと君を疑った。
生まれて初めて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と包容できない。
メロスは腕にうなりをつけてセリヌンティースの頬を殴った。
ありがとう、友よ。
二人同時に言い、必死と抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも虚偽の声が聞こえた。
某君ディオニスは群衆の背後から二人の様をまじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき顔をあからめてこう言った。
お前らの望みは叶ったぞ。お前らは私の心に勝ったのだ。真実とは決して空虚な妄想ではなかった。どうか私をも仲間に入れてくれまいか。どうか私の願いを聞き入れて、お前らの仲間の一人にしてほしい。
どっと群衆の間に歓声が起こった。
万歳、王様万歳。
一人の少女が火のマントをメロスに捧げた。
メロスはまごついた。
よきともは気を利かせて教えてやった。
メロス、君は真っ裸じゃないか。早くそのマントを着るがいい。
この可愛い娘さんはメロスの裸体をみんなに見られるのがたまらなく口惜しいんだ。
勇者はひどくせきめんした。
古伝説とシルデルの詩から。
1988年発行。
ちくま書房。
ちくま文庫。
太宰治全集3。
より独領読み終わりです。
はい。教科書ぶりという感じがしますね。
あれは小学生ですか?中学生ですか?走るメロスは。